きっと、忘れられない夏になる。
そして、そんなフランツィスカとエレーナのお茶会から二週間ばかり後。
「どうして、こうなったの……?」
エレーナは、誰にともなく呟く。
彼女の目の前にそびえるのは急峻な山々。
夏の始まりだというのに彼女の肌を撫でる風は涼しく、例年ならば暑くても脱ぐことの出来ない長袖のドレスに文句の一つも言っていたというのに、今は騎士服にも似た訓練用の服に身を包み、色々な意味で言葉をなくして突っ立っていた。
新鮮な木々の香り、むわっとするような草いきれ。
それ自体は先日の訓練で味わってはいたはずだが、あの時は訓練の緊張感で感じる余裕もなかったのか、全く覚えのない匂いとして感じている。
もちろん、始まりは先日のお茶会だった。
フランツィスカの問いかけ、「地獄を見る覚悟はあるか」というそれ。
その意味するところが、今の状況である。
「ここの空気も一年ぶりねぇ……やっぱり山の空気は新鮮で美味しいわ」
エレーナのすぐ隣で、メルツェデスがウキウキとした表情を見せていた。
エレーナは知っている。
彼女がこんな表情をする時は、大概ろくなことにならないと。
「まあ、すぐ血と汗と埃にまみれた匂いで満たされるんだけどね……。
あ、エレーナ様、ここまで割と強行軍でしたが、大丈夫ですか?」
更にその隣、かなりの大荷物を背負ったクリストファーがエレーナを気遣って声を掛ける。
その声に揺らぎはなく、よくよく見れば、呼吸も全く乱れていない。
「え、ええ、大丈夫です、クリストファー様。……なんというか、メルはもちろんですけど、あなたもたくましくなられて……」
若干呆然としていたエレーナは、その声に慌てて返事をする。
その視線の先に居るクリストファーは、流石に一歳下なだけあって、まだ若干の幼さは残っていた。
線も細く、美少年と言って良いだけの顔立ちと佇まい。
だというのに、その立ち姿には力強さと貫禄がどこか感じられた。
いや、その身体の幅に倍するような荷物を背負っているのだから、そう感じるのも当たり前と言えば当たり前なのだが。
「そう言うエレンだって、中々のものよ? ここまでいつも通りの休憩で来れたのは、嬉しい誤算だわ」
と、エレーナの心境を知る由もないメルツェデスは実に嬉しそうである。
そんな彼女の笑顔を前にしては、流石のエレーナも言いたいことが言えなくなってしまう。
「いや全く、うちの連中に合わせた行程に、まさか、ここまでしっかりとついてこられるとは。
流石、ギルキャンス家のご令嬢と言ったところでしょうか」
そう嬉しげに笑うのはメルツェデスの父、ガイウス。
こちらも同じく大荷物を背負い、全く息の乱れなども生じていない。
「父さん、多分それ、褒め言葉になってないと思うよ?」
「うん、そうか? メルティはこう言ったらかなり喜んだものだが……」
「姉さんを基準に考えるのは止めようって、こないだ言ったばっかりだよね!?」
などと繰り広げられる微笑ましい親子のやりとりにも、エレーナは愛想笑いの一つも浮かべられない。
……微笑ましいかどうかは、それぞれの感受性に拠るかも知れないが。
「流石プレヴァルゴ家の皆様、これだけの行程で息を切らせもしていないわ」
「そういうフランも切れてないけどね!?」
いつもの調子でにこやかに言うフランツィスカへと、思わずエレーナは食ってかかった。
流石に親友の家族といえど、むしろだからこそ、こんなツッコミを入れるには躊躇われる。
結果として、ここまで溜めに溜めたフラストレーション的な何かのはけ口を求めていたのもあってか、その舌鋒は鋭い。
しかし、残念ながらフランツィスカもこのくらいであれば慣れたものであるらしい。
……慣れているのもどうかと言えばそうなのだが。
「ていうかフランこそ! なんでその状態でついて来れるわけ!?」
ツッコミを入れながら、エレーナの視線がフランツィスカの背後へと向く。
その背中には、すっかりグロッキー状態になったヘルミーナが背負われ、落ちないようにとくくりつけられていた。
「これも鍛錬と思って背負ってみたのだけど、案外何とかなったわ」
「何とかなったわ、じゃないわよ、なんで何とかなるの!?」
ギャイギャイとツッコミを入れまくるエレーナへと注がれる周囲の視線は暖かい。
それはさながら、懐かしいものを見るような目線でもあり。
つまりは、こんな時代もあったなぁ、という類いのものである。
そんな、常軌を逸した体力の持ち主達に囲まれて孤軍奮闘するエレーナへと、そっと寄り添う人影があった。
それは、光属性の魔力を持ち聖女候補と目され、目下エレーナの庇護下にあるクララである。
「エルタウルス様は、最近更に身体能力が向上されてましたから、それもあるかも知れませんね」
