居るべき場所。居られる場所。
結果として、三日目の訓練は実に有意義なものだった。
ヘルミーナやフランツィスカ個人はもちろんのこと、プレヴァルゴ家全体、ひいてはエデュラウム王国の軍備に関してすら。
それが、良いことなのかあるいは、ということは後の歴史が判断することとして。
少なくとも、ヘルミーナやフランツィスカに触発されて奮起した兵士や騎士も多くいたため、現時点では悪くない状況なのだろう。
訓練後の入浴やその後の夕食の間もそれぞれに活発な意見交換がされ、明日もまた更なる研鑽が積まれるのだろうと思えた夜。
「はぁ……」
一人物憂げに、エレーナはベランダに出て溜息を吐いた。
その重さに引かれたかのように下がる視線、目に映るのは鬱蒼と茂る森。
ますます気が重くなりそうで、無理矢理顔を上げれば、その目に飛び込んでくるのは。
「わぁ……凄い、星……王都じゃ、こんなの見られなかったわね……」
満天の、降り注いでくるかのように思える程に輝く星々。
魔術の明かりが絶えることのない王都では見られないそれらに目を取られたエレーナは、先程まで囚われていた思いを、しばし忘れる。
生まれてこの方王都生まれの王都育ち。
とは言っても、観光地やギルキャンス領に視察という名の旅行に行ったりしたことはあるが、夜に一人気ままに動ける時間など、まるでなかった。
もちろん今も侍女やメイドが控えてはいるが、この合宿中は口煩いことを言ってこない。
それが有り難くもあり、気を遣わせているようで若干申し訳なくもあり。
あれやこれやと考え事が散らばり、どうにも纏まらないエレーナへと、声が掛かる。
「あの、エレーナ様、どうかなさいましたか?」
それは、隣の部屋をあてがわれていたはずのクララだった。
いや、実際今彼女がいるのは、隣の部屋から張り出しているベランダ。
だから、彼女がそこにいること自体はおかしくはない。不思議ではあるが。
「ううん、ちょっと外の空気を吸いたくなっただけ。そう言うクララこそどうしたのよ、眠れないの?」
「あ、あははは……確かに、ちょっと気持ちが昂ぶっていて、眠気が来てない、というのはあります……」
エレーナの問いかけに、申し訳なさそうな顔でクララが答える。
確かにこの合宿では体力が命。であれば、眠れるときにしっかり眠るのは鉄則と言って良いだろう。
そして、基本的に良い子であるクララは、昨夜もしっかり早めに寝ていたはずだったのだが。
今日は、どうやら寝付けないでいたらしい。
「昂ぶって、だなんて淑女らしくないけど……まあ、仕方ないかしら、今日の今日じゃ」
くすくすとエレーナが笑いながら言えば、クララは慌てふためく。
その様子を見れば、またエレーナは笑い出してもしまう。
静かだったはずの夜に、しばしエレーナの笑い声と、クララの「ひ、ひどいです、エレーナ様!」という抗議の声が響く。
平和だ。平穏だ。
それでも、エレーナの心は、平穏とはほど遠い。
「そうよね、クララも今日は大活躍というか、奮闘していたものね」
ぽつりと呟いたエレーナの声は、静かな夜に飲み込まれていく。
ただ、隣で聞いていたクララには、はっきりと聞こえてしまったのだが。
「あの、エレーナ様……? い、いえ、大活躍だなんてとんでもないです、私は出来ることをやっただけで……」
「謙遜しなくてもいいのよ、メルとミーナが大量生産した怪我人を一気に治すだなんて、それこそ張本人のミーナか、あなたくらいしかできないわ」
自分が発してしまった言葉の響きに気付いたのか、それを打ち消すかのようにエレーナは努めて明るい声を出した。
昼間の集団模擬戦闘訓練において、ヘルミーナとメルツェデスが蹂躙した結果生まれた大量の怪我人は、ヘルミーナ自身とクララが治療した。
特に怪我の重たい者にはクララの回復魔術が効果的で、普通であれば復帰に一ヶ月はかかる骨折すらあっという間に治してしまう程。
だから、大活躍、奮闘という言葉は決して言いすぎではない。
けれど、何故かクララは、今のエレーナからその言葉を受け入れたくない、と思ってしまう。
「その、私というか、光属性は回復魔術が得意なわけですし……」
「そうよね、そしてそれに次ぐのが水属性。だから、あなた達が治療で活躍すること自体は当たり前というか……ううん、ごめんなさい、当たり前だなんて、あなたやミーナの努力をないがしろにしてしまう言い方だわ」
らしくない言い回し、言い淀む姿。
エレーナは笑って誤魔化そうとしているが、クララの目には、それが今にも泣き出しそうな姿に思えてならない。
迷っている。あるいは、不安に押しつぶされそうになっている。
何となくではあるが、そう感じ取れてしまった。
「ただ、あなた達には可能なこと、なのよね」
羨ましげに。あるいは寂しげに。
エレーナがそう呟いた瞬間、弾かれたようにクララはエレーナへと顔を向けた。
クララを見ていない、どこか遠くを見ている横顔。
それは、これだけ傍に居るクララも見たことのない顔で。
いやに不安がかき立てられてしまうのを、抑えられない。
「そして、多分、きっと……私には、できないことだわ」
ぽつりと、何気なく。
何気ない、だからこそエレーナの本音がぽろりと零れたようで。
何か言わなければ。
そう思うのに、クララは声が出ない。
