天啓。あるいは悪魔の入れ知恵。
クリストファー、討ち死に。
いや、もちろん本当に死んだわけでは無いのだが。
普段よりテンションが上がってしまっていたメルツェデスに、必死に向かっていったクリストファー。
やはり彼も同族らしく、そう簡単にやらせはしなかった。
だが、結果としてそれで盛り上がってしまったメルツェデスに容赦なくボコられ、クララの回復魔術を幾度も受けた後、リタイア。
身体の傷は治るし体力も一時的には回復するが、根本的な魔力が尽きてしまえばどうしようもない。
「ふふ、あなたの成長ぶり、とくと確かめさせてもらったわ、クリス」
「そ、そう、それは、何より、だね……」
ガクリと力尽きたクリストファーを、救護班が運んでいく。
さて稽古相手であるクリストファーがリタイアしたしどうしようか、とメルツェデスが思案しかけたところで、丁度訓練の終わりを告げる鐘が響いた。
そう、それだけの間、クリストファーは何とかもちこたえたのだ。ボコられながらも。
「本当に、今日はいい汗をかいたわね……お風呂が楽しみだわ」
汗にまみれながらも、メルツェデスは爽やかに言い放つ。
額に濡れて張り付く前髪を軽く払えば、一瞬垣間見える『天下御免』の向こう傷。
彼女がそれだけ懸命になった甲斐もあって父ガイウスとの距離を確認でき、クリストファーの成長も感じ取れた。そのことに、メルツェデスはとても満足していた。
なんだかんだ、彼女とて家族のことは好きなのだ。その表現の仕方がおかしいだけで。
ともあれ、彼女が満足して訓練を上がれば、それが合図だったかのように他の女性陣も移動を開始する。
……途中、一人倒れ臥していたヘルミーナを、フランツィスカが抱き上げて回収していった。
「う゛ぁ~~~~~……」
回収され、侍女やフランツィスカの手によって脱がされたヘルミーナは、また力の抜けた呻き声を上げながら、ぷかりと湯船に浮かんでいた。
相も変わらず、何もかも隠すつもりのない大の字で。
「だから、はしたないからそういう格好はやめなさいって」
「う゛~~~~……もはや今の私に、体裁を取り繕う気力などない……」
「そ、そんなに疲れてるわけ?」
窘めるエレーナに返答するヘルミーナの声には、確かに力が無い。
それを聞いて、エレーナも心配が優ってしまったようだ。
「そういえば、確かに今日のヘルミーナ様は、昨日よりもランニングに精を出しておられたような」
「言われて見れば、昨日よりもペースが速かったように思うわね」
ふと思い出したようにクララが言えば、フランツィスカもうんうんと頷きながら同意する。
ちなみに、クララがヘルミーナの様子を知っていたのは、急にこちらへ向かってこないかと警戒していたからだったりするのだが、いくら素直なクララでもそんなことは口に出さなかった。
ともあれ、複数の証言もあり、どうやらヘルミーナが真面目にランニングしていたのは間違いないようだ。
「……昨日メルに言われたことを実践してみようと……出来る限り、追い込んでみた」
「ミーナ……あなた、早速実践してくれただなんて……」
ごにょごにょと若干口籠もりながらのヘルミーナの言葉に、メルツェデスは感動したように目を潤ませる。
いや、あのヘルミーナが早速素直にアドバイス通りに動いた、とあって、フランツィスカもエレーナも驚きと感動を覚えてはいたのだが、発言者であるメルツェデスにとってはひとしおだったのだろう。
「……べ、別に、これで何も浮かばなかったら、また別の手段を考えるだけだし」
「またそんなこと言って、素直じゃないんだから」
くすくすと笑いながらヘルミーナへ揶揄うようなことを言うエレーナを見て、フランツィスカとメルツェデスは思った。
あなたが言うな、と。
だが、言われた当のヘルミーナは、あまり気にしていないらしい。
「むぅ、今だけは素直になるからいいの」
そう言うとヘルミーナは、改めて身体の力を抜き、目を閉じる。
隣で見ていたメルツェデスはそっと寄り添い、万が一溺れそうにでもなればすぐに助けられるような位置に付く。
それが一層の安心感を生んだか、あるいはそれだけ疲れ切っていたか。
