きっとこれが、必死というもの。
ついに、その時が来た。
先手、フランツィスカ。
「じゃあ、まず私からさせてもらうわね」
そう言うとフランツィスカは、簡素な椅子に腰掛けるメルツェデスの背後へと回った。
背後の気配に敏感なメルツェデスだが、流石に今この時ばかりは『わたくしの背後に回らないでくださいまし』などということにはならない。
安心して背中を向けてくれている、そのことがまずフランツィスカには嬉しい。
だが、その喜びはすぐに別の感情へと置き換わる。
背後に座れば、先程よりも更に近く、文字通り手の届く距離にあるメルツェデスの背中。
肩のラインは元より、あの全ての物を一刀両断してしまいそうな威力を生み出す背筋の盛り上がりまでよくわかる。
ボディビルダーのごとく凹凸激しくキレキレに仕上がっているわけではない。
しかし、その背中が描くカーブからは、底知れない力強さが感じ取れた。
これが優美と言って良いラインから逸脱することなく、その内側に収まっているのだから、どこか理不尽さすらも感じてしまう。
「……綺麗な背中してるのね、メルって」
フランツィスカは、思わずそう呟いた。
自分の背中を見たことは無いが、恐らくメルツェデスのそれとは違っているのだろう。
他人の背中もそうそう見たことは無いが、そのいずれとも違っている背中。
何となく。
何となく、触れたくなって。
無意識のうちに、フランツィスカはメルツェデスの背中を指でそっとなぞっていた。
「ひゃんっ! ちょ、ちょっと、フラン?」
「はうぁ!? ご、ごめんなさいメル! つ、ついうっかり!」
完全に予想外だった刺激にメルツェデスが声を上げれば、更に予想外だった反応にフランツィスカは狼狽し、平謝りする。
そんな声を聞かされたフランツィスカも、離れたところで見ていたエレーナ達も顔が真っ赤になってしまうのを抑えられない。
平然とした顔をしているのはヘルミーナくらいのものである。
そう、ヘルミーナくらいのもの。そんな声を上げてしまったメルツェデスもまた、ほんのりと頬を染めてしまっていた。
「うっかり、でくすぐられたら、いくらわたくしでもたまったものじゃないわよ?」
「本当にごめんなさい、あんまりメルの背中が綺麗なものだから……」
「そ、そう言われると……嬉しいような恥ずかしいような、それでもどうかと思うような……複雑な気分になるわね……」
弁明にもならないフランツィスカの言い分に、メルツェデスは困ったような苦笑を見せる。
一般的に言われる美をそのまま形にしたような身体をしているフランツィスカから、こうも手放しで褒められるのは流石に面映ゆい。
自分が一般的な令嬢の体つきから逸脱している自覚があるだけに、尚更。
元より誰かに好かれることなど考えることもなく、ただ死の未来から逃れるために。
後には、理不尽に涙する誰かのために。あるいは、縁結ばれた友人達のために。
精進に精進を重ねた先にそう評価されたことは、メルツェデスの心に何とも言えない高揚感と、安堵を与えてくれた。
「この私の理性を揺るがす程の背中をしているということなのだから、誇っていいと思うわよ?」
「何その言い方。ふふ、でもフランにそう言われると、悪い気はしないわね」
この僅かな時間の間に立て直したフランツィスカの精神力は、ある意味大した物と言って良いだろう。
そんなフランツィスカの物言いに、メルツェデスも思わず笑いを零してしまうくらいなのだから。
もっとも、フランツィスカ直属の侍女などは、『さっきから理性揺るぎまくりやろがい』と言いたげな目を一瞬だけ向けたりしたが。
ともあれ、一瞬妙な空気になりかけたところを、その元凶であるフランツィスカが何とかした形になったところで、改めてフランツィスカはタオルを手に取った。
「じゃあ、仕切り直しというか、改めて……背中、流させてもらうわね?」
「ええ、今度こそ、ちゃ・ん・と、お願いするわね?」
「もう、わかってるわよ!」
悪戯な笑みと共に『ちゃんと』を強調されると、揶揄われているとわかっていても頬が赤くなってしまう。
いっそ仕返しとばかりに思い切り力を込めてこすってあげようか、とも一瞬だけ思うが、それもメルツェデスの背中をもう一度見るまでのこと。
真っ白に輝くその肌を見れば、力任せにこすって傷でも付けようものなら罪悪感で押しつぶされそうだとまで思う。
結局の所、自分はメルツェデスには敵わないのだとフランツィスカは若干諦めにも似たことを考えながら、タオルをそっと背中に当てた。
「……こんな感じでどうかしら」
「ん……そうね、丁度いい力加減だと思うわ」
ゆっくりと丁寧に、壊れ物を扱うかのように。それでいて、しっかりと汚れが落ちるように。
