公爵令嬢の憂鬱。
「何やってるのよ、あの二人は……」
ひとしきりへたり込んだ侍女やメイド達の介抱を終えたエレーナが、呆れたように呟く。
その視線の先では、いまだにメルツェデスとフランツィスカが何やらわちゃわちゃと騒いでいる。
どうやらあれだけ積極的に出ていたフランツィスカだが、いざ自分がされる側になってしまうと、途端に脆さを露呈してしまったらしい。
まあ、数年もの間思いを募らせていた相手から、下心が無いとはいえ肌に触れられたのだ、例えそれがタオル越しであっても、その刺激は相当に強いだろうことは想像に難くない。
「その、フランツィスカ様も乙女だった、ということではないでしょうか」
「いやまあ、確かに乙女と言えば乙女よ、それはもう乙女チックだったわよ。
でも開き直って自分から『打って出る!』とか言い出しておいて、攻めきれずに反撃を受けて陥落寸前、っていうのはいかがなものかと思うわ」
恐る恐るとクララがフォローを入れてくるが、エレーナの物言いは収まらない。
まさか、フランツィスカがあんな大胆な手を打ってくるとは思ってもいなかった。
更には、偶然が大きかったとは言え普段と違う空気を作り出してしまった。
フランツィスカの思惑通り、とまでは言わないが、エレーナとしては完全に先手を取られた形であり、内心で忸怩たるものを抱えてしまっているのは否めない。
その、普段と少々違う雰囲気に、クララは小首を傾げた。
「あの、エレーナ様……何だがご機嫌がよろしくないようですが」
「う……その、あれよ、これだけの人前で、いくら女同士だからってああいうスキンシップはいかがなものかと思うわけよ!」
「はあ、まあ、確かにちょっとこう、刺激的でしたけど……でも、騎士の皆さんともなさっていたみたいですし」
更なるクララの問いかけに、エレーナはぐっと言葉に詰まる。
別段、クララは問い詰めているわけではない。あくまでも純粋に不思議そうに聞いているだけである。
だが、色々と複雑なものを抱えるエレーナとしては、まさか素直に答えるわけにもいかない。
さてどうしたものか、と迷っていた間に、クララは一つの仮説に辿り着いたようだ。
「あ、もしかしてエレーナ様も混ざりたかったのですか?
ああやって洗いっこすると仲良くなると、メルツェデス様やフランツィスカ様もおっしゃっておられましたし」
「そ、そうそう、そんな感じ? でも、まさか今更、あの空気の中には混ざれないし、そもそも洗い終わった後に言ってもって感じだし?」
汚れない眼差しのクララに、令嬢教育で鍛えられた表情筋を駆使して平静を取り繕いながら、エレーナは答える。
実際、混ざりたくないかと言われたら混ざりたかった。
しかしこれだけ人目を集めた後に、今更エレーナが混ざりにいっても滑稽なだけ。
おまけに、そろそろフランツィスカの背中を流すのも終わりそうだ。
ここで行った日には、自分の背中を流させようとする厚顔無恥な令嬢と言われても否定できないところ。
如何にその主達と親友付き合いしているとは言え、国王派に属する家の侍女、メイド達が多数いる中でそんな振る舞いは避けねばなるまい。
……もっとも、派閥関係なく彼女らの介抱をしていたエレーナのことを悪く言う人間など、恐らく居はしまいが。
この辺り、ある意味エレーナも正しくメルツェデスの親友だ、ということなのかも知れない。
そんな、複雑に色々抱え込んでしまったエレーナへと、クララが何やら決然とした表情で声をかけた。
「あのっ、エレーナ様っ!」
「えっ、な、何、どうしたのクララ?」
色々思考に沈みかけていたエレーナは、はっとした顔になり、慌ててクララへと返す。
普段ならそんな反応に対して急に声を掛けたことを謝るだろうクララだが、今この時は謝罪することもなく、何ならずずいと一歩近づいて来る。
そして、両手にギュッと握ったタオルを見せて。
