雌伏の夏。
「っくしゅんっ」
「おや、風邪でも引かれましたか、殿下」
「いや、大丈夫だ、ギュンター」
薄暗い室内でいきなりくしゃみをしたジークフリートに、気遣わしげにギュンターが声をかける。
心配ないと手を振って答えたジークフリートは、改めて机の上に置かれた本へと目を向け、ぱらりとページをめくる。
彼らの周囲にはぎっしりと本が詰まった本棚が整然と立ち並び、ほとんど物音がしないこともあって、なんとも厳かな空気に包まれていた。
「もしかしたら埃が舞っているのかも知れませんね。
お読みになっている本はかなり古い物、おまけに人に読まれたことがほとんどなさそうですから、埃が積もっていてもおかしくはありません」
「そういうリヒターが読んでいる本も随分と古いようだが……君は平気なようだな?」
向かい側で同じく本を読んでいたリヒターが言えば、ジークフリートは若干不思議そうに問いかける。
あるいは、己のみがくしゃみをした恥ずかしさを誤魔化そうとしているのかも知れないが。
そんなジークフリートの問いに、リヒターは小さく苦笑をしながら肩を竦めて見せた。
「慣れ、かも知れませんね。ミーナの奴に引きずられて、お互いの家にある古い魔術書を読む羽目に何度もなっていましたから」
「君達は仲が良いのか悪いのか、本当にわからないな……」
思わぬ発言に、呆れたような溜息を吐きながらジークフリートは机に頬杖を突く。
若干、リヒターを見る目がジト目になっているような気がしなくもない。
何しろリヒターは、この三人の中で唯一婚約者がいる。
当然それなりに交流もあり、話の流れでそれがふと出てくることもある。まあその相手がヘルミーナなので、大体その話はトンデモなのだが。
例えそうであっても、独り身であり絶賛片想い中であるジークフリートからすれば、羨望のようなものを感じることもある。
逆に同情を覚えることもあるが。
「その婚約者殿はメルツェデス嬢達と山でキャンプだそうだが、いいのかい?」
からかい半分、残りに同情にやっかみ、その他諸々でジークフリートが問いかければ、リヒターはあっさりとうなずいて見せた。
「ええ、僕と魔術で殴り合ってるよりも余程有意義な夏休みの使い方でしょう。
そんな風に過ごせる友人が出来たことは、本当に喜ばしいことですから」
「なるほど。……なるほど?
まさかそれは、君が怪我をせずに済むから喜ばしいとかそういうことではないよな?」
「それが全く無いとは言いませんが」
そこで一度言葉を切ったリヒターは、少しだけはにかみながら。
「あいつは、メルツェデス嬢達に出会ってから本当に変わりました。むしろ、本当にあるべき姿へと変わった、というか。
だから、この夏彼女らと過ごしてどう変わるのか、楽しみだったりするんですよ」
そう言って笑うリヒターの表情は、なんとも穏やかで優しいもの。
思わず言葉を失ったジークフリートは、『敵わないな』と苦笑しながら溜息を吐く。
「確かに何某かの変化はあるでしょうな、何しろあの名高きプレヴァルゴ家のキャンプなのですから!」
そんな空気に割って入ってきたのが、ギュンターである。
彼が天然でやっているのか計算でやっているのかジークフリートにもわからないが、がらりと空気を変えられたような気がしてならない。
そして、そんなことを気にする余裕も失うようなことを、ギュンターは言っていた。
「まてギュンター、なんだその名高いキャンプというのは」
「おや、ジークフリート様はご存じありませんでしたか。プレヴァルゴ家のサマーキャンプは精鋭揃いのプレヴァルゴ騎士団員すら泣きが入るという地獄のような場所であると。
それだけに、乗り越えたものはまさに一騎当千となる、とも言われておりまして」
「そっちのキャンプなのか!? いや、なんでそんなキャンプにヘルミーナ嬢やフランツィスカ嬢達が行くんだ!?」
ギュンターの熱の入った説明に、ジークフリートはここが書庫であるにも関わらず、思わず大声でツッコミを入れてしまった。
幸い今ここを使っているのは彼等だけだから、誰かに迷惑をかけることはないが。
「ああ、ミーナは広い訓練場で魔術を打ち放題だからと言ってましたね」
「君はそれでいいのかリヒター!」
ふと思い出したように言うリヒターにジークフリートがツッコミを入れるが、キョトンとした表情が返ってくるばかり。
