まずは一服、背筋も凍る。
「さて、早速訓練に、と行きたいところですが、流石にお疲れでしょうし山の日暮れは早いものです。
湯浴みの用意もさせておりますし、今日の所は汗を流してゆっくりなさってください」
思わず叫んでしまったエレーナに気を遣ったのか、それともグロッキー状態のヘルミーナを心配したか。
いずれにせよ、責任者であるガイウスがそう言うのだから、それに従うのが道理。
エレーナとしても、いまだ混乱する頭を整理するためにも、まずはさっぱりしたかったという気持ちもある。
「ありがとうございます、プレヴァルゴ様。お言葉に甘えまして、お湯を使わせていただきますね」
「いやいや、こちらこそ個室の浴室をご用意できず申し訳ございません。何分、元々が軍の訓練施設でして」
淑やかに頭を下げるエレーナへと、ガイウスが申し訳なさそうに言う。
そもそもここは、プレヴァルゴ伯爵領の山岳地帯にある、プレヴァルゴ家直属騎士団及び歩兵団の訓練施設である。
もうこの時点で、バカンス的キャンプでないことは言うまでもない。
それはともかく、そんな施設であれば、野郎共が汗を流すための大浴場しかないのは必然である。
いや、大浴場があるだけまだまし、かも知れない。
「元々水が豊富なところだし、山が近いから薪にも事欠かないし、最近炭鉱も見つかって石炭でもお湯を沸かせるから、それこそ湯水のようにお湯を使ってもらって構わないわよ?」
「地味に凄いこと言ってるんだけど、わかってるかしら、メル。いえ、わかってて言ってるのよね、悪意なく」
ニコニコとした笑顔で言う親友へと、エレーナは溜息を吐いて返す。
水資源が豊富で森林資源もあり、その上石炭まで採掘することができる、武力において最強を誇る伯爵家。これで鉄鉱石の取れる鉱山まであれば役満である。
その軍事的・政治的価値は計り知れず、一歩間違えればプレヴァルゴ家は権謀術数の渦中に叩き込まれ、綱渡りを強いられるところだ。
もっとも、学生時代から現国王と友人付き合いがあるガイウスの忠誠心は広く知られており、彼自身の政治手腕、性格などもあって、プレヴァルゴ家にちょっかいを出すような勢力は、今は、ない。
しかし、ガイウスが全盛期を過ぎれば。あるいは、次代へとなれば。
そこまで考えて、エレーナは小さく首を振った。
四十も近いと思われるガイウスは未だ壮健、むしろいつまでも全盛期を続けそうな勢い。
おまけに、次代はメルツェデスと、その手ほどきを受けているクリストファーである。
この陣容に対してちょっかいを出すなど自殺行為に等しいし、それがわからぬような家はそもそも問題にならない。
心配するだけ無駄だし、局地的に鈍感だが基本的に極めて鋭いメルツェデスがわかっていないわけもない。
そう理解してしまえば、エレーナにできることなど、ため息を吐くことくらいである。
「え、もしかして、話に聞く大浴場というものですか?」
「ええ、その通りよ。ああ、もしかしてクララさんは初めてかしら」
「はいっ、私は王都のお家から通っていますから、寮のお風呂に入ったこともございませんので……その、なんというか、憧れのようなものがありましてっ」
クララの返答に、メルツェデスは納得したように頷いた。
王都は水道下水道もある程度整備されている世界なのだが、それでも庶民向けの大規模温浴施設などはなかったりする。
そしてクララが養子に入ったジタサリャス男爵家は領地を持たず、王都警備を任務とする武官の家。
故にその邸宅は王都内にあり、学園まで通学するのも問題無い距離。
そのため寮に入ることなく、その大浴場を堪能することも無く、男爵邸の家風呂を使うのみな生活をしている。
いや、それでもかつての庶民暮らしからすれば贅沢な暮らしなのだが。
ともあれ、彼女は大浴場というものを経験したことがなかった。