「何他人事のように言ってるの、クララ。あなただって十分おかしいんだからね!?」
言いながら、エレーナの視線がクララの胸元、らしき場所へと注がれる。
普段ならば不躾と言われるだろう視線も、今ばかりはそう言う者はいないだろう。
何しろそこには、大きな背負い袋があったのだから。
つまり、途中でダウンしたヘルミーナをどう運ぶかとなった時に同性であるフランツィスカが名乗りを上げ、その荷物をどうするかとなった時にクララが名乗りを上げた結果、クララは自分の背負い袋とフランツィスカのとでサンドイッチ状態になっていたのだ。
もちろんそれはグロッキー状態の人間一人よりは軽いが、しかし人間の身体に掛かる負荷としてはバランスが少々取りにくく、体幹への負担は大きいはず。
だというのに、クララもまたここまで問題無くついてきてしまっているのだ。
「なんでよ、どうしてこうなってるのよ~~!!」
エレーナが叫べば、その声がその数秒後にこだまとなって返ってきて、ますますここが、山深い僻地であることを思い知らされる。
あの時、『地獄を見る覚悟はあるか』と問われ、それ以上の説明もなかったにも関わらず、一瞬考えた後にエレーナは頷いた。
それが、間違いの始まりだった。
話は、フランツィスカとエレーナ二人のお茶会の翌日に遡る。
夏期休暇も迫り、どんな休みを過ごすかで盛り上がり、あるいは浮き立つような空気になっているような教室の中、いつもの面々が顔を合わせていた。
そしていつものように談笑していたところで、不意にフランツィスカが問いかけた。
「そう言えば、みんなは夏期休暇でどこかに行くの?」
その問いかけに、一瞬皆がそれぞれに顔を見合わせて。
「私は魔術の研究以外の予定はないけれど」
「さ、流石ね、ミーナ……他の人は?」
いきなり出鼻を挫かれた形になったというのに、めげずにフランツィスカは問いを重ね……その視線が、メルツェデスへと向けられた。
わたくし? と小首を傾げながらも、メルツェデスは律儀に口を開く。
「わたくしは例年のように、山へお父様達とキャンプに行く予定よ?」
でもそのことは知っているでしょう? と言いたげに、メルツェデスは不思議そうにしている。
そして。
その顔と言葉と、フランツィスカの振りに、エレーナは『地獄』の意味を悟った。
「ちょ、ま、まさかフラン……」
「いいわね、山でキャンプ! ねぇメル、今年は私も参加させてもらえないかしら」
「フラン!?」
嫌な予感を確認しようとしたエレーナの弱々しい声を無視して参加を希望するフランツィスカに、思わずエレーナは悲鳴のような声を上げた。
夏の、山の、キャンプ。
それが、普通の一家のものであれば、夏のバカンスとしては定番の一つだろう。
「わぁ、山でキャンプだなんて、楽しそうですね。いいなぁ、私はずっとこの街でしたから、海にも山にも行ったことがなくて」
この世界では、まだまだ交通機関の発達は十分でなく、また平民の暮らしも決して余裕があるものではないため、夏にバカンスと洒落込むなどは貴族だとか一部の人間だけに許された特権である。
もちろんこの春まで平民だったクララも例外ではなく、バカンスらしいバカンスになど行ったことはない。
となれば、このお節介が放っておくわけもなかった。
「あら、でしたらクララさんも一緒に来ます? もちろんエレンも一緒に」
「えっ、わ、私も!?」
メルツェデスの誘いに、エレーナは思わず上擦った声を上げる。
メルツェデスの、プレヴァルゴ家の、夏の、キャンプ。
それが意味するところを、付き合いの長いエレーナは、もちろんフランツィスカも、理解していた。
その上で、フランツィスカは参加すると言っているのだ。優雅な時間だとか貴族らしいバカンスだとか様々なものを犠牲にする覚悟で。
『そういうこと?』とエレーナが目で問いかければ、こくり、フランツィスカが小さく頷いて返してくる。
となれば、最早エレーナに断る選択肢はない。
「何、クララも行くの? 山なら、人に迷惑かけずに魔術撃ち放題?」
「流石にどこでもかしこでも、ではないけれど、大きな演習場があるから、そこでなら割と大丈夫よ」
「なら、スペル・エンハンスの実験をやる程度は問題無い、と。ならば私も行く」
「ミーナまで!?」
更にはヘルミーナまで行くというのだ、これでエレーナだけ抜けるなどということは、ありえないとすら言える。
そこからはトントン拍子に話は進み、どうしたわけか父であるギルキャンス公爵の許可まで取れてしまった。
そして。
結果として冒頭の光景となってしまったのだった。
「どうして、どうしてこうなったの~~~~!!!!」
エレーナが叫べば、またこだまが返ってくる。
その響きは、どこか悲痛なものがあった。




