開眼。
メルツェデスの言葉に、思わず苦労人枠のクリストファーとエレーナが身構えた。
だが、同じ苦労人枠であるはずの副長は小さく苦笑を見せるだけで、二人の激突を警戒した様子がない。
そして、そんな副長の態度を裏付けるかのように、ガイウスが渋い顔でゆっくりと首を横に振って見せた。
「気になる気持ちはわかる。俺もそうだったからな。だが、思ったより面白いことにはならなくてなぁ」
「いや、訓練に面白さを求めないでよ!?」
ぶつぶつと、言葉通りにつまらなそうな声でガイウスが言えば、思わずクリストファーがツッコミを入れていた。
そう、訓練である以上、重要なのは面白さではなく有効か否かである。
しかし、あろうことかガイウスだけでなくメルツェデスまで、残念そうな顔だ。
いや、この二人がこういうところは似たもの親子であることは今更なのだが。
「ならなくて、ということは、お父様もお試しになったことが?」
「ああ、俺が『水鏡の境地』を会得した時に親父とやり合ってみてな。そうしたら……いや、これは実際に見た方が早いだろう」
メルツェデスの問いかけに、ガイウスは何とも微妙な表情で頭を掻きながら答え。
ふぅ、と小さく溜息を吐くと、少しばかり集中して、『水鏡の境地』へと至り青い光をその身に纏った。
それを見たメルツェデスも同様に青い光を纏えば、クリストファーもエレーナもぎょっとするが、しかし、副長は動かない。
それこそ、ガイウスとその父がやり合った場面を目撃したであろう彼が。
どういうことだ、と訝しんでいる間に、ガイウスとメルツェデスは互いに間合いを詰めていた。
「では、俺からいくぞ」
と、ガイウスが言った瞬間。
甲高い金属音を立てながら、ガイウスが横薙ぎに振るった刃とメルツェデスの刃が、丁度互いの中間で噛み合っていた。
流石に、『水鏡の境地』に入った者同士の一振りを回避することなど出来ず、刃で止めるしかなかったらしい。
なお、いつ振られたのか、なんとか見ることが出来たのは副長とクリストファー、辛うじてフランツィスカというところ。
多くの者が、何があったのかわからず呆然と見ている前で、互いの刃が引かれ。
気がつけば、また互いの刃が打ち合わされていた。
そしてまた引かれ、打ち合わされて。
それが、幾度も繰り返されていく。
大振りでは当たらないと徐々に鋭くもコンパクトな振りになり、それに合わせて音が響く間隔が短くなり、しまいには刃同士をかみ合わせたまま、押して引いて、あるいは逸らそうとし、巻き込み落とそうとし。
見る者が見れば超絶的な技巧が込められていることがわかる攻防は、それすらもさらに動きが小さくなっていき。
最後には、お互いの中間で噛み合って止まったまま、ぴくりとも動かなくなった。
「……なるほど。つまりこうなるわけですね」
「ああ、そういうことだ。何しろお互いに先がわかる上に、身に付けている技法も大体同じなわけだからな」
納得したようなメルツェデスの視線の先では、小刻みに刀身が震えていた。
刃が噛み合い、押し合う互いの力が拮抗しているから……ではない。
この状態でも尚駆け引きは続いており、互いに出し抜こうとフェイントや誘いが繰り出されている。
いや、正確には繰り出されかけている。
しかし、そのことごとくを読み取って互いに潰し合っているため、刀身が噛み合った状態で動きが止まっているように見えているのだ。
例えばこれが、その僅かな動きで繰り広げられている攻防が読み取れる見学者にとっては実りあるものだろう。
しかし、メルツェデスもガイウスも、手の内を知る相手の動きを先読みして反射的に潰しているだけなので、これが技量を磨き上げるものになるかと言われれば、残念ながら違うと言わざるを得ない。
