因果。
「……クララ、今のは何。何故あなたはそんなことができるの」
「うひぃぃぃ!?」
コルディア伯爵令息を治療できたと、ほっと一息吐いたその次の瞬間。
ぬるりという擬音がぴったりなくらいにヘルミーナが足下にまた絡みつき、クララが悲鳴を上げた。
彼を治療するためにそれなりの距離を移動したというのに、ヘルミーナはやってきていた。恐らく匍匐前進で。
「調べさせて、いや調べさせなさい、あなたの身体を隅々にいたるまで」
「やっ、えっ、ちょ、待ってくださいピスケシオス様、おやめくださいぃぃぃ!?」
絡みついた勢いでそのままずりずりとクララの脚から這い上がろうとするその姿は、大蛇を思わせるもの。
硬直してしまったクララは、抵抗することもできなかった、のだが。
「いい加減にしろ、っていうか立って普通に歩けばいいだろ!?」
すぐに追いついたリヒターが、文句を言いながらヘルミーナを引き剥がす。
やはり体力は回復していないヘルミーナは、あっさりと引き剥がされた。
じたじたと、腕を振り回し……振り回そうとしながらへにょへにょと動かして、執着だけは見せながら。
残念なことに、体力だけは彼女の言うことを聞いてくれないらしい。
「……ミーナ、回復魔術で自分の体力を回復させたらいいんじゃないの?」
「しっ、そこに気付かせたらいけないわ」
それを見ていてぼやくエレーナを、メルツェデスが小声で諫める。
魔術に関してだけはひたむきで真っ直ぐなヘルミーナは、そのせいで時々効率よくは動けないことがあったりなかったり。
全てを効率よくいかせるとそれはそれで何かがまずい気がしているメルツェデスは、わざとそれを邪魔するようなことをしていたりするのだが、それがある意味正しいことを、神ならぬ身の彼女は知る由も無い。
ともあれヘルミーナの追求を何とか断ち切ったところで、コルディア伯爵令息が身を捩り、意識を取り戻した。
「うぁっ……、わ、わぁぁぁぁ!?」
意識を失う直前の光景がぶり返したのか、令息は悲鳴を上げながら、ガバッと身を起こす。
ぶわっと汗を吹き出しながら周囲を見回して。
「あ、あああああああ!?」
ギュンターの姿を認めた瞬間に、取り繕う余裕もなく悲鳴を上げながら後ずさり、距離を取る。
尻餅をついたような姿勢のまま後ずさるその様子はとてつもなく滑稽なものだが、そんなことを考える余裕もなく、必死に。
「コルディア殿、勝負はあった、ということでいいな?」
「え? は、はい、もうわかりました、よくわかりましたから!」
「よろしい。怪我は治ったはずだが、念のため医務室で確認してもらおう。誰か付き添ってやってくれ」
歩み寄ったジークフリートが確認のために声をかければ、コルディア令息はコクコクと壊れた玩具のように何度も頷く。
そしてジークフリートの呼びかけに応じた数名の同級生に伴われ、医務室へと大人しく連れられていった。
「……少々やりすぎましたか。あれでは次の授業は出られないでしょうし、今後にも障りが出てしまいそうです」
令息がいなくなってから、ギュンターは苦い物を噛んだような顔になる。
立ち会いである以上全力を尽くしたのは当然なのだが、令息を必要以上に傷つけるのも本意ではないところ。
だが同時に、力の差を見せて納得させるのも必要だったところ。
わかってはいるが、そう簡単に割り切れるものでもない、というところだろう。
しかしそんなギュンターの言葉に、ジークフリートはゆるりと首を振った。
「いや、今のは仕方あるまい。確か彼は、普通に剣の勝負をすれば、お前ともそれなりに打ち合えるだけの腕があったはずだ。それで変な侮りが残ってもらっても困る。
ただ、それだけに彼が戦えなくなるのも困り物ではあるが……医務室には専任のカウンセラーもいるから、ケアに期待しよう」
