その手は掴むためにある。
五度目となれば、最早手慣れたもの、とすら言って良いかも知れない。
いや、慣れてしまうこと自体は不名誉なことではあるのだが。
ともあれメルツェデスは、この紫の炎が支配する世界へとまた戻ってきた。
『……そういえば、紫の炎というのも妙な話ね?』
呟き、周囲を見回す。
確かに周囲に踊っているのは紫色の炎。
普通は赤、あるいは黄色。ガスバーナーであれば青色か。
いずれにせよ、紫の炎は一般的ではない。
『炎色反応だと、カリウムが紫だったかしら。流石にもう忘れかけてるわねぇ』
ぼやくように言いながら、思わず口角を少しばかり上げてしまう。
カリウム。
一定条件下で炎に晒すと淡い紫色を示すこの物質はアルカリ金属に分類され、その単体は激しい反応性を持つ。
なるほど、そう考えればあの激しさも納得というものだ。
その他、セシウムというアルカリ金属もまた、炎色反応で青紫色を示すのだが。
『これがカリウムの炎色反応だったなら、わたくしの暴力性の本質はカリウム?
だったら、まだ使いようもあるわよねぇ』
爆発的な激しい反応を見せるカリウムだが、同時に、それは人体の必須ミネラルとしても知られるところ。
つまり、正しく使いさえすれば、有益なのだ。
そして、もしそうだとしたら。
『……もしかして寂しがり屋なのかしら、わたくし。もしくは、『彼女』は』
思わずそんなことを呟いてしまう。
カリウムは爆発的な激しい反応を見せる。
それはつまり、酸素などと結びつきやすいということでもある。
誰かと結びつこうとするからこその、あの激しさだとしたら。
『いえ、わたくしを取り込もうとする激しさと思った方がいいわね、少なくとも今は』
一瞬同情しかけたメルツェデスは、思い直してゆっくりと首を横に振る。
そんな殊勝なメンタリティがある相手には、到底思えない。
そして何より、気を許した状態でなんとか出来る相手ではない。
そう思いながら見やった先に現れた『彼女』は、相変わらず油断のならない雰囲気を纏っている。
文字通りの一触即発、今にもメルツェデスの首筋に歯を立てて食い破らんばかりの顔。
だが、そんな『彼女』の顔を見てメルツェデスは……微笑みを見せた。
『ねえ、もうこんな争いは止めましょう? わたくし達は元は一つの存在、きっとお互いを受け入れられる』
あるいは慈母のようだとすら言える表情を見せながら、メルツェデスは握手を求めるかのように右手を差し伸ばす。
いきなりそんな態度に出られて、面食らって動きが止まる『彼女』。
差し出された手を見て、メルツェデスの顔を見て。
幾度か視線を行ったり来たりさせた後、おずおずと『彼女』も応えるように右手を出してきた。
ついに和解か。
と、端から見ている者が居たら、思ったかも知れない。
だが、次の瞬間。
パァン! と何かが弾けるような音がした。
差し出されていたメルツェデスの手を、右手で握り返そうと見せかけて、薙ぎ払うように『彼女』の左手が振るわれた。
だが、不意打ちと言っていいそれを、メルツェデスの右手がクルリと回って掻い潜り、下から弾き飛ばした。先程の破裂音は、それだ。
更には、弾かれて宙に浮いた『彼女』の左手を追いかけ、ガシリ、互いの指が噛み合うようになりながら、掴み取る。
以前恐るべき握力を見せた『彼女』だが、対するメルツェデスも負けてはいない。
互いの手を握り潰さんばかりの力と力がぶつかり合い、指がそれぞれの手の甲に食い込み、歪な皺が寄る。
『……なんて綺麗事でどうにかなるような、幸せな頭はしてないわよね。あなたも、わたくしも。
そういう意味では、あなたを信じていたわ?』
メルツェデスの見せた挑発的な笑みに、『彼女』の目尻が吊り上がる。
つまるところ、見事に引っかけられてしまったわけだ。
そう気付いてしまえば、元より破壊衝動の塊、目の前で笑うメルツェデスを粉砕せずには居られない。
魂が震え上がるような咆吼を上げながら怒りに任せて右拳を振るえば、それは音の壁を突き破ってメルツェデスの顔面を襲う。
そして。
破裂するような音が、二度。
『彼女』の拳が音の壁を突き破った音が一度目。