だが、今でこそましにはなったが、ほんの1年ばかり前までのヘルミーナは色んな意味で『マジキチ』だったのだ、それに最も長く付き合わされていた彼の基準がおかしくなったままでも、多少は仕方が無い。
それもわかってしまうくらいに理解力があるジークフリートはそれ以上何も言えず、むしろわかってしまった自分をどうかと思ってしまう始末。
「フランツィスカ様は『力が欲しいから』と真摯な瞳でおっしゃっておられましたな!」
「止めてやれギュンター! それは公爵令嬢が口にしていい類いの言葉じゃない!」
さらにそこにギュンターが追い打ちをかけ、またもジークフリートは声を上げてしまう。
この国では、確かに貴族達は魔物に対して戦う義務を負うし、そのための訓練が令息令嬢には課せられる。
それでも普通の令嬢は後衛を担当し、前には出ない。
だが、メルツェデスという例外に加えて、最近の訓練ではフランツィスカが剣を振るうようになり、それに感化された幾人かの令嬢も剣や槍を手にするようになってきた昨今。
ある意味その最先端を行くフランツィスカが参加するのは、当然の流れだったのかも知れない。
とはいえ感情の面で納得は出来ないから、声を上げてしまったのだが。
「そう言えば……殿下は参加しようとは思われなかったのですか?」
そんなドタバタの中、ふと何かに気付いたようにぽつりとリヒターが零す。
途端にピタリと動きを止めたジークフリートの顔が、じわじわと赤くなっていく。
その表情に見えるのは、羞恥と後悔、だろうか。
「いや、その、な? いかに学友と言えども婚約者でも何でも無い令嬢の旅行に加えてもらうなど、紳士のすべきことではないだろう?」
「つまり現状を打破するために思い切る度胸もなくヘタレたということですな!」
「そこはもうちょっと婉曲な表現をしてくれないかな!? 確かにその通りだけど!」
朗らかに言い切るギュンターへと、ジークフリートは食ってかかる。
しかし同時に、ギュンターの言う通りであることも、彼自身わかっていた。
例えば、メルツェデスの予定を聞き出した上で自身の予定を調整し、何か理由を付けて同行することは、可能ではある。
だが、彼自身がそれを望まないし、恐らくメルツェデスの性格からして、そんなことをしても好感度は下がるだけだろう。
そもそも、今の彼にはそれよりも優先すべきことがあったのだから。
「大体、ラークティス王国秘蔵の書庫を閲覧できるだなんて滅多に無い機会を、無駄にはできないだろう?」
ジークフリートの言葉に、リヒターもギュンターもそれはそうだ、と頷き返す。
ラークティス王国は、ジークフリート達の住むエデュラウム王国の北に接する国で、周辺国の中では最も歴史が古い国だ。
冷涼、あるいはもっと厳しい寒さに襲われることもあるお国柄で、その中で何とか生き延びる為に魔術が発達している国でもある。
ということは魔術関連の知識も集積されているわけで、エデュラウム王国では見ることの無い魔術書が、今彼らがいるこの書庫にはずらりと並んでいた。
「それは、そうですね。……ミーナに知られたら、後からどんな目に遭うやら……」
思わず想像してしまったのか、ぶるりとリヒターが身を震わせる。
多少ましになったとはいえ、ヘルミーナの『マジキチ』ぶりは健在だ。
その彼女からすれば、この書庫は垂涎の的としか言い様がないもの。
そこに行くためにこの国に来たというのに、リヒターはそのことをヘルミーナに言っていないのである。
「そもそも、どうして彼女を連れて来なかったんだ?
こう言っては何だが、彼女ほどの見識があれば、かなり力になったと思うのだが」
もっともと言えばもっともなジークフリートの問いに、リヒターは苦笑しながら首を横に振った。
「確かにあいつがこの調べ物だけに集中してくれたら、とても頼もしいと思うのですが……ほぼ間違いなく自分の興味を持ったものしか調べませんし、そうなると、あの辺りにあった氷の魔術や、あちらの補助魔術にばかりかかりきりになりそうで」
そこまで言うと、リヒターはふと視線を手元に落とす。
今まさに、彼が調べ物をしていた、それへと。
「とはいえ、これもまたあいつの興味を引きそうではあるのですが……」
若干憂鬱そうに言うリヒターが手にした書物。
その表紙には『闇属性魔術概要』と書かれていた。




