あるいは千尋の谷。
翌日。
実技訓練において、エレーナの杖は昨日とはまるで違う、鋭い音を立てていた。
相手をするプレヴァルゴの兵士も、グイグイと押し込まれては有効打を打たれてと、その勢いにすっかり飲まれてしまっている。
「どうやら迷いも晴れたご様子。今日は動きが素晴らしく冴えておられますな!」
「あら、そんな、まだまだですわ」
それを見かけた通りすがりの副長が嬉しそうに声を掛ければ、エレーナは晴れやかな顔で答える。
プレヴァルゴの軍団を支える副長は実に視野が広く、エレーナが本調子でないことにも気付いていた。
あまりに長引くようなら、と気に掛けていたのだが、今日のこの表情を見るに、もう心配は要らないらしい。
「いやはや、これが若さというものか。皆様、軽々と伸びやかに駆け抜けていかれますなぁ」
その場を離れた副長が、振り返りながらしみじみと呟く。
幼い頃から見ているメルツェデスはもちろんのこと、ヘルミーナにフランツィスカ、クララにエレーナと、このキャンプに参加した令嬢達はそれぞれがそれぞれに、自身の課題を乗り越えて見せた。
更にはその先に見えた課題にまで手を掛けて、乗り越えようとする始末。
その姿が、実に頼もしく、美しい。
「今年のキャンプに参加出来た連中は幸せ者だ。いや、あるいは不幸か。
最早二度と、己に妥協することなど出来まいて」
楽しげに、若干意地悪に、そう笑う。
実際の所、今年のキャンプでは例年以上に己を追い込む者が多い。
特に若い女性騎士達の熱意はもの凄く、それに引っ張られたかのように若い男性騎士達も訓練に取り組んでいる。
そして、若い者には負けていられないとばかりにベテラン達も奮起し、結果として今年のキャンプは今までに見たことがない程の成果を上げていた。
「はてさて、お館様はこれを見越して、ご令嬢方を受け入れなさったのか。あの方ならばありえるのが恐ろしいところ」
そう呟きながら、副長は小さく首を振る。
実際の所、ガイウスは脳筋だ。しかし、根回しもきちんとした上で暴れる、ある意味厄介で手に負えない脳筋だ。
そのガイウスであれば、今回のこの効果を見越していても不思議ではない。
「もっとも、お嬢様可愛さが先に立った、というのが本当のところかも知れんが」
楽しげに笑う副長だが、もしこの場にガイウスがいたならば『お前が言うな』と返したところだろう。
自分の娘、あるいは孫のようにメルツェデスを大事にしている副長は、令嬢達が参加することにあっさりと同意した。
勿論参加希望の令嬢達のスペックをある程度把握した上でのことではあったが、メルツェデスも友達と参加出来て楽しいだろう、という気持ちが大きかったことは否定出来ない。
それが蓋を開けてみればこの状況だ、これは嬉しい誤算と言って良いだろう。
「流石はお嬢様が見込まれたご友人方、皆様それぞれに素晴らしい。私も老いてなどいられんな」
勿論、彼の目からすればそれぞれの才能の違いなども見抜けてはいた。
だから、最も才能面では見劣りしていたエレーナを気に掛けていたのだが、その彼女もいつの間にか自力で自分を取り戻していた。
戦闘能力はともかく、心の強さで言えば、いずれ劣らぬ素晴らしい友人達と掛け値無しに言える。
「お嬢様は実に幸せなことだ。いや、それを見ることが出来る私もか」
満足そうに頷いた副長はまた歩き出し、時折、その行く先で若手に指導をしていく。
良いところは褒め、直すべきところには具体的な解決策をいくつか提示する。
こうした彼の指導がプレヴァルゴ家の練度を高めているのだが、そのことを知っているのはガイウスやメルツェデス、クリストファーといった限られた人間のみ。
もっとも彼からしてみれば、認められたい人達が認めてくれているのだから、それで十分。
そして今日もまた彼は、プレヴァルゴ家を支える屋台骨として指導に精を出すのだった。
そんな副長の支えもあって、四日目の訓練も実に有意義なものとなっていた。
まあ、たまに有意義すぎてエネルギー切れを起こし、倒れる者もいたが。
「……クリス、クリス? 大丈夫? 意識はあるみたいだけれど……」
「だ、大丈夫、だけど……ごめん姉さん、ちょっと休ませて……」
その最たる者が、クリストファーだった。
メルツェデスの苛烈な攻めに、それでも何とか耐えて凌ぐことが出来ていたのは、流石プレヴァルゴの嫡男と言っていいだろう。