「実はね、わかってはいたのよ。私は、あなたやメル、フランやミーナみたいにはなれないって。
わかって、いたの。そして、最近になって、改めて気付かされた、というべきかしら」
つらつらと。ため込まれていた想いが、言葉が零れてしまう。
それは、ずっと前から漠然と思っていたこと。
そして、この一ヶ月あまりで頭から離れなくなってしまったこと。
今、この合宿で、明確に突きつけられてしまったこと。
「私はいつか、あなた達の隣に居られなくなるわ、きっと」
軽く。努めて軽く、明るく。
そう告げながらやっとクララへと顔を向けたエレーナは、夜の闇の中、部屋から零れる明かりに照らされ、微笑んでいた。
その目の端に光るものを浮かべながら。
それを見た瞬間、クララは息を飲んで。
すぐに、きゅっと表情を引き締めて。
「えっ、ちょっ、クララ!? 何してるの!?」
慌てるエレーナの声を無視して、ベランダの柵に足をかけ、踏み台にして、クララは跳んだ。
隣り合っているといえど、要人用の部屋へと続くベランダだ、それなりの距離がある。
それをものともせず、足下が危うい暗さも意に介さずクララが飛び上がれば、ひらりふわり、クララの纏う白い夜着が翼のように舞う。
呆然と、見蕩れるようにエレーナが言葉を失っている間にクララは柵を軽々と飛び越え、エレーナの傍へと軽い足音とともに降りたった。
そして、エレーナが何かを口にする間もなく、その右手をぎゅっと、両手で握って。
「そんなこと、ありません! 少なくとも私は、私はずっとエレーナ様のお傍にいます!」
エレーナの手を両手で抱え込むようにしながら、クララは言う。
目には、怒りとも悲しみともつかない、強い感情を見せながら。
その勢いにエレーナが思わず一歩下がってしまえば、クララはさらに一歩、なんなら二歩、距離を詰める。
「エレーナ様は、私に色々なものをくださいました!
貴族としての教養や振る舞いはもちろん、人間関係だってエレーナ様のおかげです!
私は、私はエレーナ様がいらっしゃらなかったら、今こうしてここに居ません!
だから、エレーナ様がいらっしゃらないところに、私は居られないんです!」
きっと、理屈で言えばおかしなことを言っている。
けれどもそれは、だからこそ、クララの心からの、感情が溢れた言葉としか思えない。
こみ上げてくる何かで喉が塞がってしまったかのように言葉が出ないエレーナを真っ直ぐ見つめながら、クララは、更に言葉を重ねる。
「隣にいられなくなるだなんて決めつけないでください、もし本当にそうなったとしても、私がエレーナ様の隣に押しかけますから!」
両手で握ったエレーナの手を胸に抱き込みながら、クララは訴えかける。
視線と、言葉と、何より包み込まれた胸から伝わる熱。
それが伝わってしまったのか、エレーナの頬が朱色に染まる。
「な、何言ってるの、あなたには、もっとあなたにふさわしい場所が」
「そんなの、私が決めます! エレーナ様にだって決めさせません、私が居たい場所は、私が決めます!
私は、私はエレーナ様の傍に居たい! 居させてください、お願いします!」
そう言いながらエレーナを見つめるクララの瞳は、昂ぶった熱のせいか潤んでいた。
それが星の明かりを、部屋から零れる明かりを拾って輝く様は、絵画のようで。
思わずエレーナはその姿に見蕩れ、言葉を失ってしまう。
だが、返事を待つクララの姿に我を取り戻し、やっと頭が、唇が動いた。
「……いいの? いつか、私の隣は、あなたにとって退屈な場所になるかも知れないわよ?」
「そんなこと、絶対ないです! むしろ、その、ヘルミーナ様の隣よりはずっと落ち着けると思います……」
勢いよく返事をしてから、続く言葉の意味するところに自分で気がついたのか、しゅるしゅると萎むかのように勢いが失われていく。
そんな姿に。そして彼女が言おうとしたことを察して。
エレーナは、くすくすと笑ってしまう。
「流石に、ミーナと比べられちゃったら、そこは頷かないわけにはいかないじゃない」
笑いながら、そうか、と腑に落ちる。
きっと、クララやメルツェデス達と同じところには行けない。
しかし、彼女達が帰ってくる場所に居ることはきっと出来るはずだ。
彼女達にだって、休息は必ず必要なのだから。
けれど。
「でも、ただの癒やし担当でいるのもシャクよね。そう簡単に、置いてきぼりにされてなんてやらないんだから」
「そ、そうです、それでこそエレーナ様です!」
簡単に一歩引いてしまうのもらしくない。メルツェデス達の親友としても、何より、エレーナ・フォン・ギルキャンスとしても。
だから強がりの一つも見せれば、安心したのかクララの笑顔が花開く。
そんなクララへと、楽しげに笑い返して。
「あら、つまりクララにとっては、跳ねっ返りを見せてるのが私らしいってこと?」
「ち、違いますよ!? その、なんというか不屈の精神と言いますか!」
揶揄うように言えば、真に受けたクララが大慌てで言葉を探し、言いつくろう。
もちろんエレーナとて、クララがそんなことを思っているとは思わない。
これは、ちょっとした照れ隠し。
そして、必死に好意を伝えてくれた彼女への恩返し。
もちろん素直に種明かしをするつもりはないけれど。
慌てるクララを宥めながら、エレーナは久しぶりに。本当に久しぶりに、心の底から、笑顔を見せた。