であれば、期待に目を輝かせるのも仕方の無いところだろう。
「王都でプレヴァルゴ邸のお風呂を何度か使わせてもらったことがあるけれど、あれくらいなのかしら」
「ええ、大体あれくらいと思ってくれていいわよ」
返ってきた答えに、フランツィスカもなるほどと頷いて返す。
正確に言えば、幼少期に何度も、なのだが。
流石に最近は使わせてもらうこともないが、学園に入る前は幾度もプレヴァルゴ邸で訓練に励み、その後大人数で使うためのお風呂を皆で借りたものだった。
あれはあれで、大事な思い出としてフランツィスカの胸に残っている。
いや、決して邪なものではなく。
「お風呂……入りたい……でも溺れそう……」
「はいはい、介助してあげるから、ちゃんと入りなさいな。お湯に浸からないと却って疲れが残って、明日からの魔術演習に参加できないわよ?」
「くっ、それはいやっ、それだけはいやっ」
いまだフランツィスカに背負われたまま、ぶんぶんとヘルミーナが首を振る。
その激しい動きを、当然見ることも出来ないのにひょいひょういと頭を動かしてかわすフランツィスカの動きを見て、メルツェデスの目が僅かばかり細まる。
あの『魔獣討伐訓練』の途中から、フランツィスカは人や敵の気配をかなりの精度で感じ取れるようになっていた。
それが、こんな何気ない日常の場面でも発揮されていることに驚きと喜びを感じてしまっているのだ、メルツェデスは。
あるいはそれは、強敵と書いて友と読む感覚なのかも知れない。
ちなみに、未だに誰も、回復魔術を使えばいいのではと教えていないし、ヘルミーナも気付いていない。
そう、あれだけお人好しなクララですら、自己保身のために教えていないのだ。
決して嫌われているわけではないことだけは、ヘルミーナの名誉のために付記しておく。
ただ、疲れて大人しくしているしかない時の方が、色々な意味において平和というだけのことで。
「じゃあ、まずは皆で入りましょうか。ああ、侍女さん達も入れるくらいには広いですから、ご一緒にいかが?」
メルツェデスの言葉に、フランツィスカ達に付き添っている侍女やメイド達がぱっと顔を輝かせる。
このフランツィスカやエレーナの専属だけあって、なんとかついて行けるだけの体力を持っている彼女らではあるが、さすがにこの山道は辛かったらしい。
また、魔力の成長限界を考えても、高位貴族であるフランツィスカ達に比べて低位貴族や平民出身である彼女らはどうしても見劣りし、運動方面に回せる魔力はさらに限られる。
結果として、主の前だからこそしっかりと体裁を保ってはいるが、彼女達の限界は近かったのだ。
「そうね、エレンとミーナさえよければ、私は構わないわよ」
「この状況で拒否できるわけないじゃない。むしろありがたいくらいだわ」
「うん、ついでに介助もしてもらえるから、賛成」
フランツィスカの問いかけに、エレーナは是非も無く、ヘルミーナも己のためもあって即座に賛成する。
もちろん、平民出身であるクララが反対するわけもない。
「では……申し訳ございませんお父様、お客様もいらっしゃいますので、お先にお風呂をいただきます」
「ああ、もちろん構わんとも。ギルキャンス様やエルタウルス様、それからピスケシオス様やジタサリャス嬢に失礼のないようにな」
メルツェデスの謝罪に、ガイウスは笑って手を振る。
元より彼が風呂を勧めたのだ、ここに来てそれをひっくり返すわけもない。
ついでに言えば、上位貴族である公爵家侯爵家のご令嬢方をないがしろなど出来るわけもないし、男爵令嬢ではあれど聖女候補と目されるクララを粗末に扱うわけもない。
という大人の事情も相まって、ガイウスはメルツェデス達をにこやかに見送った。
もちろん、クララは大荷物を一人で抱え、フランツィスカはヘルミーナを軽々と背負って。
