避けられぬ存在。
それから、メルツェデスの苦闘の日々が始まった。
例えば怒りだとか逆に狼狽だとか、そういった感情のコントロールには慣れている。
実際、初日にはそれらの感情を抑え、水面の荒れ方も大分ましにはなった。
しかし、ガイウスの時に比べればまあまだ波は高く、とても治まった状態とは言えない。
けれど、これ以上何をどう抑えればいいのか。
いや、抑えるべきものが何かはわかっているのだが、それをどう抑えればいいのかがわからない、と言うべきか。
すなわち、『悪役令嬢メルツェデス』が持っていた、これでもかとばかりに振りまいていた暴力性。
そのことは今のメルツェデスも理解しており、どうやら人格が融合してしまったらしい状態で、なんとか折り合いも付けてきた、つもりだったのだが。
「本当の意味で折り合いをつけられてはいなかった、ということなのでしょうけども」
泉の中央に立つメルツェデスは、そう呟くと小さく吐息を零した。
彼女の足下では未だ水面が波打ち、治まる様子は見られない。
いわゆる激情と言われるような感情はとっくに抑えているのだが、困惑だとか不安を拭うことができずにいる、というのもあるのだろう。
「どうやればいいのか、方法論まで教えてくださったらいいのに。……まあ、それでは身につかない、ということでもあるのかしら」
普段は実に効率よく技術を教えてくれるガイウスだが、こと、この修行に関してはヒントらしいものすら与えてはくれなかった。
全てを自分で考えろ、自分に向き合うとはそういうことだ、ということかも知れないが、それが一層メルツェデスの不安を煽る。
「考えて、実践して……その果てに、身に付けることが出来るのかしら」
根本的な不安はそこである。
元々ゲーム『エタエレ』ではクリストファー専用スキル。
もちろん『悪役令嬢メルツェデス』も身に付けていなかったし、ガイウスの説明からすれば、彼女が身に付けられるはずもなかっただろう。
であれば、今の、ここにいるメルツェデスであれば身に付けられるのか。
……それも、定かではない。
「悩んでもわかるわけもなし、やってみるしかない、のだけれど」
それはわかっている。
しかし、メルツェデスは思い切りの良い行動力が目立つが、その裏では思慮深さもみせており、それが行動力を支えているところもあったのだが……今は、迷いを生む足かせとなってしまっていた。
必ずしも『水鏡の境地』が無ければ魔王を倒せないわけでもない。
しかし、ゲーム内容を知っている黒幕があれだけの魔物を召喚してきたのだ、魔王が復活すればどれ程のものが出てくるかわからない。
であれば、魔王を倒すために出来る限りの力を身に付けなければ。
「……そうよ、斬れるかじゃないわ。斬るのよ。
できるかじゃない、やるのよ」
以前、ジークフリートを相手に切って見せた啖呵。
あの時は、斬らねば学友達が危うかった。だから、斬ってみせた。
ならば今は。やらねばどうなるか。
「迷ってなんかいられない。万が一があれば、ことは王都、それどころかこの国全体に及ぶのだから」
そうなってしまえば、どれだけの命が失われてしまうのか。
それらを守れるか。
ではない。守るのだ。
すぅ、と大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出し。
それから、そっと目を閉じる。
きつくではなく、薄く開いているようなそれは、瞑想の時にも似て。
心から焦りや迷いが急速に失せていき、代わりに、覚悟が生まれてくる。
それは、剣を振るう覚悟。
命を守るために己の命を張る覚悟。
「剣を手にする以上は、これより男も女もない。であれば、転生者かどうかも関係ない。
わたくしが何者であろうとも、振るうべき力を、振るうべき時に振るう。それだけのこと」
覚悟を、決意を込めて呟く。
迷いは、晴れた。
途端。
ドンッ、と爆発するように水面が爆ぜた。
大量の水しぶきを浴びながら、メルツェデスはなお不動。
身じろぎすらすることなく、両の足でしっかりと立っている。
外界に揺らぐことなく保たれた平穏なる覚悟。
心が研ぎ澄まされ、ありのままを受け入れだしたメルツェデスの脳裏に、光としか表現の出来ないものが生じる。
それは徐々に強く、強くなっていき。
一際、大きくなって。
次の瞬間、メルツェデスの心の視界が、紫色の炎で埋め尽くされた。
『くっ、これは……』
思わず顔をしかめながら、メルツェデスは目を凝らす。
これも水の精霊の力なのか、彼女は今、己の心の奥底にある何かを視覚的に捉えられていた。
もしもこれが己の心と向き合う好機なのだとしたら、逃すわけにはいかない。
何より、きっとここには、いるはずだ。
心の何かが焼き切れそうな程の熱を浴びながら、メルツェデスは一歩、また一歩、炎に囲まれた空間の奥へと進んでいく。
きっとここは、不用意に踏み込んではいけない領域。
迂闊に踏み込んでしまえば飲み込まれてしまう、得体の知れない何かが巣くう場所。
いや、わかっている。この先に、何がいるか。
そしてそれは、すぐに現実のものとなる。
『いましたわね、やはり』
呟きながら、まっすぐと視線をそちらへ向ける。
その視線の先に居たのは、メルツェデスと同じ顔の存在。
いや、顔の作りは同じだが、浮かべている表情はまるで違う何か。
そしてその顔は、よく知っていた。何度も見ていた。
メルツェデス・フォン・プレヴァルゴ。ゲーム『エタエレ』で幾度も見た『悪役令嬢メルツェデス』がそこに居た。
『やはり、あなたですわよね。わたくしが乗り越えるべき存在。あるいは、手綱を引かねばならない存在。
……少なくとも間違いないのは、目を逸らしてはいけない存在』
ゆっくり、ゆっくりと『メルツェデス』へと向かって歩く。
近づく程に、『メルツェデス』の顔は歪んでいく。
それは、怒り。
あるいは狂気。
時に歓喜。
もしくは、飢餓。
『……あなたも、わたくしを待っていたのかしら』
答えるように『メルツェデス』の表情が歪む。
それが伝えてくるのは、肯定。
彼女は怒っていた。狂おしい程に。
あるいは、抑えきれない何かの発露は、怒りの形でしか出せなかったのだろうか。
それでいて彼女は喜んでいた。ついに飢えが満たされる、と。
『お望み通りに満たされるかはわかりませんわよ? 何せわたくし、簡単に食べられるつもりはございませんから』
不敵に笑って見せれば、『メルツェデス』もまた、これ以上無いご馳走の予感に身を震わせる。
そして、素直に食われないことに、理不尽な怒りも滲ませる。
『やはり、あなたもわたくしも根っこは同じ。これより先は……拳で語りましょうか!』
そう言いながらメルツェデスは拳を握り、構える。
右足前の半身の姿勢で腰を少し深めに落とし、ゆっくりと肘を緩めたまま右拳を『彼女』へと向ける。
左拳は身体に沿わせるようにしながら、やはり前へと向ける構え。
対する『メルツェデス』は、左足を前に出した斜めの足構え。
悠然と開いた左手を前に出しながら上へ、同じく開いた右手は腰の高さに据えて、構えを取る。
対照的でありながら、共に攻撃的な姿勢の構え。
互いに間合いを測ること、しばし。
互いの距離に踏み込んだ瞬間。
『はぁぁぁぁぁぁっ!!』
二人の気合いの叫びが、迸った。




