暖かい夜。
「わたくし? いるわけないじゃない。だって、これよ?」
そう言いながらメルツェデスが指で指し示したのは、『天下御免』の向こう傷。
もちろん普段は気にした風もなく、なんなら上手く使っていさえする『勝手振る舞い』の証だが、これが色恋沙汰となると足かせとなってしまうことは、メルツェデスとてわかっている。
ただ一つわかっていないのは、それが問題にならないくらい彼女に惹かれている人間が多数いる、ということなのだが。
そして今この場に居る面々は、まさにその、問題にしていない人々が大半だ。
そんな彼女らであっても、改めて言われればこの傷痕が与える影響は少なくないことを今更ながらに思い出す。
「まあ、おかげで意識しなくても人をふるいに掛けることができるから、便利と言えば便利なのだけれど」
「ちょっと言い方がアレだけれど……その見た目で判断するような人は願い下げ、と言われたらそれはそうよね」
冗談めかしたメルツェデスの言い草に、素直には頷けないながらも、フランツィスカは理解を示した。
顔の美醜で人を判断する連中は、表に出す出さないを問わなければ社交界でもそれなりにいる。
そんな連中からすれば、メルツェデスの傷は論外と言えるだろう。
そして、そんな連中などメルツェデスからしてみればお呼びでない。もちろん、フランツィスカやエレーナにとっても。
「でも、王太子殿下やジークフリート殿下は、気になさっておられなかったようですけど……」
おずおずと、クララが言う。
だが、そんな彼女へとメルツェデスはゆるりと首を横に振って苦笑を見せた。
「多分、クララさんもこの傷の経緯は大体知ってるわよね?
あの時、陛下はこの傷を哀れまないと仰ってくださった。となれば、王家の方々は今更この傷に変な反応をするわけにはいかないでしょう?」
「な、なるほど……?」
その言葉に、フランツィスカやエレーナは、若干の安心と、哀れみを禁じ得ない。
エドゥアルドは、恐らく本人の性格からして本当に哀れみだなんだを感じていないだろう。下手をすれば、本当に武人の誉れとまで思っている可能性すらある。
だがジークフリートは、申し訳なさもあるがそれ以上に、それが問題にならないくらいメルツェデスに惹かれてしまっているし、フランツィスカもエレーナもそれはわかっていた。
ただ、肝心のメルツェデスには全くこれっぽっちも伝わっていないのが、恋敵ながら哀れに思えてならない。
事情をよくわかっていないクララですら、何とも納得は出来なかったりするのだが。
彼女は少なくともジークフリートの人となりやその振る舞いをそれなりに見ていて、彼が申し訳なさだとかからメルツェデスに普通に接しているようにはとても見えなかった。
むしろあれは、何とかして接点を持とうとしていなかったか。
……そこに気付いたクララは、ちらりとエレーナを見たかと思えば敢えてメルツェデスの勘違いには触れず、受け流すことにしてしまったのだが。
「だから、普通の感性の人には相手にしてもらえないと思うし」
「逆に、変に媚びてすり寄ってくるのもダメよね。何が狙いかあからさまだし」
「ええ、つまりこの『勝手振る舞い』の権益が欲しいってことだと思うから。
お父様のおかげか、今のところそういう人は来ないけれど……成人もしたし、今後はそれなりに出てくるでしょうねぇ」
それなりに社交界に染まって、理解してしまえるが故にため息を吐きながらエレーナが言えば、メルツェデスも苦笑で返す。
実際、形としては対立派閥の筆頭であるギルキャンス家のエレーナですら、メルツェデスと親しいからと仲介を何度も頼まれていたのだから、今後のメルツェデス、あるいはプレヴァルゴ家は煩くなるだろうことは想像に難くない。
まあそうなれば、同じく『勝手振る舞い』持ちであるガイウスが黙ってはいないだろうが。
そこまで話したところで、一瞬落ちる沈黙。
メルツェデスを取り巻く環境を改めて言われ、それこそ恋バナどころじゃないのでは、と思い至ったクララはもちろん、あれこれ知っているフランツィスカやエレーナも、次の言葉を探してしまう。
その沈黙を破ったのは、意外にもヘルミーナだった。
「メルの事情や周囲の思惑はわかったし、察してもいたけど。それとメルの気持ちは別じゃない?」
「え? わたくしの、気持ち?」
思わぬ言葉にメルツェデスは、らしくもなくオウム返しをしてしまう。
ヘルミーナに言われたということもそうだし、何より、自分の気持ち、という部分に意表を突かれてしまった。
「そう、メルの気持ち。今までの話を聞いたら、外部環境や他人の感情ばかりを考慮していて、メルの感情が見えない。
私もよくわからないけど、多分恋情ってもっとエゴが出たものじゃないの? なのに、私にはメルのエゴが見えないんだもの」
珍しく饒舌で、かつ、感情の滲むヘルミーナの言葉。
それは微かに、しかし確かに、メルツェデスの何かを動かした。
「わたくしの、エゴ……そう、ね。確かに言われて見れば、わたくし、自分の気持ちは置き去りだったかも知れないわ」
そう言いながら、メルツェデスは己の胸に手を当て、目を閉じてしばし考える。
前世の記憶に目覚めてからこの方、ある意味で彼女はエゴイスティックに活動してきた。
即ち死亡フラグ回避のため。生き延びるため。それは間違いなくエゴと言って良いだろう。
だがそれは、『死にたくない』という生物として当たり前すぎる動機であり、それが彼女の感情だったかと言われれば、否定も肯定も微妙なところ。
死んでしまえば感情も何もないのだから、まず生き延びることを優先するのは当然ではある。
だがそこに、もっと前向きで建設的な感情があったかと言われれば、首を捻らざるを得ない。
生存のためでは無く、メルツェデスがメルツェデスでいるために。
そんなことは、まるで頭の中になかったのだ。
「え、えっと、あのっ! すみません、メルツェデス様のことはまだまだ全然わかっていない私ですけどもっ!