「その、もしよろしければ、私がエレーナ様のお背中をお流ししてもよろしいでしょうかっ」
ぐぐっと顔を寄せながら、力強く問いかけてきた。
「へ? え、えっと……クララが、私の背中を?」
「はいっ!」
唐突とも言えるその申し出にエレーナが確認がてらオウム返しをすれば、それに被せるようにきっぱりとした返答が返ってくる。
その目を見ても、確かに冗談を言っているような色ではない。
至極真面目な、どちらかと言えば必死すぎるくらいな。
予想外の食いつきに、エレーナは思わず仰け反りそうになってしまう。
「別にそれは構わないのだけど……クララ、あなたは別に私の侍女というわけじゃないんだから、そんな気を遣わなくていいのよ?」
勢いに押されながらもエレーナは、やんわりと窘める。
この申し出だけでなく、クララは何かに付け、エレーナの世話を焼こうとする事が多い。
それこそ侍女のようにかいがいしく、誠心誠意。
もちろんエレーナはそうやってかしずかれることに慣れているのだが、それはあくまでも侍女やメイド達からのもの。
元平民で下級貴族の令嬢、更に後見役として面倒を見ているという立場ではあるが、クララは学園の同級生だし、なんなら将来聖女となるかも知れない存在である。
そんな彼女を使用人のように使うなど、幼い頃はともかく今のエレーナにはとてもできないところだ。
だがエレーナの言葉に対して、クララはふるりと首を振って見せる。
「気を遣って、という訳ではないんです、お仕事とか義務だとか思ってないんです!」
そう言いながらエレーナを見つめるクララの視線は、真剣そのもの。
そして確かに、その言葉に、偽りがあるようには見えない。
「し、下心がないとは言いません。エレーナ様ともっと仲良くなりたい、お近づきになりたいとは思っていますから……。
だからその、エレーナ様が嫌とおっしゃるのであればっ」
「……もう、私は嫌だなんて言ってないでしょ?」
ここまで一生懸命に言われて、絆されない程エレーナは冷たい人間ではない。
むしろ最近では、甘すぎないかと自分自身で心配になってきているくらいである。
だが、ここまで裏表無く、更には本人曰くの下心、エレーナにとっては可愛いものでしかないそれまで明かしながら懸命に言われてしまえば、無碍になどできるわけがない。
「そこまで言うなら仕方ないわ、クララ、お願いするわね」
くすりと笑いながら洗い場の椅子に腰を下ろしつつそう言えば、途端にぱぁっとクララの顔が明るくなった。
「は、はいっ、ありがとうございます!」
「もう、何それ。お礼を言うのは洗われる私の方だと思うのだけど」
「とんでもない、エレーナ様のお肌に触らせていただくなど、本来ならば恐れ多いことなのですからっ!」
揶揄うようなエレーナへと、返すクララは真剣な顔である。
実際の所、エレーナの肌は公爵令嬢の名に恥じぬ程に磨かれた極上品。
それに触れることができる湯浴み係はメイド達の間でも競争率が高いのだが、当のエレーナはそのことを知らない。
今だって、仕方の無い流れとはいえ、クララにその役目を取られた事を歯噛みする程悔しがっている者もいるくらいなのだから。
「まあ、今の立場的にはそう言われてしまうのも仕方ないかしら。じゃあ、お願いするわね」
もしかしたら、こんな風にお願い出来るのも今だけかも知れない。
そう思えば、今背中を流してもらうのも悪くは無いだろう。
何しろ、このまま順調にクララが聖女となれば、背中を流させるなどそれこそ不敬な扱いになってしまうのだから。
少しばかり感傷的になりながら、エレーナはクララへと背中を向ける。
……だから、その背中を見つめるクララの目に何やら熱っぽいものが滲んでいたことに、気付かなかった。
「では、失礼致しますね」
一声かけてから、クララはエレーナの背中へとタオルをあてがう。