ヘルミーナはこれ以上無く脱力し、ぷかりぷかり、水の浮力に身を任せきっていた。
疲れ切った身体に、じわじわと温泉から魔力が染みこんでくる。
力を抜いているというのに、いや、抜いているからこそしっかりと支えてくれる水の浮力。
ああ、人はなんと無力で、水のなんと偉大なことか。
そんな普段は考えないような哲学的なことまで脳裏をよぎりながら、身を任せることしばし。
心も身体もすっかり解れたような一時。
ヘルミーナはその時、ふと閃いた。
このアイディアは明日からの訓練に活かせるかも知れない。
「これだ!」
いきなり叫ぶと、ヘルミーナはがばっと身体を起こし、そのまま駆け出そうとした。
「ちょっ、ミーナ、走ると危ないわよ、足が滑るわ!」
「な、なるほどっ、しかしっ」
メルツェデスの制止の声に、ヘルミーナは一瞬動きを止め、しかし足を滑らせないギリギリの早足で脱衣所へと向かう。
どうやら温泉効果のおかげか、脚はある程度回復していたらしい。
ちょこまかちょこまかと脚を動かしながら脱衣所に辿り着いたヘルミーナは、そこからダッシュをかけようとして。
「お待ちください、お嬢様!!」
様子を見ていた侍女に、がしっと抱きつかれた。
「そのままでお部屋に向かわれるおつもりですか、せめて服を着てください!
できれば髪も乾かしていただければ!」
そう、ダッシュしようとしたヘルミーナも、彼女に抱きついて止めた侍女も、大浴場から出てきたばかりの一糸まとわぬ姿。
そんな姿で部屋まで行ってしまえば、色々と大問題である。
「くっ……服は、仕方ない……でも、髪はこうすれば。『脱水』」
そう言いながらヘルミーナは、超短縮詠唱で魔術を使った。
『脱水』、つまり物体から水分を奪い乾燥させる魔術である。
それを、自らの髪に向けて使ったのだ。
「それはおやめくださいと何度も言いましたでしょう!?
折角の綺麗な髪が、乾燥しすぎてパサパサになって傷んでしまうと!」
「うるさいなぁ、いいじゃない、後から治せるんだし」
ギャアギャアとうるさく言い合いながらも、侍女とその手伝いをするメイドは何とかヘルミーナに下着を着用させ、湯上がりに着用する簡易な服を身に付けさせた。
「……ミーナにも、あれだけ物申せる侍女がいたのねぇ」
「それ、フランが言う? あなたの侍女も中々よ?」
しみじみと言うフランツィスカに、エレーナがツッコミを入れる。
なお、当の侍女は素知らぬ顔で控えているのだが、この辺りもあって尚のこと、この侍女はただ者でないと思えてならない。
恐らく、聞けば『そんなことはございません』と素っ気なく返されるのだろうと思って、エレーナはそれ以上問わなかったが。
「これでいいでしょ、もう行くからね!」
「お待ちください、廊下は走らない! 人様の迷惑を考えて!」
大雑把に、本当に最低限の最低限だけ身だしなみを整えたヘルミーナは、一言断りを入れて、ダッシュ。
それを呼び止めながら、侍女も同じくダッシュ。先程まで全裸だったはずなのに、いつの間にか衣服を身に着けて。
……フランツィスカの目は捉えていた。彼女が、ヘルミーナの着替えをしながらも、メイドが相手をしている瞬間に下着を着け、スポンと簡素なワンピースを身に纏い、さっと髪をタオルで纏めていたところを。
それだけの早業は中々できることではなく、同じく相手をしていたピスケシオス家のメイドは、ようやっと今着替え始めたばかりだ。
いや、あるいは侍女が何とかしてくれると信じて、彼女は着替えを諦めてヘルミーナを留めていたのかも知れないが。
「中々の腕ね、素晴らしいわ」
「いや、侍女のスキルに、早着替えは必須じゃないからね? むしろそんな状況は普通ないからね、普通の令嬢付きだったら」
「……ハンナさんは早そうよね」
「あの人も仕えてるメルも普通じゃないでしょ!?」
フランツィスカの呟きに、至極ごもっともなエレーナの声が響く。
ちなみに、ハンナはもちろんなのだが、フランツィスカの侍女もまた早着替えが得意だったりするのだが、それが判明するのは後日の事だった。




