『境地』はいまだ遠く。
メルツェデスが構えを取ったのを見た『彼女』は、迷いなど欠片も見せず一気に踏み込んできた。
防御など全く考えていないが故に、先程のメルツェデスよりも勢いのある右の突き。
パァン! と破裂するような音がして。
その右拳がメルツェデスの左手で撃ち落とされていた。
と、同時に繰り出されたメルツェデスの右前蹴りが『彼女』の胸部を捉える。
カウンターで突き刺した蹴りの威力に、流石の『彼女』も一瞬動きが止まったと見れば、メルツェデスはその繰り出した足を戻さずそのまま踏み出して。
握った右拳を、『彼女』の頭部目がけて振り下ろした。
低く鈍い音を立てながら直撃すれば、ガクン、と彼女の身体が沈んだように見えた。
見えた、のだが。
振り下ろした体勢から上体を起こしたメルツェデスが半歩後ろに下がれば、その鼻先を掠めるように『彼女』の指が通り過ぎる。
そう、あくまでも一撃の重さで身体が沈んだだけで、脳震盪を起こしたりなどはしていない。
更には怯んだ様子もなく反撃を仕掛けてくるのだから、ある意味あっぱれと言ってもいいだろう。言っている余裕はないが。
爪を立てるような形で振り抜かれた『彼女』の左手を追いかけるように左足が前へと蹴り出される。
それを右前、『彼女』の左側に入るようにしながらかわし、右フックを左脇腹へと叩き込みながら蹴り足を左手で掬い上げ、もがく『彼女』の動きを堪えながら残る右足を払い、彼女の身体を地面らしきところへと叩きつけた。
普通であれば衝撃で呼吸が困難になりそうな投げだというのに、むしろその衝撃の反動で『彼女』の右足が跳ね上がり、投げ倒したばかりで体勢が崩れているメルツェデスの頭部を捉える。
万全の態勢の威力とはほど遠い、しかし、万全でないというのにメルツェデスを揺るがすだけの威力。
思わず距離を取ったその隙に、彼女は勢い付けて立ち上がっていた。
『今のでも、ダメージがないだなんて、一体、どうしたら……』
まるで元気な様子に、ぼやいてしまうのも仕方のないところ。
だが、それが良くなかった。
現実のように拳を振るってはいたが、ここは精神の内側にある世界。
どうしたら倒せるのか、そもそも倒せるのか。
迷い揺らいだメルツェデスは、勢いづく『彼女』に対する反応が遅れた。
素早く繰り出された『彼女』の左拳を何とか払ったその向こうに見える、大きく振りかぶられた右拳。
普段ならば軽くかわせる打ち下ろしの右に反応しきれず、よりにもよってそれが、こめかみ、あるいはテンプルと呼ばれる頭部の急所を直撃する。
崩れそうになったメルツェデスを、簡単には眠らせないとばかりに跳ね上がる『彼女』の左足。
それは、何とか防ぎきったが。
『くっ、こ、これはっ』
気がつけば目の前には、その反動で大きく足を振り上げた『メルツェデス』。
『彼女』の左足が地面に付いたと同時に、それが振り下ろされ。
防ぎきれない。
そう思いながらも、必死に腕を持ち上げようとして。
バシャン。
大きな水音に気付いて、はっと目を開けた。
何事かと周囲を見回せば、つい先程よりも近い位置にある泉の水面。
そして気付く。
足だけでなく、手や腰にも、冷たい水の感触があることに。
それらが意味することに気付いたメルツェデスの顔が、みるみる赤くなっていく。
つまり先程の水音は、彼女が尻餅をついた音。
そしてその原因は、『彼女』の攻勢に動揺したところへのトドメの一撃で、集中が切れてしまったこと。
二重に恥ずかしい結果に、珍しく彼女は羞恥に頬を染め、思わずばしゃんと水面を叩けば、彼女の動揺に反応して水面も大荒れになる。
「何て、何て屈辱っ! 競り負けた上に、こんな醜態を晒す羽目になるなどっ!」
まだ、誰も見ていない場所での修行だったことは不幸中の幸いだった。
それでも、完敗と言って良い内容に、それも、ガイウスのような格上相手でなく自身の影とも言える相手にとあって、メルツェデスの羞恥と己に対する憤怒は治まらない。
もはや『水鏡の境地』どころではなく、己の羞恥を誤魔化す為に幾度も水面をバシャバシャと叩き、声を上げる。
それに呼応して水面も暴れ、尻餅をついたままのメルツェデスは全身びしょ濡れになるのだが、それでも簡単には治まらず、暴れて濡れて、どれくらい経っただろうか。
やっと何とか落ち着いたメルツェデスは、まだ乱れた呼吸のまま、濡れて額に張り付いた前髪を払う。
「……は~……まあ、わたくしの見込みが甘かった、というのもありますわね……。
考えて見れば相手は攻撃的な本能だとかそういう類い、精神的なものだからそもそも物理的ダメージが無効である可能性だって高いのに」
今こうやって落ち着いて考えれば、それもそうだと納得してしまうこと。
ゲームの『エタエレ』でも物理攻撃が効かない霊体の敵もいたのだ、これは考えておくべき事だった。
何よりも、ゲームやマンガでは定番の設定ではないか。
「……そういえば、こういう展開の定番があったわね。ならば、次こそは」
そう呟きながら、メルツェデスは立ち上がる。
