お出掛けの身支度(三十と一夜の短篇第42回)
奥様がお目覚めになるのはお天道様が中天近くなる頃です。前夜の観劇や舞踏会などの社交場がお開きになりますのが、早くて真夜中過ぎ、だいたいは暁の光が差し掛かる彼誰時が多いのです。ですからご自宅に戻られてお休みになられるのは、庶民が街灯を消して回り、道端の清掃や食べ物の配達を始める朝方です。
ゆっくりとお眠りになり、眩しい日差しを感じてお目覚めになられた奥様は身繕いの場に移られ、入浴なさいます。浴槽にぬるめのお湯を張り、薄物を纏ったりせず、全裸になって入られます。お湯の温度にご不満があれば、直ぐに熱いお湯か冷水を足すように、両方の水差しを用意し、女中が控えております。水差しでお湯を身体に掛けたり、濡らした布で体を拭くよりも手間暇が掛かりますが、こちらの方が体の隅々まで清潔にできて、肌にもよろしいのだそうです。前の日の疲れや汚れをすっかり落とし、手足を伸ばして、寛がれます。奥様はどちらかと言えば痩身で、腰回りなどお子様がいらっしゃるとは思えないほどほっそりしています。肩や二の腕の辺りは年齢相応の丸味があります。浴槽から出られると、部屋着をお召しになります。部屋着ですので、コルセットはまだ使いません。化粧台に向かわれる際に、女中が飲み物をお持ちします。新鮮な牛乳を注したコーヒーを好まれます。紅茶をご所望される時もございます。その際も牛乳を加えるのを忘れてはなりません。奥様は喉を潤しながら髪を梳かせ、簡単にまとめられます。
部屋着の上にガウンを羽織られて、奥様は食堂にいらして、朝食をお召し上がりになります。朝食の席には旦那様とお子様がたも揃っていらっしゃいます。ご家族がきちんと顔を合わせてご挨拶なさるのは、この朝食の席だけとも言えましょう。
お互いのご様子や本日のご予定など確認し合いながら、食事をされた後は、また各々お部屋やお仕事へと食堂を出られます。
奥様はご自分のお部屋に戻られ、今日のお昼のお散歩、そして夜会で使う服飾品、馬車、連れていく召使いのご指示をなさいます。その間、面会を望む方がいればお部屋にお通しします。お客様は大概若い男性です。奥様が人払いをしてその男性と二人きりになる日もございます。その場合、奥様の身繕いが最初からやり直しになりますが、仕方ないことです。お部屋でどのように過していらっしゃるか、誰も何も申しませんし、旦那様もご承知のことです。もしかしたら旦那様も同様にどちらかの貴婦人の個室に訪問されているのかも知れません。
午後のひとときは、軽い外出着に着替えられます。コルセットでウエストをお締めになり、一見簡素なようで凝った縁取りや刺繍が細かく施された服、それに合わせた帽子に手袋、靴を身に付けられます。奥様は天蓋無しの馬車を使って、テュイルリー宮の庭園か、ブローニュの森へ散策へ出掛けられます。日のある時間帯に外気に触れるのは、入浴同様、健康と美容には不可欠なのだそうです。
馬車をお使いなので、徒歩で長く歩かないのですが、大変重要な日課でお天気が悪くなければ、毎日お出掛けなさいます。散策先には奥様と同じ巴里の貴婦人や令嬢方が集い、またそれを品定めするように殿方も散策されて、社交場の役割を果たしています。そこでその日の夜の予定を尋ねられたり、次の日の昼にお部屋へ訪問しても良いかなどの会話が交わされているのでしょう。
お洒落で他所のご婦人とどちらが優れていたか、見目良い殿方が幾人近付いてきたか、その日その日が試されているのです。
ご帰宅なさると、奥様はご昼食を摂られます。といっても、昼間あくせく働く者が夕食と呼ぶ食事です。奥様はあまり多くは召し上がりません。まるで小鳥のようです。お食事が終わって、一息おつきになり、食べ物がこなれた頃に夜会への身支度を始められます。
顔を洗い直して、髪も解かれ、コルセットの紐も締め直し、夜会用のドレスの着付けをいたします。夜会服ですので胸元と肩が露わになります。上半身に来る部分はレースやリボンで縁取られています。青い繻子を下地にして、惜しげなくヴェネチアンレースを重ねられ、蝋燭の灯りの下では光沢のある繻子地は複雑な陰影を生むのでしょう。後ろにドレープを寄せ、レース地を引く意匠になっています。
奥様はドレスの華やかさに負けないようなくっきりとしたお化粧と髪結いを女中にお命じになります。また、ご自身で目や口元のお化粧を念入りに点検し、化粧筆を持たれます。髪型はスコットランド風のブローチを真似たヘアピンでまとめられました。色合いや大きさが違う真珠を連ねた首飾り、瑠璃をあしらわれた耳飾りと腕飾りを身に付けられ、香水を振りかけられます。夜のお出掛けですので、夜気で冷えないようにと薄い毛皮の肩掛けをさっとむき出しの肩に乗せられます。豊かな胸元は首飾りと肩掛けと競うように白く滑らかです。
奥様は鏡の前にお立ちになり、じっくりと時間を掛けて、身だしなみの点検をなさいます。
奥様は仰言います。
「上質の絹地で仕立てた服、金属や宝石の冷たい硬い感触と、この毛皮の柔らかさと温かさ。全てがわたくしの身体中の触感を刺激してくれる。身の内にひたひたと湧き上がるこの快さ。何物にも代えがたい。
きつく胴を締め上げ、踵の高い花車な靴を履き、一度か二度しか使われなくてもこの夜の為に吟味を尽くした意匠の全て。
殿方の眼差しや称賛の言葉や愛撫も心地良いものだけど、実際こうして身に付けて、わたくしを彩ってくれる極上の品ほどわたくしの女としての悦びを高めてくれる物はないわ」
奥様は自信に満ち、美しく、輝いておいでです。きっと今夜も注目を集められることでしょう。身に纏う上質な品々が奥様の感覚を鋭敏にし、艶やかさを更に産み出します。官能こそ魅力の源泉。きらぎらしく、蜜のように甘く、芳香を放って、多くの人たちを引き寄せるのです。
参考文献
『明日は舞踏会』 鹿島茂 中公文庫
『永遠のアンティークジュエリー』 別冊太陽 平凡社
『アンティークジュエリー美術館』 別冊太陽 平凡社
御木本幸吉が真珠の養殖に成功するまで、真珠は当然ながら天然物しかなく、色や形が揃わなくても、グラデーションのように連ねたデザインのアクセサリーがありました。