彼女は、孤独たり得ない。
翌日。
午前の基礎体力訓練を終えて昼食も摂ったメルツェデスは、早速泉へとやってきて昨日と同じように集中し。
昨日と同じように跳ね返されていた。
バシャン、とまた水音がして、尻餅をついた状態で我に返ったメルツェデスは、大きく息を吐き出す。
今日は昨日の反省を活かし、攻防のバランスを取りながら『彼女』に戦いを止めようと呼びかけてみた。
だが、残念ながら聞く耳を持たず、最終的には消耗戦になって精神的なスタミナ切れで失敗。
ならばと再チャレンジした今回は、攻防の中から隙を見て腕関節技で押さえ込んで説得しようとしたのだが……あろうことか、『彼女』は自分から腕をへし折って抜け出し、あまつさえその折れた腕で殴りかかってきた。
その鬼気迫る勢いに押されて痛打を食らい、こうしてまた失敗して戻ってきた、というわけだ。
「流石にあれは反則だと思うのよね……」
拗ねたように言いながら、メルツェデスはパシャンと小さく水面を叩く。
どこか投げやりにも聞こえる口調のせいか、水面の荒れ方は昨日ほどではなく、ある意味慣れてきたとも言えるかも知れない。
いや、慣れて良いのか? と疑問を感じれば、その迷いを反映してか水面がゆるりと渦を巻く。
もちろん座り込める程度の深さしかない泉だから、飲み込まれていくわけではないが……迷いや不安に飲み込まれそうな錯覚を覚えなくもない。
と、そんなメルツェデスへと声が掛かる。
「あら、メルにしては珍しく苦戦してるのね」
予想だにしなかった声に、何よりも人が来ていることに気付いていなかったメルツェデスは慌てて顔をそちらへと向ける。
そこには、泉のほとりでちょこんと座っているフランツィスカがいた。
「え、ちょっ、フラン!? な、なんでこんなとこにいるの!?」
メルツェデスが慌てるのも無理はない。
何しろ、今日最初の挑戦の時にはいなかったのだから。
更に、二度目の失敗でまた泉に尻餅をついたところを見られたということでもある。
理解が進むほどに羞恥心が湧いてきて、じわじわとメルツェデスの顔は赤くなっていってしまう。
そんなメルツェデスの珍しい姿を見てクスクスと笑いながら、フランツィスカは当然とも言える疑問に答えた。
「もちろん、見学のためよ。ほら、一昨日にガイウス様から許可もいただいたわけだし?」
「あ、あれはあの日だけの……とは言ってなかったわね、確かに……。
いやでも、ただ立って居るだけなのだから、何の参考にもならないでしょう?」
「そうでもないわよ? 目をつぶって立って居るだけなのに、随分と気力を集中しているのが見ていてわかるもの。
それをあれだけの間維持できているっていうのを見るだけで、参考というか励みになるわ」
「そ、そういうものかしら……」
軽やかに答えるフランツィスカへと向けるメルツェデスの視線は、いまだ懐疑的なもの。
実際の所、メルツェデスが為している集中のレベルは、学生はおろか一流どころの騎士でもたどり着けるのは一握りいるかどうか。
それだけ凄いことをしているというのに、他ならぬ彼女自身が、一番その凄さを理解できていない。
そのことがもどかしい時もあり、妬ましい時もあり……しかし今は、少々面白い。
楽しげに笑うフランツィスカを見て、はぁ、とメルツェデスは大きく息を吐き出す。
何となく。
何となく、それだけで肩の力が抜けたような気がした。
しかし、それではいけないのだと表情を作り直す。
「多少はフランの参考になるかも知れないけど、見学を続けることは賛成できないわ」
「え、どうして? メルが大暴れしてる状態ならわかるけど、そこで立って居るだけでしょ?」
不思議そうに小首を傾げるフランツィスカへと、メルツェデスは首を横に振って見せる。
今までの挑戦でわかったことがあった。この修行には、一つの落とし穴がある、と。
「フランも、この修行の意図はわかっているでしょ? 私達プレヴァルゴの人間が持っている内面の暴力性を制御すること。
だけど、その暴力性が強すぎた場合、向き合い続けた結果、飲み込まれてしまう可能性があるのよ」
メルツェデスの声が、僅かに震える。
それは、メルツェデスだからこそ、かも知れない。
もしかしたらガイウスはそんなことがなく、メルツェデスだけが、悪役令嬢になるはずだった彼女だけが抱えているかも知れないこと。
悪役令嬢の芽とでも言うべきものが彼女の中にはあり、それが虎視眈々と主導権を握ろうと狙っている。
だからこそ『彼女』は執拗に攻撃を仕掛け、その中で組み技を狙っているのでは。
そんな予感が、メルツェデスにはあった。
もちろんそんなことを許すつもりはないが、万が一もある。
そしてその時、もし近くに人がいたらどうなってしまうか。
ましてそれが、大事な親友であるフランツィスカであったなら。
最悪の予感に思わず身体が震え、思わずメルツェデスは自身の腕をぎゅっと握ってしまう。
だというのに。
「なるほど、そんな懸念が。……でも大丈夫でしょ、メルなら」
「フ、フラン? いえ、そんな簡単に言わないで欲しいのだけど……」
思わぬ言葉に、メルツェデスは間抜けな声を出してしまった。
聡明なフランツィスカであれば、メルツェデスが懸念していることも理解したはず。
だというのにこの気楽な姿勢はどういうことなのか、全く理解が出来ない。
そんなメルツェデスへと、フランツィスカは自信たっぷりな笑みを見せる。
「普段のメルに本気で攻撃されたら、間違いなく防げないでしょうね。