その直後、メルツェデスの手のひらが『彼女』の拳を止めて、二度目。
止められた『彼女』が驚愕の表情を浮かべて動きを止めれば、ギチリ、とメルツェデスの左手が『彼女』の拳を軋ませながら掴んでその自由を奪う。
慌てて『彼女』は拳を引こうとするが、万力のようにガッチリと掴んだメルツェデスの手は離してくれない。
ならば、と拳を緩めて、出来た隙間から手を抜き出そうと試みたのだが……それを狙っていたかのようにメルツェデスの手が追いかけ、左と同じく指が噛み合うように組み合わされた。
『ええ、あなたならそうすると思っていた。わかっていた。
わかっていれば、どんなに速い拳だってわたくしには止められる。そんな簡単なことだったのよ』
全く以て簡単ではないことをやってのけながら、しみじみとした口調で呟くメルツェデス。
そうして出来たのは、互いに互いの手を掴み合い自由を奪う形の、いわゆる力比べと言われる体勢。
それに気付いた『彼女』は、ぐっと腰を落として足を踏ん張り、全力でメルツェデスを押し潰さんと圧力を掛けてくる。
だが、これは力比べとは言われるが、決して単純に力を比べ合うだけのものではない。
メルツェデスは組み合った手を下へと潜らせ、その圧力を上へと流す。
力の均衡が緩んだ瞬間、メルツェデスは両手で円を描くようにしながら腰の辺りまで両手を回し下げつつ手首を返し、『彼女』の両肘が伸びきるように、そして両腕が外側に絞られるように操作しながら、がっちりと両の手首と肘を極めた。
この体勢、絞られる腕や手首が痛いのはもちろんだが、なにより腕の自由が利かない上に身体が持ち上げられ、踏ん張りも利かなくなる。
そのため、気絶する程の痛みではないが両腕を極められて動けず、しかし以前見せたような自分で自分の腕を折って脱出するような力も出せない、そんな状態へと『彼女』は追い込まれてしまっていた。
苦悶の表情を浮かべながらジタバタと身体を動かし、何とか脱出しようとするが、巨体を誇るプロレスラーならともかく、見た目はほっそりとした『彼女』の体躯ではメルツェデスの豪腕を揺るがすことなど出来はしない。
ならば、とまだ自由になる脚で蹴り飛ばそうとするが、軸足が十分に踏ん張れていなければ蹴りもまた威力を失う。
更にはメルツェデスの操作で身体の向きを変えられ、空振りをさせられてしまう始末。
その扱いに羞恥でも覚えたか、顔を赤くしながら『彼女』はもがき、脚を闇雲に振り回してはかわされる。
今や『彼女』は、完全にメルツェデスの制御下にあった。
『そう、簡単なことだったのよ。ヒントはすでにもらっていた。
わたくし達プレヴァルゴは水属性の一族。そして抱え込む暴力性もまた、水の属性を帯びているのだとしたら』
確認するようにメルツェデスが呟く目の前で、『彼女』の姿が消えた。
しかし、繋がったままの手がその行方を教えてくれる。
『彼女』は飛び上がって、上に。
腕を極められて身体を仰け反らされ、浮つかせられるのならば、さらにその上へと。
関節を傷めるのもなんのその、肩を軸に回転し、メルツェデスの頭上で逆立ちのような姿勢になる。
いや、なろうとした。
それよりも早くメルツェデスが後ろに引き、『彼女』の回転軸が背後に越えるのを許さない。
更に、掴み合っていた手を引いて彼女を地面へと引き落とし、『彼女』に膝を衝かせる。
慌てて立ち上がる『彼女』の動きに合わせてメルツェデスも身を寄せ、再び彼女の腕を極めて腰を浮かせる状態に戻してしまった。
『わたくしの暴力性は洪水のそれと同じ。怒濤の勢いとその水量で、立ち塞がるものを全て押し流してしまう類いのもの。
それがわかってしまえば、やるべきことは一つ』
メルツェデスの言葉を聞いているのかいないのか、『彼女』は、また脚を跳ね上げた。
だが、もちろんそれも、あっさりとかわされてしまう。
何故そんなことが出来るのかと問われれば。
『流れる先を作って、導いてしまえばいい』
そう呟きながら、まるで来るのがわかっていたかのように『彼女』の蹴りをかわす。
例えば、堤防を敢えて途中で途切れさせ、流れてくる大量の水を遊水池へと誘い込み、勢いを失わせるように。
