会得したものと。
翌朝。
まだ日が昇りきらず薄暗い時間にベッドから上体を起こしたメルツェデスは、頬を赤くしながら頭を抱えた。
何しろ昨日は、試練を乗り越えたかと思えば精神的疲労で意識を手放してしまった……だけならまだいい。
眠ってしまったところをフランツィスカによって運ばれ、どうやら入浴介助までされた、ようだ。
ちなみにハンナも介助はしていたのだが、彼女に身体を任せるのは慣れたもの。
そこに、慣れない、しかし覚えのある手の感触があったことを夢現の感覚の中で覚えている。
恐らくフランツィスカに、背中を流されるだけならまだしも、身を任せて入浴介助されてしまったらしいわけなのだが……なんとも申し訳ないやら恥ずかしいやら。
さらに思い返せば、山から下ろしてくれたのはハンナよりも力強い腕だったし、風呂場から運んでくれたのもそうだった。
これが意味するところを理解すれば、メルツェデスはぺたんと上半身と下半身がくっつくほどに身体を曲げながら、ベッドというか膝のあたりに突っ伏してしまった。
「ふ、不覚だわ……いくら、乗り越えたと思って気が緩んだところにフランの顔を見て、ほっとしたからと言って……」
窮屈なはずの姿勢で全く窮屈さを感じていない驚異の柔軟性を無駄遣いしながら、メルツェデスは一人身もだえる。
尻餅をついたところを目撃されただけでも恥ずかしいというのに、さらに世話までされたとあっては穴を掘って埋まってしまいたい程。
ついつい、シャベルはどこにあったかなど考えてしまう。
ちなみに、この国においてはシャベルの方が足を使って掘ることができる大きなサイズのものであり、片手で使う小さなものはスコップと呼ばれる。
それはそれとして。
どんな顔をしてフランツィスカの前に出ればいいのか、わからない。
むしろ合わせる顔がないまである。
そうやって悶々と考えている内に、じわじわと外が明るくなってきた。
夜が明ける。
そう思い至った途端、くぅ、と小さくお腹が鳴いた。
途端、また羞恥で頬が赤くなる。
幸い、気配からして誰も、ハンナすらも聞いていなかったようだ。……恐らく。多分。
きっとそうに違いないと油断なく周囲の気配を探りながらも、メルツェデスは考えを巡らせる。
どうやら、如何にハンナとフランツィスカと言えども9割方寝ていたメルツェデスに食事を摂らせることは出来なかったらしい。
胃袋は強烈な空腹感を訴え、当然、こんな状態で午前の訓練を乗り越えることなど難しいだろう。
そして。
「今この時間なら、丁度仕事が明けた夜番の人のために食堂が開いた頃合い……そして、いつものフランならばこの時間はまだ食事には来ない。であれば」
フランツィスカと顔を会わせずに朝食を摂ることが出来る。
そう考えたメルツェデスは、ハンナを呼ぶこともせずに一人で簡単に身支度を調え、足音を気配を消しながら食堂へと向かった。
これはあくまでも、昨日世話をしてくれた二人をゆっくり寝かせるための思いやり。
そう自分を誤魔化しながら。
ちなみに、フランツィスカは昨日あったあれこれの刺激が強すぎて中々眠れず、彼女の人生において初の大遅刻をやらかしてしまったため、そこまで警戒せずとも朝に出会うことはなかったのだが……これは結果論というものだろう。
ともあれ、メルツェデスはなんとか空腹を満たすだけの食事を、気まずい思いをせずに終えることができた。
……いつの間にかハンナが傍に控えていたが、それは気にしないこととする。
そして、午前の訓練の直前に「昨日は迷惑をかけてしまったみたいで、ごめんなさいね」と、らしくなく軽い口調でフランツィスカに礼を述べ、すぐに訓練が開始されたのでそれ以上の言及を避けることに成功し、ほっと胸をなで下ろすメルツェデス。
……もっとも、どうしてそんな態度だったのかはフランツィスカに見抜かれていて、「メルったら、可愛いんだから」とか萌えられていたのだが、これは彼女らの精神の安寧のために知られずにいた方がいいのだろう。
メルツェデス的には無事に午前の訓練を終えた頃にはある程度精神の安定も戻ってきている辺り、やはり彼女も脳筋一族なのかも知れない。
昼食はいつものメンバーでいつものように摂ることが出来た。
……若干フランツィスカへと視線を向ける回数が少なかったりはするのだが、それに気付いたのはフランツィスカとハンナ、後はエレーナくらいのものである。
「……ねえ、やっぱりあれって、昨日の影響よね?」
「多分そうだけど、本人が言って欲しくないみたいだし、言わない方がいいんじゃないかしら。
ああして何気ない風を装っているメルって新鮮だし」