立場故か、ギュンターよりは割り切れているらしく、心配はしつつも次にどうするか、に頭が切り替わっているようだ。
この国において貴族は、普通の人間よりも遙かに強大な魔獣・魔物を相手にすることがあるため、戦闘後生き残ったとしても精神的外傷を負うことも少なくない。
その治療のため、カウンセリングや精神治癒の魔術が発達しており、この学校にも精神治癒魔術が使える医師が常駐しているのだ。
まあ、まさか人間相手に精神的外傷を負った生徒が来るとは予想もしていなかっただろうが。
「複雑ではありますが、盾を使っての戦闘に手応えがあったのも事実。
コルディア様には申し訳ありませんが、今回の立ち会いは私の糧となりました」
「うん、得るものはあっただろうね。……彼も糧としてくれればいいのだが」
呟くように言うと、ジークフリートは令息が出て行った通用口へと視線を向けた。
だが、それから数時間後、王都内の繁華街にて。
「くそっ、くそっ、なんでこの俺が、あんな奴にっ!」
顔を赤らめながら覚束ない足取りで歩くコルディア令息の表情に、反省したような色はまるでない。
彼は成人を迎えて学院に入学してから解禁された酒を、平民の使う雑多な店で呷って悪ぶる楽しみを覚えてから、何かあればこうして繰り出すようになっていた。
それが心を軽くする救いになることもあれば、澱みを濃くする悪い酒になることもあるのだが、どうやら彼にとっては良くない方にいったらしい。
特に今日は悪い酒になったらしく、口汚い言葉を誰となく虚空に向かって放つ姿は、酔いどれの多いこの通りにあっても遠巻きにされている。
その腫れ物扱いな空気がまた気に食わないのか、苛立つ彼はガツンと積んであった木箱を蹴り上げた。
「ちくしょう! どいつもこいつも、俺を見下しやがって!
あんな男爵家の次男ごときに……ふざけるな、ふざけるなふざけるな!
殿下も殿下だ、なんであんなやつを傍に置いてるんだか!」
飛び出した言葉、周囲の人間はぎょっとする。
薄々わかってはいたが、貴族の坊ちゃん、しかも男爵家に対して『ごとき』と言える身分。
関わり合いになってはまずいと更に遠巻きにする者が大半だったのだが。
「荒れてやすねぇ、旦那」
「あん? なんだお前ら。この俺に気安く声をかけてんじゃねぇぞぉ」
突然声を掛けられた令息は、意外なことに声を荒げることなく、しかし不機嫌に応じる。
彼に声を掛けてきたのは、いかにもゴロツキと言った風情の三人組。
ニタニタとした笑みを見せている彼らへと、令息は酔いで濁った目を向けた。
その様子を見た男達は、下卑た色をさらに深める。
「いやぁ旦那、そうおっしゃらずに。
ちょいとね、気分がすっきりするいいモノがあるんですが……どうです、今の旦那にはぴったりでやすよ?」
下手をすれば息子くらいの歳だろう令息に対しての旦那呼び、卑屈な笑み。
それを見た令息は少しばかり気分を持ち上げられたのか、荒んだ笑みを返した。
「ほう……それが本当ならば悪くない。試してやろうじゃないか」
「へへ、そうこなくっちゃ。こんなところで大っぴらに言える話でもねぇ、詳しくはこっちで」
令息がニヤリと唇を歪めれば、同じく男達も下卑た笑みを深めた。
ある意味お似合いな表情をしながら、彼らは連れ立って路地裏へと消えた。
それから、数分後。
「あ~……ちっとはすっとしたけどさぁ……足りねぇ、こんなんじゃ足りねぇよ」
路地裏の、誰も来ないような暗がりの中、令息は一人ぼやいていた。
その手に握られているのは護身用の小剣。そして足下に転がるのは、彼をここまで誘った三人の男達。
薬物か何かを勧めようとしてきた連中を拒絶して、煽って、結果殴りかかってきたところを返り討ち。