最初から計画的に溢れさせてしまえば、暴力的なまでの洪水ですら一定の制御下に置くことができる。
そう考えたメルツェデスが差し出した握手、あれがまず、誘いだった。
友好的な解決を試みようとするメルツェデスの姿勢を利用して奇襲をしかけてくる。メルツェデスはそう読み、そして実際にそうだった。
仕掛けてきた、奇襲と思っていたからこそ鋭くも油断のあった左手を払い、掴み返す。
これがいくつか考えていたパターンの一つであり、『彼女』はそれに見事はまってしまった。
そこから更に右手も封じてしまえば、後はメルツェデスのターン。
これだけ戦闘センスのある『彼女』ですら気付かぬ程の僅かな誘導で攻撃を誘い、その全てを回避していく。
もちろん『彼女』との握力合戦に負けないという大前提はいるが。
その前提を乗り越えたメルツェデスは、今や完全に『彼女』の攻撃をその支配下に置いていた。
『きっとわたくしは、あなたのことが見えていなかった。わかっていなかった。
だから、あなたはこうするだろうとわからなかった。信じられなかった。だから、見切れなかった』
淡々と告げられるメルツェデスの述懐は、きっと『彼女』には届いていない。そして、きっと届かない。
腕が、その関節がボロボロになることも厭わず暴れる『彼女』は、ついに肩を軋ませ、嫌な音を立てながら前へと突っ込む。
そして突き出されるのは、『彼女』の額。
人体で最も硬いと言われるその部位をメルツェデスの顔面へと向けて叩きつけてきた。
だが。
その最後の手段は、最後だからこそ、読み切られていた。
『だから、もう少しお上品になさいなっ!』
右足を前に踏み込みながら、メルツェデスもまた額を『彼女』へと向ける。
互いの額がぶつかり合う瞬間、メルツェデスはぐんと左足を後ろに踏み込むようにして伸ばし、踵を地面へと押しつけた。
衝突によって生じる反発を、地面に打ち込むようにしながら身体に通した一本の軸で押さえ込み、更には相手へと返すという技法。
自身の放った頭突きの威力をそのまま、さらにそこへ、メルツェデスの渾身の頭突きまで上乗せされて返された『彼女』は、大きく仰け反る。
その反動で彼女の腕から、肩から、聞こえてはいけない音が響くが……それでもメルツェデスは、掴んだ両手を離さない。
折れようがどうしようが、彼女がそれでもなお襲いかかってくるのは先刻承知。
先程よりも制御は難しくなるかも知れないが、それでも手を離すよりはずっとましなはず。
そう思いながら、次はどうくるか、と『彼女』を見つめる。
そのメルツェデスの視線の先で、膝から崩れそうになっていた『彼女』は。
……本当に、膝から崩れ落ちた。
驚いたようにメルツェデスが目を瞬かせれば、『彼女』が涙目で見上げてくる。
その意味するところは。
考えるまでもなく、メルツェデスが掴んだままの『彼女』の両手からは、力が失われていた。
それは、つまり。
そして。いや、だからこそ、だろうか。
見上げてくる『彼女』の瞳は、不安に揺れていた。
だから。
メルツェデスは、今度こそ本当に、心からの微笑みを見せる。
『大丈夫よ。わたくし達は、元は一つの存在。これはこれで、本当にそう思っているのよ』
そう言いながら、メルツェデスは『彼女』の前に跪いた。
驚いたような、戸惑うような顔を見せる『彼女』へと、膝を寄せて。
それから。
掴んでいた手を、解いて。
『彼女』の肩へと両手を回して、抱き寄せた。
『大丈夫。あなたをどうすればいいか、わかったから。
だから、わたくしに任せて。あなたを、消し去ったりはしない。
わたくしが、あなたを導いてあげる』
ぎゅっと抱きしめても、『彼女』からの抵抗は感じられない。
そのまま、大丈夫、大丈夫と幾度も語りかけて、どれくらいが経っただろうか。
おずおずと、『彼女』がメルツェデスの背中へと手を回してきた。
……あるいは、先刻までの『彼女』であれば、ここから起死回生の手を打ってきたかも知れない。
だが、それはない、とメルツェデスは感じていた。
そして。
その感覚は、確かに正しくて。
『彼女』の手が、メルツェデスの背中に回されたそれが。
ぎゅっと、メルツェデスを抱き返した。