そして、ゆっくり、力加減に気をつけながら動かせば、程よく心地よい刺激がエレーナの背中へと伝わってくる。
「んっ……中々上手じゃない、クララ」
「ありがとうございます、従妹の面倒を見る事が結構多かったので、そのおかげかも知れませんね」
「なるほど、この手つきは子供のお肌にも優しそうだものね」
ドタバタしていたメルツェデス達とは違い、ほのぼのとした会話をしながらエレーナは背中を洗われている。
『そうそう、本来はこうあるべきなのよ』とエレーナは暢気に考えているし、きっとメルツェデスもそう考えていただろう。
だから、メルツェデスはあんなことになったのだが、あれはあれで『たまには良い薬だ』と少しばかり思ってしまったのも、エレーナが抱える複雑さの一つ。
他にも、羨ましいだとか妬ましいだとか私もだとか、色々な思いが絡み合っていたのだが。
クララに背中を洗われている内に、少しずつそれも軽くなってきた、ような気がしなくも無い。
「もう十分よ、ありがとう、クララ」
「あっ、そうですか? 私こそ、貴重な体験をありがとうございます!」
エレーナの声に、一瞬だけクララが残念そうな顔をしたのが、果たしてエレーナには見えたかどうか。
ともあれクララは大人しく引き下がり、泡がまだ残るエレーナの背中を流すとタオルを桶ですすぐ。
そんなクララを見ていたエレーナが、ふと小首を傾げ。
「……そういえば、クララもまだ洗ってなかったわよね。私が背中を流しましょうか?」
と、エレーナ自身は何の気なしに尋ねたのだが。
「はい? と、とんでもないです! わ、私がエレーナ様に流していただくなど、恐れ多いどころの話じゃありません!!」
全力で手を振って、何なら1mばかり後ずさるクララ。
その反応に驚いたエレーナは幾度も瞬きをして、それから、少々残念そうな顔になる。
「残念だわ、折角私も距離を縮めようと思ったのに」
「その縮め方だと、私の寿命が縮みます! 色んな意味で!」
精神的に、あるいは社会的に、もしくは直接的に。
周囲から様々な視線を浴びせられ色んな意味で危機感を感じたクララは、ぶんぶんと首を振りながら固辞する。
流石にエレーナも無理強いするつもりはなく、仕方ない、と諦めた時だった。
「ならば私がクララの背中を洗ってあげよう」
「ヘルミーナ様!?」
そう、先程まで一人大人しく身体を洗っていたヘルミーナが、クララの背後に現れたのだ。
「私はさっき自分で洗ったから、流してもらう必要も無い。更にエレンよりも身分が低い。
ならば私がクララの背中を洗うことになんの問題も無いはず」
「大ありですよ!? 侯爵令嬢様にそんなことさせたら、やっぱり大問題です!」
まだ、後見人であり同じ貴族派のエレーナが洗うなら、派閥内の交流と強弁することもできなくはない。
しかし、対立派閥のしかも侯爵令嬢に、などとなれば、ジタサリャス男爵家そのものが攻撃対象になる可能性すらある。
普通ならば。
「大丈夫。私の奇行は大体の人が知るところだから、またいつもの暴走かと思われるだけ。我ながら便利」
「全然大丈夫でも便利でも無いですよ!?」
実際、ヘルミーナが魔術の実験で好き勝手やらかすのは周知の事実。
更にクララのことを実験対象として気に入っていることも割と知られてしまっている。
政治的な問題になることを避けるためとなれば、エレーナも証言することは厭わないだろう。
「ということで安心して私に背中を預けて、その肌を触らせなさい。そしてその魔力を観察させなさい」
「ちっとも安心できないこと言わないでくださいぃぃぃぃ!!」
クララは何とか逃れようとするも、今は足下の濡れた、人が多く居る洗い場だ、いつものように走り出すことなど出来るわけも無く。
ヘルミーナに絡みつかれた哀れなクララは、その背中を存分に洗われてしまったのだった。




