退屈令嬢、誘われる。
かくして、前世の記憶を取り戻したメルツェデスは、伯爵令嬢としての日々を送ることになったのだが。
その日々は、思ったよりも満ち足りたものではなかった。
「あう~……退屈ですわ~……」
自室の勉強机に突っ伏したメルツェデスが、ぼやく。
と、その背後から静かな声が掛けられる。
「お嬢様、またそんな格好でそんなことをおっしゃって」
「だってハンナ、本当に退屈なんですもの」
顔を上げて振り返れば、トレイにお茶の用意をして持ってきたハンナの姿。
メルツェデスの返答に小さくため息を吐くも、ハンナは小さなテーブルにティーポットやカップ、お菓子をセットしていく。
「全く、お嬢様は相変わらずなんですから。お気持ちは、わからなくもないですけども」
ハンナの言葉に小さく肩を竦めながら、メルツェデスは内心でほっとする。
前世を思い出す前の記憶もしっかり根付いているからか、普段の態度でハンナに不審がられたことはない。
というより、振り返ってみれば以前と人格は大きく変わっていないようだ。
そのせいか、記憶の中にある以前のメルツェデスは、ゲームで語られる彼女に比べて随分と大人しい印象を受ける。
元々のメルツェデスの人格に前世の人格が混じってしまった、とでも言うべきか。
おかげかどうかはわからないが、今のところクリストファーやハンナとの関係も良好のようだ。
だからこうして、勉強しているメルツェデスに一息入れさせようと、お茶の用意などもしてくれる。
「気持ちがわかるなら、少し大目に見てくださいまし。だって本当に退屈なんですもの」
そう言いながらメルツェデスは、ちらりと手元の本に目を落とした。
その表紙にはこちらの言葉で『初等算術』と書かれている。そう、言わば小学校の算数だ。
実はメルツェデスは、前世を思い出す前から算数は得意だった。
恐らく、計算のやり方などは無意識に思い出していたということなのだろう。
そこに、大学卒業程度、なんなら社会人経験まで今は思い出している。
割と真面目で優等生だったためか、勉強の内容は今でもそれなりに覚えている、とくれば、小学校程度の勉強で苦労するわけがない。
知識のない歴史や地理などの社会系は学習しないといけないが、メルツェデスの頭は記憶力がいいらしく、スルスルと自然に覚えられてしまう。
となると、いわゆるお勉強はあっという間にその日の分は終わってしまうのだ。
「それなら、家庭教師を増やすようお願いするとかはいかがです?
それか、ダンスや行儀作法の時間を増やすとか」
「ハンナ、私が嫌がるのわかってて言ってますわよね、それ」
すました顔で紅茶を注いでいるハンナの横顔を、メルツェデスはジト目で見つめる。
身体を動かすのは当然大好きだが、令嬢教育として教えられるダンスは実に大人しく、優雅さを求められるもの。
メルツェデスとしてはもっとリズミカルで動きの派手なもの、それが無理ならせめてテンポ良く踊りたいのだが、そんなものは即座に却下である。
となれば、行儀作法は言うまでもなく、ダンスもまたメルツェデスにとっては窮屈なものなのだった。
はふ、とため息を一つ吐いたメルツェデスがお茶の用意ができたテーブルへと向かえば、すぐにハンナが椅子を引き、スムーズに座れるよう宛てがっていく。
この辺りの呼吸は流石慣れたもの、とメルツェデスなどは思ってしまうが、実はハンナなりの採点基準があり、メルツェデスの呼吸に合わせて滑らかに椅子を出せたか、を毎回セルフチェックしていたりする。
上手くいった時には内心でガッツポーズを決めていたりするのだが、ハンナがそれを表情に出したことはない。
そんな密やかな楽しみ、あるいは研鑽を知らず、メルツェデスは淹れてもらった紅茶に口を付けた。
「ん……今日はアップルティーにしましたの?」
