見えない方が良かった世界。
そんな一悶着があって、翌朝。
「……随分と回復してるわね……これも、温泉の効果かしら……」
そう呟きながら、フランツィスカはゆっくりとベッドから身体を起こした。
意図して腹筋の力だけで上半身を起こしたのだが、腹筋も、あるいは体幹の筋肉も、筋肉痛や疲労を感じさせない。
身体を横に捻り、すとんと脚をベッドの脇に下ろして腰掛ける体勢になり、ゆっくりと上半身を左右に捻る。
……それでも、やはり痛みは感じない。
「なんだか、自分の身体じゃないみたいね……最近、そう感じることが多いけれど」
呟きながら、脚も軽く動かして様子を見る。
やはり同じく、ほとんど疲労は残っていないし、筋肉痛もない。
あの激しかった『魔獣討伐訓練』を終えてから、時折感じていた違和感。
やけに、身体が動く。あるいは、回復が異様に早い。
まるで身体が別物に作り替えられたかのような感覚は、時にフランツィスカを僅かばかりの混乱に陥れる。
それも何度か繰り返すうちに多少は慣れてきたのだが……今は、更にもう一段階、身体が作り替えられたような感覚。
「これが、プレヴァルゴ家のキャンプに参加した結果?
だとしたら……メルのあれこれも納得しちゃいそうで怖いわね」
苦笑しながら、フランツィスカは立ち上がり、朝の準備へと向かう。
困ったことに、フランツィスカが感じたことは、おおよそ外れていなかった。
『魔獣討伐訓練』という激戦をくぐり抜け、更に今こうして過酷な訓練に身をさらしているフランツィスカは、急激なレベルアップの途上にある。
もちろん、ゲーム的なレベルアップとは違うのだが、それでも、その上がり方は似たようなもの。
今でも既に学生としては極めて高い能力を持っているのだが、このキャンプで更に勢いを増して、それこそゲームにおけるパワーレベリングのように成長し始めていた。
疲労で落ちた能力を上回る程の成長に温泉の回復効果が相まって、昨日よりも運動能力が落ちているように感じない。
その結果、きちんと回復できているように思えているだけなのだが、いくら聡明なフランツィスカと言えども、そこまでわかるわけがない。
「ともかく、これなら皆さんの足を引っ張ること無く訓練に参加出来そうだし……今日も一日、頑張らなくちゃ」
シャッとカーテンを開けて窓の外を眺めながら。
差し込む早朝の日差しよりも爽やかな笑顔で、フランツィスカはそう呟いた。
そんなフランツィスカの爽やかな目覚めから始まる二日目。
爽やかに目覚められたのはフランツィスカと後はメルツェデス、クリストファー、ガイウスなどプレヴァルゴ家の面々のみで、二日目にして既に必死の形相があちこちで見られ。
更にはメニューも一日目よりも負荷の高いものとなり、ゴリゴリと参加者達の体力は削られていく。
エレーナは必死の形相でそれに耐え、クララは時折回復魔術でエレーナやヘルミーナを支えながら、なんだかんだとついていけるだけの高い適応能力を見せていた。
そしてフランツィスカは、実技訓練において昨日よりも騎士相手にいい勝負を見せていた、のだが。
「お父様、今日は是非とも一手ご教授お願いしたく」
「いいだろう。ここまでずっと指導ばかりで、俺もちょいと退屈していたところだ」
楽しげに挑戦するメルツェデスと、同じく楽しげにその挑戦を受けるガイウス。
とても楽しげな、暖かな家族が交わすような笑顔、のはずだというのに。
フランツィスカを、いや、周囲で見ていた全員を背筋が凍り付いたような感覚が襲った。
そしてその直後に、それは全くもって正しい、極めて嫌な予感だったということを全員が痛感させられる。
「それでは、参ります!」
「おう、かかってこい!」
開始の合図自体は、互いに声を掛け合うありふれたもの。
だが、ありふれた、普通の光景はそこまでだった。
次の瞬間。
キュゥン!! とでも表現すればいいのだろうか、黒板をこすった音の振動数を上げて極めて高音にしたような、背筋が震え上がる程に気持ちの悪い音が響き渡る。
そして次の瞬間に感じる、頬を撫でる風。
見れば、メルツェデスとガイウスの振るった剣が、互いの中間で噛み合っていた。
「……嘘でしょ……?」
今の音は、そして風は、あの二人が剣を打ち合わせた衝撃で起こった、らしい。
そのことを、そしてそれが意味することを察したフランツィスカは、呆然とした声でそう呟くしか出来なかった。
まだ言葉を発することができるだけ、彼女は大したものだと言って良い。
大半の者はあんぐりと口を開いて絶句し、慣れている、あるいは予想出来ていたクリストファーと副官でもやれやれと肩を竦めて首を振るばかり。
単純に、剣と剣を打ち合わせた衝撃で、離れた位置に居るフランツィスカにまで届く風が起こるだけでも異常なこと。
さらにそれは、『剣合わせ』と呼ばれる、騎士の訓練において互いの習熟度を確かめ比べ合わせるための儀式的な型稽古によって起こった。
儀式的ではあるものの、シンプルなだけにそれぞれの身体操作と身体能力が結果に直結するため、決して軽視できないものなのだが……その『剣合わせ』において、メルツェデスは、ガイウスに打ち負けなかった。