「いい性格してるわね、フラン……」
などという会話がこっそり交わされていたりもしつつ。
そうして午後の実技訓練に入ったところで、メルツェデスはガイウスに呼び出された。
「……どうやら会得したようだな、メルティ」
メルツェデスを前にして、開口一番ガイウスはしみじみとそう呟いた。
昨日の時点でそうだろうとわかってはいたが、こうして目の前にするとはっきりとわかる。
メルツェデスの中に隠れていたものが、今は川の流れのように緩やかに、しかしはっきりと流れ出しているのを。
それでいて、それが暴走することなく、メルツェデスの制御下にあることを。
「ええ、お父様。恐らく、ですけれども」
「なるほど、言われて見れば昨日のあの時以来試していないわけだからな」
少し謙遜の色が見えるメルツェデスへと、ガイウスは頷いて見せる。
彼とて、会得したその時は、本当に使えるのか確信が持てなかったものだ。
そんなかつてを思い出してしみじみしそうになる自分を抑え、ガイウスはメルツェデスをしっかと見据える。
「ならば見せてみろ、お前が会得したものを!」
「はいっ!」
叱咤するかのごとき声に、メルツェデスは張りのある声で即座に応じた。
そして、すぅ、と目を閉じて、深呼吸を一度、二度。
彼女の内面に満ちた静かなる泉、その奥底に眠る『彼女』へと手を差し伸べ、繋ぎ。
「我は、水なり。我が心、凪いだ水面のごとく。故に、我は鏡なり」
小さな呟きと共に、メルツェデスの全身が青い光で包まれる。
鏡合わせのごとく、似て非なるもの。
その『彼女』と手を繋ぎ至る境地。
裏も表も同時に見通せる、ありえないその視点。
そこに至ったメルツェデスが目を開けば、まるで視界に存在する全てのものが把握できるかのような感覚。
流れが、見える。
今と、その数秒先へと至る流れが。
そして、その数秒に合わせて自分の身体も動く、動けると、確信めいたものがあった。
だから。
おもむろにガイウスが、本当に不意に、全く攻撃の気配を見せていなかったところから繰り出した振り下ろす一撃を、あっさりとかわして見せた。
「……なるほど、今のをかわすか。であれば」
と、認めるような事を言っている途中での横薙ぎの一撃を、メルツェデスは軽くバックステップして回避。
そのことに、ガイウス以外の全員が驚き、固まっていた。
いや、むしろ最初の一撃をかわしたこと自体が信じがたいことだったのかも知れない。
あるいは、あまりに自然な不意打ちの動きに驚いたのかも知れないが。
「メルティ、今から攻撃するから、反撃せずに全て避けてみろ」
と、『避けて』の辺りでまた不意打ちの一撃を放ちながら、ガイウスが言う。
……彼の視線の先で、その一撃は予想通り、かわされていた。
「かしこまりました。……今ならば、いくらでも避けられそうです」
「そうでなくては困るのだがな!」
驕るでもなく、張り詰めるでもなく。
自然と、当たり前のようにメルツェデスが言えば、ガイウスは苦笑を漏らしながら斬りかかる。
上段から、あるいは見えにくい下段から。
横薙ぎを見せたと思えば突きに変化し、あるいは振り下ろそうとして一度止めるフェイントも交えながら。
様々な技巧を凝らして、当代随一の剣士と言っても過言では無いガイウスが攻め立てたというのに、メルツェデスはその全てをかわしきってしまった。
さながら、逆の立場だった数日前の再現であるかのように。
そして一連の攻撃が終われば、ガイウスは一度大きく息を吐き出し。
「うむ、認めよう。お前は確かに『水鏡の境地』へと至った。誰でもない、この俺が、認める」
「お父様……」
ガイウスの言葉に、流石に感極まったか、メルツェデスが纏っていた青い光が解けてしまう。
「おいおい、少し褒められたくらいで解除されるようではまだまだだな。
だがそれでも、お前がこの境地へと至れたことは本当に誇りに思うぞ」
「……ありがとうございます、お父様。まだまだ未熟ではございますが、こうして一つの壁を乗り越えられたこと、嬉しく思います」
そう言いながらメルツェデスは、少し潤んだ目尻を軽く指先で払った。
思い返せば、幼少の頃からいずれこの領域へと至らしめることを考えて教育されていたのだろう。
あれもこれも、ともしかしたらと思うことが次々浮かんでくる。
そして、先日見せたガイウスの『水鏡の境地』。
あれこそが、彼女をこの境地へと導いた最大の切っ掛けだった。
と、そこまで思い至ったメルツェデスが、ふと小首を傾げて。
「お父様。……もしも『水鏡の境地』を発動した者同士が立ち会えば、どうなるのでしょう」
ある意味禁断かも知れない問いを、発してしまった。