「これは、お父様が面白くないと言われるのもわかります。来たものを反射的に打ち返す、それの繰り返しになるわけですね」
「最初の一回二回は、初めての感覚で面白かったんだがなぁ……ここまでくると、流石につまらんと言わざるをえん」
呼吸をするように無意識に、自然に、勝手に身体が動いて攻撃を止める。
互いに技量を磨き上げた末に『水鏡の境地』を会得した者同士だからこそ起こってしまう現象と言っても良いだろう。
それはつまり、何かを考える前に終わり、感慨を得る前に次の攻防が始まり、終わっていさえする状況。
これが命を張った戦場であるならばむしろ有り難いくらいなのだが、技量を磨くための訓練であれば微妙と言わざるを得ない。
納得したメルツェデスは、ふぅ、と小さく息を吐きながら剣を引く。
「この分では互いに互いを攻めきれない、千日手とも言うべき膠着状態に陥る。それは確かに退屈かも知れませんわねぇ」
この動きにはこう対処する。こう対処されたらこう返す。
同じ技術によって培われた判断力は、相手が瞬時に弾きだした最適解も理解して、それに対する最適解を導き、さらにそれにも対応して……を延々繰り返すことになる。
もちろん集中が切れてしまえばその瞬間に負けが確定するが、この境地に至った二人がそう簡単に集中を切らすわけがない。
そうなれば、決着するとすればどちらが先に魔力切れを起こすか、ということになってしまうだろう。
それでは始める前から勝負が見えているともいえて、酷く退屈なことに思えた。
と、そこまで考えたところで、ふと何かに気付いたようにメルツェデスは顔を上げ、解けかけた『水鏡の境地』を再び纏う。
そして、少しばかりガイウスから距離を取り。
「……ならば、これはどうでしょう」
そう言いながら見せたのは、左足を前に出し、眼前で両手に持った剣を立てた構え。
ジルベルトとの対決で見せた防御的に見える構えをメルツェデスが見せれば、ぴくり、ガイウスの眉が動く。
守りを固めたように見せたその構えの本質はもちろんガイウスも知っており、故に、その表情は合点がいったものになる。
「なるほど、メルティのその構えは後の先取りに特化したもの。
そして相手の動きを感じ取り、それに応じた反撃を繰り出すのが『水鏡の境地』の神髄。
それを組み合わせたとなれば……これは、油断出来んな」
メルツェデスの言葉に答えながら、言葉通り、ガイウスもまた青の魔力を纏い、両手で剣を慎重に構える。
元々隙の無い構えを取るメルツェデスではあるが、それでも『水鏡の境地』に至ったガイウスであれば、崩す余地はいくつも見つけられた。
だが、今のメルツェデスにはまったく揺らぎが見えず、その様は、さながら鏡のように静まりかえった水面のよう。
であれば、逆にメルツェデスから見れば、ガイウスが放つ揺らぎが見えているに違いない。
すなわち、迂闊に踏み込めば、ガイウスとてカウンターを食らってしまうであろう雰囲気を、メルツェデスは纏っていた。
そして、恐らくそれは雰囲気では終わらない。
そして。
だから。わかっているから。
ガイウスは、じり、と半歩ばかり間合いを詰めた。
勝ち負けにこだわるのならば、近づくべきではない。
だがこれはあくまでも訓練であり、勝ち負けいずれでも学びはあるもの。
ガイウスとて幾度かはメルツェデスに一本を取られたことがあり、それを糧としてより高い壁となって立ち塞がってきた。
であれば、この彼も知らない組み合わせの見せるものが何か、体験しないという手はない。
何より。
『面白そうじゃないか、メルティ。これだけの緊張感、戦場でもそうそうないぞ』
思わず内心で歓喜の声を上げる程に、ガイウスは高揚していた。
互いに手詰まりとなって終わるだけだったはずの、『水鏡の境地』同士の対決。