ただ、その為にペース配分がおろそかになった結果、訓練の途中で倒れ込んでしまったのだが……それを責めることが出来るものなどいない。
唯一その資格を持っているとすれば、ガイウスくらいのものだが。
「クリスも成長したなぁ……メルティ相手に、あそこまで粘れるようになったとは」
「父さん、それ、褒めてるんだよね……? わかるんだけど、素直に喜べない……」
しみじみと感慨深げに呟くガイウスへと、クリストファーは汗にまみれた顔に苦笑を見せる。
彼としては姉に追いつきたいのに、未だ追いつけない。追いつける気がしない。
それでも確かに成長はしていて、それはガイウスも認めるだけのものがある。
自己の評価と他者の評価とのギャップ、それも他者の評価の方が高いことに、クリストファーとしては微妙な気持ちになってしまうのは仕方が無いところだろう。
何しろ、彼が望む先は、今目の前で彼を心配そうに覗き込んでいるのだから。
まだ、その額に汗をびっしりとかかせたことは、せめてもの慰めになるだろうか。
それでも。
「はぁ……まだまだ、姉さんには敵わないや」
厳然たる事実は、突きつけられる。
彼が目標とする壁は、まだまだどうにも高いらしい。
それでも。全く歯が立たないわけでは、ないらしい。
その手応えがあってか目の輝きを失わないクリストファーを見て、メルツェデスは頼もしげに微笑み。
ガイウスはうんうんと、幾度も頷いて見せる。
「しかし、クリスがリタイアとなれば、メルティの相手が俺しかいなくなるなぁ。いやぁ、仕方ないなぁ」
「父さん!?」
それまでの、クリストファーの健闘を称える空気を一気に吹き飛ばし、何ともわざとらしい口調でガイウスが言えば、クリストファーが慌てて食ってかかる。
政治手腕もあり、武力において王国一のガイウスではあるが、演技はどうにも大根だったらしい。
しかし、その大根演技ぶりに隠された、いや、隠そうとして全く隠せていない本音に気付いたクリストファーだが、止めようにも止めるだけの体力が残っていない。
「心配するな、この前のようなことにはならん。
魔力を刃に乗せることを禁じての手合わせなら、問題なかろう?」
「う……それなら、確かに……」
この妥協点の持ち出し方は、流石貴族社会でも生き抜いているだけのことはある、と言うべきだろう。
実際、魔力を乗せずに打ち合うことは王都のプレヴァルゴ邸でも時折やっているし、あんな被害は出ていない。
ある意味、真夏のキャンプの解放感がさせてしまったこと、と言えばそうなのだろう。
渋々と納得したようなクリストファーに、ガイウスは安心させようとでもしたか、穏やかな笑みを見せて。
「それに、恐らく今回、メルティは俺に一太刀も入れられないだろうからな」
「そこで煽ってどうするのさ!?」
さも当然と言った口調で言われ、クリストファーは慌てて言いながら、ちらり、横目で姉を見る。
侮られた、と言ってもいいガイウスの言葉に、プライドを刺激されたのではと恐る恐る伺ったのだが……意外なことに、メルツェデスは至って平静な顔だった。
いや、むしろ真顔とすら言ってもいい顔。
姉の放つ空気に、クリストファーは驚きのあまりまじまじと見つめてしまう。
「それはつまり、ついに本気でお相手いただけるということですね?」
「そう言うとちょっと語弊があるなぁ。今までも決して手を抜いてたわけじゃないんだが……ただ、使ってない手があったのも事実だ」
「言わば奥の手のようなものをお見せいただける、と。それは、是非とも一手ご教授いただきませんと」
額の汗を払いながら、メルツェデスは剣の具合を確かめつつガイウスへと向き直る。
普段の稽古はもちろん先日の打ち合いでも、ガイウスに近づいている手応えはあれど、その底が見えないという感覚がつきまとっていた。
その正体を、ついに拝むことができる。
しかもそれは、自分に一太刀も許さないものであるらしい。
武に関してガイウスが嘘や冗談を言うことも、自他を見誤り過大評価などすることもないと知っているメルツェデスは、今まで以上に気を引き締める。
今からの立ち会い、瞬きすら許されない。
全てを見逃さず、頭の中に叩き込まなければ。
高まる緊張と戦意を胸に、メルツェデスは慎重に、剣を両手で構えた。




