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彼女と私。

作者: 浅間零

九時になる少し前、いつものように退館を急かされながら稽古場を出る。もう少し演出と話たいような気持ちを抑え私はだらしなく真っ黒な靴を履き大学を出た。

去年と打って変わって中々明けない梅雨に嫌気をさしながら湿った空気を進んでいく。アスファルトがほんのりと濡れて街灯を反射させている。私はこのキラキラが好きで、雨が嫌いになれずにいる。

他のサークルも活動を終えたようでわいわいと集まっている。これからご飯を食べにでもいくのだろう。

私たちはそんな感じではない。お互いがある一定の距離を保っている。側から見れば冷たく感じるだろうが、それくらいが良いのだと私は思う。私たちの年頃では近すぎる距離感は良くない。良くも悪くも自分が呑み込まれてしまう。大きなクジラが口を開けて小さな生き物を食すように。


大学から徒歩一分の最寄駅にはその短い距離の間にお店が立ち並んでいる。居酒屋は勿論、年頃の女の子が好きそうな雑貨屋に、バイトの面接で受からなかったメロンパン屋さん。大学に行くたびにメロンパンの甘ったるい匂いが苦い思い出を想起させる。案の定帰り道もその店が目に入ったが、もうシャッターは閉まっていた。


──六十秒。


たったそれだけ時間で色々なものがぐるぐると頭の中を駆け巡った。

相変わらず湿って結露している駅舎のエスカレーターに乗り、定期が何処にあるかと鞄を弄る。定期の存在を確認できたところでエスカレーターを降り、改札口へ向かう。

ちょうど電車が来たらしい。ドアが閉まり切る前に余裕を持って私は乗車し、乗ってきたドアとは反対のドアに体をもたれかけさせた。


東京に出てきて気づいたことがある。夜が明るいのだ。地元にいた時も中学高校と電車通学だったが、田舎だったから夜になると車窓に映るのは自分だった。

でも東京には私なんか映らない。目に入るのはどんどん過ぎていく電灯の灯った店や住宅地だ。





私はここに居ないのだ。

誰も私になんか気にも留めない。

恋人なんて贅沢は言わない。一夜限りの関係でも誰か私を私だと認めて欲しい。そんな馬鹿なことを考えて知らない人と寝た時期のことが遥か昔に感じる。

それでも幻想を抱いてしまう。

私はここにいるのだと、生きているのだと叫んでしまったらどんなに楽だろうかと。

でもそんなことをしたら頭がおかしくなったのかと人は離れていく。

ああ、クジラの口が開いてくれないだろうか。


──二十六分。


アパートのある駅に着いた。大きなドアが当たり前のように開く。私はホームに降り立った。

アスファルトは濡れている。霧雨も降ってきた。

とうもろこしがなり始めた畑を通って帰路につく。

階段を登って、アパートの鍵を鞄の中を弄って取り出す。

ドア近くの小さなライトに虫がたかっている。手短にドアを開けて部屋に飛び込むように入った。ドアを閉める直前にカメムシが嫌なところに移動してきたのが見えたが、遅かった。


ぐしゃり。


真っ暗な空間に嫌な匂いがしてきた。

ご遺骸を見るのが嫌で暗闇を私はそのまま進んだ。

1kの部屋だ。何も迷うことはない。

迷うはずがないのに中々ベッドに辿りつけない。今日はもう寝たいのだ。なにもかも忘れたいのだ。カメムシの匂いだけじゃない、洗えてない食器も嫌な匂いを醸し出している。息がつまる。夢遊病のマクベス夫人が急に脳裏をよぎった。吐き気がする。怖い。キャスターに乗った炊飯器と冷蔵庫の間を押しのけて、やっと部屋にたどり着いた。ベッドまであと少し。あと少し。十秒もかからない。足に何かが引っかかってよろけた。なんとかベッドカバーの端を掴んでのし上がる。鞄も服も何もかも脱ぎ捨てて、私はやっと横になることができた。

真っ暗な空間。私は居た。

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