それが思いも寄らぬ展開になってきたことに、彼は高揚を抑えきれない。
いや、それでも『水鏡の境地』を維持できているのを見るに、高揚に身を任せて居るわけではなく、制御もしているのだが。
現に、今もガイウスの感覚はメルツェデスを余すところなく捉えている。
ただし、相も変わらず凪いでいることがわかるばかりだが。
『これほどとは流石に思わなかったが……しかし、その構えでも間合いは俺の方が広い。ならば』
左足前の構えから右足を踏み出し、身体半分だけ間合いを伸ばすことで相手の距離感覚を狂わせた上で後の先を取るのが、この構えの要諦。
しかし、体格と瞬発力で勝るガイウスの間合いはそれよりも広い。
であれば、彼の間合いに入った瞬間に打ち込むことで、後の先を取られずにすむはずである。
彼の間合いまでもう半歩、いや、さらにその半分か。
心乱すことなく冷静に考えながら、少しばかり足を前に出した、その瞬間。
突如として出現した洪水に飲み込まれるようなイメージ。
「せぇぇぇいっ!!」
そして、裂帛の気合いが、迸った。
と、認識した時には、メルツェデスの刃がガイウスの眼前で止まっていた。
『水鏡の境地』に入って感覚が強化されているガイウスですら感知することの出来なかった、動きの起こり。
いや、反応はしかけていた。それよりも早く爆発するような勢いで伸びたメルツェデスの刃が届いてしまっただけで。
「……そうか、『水鏡の境地』の動作補助を利用した、か」
「はい。身体を意のままに素早く動かせるよう押し出してくれるのならば、間合いを詰めるのにも使えるのではないか、と」
ガイウスの呟きに、メルツェデスはこくりと頷いて見せた。
感じ取った相手の動きに合わせ、意のままに身体を操る『水鏡の境地』のパワーアシスト。
フランツィスカの目にすら留まらぬ速度で腕を動かすのだから、その馬力は人間のそれを遙かに超える。
であれば、それをさらに意のままに操ることが出来たとしたら。
その結果が、左前の構えから右前の構えにシフトする動きに合わせて跳び、間合いを半歩伸ばした一撃だった。
「なるほどなぁ……二重にお前のその構えと相性が良かったわけだ。
いやまいった、これは一本取られた。見事だメルティ、この場はお前の勝ちと認めよう」
「と、父さんが負けを認めた……?」
納得したようにしみじみ呟くガイウスの言葉に、クリストファーの顔が思い切り驚愕の形に歪む。
何しろメルツェデスの父親なのだ、こと武に関しては酷い負けず嫌い。
確かにメルツェデスが何度か一本取ったことはあったが、負けを認めることなく即座に何本も取り返すくらい大人げないところもあるくらいだ。
その彼が、『この場は』と限定しつつも負けを認めたなど、クリストファーには信じられなかった。
「……わたくし一人の力ではありませんわ。様々な技術を仕込んでくださったお父様のおかげ。
稽古相手になってくれたクリストファーや皆様のおかげ。
そして……」
ゆるり小さく首を振ったメルツェデスは、そっと胸に手を当てた。
彼女の奥に居る、『彼女』。
『彼女』が持つ、力を瞬時に爆発させる感覚がなければ、この技は為し得なかっただろう。
「……あの試練を越えなければ、色々な意味で出来ないことでした」
「それらを乗り越えたのは、お前の意思と力だ。そのことは誇っていいことだ、間違いなく」
見事なカウンターを決め、ガイウスに勝利した。
そのことに驕ることなく、メルツェデスは静かに微笑む。
さながらあの泉の静謐さを思わせるその振る舞いに、ガイウスは大きく息を吐き出した。
「まったく、子供ってのはいつの間にか成長してるもんだなぁ」
ぼやくように言いながら空を仰ぎ。
息も止まったかのように身じろぎすらすることなく沈黙すること、数秒。