その後ろ姿を見送り、視界から消えて、それからさらに念のために、一分ばかり。
大丈夫そうだ、と確認してから、すぅ、とガイウスが一つ息を吸い込んだ。
途端、それまで静かに控えていた騎士や兵士達が、びくりと身を震わせる。
ピリ、と少しばかり張り詰めた空気の中、バッとガイウスが、その隣に立つクリストファーが、騎士達へと向き直った。
その表情こそいつものものだったが、纏うオーラが明らかに違う。
それは、この訓練に参加した経験のある人間には馴染みのものではあるのだが、何度味わっても慣れることがない。
まして初めてそれを経験する者は、既に腰が抜けそうですらある。
そんな空気をわかっていないのか敢えて無視しているのか、ガイウスは気にした様子もなく言葉を発した。
「注目!!」
その号令に、よく訓練されている彼らは、ビシッと背筋を伸ばし直立不動の姿勢を取る。
殺られる。
少しでも気を抜いたら、殺られる。
その場にいた全員が、勘の鋭い鈍いを問わず、そう直感した。
呼吸すら躊躇われる空気の中、全員の姿勢を睥睨したガイウスは、言葉を続ける。
「諸君。今聞いたように、これから我が娘メルティと共にその友人方が入浴をされる。
今回は公爵家のご令嬢がお二人、侯爵家のご令嬢がお一人。更に聖女候補とされるご令嬢もお一人おられる。
これが意味するところがわかるか?」
問いかけに、幾人かがゴクリと唾を飲み込んだ。
もちろんそれは若さ故の劣情を刺激されたから……ではない。
それを僅かでも滲ませれば即座に死が訪れる、その予感に恐怖したからだ。
「もちろんでございます! 我ら一同、湯浴みの音も匂いも感じ取れぬだけの距離を保ち、待機いたします!」
ガイウスの副官である壮年の騎士が、精一杯の声を張り上げて応答する。
この空気の中でなお声を張り上げられるのは流石であり、こんなことが出来るのは彼くらいのものだろう。
それ以外の騎士、兵士達は、コクコクとひたすらに頷くことしかできない。
これは、メルツェデスが訓練に参加するようになってから毎年行われている年中行事的なものではある。
だが、毎年のことだろうと、本気の殺気を滲ませるガイウス相手に慣れることが出来る者など、この場にはいない。
更には表には出さないようにしていながらシスコンを拗らせたクリストファー、いつの間にかその背後に現れ淀むような殺気を滲ませるハンナがいるのだから、なおのことだ。
「うむ、わかっているのならばよろしい。総員、この場で待機!
なお、体力が余っているものは自主トレを許可する!」
「「はっ、かしこまりました!!」」
ガイウスの言葉に、見事に揃った声が返ってくる。
と思えば、ほぼ全員が、その場でスクワットや腕立て伏せを始めた。
恐怖は身体を縛り、縮こまらせる。
逆を言えば、身体を動かせば、恐怖は和らぐ。
そんなわけあるかい! と突っ込んでくれる者はここにはおらず、彼らはひたすら恐怖を薄めるために身体を動かす。
結局の所、これだけ高度な規律を持つプレヴァルゴの兵団ではあるが、その根底は脳筋なのだった。
だからこそ、知性とモラルを持つ脳筋だからこそ、彼らは恐ろしいのだが。
「うむ、では俺達も配置につくか」
「了解です」
「かしこまりました、旦那様」
ガイウスの声に、クリストファーとハンナが頷く。
彼らの配置とは、つまり大浴場近辺での見張りである。
娘の、姉の、お嬢様の入浴を邪魔する不埒者など許さんと昂ぶる殺気を、ガイウスにクリストファー、そしてハンナも、器用に大浴場の反対側にだけ放つことができるのだ。
これによってメルツェデスの入浴の安全は守られ、その殺気に当てられて周囲の動物達は一目散に逃げていく。
そして近隣の村人は逃げ出してきた獣を捕らえ、有り難くいただく。
これが、一種の風物詩になっていたりするのだが、そのことをメルツェデス達は知る由も無かった。