むせかえる程に鉄錆の匂いが満ちるその場で、計画的に無礼打ちをやらかした彼は顔を歪めるでもなく、ぼんやりとした表情で虚空を見上げている。
慌てた様子もないその姿からもわかるが、彼には、これが初めてではない。
彼が、無防備にも見える姿で繁華街をうろつく理由のもう一つが、これ。
酔っ払った貴族令息などがうろついていれば、脛に傷持つ連中がすぐに声をかけてくる。
往々にして彼らは人目に付かない場所へと彼を誘導してから、その牙を剝く。
だが、そのゴロツキどもには不幸なことに、これだけ酒が回った状態でも彼の腕は連中を切り伏せるに十分過ぎるものがあった。
そして彼は、それを振るうことに躊躇いのない人間だった。
その結果、物言わぬ姿となって彼らは地べたに転がっている。
「あ~……つまんね。俺が斬りたいのはこんな奴らじゃなくってさぁ……」
「差し詰め、第二王子殿下とその護衛騎士、ってとこか?」
ブツブツと愚痴る彼へと、不意に声が掛かった。
ばっと音がする程の勢いでそちらへと振り返れば、一人の男。
三十後半だろうか、彼よりも随分と年上に見える彼が浮かべているのは、笑み。
笑み、なのだが。
それを見た瞬間に、令息はぞっと背中に冷たいものが走るのを感じた。
「……おい、まさか、見てたのか」
「全部とは言わないが、おおよそは」
酔っている、とはいえその実、彼の意識は然程鈍っておらず、気配もほとんど普段と変わらずに感知できているはずだった。
だというのに、そこにいる男は、まるで気配を感じさせなかった。
あまつさえ、おおよそ……彼の後ろ暗い密かな愉しみを見ていたと言う。
「……どこまで、わかっている」
「あんたが貴族の……そうさな、伯爵家くらいの家の人間で、護衛騎士ギュンターに恨みを抱いているってことくらいか」
男がそこまで言った瞬間、銀色の光が走った。
並みの人間では反応すら出来ない速度で振るわれたそれは、正確に男の頭を捉えた、はずだったのだが。
「なっ、なんだこりゃぁ!?」
令息の振るった小剣は、闇色の壁に受け止められ、絡め取られていた。
そしてそれが、じわりじわり、銀の刃を塗りつぶすように侵食していく。
「ふ~ん、愚痴ってるとこをたまたま見かけただけだったんだが……モブの割には悪くない動きだな。おまけに、魂が良い感じに染まりだしてやがる。
これなら、素体に丁度良さそうだ」
「何をっ、う、うわぁぁっ!?」
絡め取っていた闇が、さらに令息の腕へと、身体へと伸びて絡みついていく。
そうして全身へと伸びながら、闇色の何かが、令息の体内へと侵入を始めた。
「あがっ、あ、ああああ!! やめろ、やめろぉぉぉ!!!」
叫び、抵抗しようと身を捩るが、触手にも似た闇は振りほどくこともできず、彼を拘束し、侵食していく。
やがて、令息は動きを止めて。
ばたり、地面へと倒れ伏した。
「流石にちょいと抵抗力はあったが、まあこんなもんだろ。
さてっと、んじゃぁ……この時期だと精々レベル20にいってないくらいだろうし、30もやっときゃ十分か。
魔力をやりすぎて検知されてもなんだしな、っと」
呟きながら、男は令息へと手をかざし、さらなる闇を注入していく。
ゲーム『エタエレ』の展開であれば、この時期はまだレベル10台前半がほとんど、やり込み勢で20を越えるか程度。
30レベルのエネミーなど、ろくに攻撃が当たらずプレイヤー側が殲滅されるというレベル差だ。
「よっし、これで終わり、っと。ほんじゃ、いい仕事してこいよな」
そう言いながら男が手を引けば、ゆらりと令息は立ち上がる。
外見だけならば大した変化はないが、その顔には表情らしいものが見当たらない。
それを見て満足そうに一度二度頷いた男が、しっしと追い払うように手を振るえば、令息はゆっくりと、薄暗い路地を歩き出し、やがてその姿は見えなくなった。