先程の攻防で精神的にはかなり消耗したが、体力はまだまだ十分。
身体が動くのならば、心も動く。
心が動くのならば、身体も動く。
脳みそが筋肉なのか、筋肉が脳みそなのか。
ともあれ、科学的トレーニングからはほど遠いことを心に刻みながら、メルツェデスは目を閉じた。
一度、二度、と深呼吸をしながら、先程の感覚を思い出す。
やるべきことを、やる。
可能かどうかではなく、やる。
迷い無く、愚直に。
それは、日々の指導の中で染みついた、プレヴァルゴ家の人間として余りに当たり前のこと。
そのことに気付けば、二度目とあってか扉はあっさりと開いた。
ただ、そこから先が一筋縄ではいかないことは、先程骨身に染みた。
『二度目となれば、あちらも出方が違うかしら』
そんな思案をしながら、紫の炎に炙られながらも前へと進む。
……これだけの熱量を孕む何かが己の中にある。そのことに少しばかり驚きを感じながら。
その驚きも、再び『彼女』と対峙してしまえば、吹き飛んでしまう。
挑発的で、好戦的で、余裕な表情。
それを見て思わずカチンと来てしまうが、それを直ぐに押さえ込んだ。
こんなことで揺らいでは元の木阿弥、いや、下手をすれば戦う前に集中が解けて不戦敗、というもっと酷い敗北を刻むことにもなりかねない。
落ち着いて、冷静に。
そう自分に言い聞かせながら、構えを取る。
今度は、両手を軽く開いた形で、緩やかに前へと向ける構え。
防御的な構えを取りながら、メルツェデスは『メルツェデス』を睨み付ける。
『さあ、今度こそ吠え面かかせてやりますわよ!』
……そう宣言するメルツェデスは、やはりまだ冷静にはなりきれていないかも知れなかった。
そうして、意気揚々と挑んだメルツェデスだったが。
いや、正確に言えば二度目の挑戦はひたすら防御に徹していたので、挑んだと言って良いのかは微妙なのだが。
ともあれ、このやり方ならば、と張り切って対峙したメルツェデスは、結果としてまた『彼女』の攻勢に押しきられ、凌ぎきれずに集中を切られてしまった。
確かにゲームなどでは攻撃しようとする心を抑えてひたすら防御に徹することで悟りを開く、あるいは自分の醜い心を克服する、といったようなイベントはそれなりにある。
だが。
「……そんな簡単な話ではなかった、というわけでね……」
一度目の失敗と同じように泉の中で尻餅をついた姿勢のまま、若干呆けた表情でメルツェデスは空を見上げた。
『彼女』がどれだけの力を持っているかも掴んだ上での二回目、捌ききれる自信もあったし、実際途中までは完璧だったと言ってもいい。
しかし、それが何時までも何時までも、本当に際限なく続くとなれば話は別である。
ゲームであれば精々5ターン、長くて10ターンほども凌げばイベント戦闘終了だろう。
だというのに『彼女』は疲れなど知らぬかのように攻め立ててきて、受けきるつもりで決めてきたメルツェデスの覚悟も凌駕してしまった。
結果、押し切られてまた尻餅、というわけである。
「いけないわね、ゲームのイベントのように条件をクリアすればいいなんて簡単に考えてしまったわ。
ゲームと違って、これはちゃんと己の中にあるものと向き合わなければいけないのだから」
そう呟いて、水に浸かったまま空を見上げる。
情けない格好ではあるが、夏の空気に比べて泉の水は随分と冷たい。
見上げた空は濃厚な蒼。その中を、時折雲が流れていく。
木々の間を渡る風が通り抜ければ、濡れた身体がひんやりとして心地良い。
一分にも満たない間、メルツェデスは、何も言わずじっとして夏の空気を感じていた。
「……そう、よね。この世界は、似てるけどゲームじゃない。ゲームの世界じゃないのだもの」
もう何度か感じたこと。この世界はゲームの中の世界ではない、ということ。
少なくともシナリオ通りに進めようとする強制力は働かないし、自身の人格にも大きな影響はない。
であれば、良くも悪くもゲームのようには進まない、ということでもあるのだろう。
ならば、この試練もゲームのようには進まない。正解を選べばそれでいい、というわけではないはずだ。
相手を見て、反応を見て、どうすべきか考えて。その先にこそ正解はあるに違いない。
そう考えを纏めたメルツェデスは、勢いづけて立ち上がり。
ふらり、目眩がして思わずたたらを踏む。
「……これもまた、ゲームじゃない、ということかしら」
二度の挑戦で、随分と消耗してしまったらしい。
これがゲームであればボタンを押せば何度でも挑戦できたところだろうが、現実はそうはいかなかった。
そう、現実だから。
「今日はここまでにしてあげますわ、だなんて悪役令嬢っぽいかしら。それとも小物のやられ役かしら」
なんて冗談めかして言いながら、メルツェデスは小さく首を振り。
小さく吐息を零してから、泉から上がる。
泉のほとりに置いていた荷物からタオルを取り出して髪を拭いながら、泉を振り返って。
明日こそは、と心に誓うと、服が濡れたままの格好で泉を後にした。