「……なるほど、成長著しいとは思っていたが……これは、見事だ」
「ふふ、お褒めに預かり光栄ですわ、お父様」
「流石だ、流石だメルティ! 流石我が娘!!」
「ちょっ、そういう暑苦しいのは、稽古が終わってからにしてくださいまし!?」
滂沱と涙を流しながら叫ぶガイウスへと、一度剣を引いたメルツェデスが反論しながら、今度はガイウスの左肩を狙って袈裟斬りに斬り下ろす。
だが。
もちろん、そんなある意味容赦のない、あるいは空気を読まない一撃であっても、簡単に食らってくれる程ガイウスも甘くは無かった。
ガチリ、岩に刃を食い込ませたかのような音が、静かに響く。
「それもそうだな。これだけ成長したメルティの剣を、涙に曇った目で碌に見ないまま終わらせるのは勿体ない」
納得したように呟くガイウスの目は、僅かに涙の名残はあれど、既に感傷を振り切っていた。
そして、ぐい、と唇が歪む。笑みのような、それでいてもっと獰猛な、そんな表情に。
その表情に、気配に、メルツェデスは全身の毛が逆立つような感覚を覚え。
同時に、歓喜を、覚えていた。
「ええ、そうですとも。わたくしも、煮え切らないお父様の剣など見たくもありません」
「はっはっは、面白いことを言うじゃないか、流石俺の娘だ、メルティ!」
剣を引きながら放たれたメルツェデスの挑発じみた言葉に、ガイウスはどこか狂的な熱を滲ませる歓喜で応え。
直後、二人はその全身から爆発的に魔力を吹き出し、それを剣へと纏わせて。
たっぷりと魔力が乗った刃が再び二人の中間で激突し、それが風を生む。
「……退避ーー!! 総員退避ーーーー!!!!」
呆然とそれを見ていた人間の中で、流石同族と言うべきか、真っ先に我に返ったクリストファーが若干悲鳴のような上擦った声になりながらも指示を出した。
途端、それを聞いた副長も声を上げ、聞いていた騎士達は、そして魔術師達も、恥も外聞もなく逃げの一手を打つ。
「エレン、私達も逃げるわよ! ミーナ、私に掴まって! クララさんは正気に戻ってない人に魔術を掛けて!」
「わ、わかったわ!」
「ちょっ、うわっ!」
「は、はい、わかりました!」
フランツィスカが声を上げながら駆け出し、ついでとばかりにへたり込んでいたヘルミーナの細い身体を軽々と抱き上げる。
その動きを見たエレーナも動き始め、クララもまた周囲に目をやり、『サニティ』、人を正気に戻す魔術を時折使いながら逃走を開始した。
このフランツィスカの判断と指示は、極めて的確だったと言って良いだろう。
直後。
「楽しい夏になりそうだなぁ、メルティ!!」
「同感ですわ、お父様!!」
楽しげな父娘の声が聞こえてきて。
次の瞬間。
三度剣が噛み合う耳障りな金属音に続いて爆発音が聞こえたかと思えば、二人の間に横たわる大地に、ヒビが入った。
「総員、出来るだけ身を低くしろ! 無様でも構うな、とにかく脚を動かせ、逃げろ、逃げろ!!
あの壁を越えたら、全員各自の判断で散らばってその場に伏せろ!」
最高責任者とその愛娘がタイマン勝負に突入し、しかもそれにのめり込んでしまった。
そうなってしまえば、今この場を仕切れるのは、嫡男であるクリストファーしかいない。
そんな彼は、必死に兵達を誘導し、安全圏へと逃がしていく。
「フランツィスカ様! エレーナ様もクララ嬢も、こちらへ!
ここの壁が、一番厚いですから!」
「それが意味を持つといいのですけどね!」
ヘルミーナが抱え上げられているという状況を見た上で判断したらしい言葉に、少しばかり冷静さを取り戻したフランツィスカは冗談めかした返答をしながら壁の向こうへと駆け込み、流れるような動きでヘルミーナを抱え込みつつ地面に伏せた。
そのすぐ隣にエレーナが、クララが身を投げ出し、頭を抱え込む。
まさにその次の瞬間。
再び爆発にも似た音が、背後から聞こえた。
「おかしいでしょ!? 魔力を乗せてるとはいえ、なんで剣を打ち合うだけで、こんなことになるの!?」
ある程度の距離を逃げたからか、やっと少しばかり正気を取り戻したエレーナが、ツッコミのような声を上げる。
残念ながら、それを叩き込まれるべき人間には全く届いていないのだが。
「これは実に興味深い現象。是非とも研究させてもらいたい」
「しなくていいわよ!? むしろしないで!」
フランツィスカに抱き込まれ、地面とサンドイッチになりながらもマイペースなヘルミーナ。
「これが、メルのいる領域……私が、辿り着かないといけない領域……」
「行かなくていいからね!? むしろ行かないで、本気で怖いから!」
この常識外れな光景を目にして、しかしそれが目指すべき先だと認識してしまったフランツィスカ。
「せ、聖女となるためには、ここまで強くならないと……?」
「そんなことないから! っていうか聖女ってそういう役割じゃないから~~!!」
人間の領域が揺らぎ、聖女の定義が、ハードルが爆上がりしてしまったクララ。
それら三者にツッコミを入れながら、エレーナは思う。
ダメだこいつら、何とか矯正しないと、と。
そんな彼女の決意を嘲笑うかのように、メルツェデスとガイウスが楽しげに立ち回る破壊的な音が、辺りに響いていた。