それでも、それでも、それは、ちょっとどころでなく寂しいって、思います!」
何度もつっかえながら。何度も声が上擦りながら。物申すのが身分的に失礼であることをわかっていながら。
それでも、クララは言わずにはいられなかった。
学園に入学してからまだほんの数ヶ月だが、メルツェデスがどれだけの人物か、クララでも十二分に伝わってきている。
だというのに、当の本人の自己評価は、こんなにも低い。
それはいけないことだ。なんとかわかってもらいたい。そんな思いが頭の中を占めてしまったクララは、普段であれば決して言わないであろうことを、口にした。
あるいはそれは、夜の魔力がなしえたこと、だったのかも知れない。
「そうよ、クララさんの言うとおりだわ。メルが、好き勝手しているように見えるメルが、実は奥底で自分を抑えていただなんて、それを言ってくれていないだなんて、寂しいわよ」
隣に座るメルツェデスの手を握りながら、フランツィスカが表情を陰らせる。
常日頃感じていた違和感。メルツェデスと親しくしていながらも感じていた壁のような何か。
それが今、浮き彫りになった。
であれば、それを壊すことに躊躇いはない。その壁の向こうに、行きたいのだから。
「まったく、メルが鈍いだなんて言えなくなっちゃったわね……私も気付いていなかったんだもの。
でも、こうやって気付いたからには、もう放っとかないわよ。洗いざらい吐き出してもらうまでは、寝かせないんだからね!」
エレーナが、反対の手を握り、逃がすまいとその胸元に引き寄せる。
両脇から手を掴み、逃がすまいとするかのような体勢。
それでいて、メルツェデスの心には警戒だとか逃げたいだとかの感情が浮かんでこない。
浮かぶのは、ただひたすらに、暖かい何か。
「待って、洗いざらいも何も、今初めてわたくしも気付いたのだから、まだ上手く言葉にできないわよ!?」
珍しく。本当に珍しく、メルツェデスが慌てふためく。
覆っていた殻にヒビが入り、少しばかり剥き出しになった心は、まだ困惑したまま。
けれど、今この瞬間はそれに恐怖を感じることなく、むしろ嬉しいようなむず痒い気持ちにすらなってしまう。
だから。
珍しく。らしくなく。
衝動的に、メルツェデスは感情を口にした。
「でも……そうね。わたくしは、普通の人生を歩めないのだと思っていた。
貴族令嬢として当たり前の将来はないだろうし、正直、今もそれは望んでいないわ」
そこで、一度言葉を切る。
口にしていいのだろうか。皆の重りになってしまわないだろうか。
けれど。
嫌われることだけはない。
それは、それだけは、何故かはっきりと確信できた。
「だから、いつか皆とは離ればなれになって、一人になるんだろうって思っていたのだけど。
……出来ることなら、皆といつまでも一緒にいたいなって、最近は思えるようになってきたの」
はにかみながらメルツェデスがそう言った次の瞬間。
左右から、衝撃が襲ってきた。
メルツェデスがかわすどころか反応すらできないタイミングで突撃してきたのは、フランツィスカとエレーナ。
更にほんの僅かな間隙の後にヘルミーナも、クララすら、抱きついてきた。
流石のメルツェデスも、ここまで意表を突かれ、四人もの人間に突撃されては堪えることもできず、ぱたり、敷き布団の海へと押し倒されてしまう。
「馬鹿なこと言わないで! 一緒よ、いつまでだって私達は一緒にいるわ!」
ここまで来ると、天変地異レベルかも知れない。
普段は冷静なフランツィスカが声を上げ、ぎゅっとメルツェデスにしがみつく。
「一人になんかしないわよ! 私だって離れたくないんだから!」
エレーナもまた、普段のツンデレな態度はどこへやら、切実な声でメルツェデスに訴えかける。
時折感じていた、メルツェデスの孤独。
それを告白されて、我慢することなど出来はしない。
まして今は、それを曝け出してもいいと思えるメンツだけなのだから。
「私だって嫌。メルは、私に色々なことを教えてくれた。世界を広げてくれた、大事な友達。離れたくなんてない」
淡々と言っているように聞こえるヘルミーナの言葉。
だが、向けられた目は潤み、熱を帯びている。
それが、普段あまり感情を感じさせないヘルミーナの真情を痛烈に突きつけてきて、メルツェデスの殻に、またヒビが入る。
「そのっ! わ、私もっ、メルツェデス様には感謝だとか尊敬だとか、一杯感じてます!
こうしてご一緒させていただけていること、とてもありがたいと思っていますから!」
恥ずかしさからか申し訳なさからか、顔を真っ赤に染めながら、それでもクララは、思うところを言い切った。
四者四様、それぞれの、しかし紛れもなく心の底から思っている言葉に。
自分のことにだけは鈍感だったメルツェデスも、流石に、理解せざるを得なかった。
「……ごめんなさい、弱気になってしまうだなんて、わたくしらしくなかったわ」
そこで、一度言葉を切って。
抱きついて、こちらを見つめてくる四人の顔を、ゆっくりと見回して。
はふ、と小さくため息を吐きながら、視線から逃れるように天井を見上げる。
「きっと、ううん、間違いなく。わたくし、幸せ者だわ」
満足そうに言うメルツェデスの目尻には、キラリと光るものがあった。