でも、暴走しちゃってるんでしょ? だったら多分動きが雑になって初動はわかるだろうから、一撃目は防げるわよ」
「そんな簡単には……ええと……今のフランなら、出来る可能性はあるわね……?」
反論しようとしたメルツェデスだったが、言われたことを検討して、思わず答えに困ってしまう。
このところフランツィスカは集団戦を中心に行っており、集団で迫ってくる相手の初動を捉える、という部分において特に成長を見せていた。
先日の爆炎魔術付与による蹂躙は、その成果が実ったもの、と言っても良い。
そしてこれだけ離れた距離、一対一、メルツェデスにだけ集中している、衝動的な動きだから出足が読みやすい、という条件であれば、確かに一撃目は防げる可能性が、あった。
「そして、きっと一撃を防げさえすれば、メルの身体を乗っ取った奴も動揺する。そしたら、メルなら支配を奪い返せると思うのよね」
「それは……確かに、そうしようと努力するだろうとは思うけれど」
けれど、それはあくまでも可能性の話。
思わず頷きかけたメルツェデスは、気を取り直すかのように慌てて首を振る。
「でも、そんなの仮定の話じゃない! そうはならない可能性だって……」
「それもまた、仮定の話でしょ? そもそも、メルが乗っ取られるかもっていうのも仮定の話じゃない」
言い募るメルツェデスへと、フランツィスカはゆったり、安心させるように首を振って見せた。
言葉もそうだが、何よりもその仕草と表情で、彼女が大丈夫だと思っていることが伝わってくる。
何故、そこまで。
理解できないメルツェデスは、言葉を失うほどに動揺していた。
だが、フランツィスカはさも当然、とばかりに笑ってみせる。
「大丈夫よ。きっとメルは乗っ取られたりなんかしない。私はそう信じているもの」
「信じている……わたくしを?」
思わぬ言葉に、メルツェデスは呆気に取られたような顔でオウム返しをするばかり。
フランツィスカは、信じている。
メルツェデスを、信じている。
そう言われて、メルツェデスの胸に何か暖かいものが宿った。
そう、信じている。
メルツェデスは、フランツィスカを信じている。
彼女のたゆまぬ努力と根性、それによって磨かれた知性と能力を。
そして彼女との友情と信頼が決して揺るがぬことを。
それに気付けば、次々と脳裏に浮かぶ顔。
もちろんエレーナも信じている。
努力や能力はもちろん、敵対派閥だとかに関わらず向けてくれる友情も、気安くも気高いその心根も。
ヘルミーナだってもちろんそう。
全てを破壊しかねない極悪令嬢はもういない。
いるのは、ちょっとばかりチョロいところもある、ひねているけれど素直な親友だ。
クララも、もう敵対する『主人公』などではない。
エレーナに心酔する彼女とは、あの激戦を共に乗り越えた絆が確かにある。
それを言えば、ジークフリートやギュンター、リヒターだってあの激戦を乗り越えた戦友だ。
今更彼らがメルツェデスを断罪だなんだと陥れることなど、あるはずもないだろう。
ガイウスやクリストファー、ハンナは今更言うまでもない。
家族、もしくは家族同然の彼ら彼女らは、疑う方が無理というものだ。
ああ、ミラやブランドル一家だってこの中に加えていい、というか加えねばならない。
ジムあたりは、恐縮してあのでかい体を縮こまらせるかも知れないが。
そう、信じている。
そして、信じられている。
悪役令嬢だったはずのメルツェデスの周囲には、いつの間にか、こんなにも信頼の輪が出来ていた。
「……信じられても、何もお返しは出来ないかもしれないわよ?」
「いらないわよ、そんなの。そういうのはね、期待っていうの。
私はね、ただ信じているの。メルなら大丈夫だって。ただそれだけよ」
そこまで告げると、フランツィスカはゆっくりと立ち上がった。
訓練で使っているレイピアを、鞘に入った状態で左手に持ちながら。
「ただね、私自身は、私を信じられていなかった。だから、必死で努力してきたのよ、あなたの隣に居られるようにって。
だから、今の私なら、多分一撃だけは防げるわ。それだけは、信じてちょうだい?」
いつしか懇願するような色に変わっていた言葉に、メルツェデスは即座に返事が出来なかった。
彼女から寄せられている信頼を今更理解して、その重さを背負えるのかとそれこそ今更なことを思う。
そして、すぐに気付く。
背負えるかではない。背負うのだと。
それがプレヴァルゴの人間の生きる道だと。
何よりも、メルツェデス自身がそうあろうと決めた道なのだから。
「わかったわ。フランがそこまで言うのだもの、フランも、そしてわたくし自身も信じる。
そして、信じたのならば、絶対に裏切らない。わたくし自身に誓って」
決然と言い放ち、メルツェデスも立ち上がる。
先程までの迷っている彼女は、もうどこにもいなかった。
彼女は、一人ではない。
むしろ、もう決して一人にはさせてもらえないのかも知れない。
少なくとも、目の前にいるフランツィスカは、そのつもりのようだ。
そうとわかれば、思わず笑みも零れてしまう。
「そこでのんびりとお茶でもして待っていて? すぐに終わらせてくるから」
「あら、流石ね。じゃあ、のんびりと待たせてもらうわ」
メルツェデスの軽口に答えながら、フランツィスカは座った。
その意味が、今のメルツェデスには痛いほどわかる。
そして、それは決して裏切ってはならないものだとも。
だから彼女は、これまで以上の覚悟と決意を持って、目を閉じた。