「ええ、先日新しい茶葉が入りまして。いかがですか?」
「とても美味しいわ。新しい茶葉のおかげか、なんだか気分が華やぐし……ありがとう、ハンナ」
「恐縮です、お嬢様」
メルツェデスの褒め言葉に、ハンナは深々と頭を下げる。
そしてまた、内心でガッツポーズ。
退屈だと言って若干塞ぎ込み気味だったメルツェデスの気分を変えるため、という狙いは見事に的中。
仕事はできる女なのだ、ハンナは。仕事は。
「は~……そうね、何か新しいことを始めてみるのもいいかしら。
本当はお父様やジェイムスに稽古を付けて欲しいのだけど、忙しくしてますし。
……そうだ、ねぇハンナ?」
「お断りいたします」
何か思いついたらしいメルツェデスへと、ハンナはにべもない。
意表を突かれたらしく幾度か瞬きをしたメルツェデスは、むぅ、と唇を尖らせる。
「ちょっと、まだ何も言ってませんでしょう?」
「どうせ、私に稽古相手をしろとかおっしゃるのでしょう? お断りいたします。
私の技術は裏方のもの。それこそお嬢様のおっしゃっておられました、変なクセが付きかねません」
「う~……そう言われると、反論できないのですけど……」
自分がジークフリートを諭すときに使った言葉を持ち出されては、メルツェデスも黙らざるを得ない。
実際のところ、ハンナの腕はガイウスも認めるところ。
ただしそれは飛び道具や、隠し武器である暗器など護衛対象を守るためならなんでもありのスタイル。
いずれ自衛のためにそういった相手との経験も必要であろうが、今のメルツェデスにはまだ早い、というのがハンナやガイウスの判断だった。
そうなると、メルツェデスとしては引き下がるしかない。
「そんなに退屈なのでしたら、ご令嬢らしくお茶会にでも顔を出されては? またこんなにお誘いのお手紙が来てますよ」
「え~……お茶会なんてそれこそ退屈じゃないですの。それに、これで行ったら、気絶する方も出ないかしら」
ぼやくように言いながら、ちょん、と額の傷痕をつつく。
さすがにもう痛みも熱も引いたが、それでも何となく、それこそ腫れ物のようにしか触れない傷痕。
メルツェデスよりも遙かにひ弱、もとい繊細なご令嬢が見てしまえば、悲鳴の一つで済めば良し、バタバタと倒れられても不思議ではない。
と、危惧する主にハンナは考えるように小首を傾げる。
「それなら、屋外のお茶会に帽子を被って行かれるとか。あるいは額に巻く額冠や飾り布をあしらってみるとか」
「……なんとなく、それならありかも、とか思ってしまいますわね……」
あれから半月ほど経つが、ハンナは気丈にもメルツェデスの傷を受け入れたようだった。
今ではこうして、少しでもメルツェデスが前向きになるような提案までしてくれる。
きっと、内心ではまだ色々と思うところがあるだろうに、と思えば、そんなハンナの心遣いがありがたい。
しかしそれを素直に口にするとまた煩くなりそうだったので、メルツェデスは黙ってお茶会のお招きに手を伸ばした。
「本当に、色々なところからお誘いが来てますわねぇ……何が目的なのやら。
純粋に仲良くなりたいものから、『天下御免』へのお近づき狙い、怖い物見たさ……というところかしら」
「あまりに失礼なお誘いには、お引き取りいただきますよ?」
「だから待ってハンナ、物騒なお引き取りはやめてね?」
などと冗談を言い合いながら、手紙の送り主を確認することしばし。
ふと、メルツェデスの手が止まった。
「あら、何かありましたか、お嬢様」
「あ、いいえ、何か、という程の物ではないけれど……公爵令嬢様からもお誘いが来ていて、ね」
そう言いながらメルツェデスは一通の封書を見せる。
差出人の名は、フランツィスカ・フォン・エルタウルス。
エルタウルス公爵家の長女であり……乙女ゲーム『エタ・エレ』におけるライバル令嬢の名前だった。