ガイウスは、不意に視線を下ろしてメルツェデスを真正面から見据えた。
「そうだメルティ。あの構えにはまだ名前が付いてなかったよな?」
「はい? 言われて見ればそうですけれども」
唐突なガイウスの問いに、意表を突かれたような顔でメルツェデスは答える。
確かに、今まであの構えに名前を付けることなど考えていなかった。
必殺技の名前を叫びながらでないと使えない、などというわけでもないのだ、必要性を感じなかった、と言えばそうだろう。
そんなメルツェデスの反応に、ガイウスはうんうんと頷いて見せ。
「ならば、俺の『水鏡の境地』すら打ち崩して見せたその構え。
『水鏡崩し』の名を贈ろうではないか」
「『水鏡崩し』……」
ガイウスの言葉をそのまま繰り返せば、不思議としっくりくる気がした。
『水鏡崩し』。『水鏡の境地』すら崩す程の、後の先取りの技。
名前が付けられた途端、その軸が、輪郭が、はっきりと認識できたように思える。
「ありがとうございます、お父様。『水鏡崩し』の名、ありがたく頂戴致します」
「うむ、だがこれに驕ることなく……いや、お前のことだから大丈夫だとは思うが、今後も研鑽を積むがいい」
微笑んで頷くメルツェデスへと、満足そうに頷き返すガイウス。
何とも穏やかな空気が流れ出した、ような気がしたのだが。
「だが、これで俺の上に立ったなどと思うなよ?
『水鏡の境地』に至ったばかりのお前がまだ知ることのない深淵を見せてやろう!」
「はい……?」
ガイウスがそう宣言した瞬間、彼が纏う空気が、魔力の質が変わる。
静謐なる泉のごとき平静な心でないと発動できないはずの『水鏡の境地』。
だというのに、今のガイウスからは迸る程に苛烈な魔力が吹き出していた。
「これもまた、『水鏡の境地』の一つの形。蓄え流して制御することが出来るのならば、その流量も制御できてこそ。
すなわち、攻めに転じることも可能ということ。さあ、メルティ。この俺の攻めを、受けきることができるか?」
ガイウスの誘いの言葉に、メルツェデスもまた釣られるように高揚し始めていた。
それではいけない、『水鏡の境地』が解除されてしまう、と必死に制御しながらも、口角が上がっていくのを抑えられない。
「ええ、是非とも、存分に堪能させてくださいまし!」
売り言葉に買い言葉、挑まれた勝負をメルツェデスが買った瞬間。
「退避、退避~~!!!」
「総員退避、全力で逃げろ!!! あの壁でも耐えられるかわからん、とにかく逃げろ! 出来るだけ遠く! 出来るだけ速く!!!」
クリストファーが、副長が、必死の声で退避を指示する。
「ミーナ、掴まって!」
「うん、お願い」
即座に反応したフランツィスカがヘルミーナを抱え上げ、やばさを感じ取ったヘルミーナは大人しく掴まり、されるがまま。
そしてあるいはメルツェデスとも並ぶのではと思う速度でフランツィスカがダッシュしたのを見れば。
「エレーナ様、逃げましょう!!」
「えっ、あ、ええっ!」
クララがエレーナの手を引いて走り出し、始まるであろう非常識の塊のような光景を予測して硬直していたエレーナが、気を取り直したのか慌てて駆け出す。
その後を追うように騎士が、兵士達が駆け出し、顔面を蒼白にした副長とクリストファーが最後尾について退避を始める。
「……あれに、来年は辿り着かなきゃいけないの……?」
呆然とした声で、クリストファーが呟く。
彼の目には、常人では見えないものが見えていた。
未だぶつかり合っていないというのに、ガイウスとメルツェデスの間には既に凄まじい攻防が繰り広げられ、それが地面に幾筋ものヒビを入れている、とても人間業ではない光景。
けれど。
「でも、きっと。必ず」
そう呟くクリストファーの声には、絶望の色は、なかった。