バランスを考えながらの力加減は、どうやらメルツェデスのお気に召したらしい。
時折零れる気持ちよさそうな吐息は、フランツィスカにしか聞こえない程度の小さなもの。
しかしそれは、彼女の理性をガリガリと削っていく甘やかなもの、にフランツィスカには聞こえる。
いや、少しだけ離れたところで聞いているエレーナも顔を赤くしているし、何ならクララも、侍女やメイド達まで頬を染めている。
やはり、平然としているのはヘルミーナくらいだ。
彼女は侍女の手が止まってしまったので、自分で身体を洗い出している。
この辺り、彼女もまた丸くはなっている。マイペースなのは相変わらずだが。
そんな周囲の空気を感じ取る余裕もなく、フランツィスカは一心不乱に、これ以上無く丁寧に、手を動かしている。
矛盾しているかのような表現だが、彼女の表情からすればそれが一番近しい言い方、かも知れない。
まだなんとか鼻息が荒くなるのは抑えている。目が血走ったりもしていない。
しかし、その目はメルツェデスの背中を凝視し、全ての感覚を総動員してその肌の感触を、彼女の息づかいを感じ取り、最善の力加減で背中を洗うことに集中している。
もしかしたら、彼女は今この瞬間、ゾーンと言われる極限の集中状態に突入していたのかも知れない。
両手で持ったタオル、それに繋がる指先が感じ取る感覚。
立てた泡が弾ける衝撃すらわかるようなそれは、メルツェデスの肌の様々な情報を伝えてくる。
筋肉による隆起は勿論、きめ細やかな肌の感触はもちろんのこと、僅かに生えている産毛やそれが生じる本当に小さな毛穴さえ、フランツィスカの指先には伝わってくるような感覚。
恐らくエレーナあたりに語って聞かせれば「頭湧いてるの?」と言われかねない、彼女だけの感覚。
だがしかし、今それは、彼女に取っては揺るがせようのない真実であった。
そう、これは最早真理の探究。
フランツィスカにとっては宗教的行為ですらあるのだ。
だからこそ一心不乱に、しかし、崇拝対象を扱うかのように丁寧に、フランツィスカは手を動かす。
やがてその恍惚故に時間感覚すら失われ始め、何か見たことも無いものが見える、そんな予感が生じたその時。
「んっ、ありがとう、フラン。もう十分よ」
と、ご本尊たるメルツェデスから声がかかり、フランツィスカは我に返って手を止めた。
ほとんど呼吸も止まっていたのか、急に息苦しさを感じて大きく息を吐き出し、更に大きく吸う。
途端に流れ込んでくるのは石鹸の匂いと、もう一つ、何かとてつもなく甘い匂い。
ふと見やれば、ツヤツヤと輝かんばかりに磨かれたメルツェデスの背中。
やり遂げた。
不意に、フランツィスカの脳裏に、そんな言葉が浮かぶ。
そう、彼女はやり遂げたのだ、メルツェデスの背中を綺麗に洗うという行為を。
そこに何の意味があるかなど彼女にすらわからないのだが、それを今更気に掛けるような余裕もなく、何かを達成したという高揚感をひたすらに感じてしまう。
だが、その恍惚とも言える状態は、長くは続かなかった。
「じゃあ、次はわたくしがフランの背中を流すわね」
当たり前のように言うメルツェデスの言葉に、フランツィスカは固まった。
言われて見れば、洗われたからお返しする、という当たり前の行為である。
だがしかし、到達してはいけない境地に辿り着きかけていたフランツィスカにとってそれは、悪魔の福音にも似た何か。
その先には、間違いなく甘美な世界がある。
同時に、踏み込んでは二度と戻れない予感がする。
それは予感を通り越えた確信であり、故にフランツィスカは踏み切れない。
踏み切れなかった。
そして、現実は非情である。
「ふふ、流石のフランも、こういうのは不慣れみたいね。でも、遠慮無く……」
フランツィスカが迷っている数秒の内に、メルツェデスが背後に回っていた。
そして、しっかりと泡立てられたタオルが、フランツィスカの背中に触れ、ゆっくりと動かされる。
「あふぅん♪」
身構えていなかったフランツィスカは、何とも無防備な声を上げてしまった。
それは甘やかでもあり、艶めかしくもあり……耳にすることはドラゴンの泣きべそ並みに稀であろう声。
更に浴室という声がよく響く場所でそれが、放たれてしまった。
「ちょ、ちょっとフラン!?」
「はっ!? や、ち、違うの、これは違うの!」
当事者二人は大慌て。
その周囲で聞いていた、聞いてしまった人々は顔を真っ赤に染め、あるいはついにのぼせ上がってしまったか、ふらふらとへたり込む。
そんな周囲の人をクララとエレーナが慌てて魔術で介抱し、ヘルミーナは一人身体を洗い終わっていた。




