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FANG DOLL  作者: 華猫
5/7

#5 Fall in the Street

■ #5 Fall in the Street


 きっかけなんてどうだっていい。

 とにかく、彼女のつけていた赤いピアスが、どういうわけか僕の頭ん中からなかなか離れていこうとしなかったんだ。


 朝もだいぶ遅くなって、石の壁に囲まれた狭い街路の底にも陽光が届くようになるころ、僕はブランチを摂りに工房兼自宅を出る。ルアナは一人、いや一体で――それも違うか。工房には何体も人形たちが置かれているから――留守番だ。

 ステップから石畳の街路に降り立って、ふと、工房の入り口を振返ると、〝タゾーラ人形工房〟とくすんだ金の文字が、扉の上で鈍く光っている。その下にはいかにも付け足しのように〝プアゾ〟のプレートが。僕の名前だ。

 未だ冷たさの残る街路を、三ブロックばかり歩いて、こじんまりとした店の前で足を止めた。

 〝レディバグの厨房〟と書かれた看板がかかっている。大きなガラス窓から中をうかがうが、今は客の姿はない。

 扉を押して中に入る。小さな鐘が揺られて鳴った。

 店の奥にいた女が振り向いた。

「あらいらっしゃい、どうぞ、お座りになって」

 いくつくらいなのか、少なくとも僕よりは年上だ。でもタゾーラほどではない。この町に住んでいるにしてはこざっぱりとして身なりはそう悪くもないし、水商売風でもない。気立てのいい商店のオカミ――それが、この店の主、〝レディバグ〟の第一印象だ。

 彼女は一人でこの店を切り盛りしている。たった一人でだ。他に従業員はいない。だから彼女が注文もとりにくる。

「今朝はなに?いつもの?」

「まかせるよ」

 店はそう広くもない。小さいテーブルがいくつか。やや暗目の店内から、大きな窓越しに表の通りが眺められる。

 穏やかな遅い朝。夜の喧騒がウソのようだ。

 ぼんやりとしているうちに、彼女がトレイを運んできた。珈琲カップと、それに、新聞もつけて。

「聞きました?今朝、また、〈Dawnmare〉の被害者が出たんですって」

 ゴシップ紙のトップニュースはそれだ。よほど他にネタがなかったのだろう。一流紙はこんな下町で起きた血生臭い事件はもはや滅多に相手にしない。

「警察はなにをやってるのかしらね。一向に捕まらないじゃない」

「そうだね」僕は軽く相槌をうった。

「ねぇ、この〈Dawnmare〉って、どんなヤツだと思う?」

「さあ」

「きっと若い男ね。神経質でサディスティックで。でも一見おとなしそうに振る舞ってて。昼間はごく普通の市民の顔をして暮らしてるんでしょうね」

 僕はついつい微笑んだ。傍目で見てわかるかどうかというくらい、ごくかすかに。とっさにカップをすする。

 それからいくつか世間話をして――というより僕が一方的に彼女の話を聞いていたんだけど――レディバグは僕のテーブルから離れ、店の奥の定位置に戻っていった。今、この時間が一日のうちで最も暇なのだろう。もう少しするとランチの客で店はポトフ鍋さながらにごった返す。それに巻き込まれるのはゴメンだ。

 のんびりと窓の外を眺めながら遅い朝食をとる。街路には物売りや浮浪者やみすぼらしい子供や労働者や――雑多な町の住人達が右へ左へ通り過ぎていく。この辺には辻馬車や、お金持ちの連中は足を踏み入れない。

 やがて他の客が店の扉の鐘を鳴らしたころ、僕はちょうど食事を終え、勘定をテーブルの上において立上がった。

「それじゃ――」

 レディバグが、新しい客の方へ行きかけた足の向きを変えて僕の方へやってきた。

「プアゾさん、でしたわね?今度、夕食にもいらしてね。あたしはホントは羊料理が得意なんですのよ。いい肉が入ったときはぜひ。腕によりをかけてご馳走しますわ」

 彼女は妙に熱っぽい目で、僕をみつめてまくしたてた。特別な意味でもあるんだろうか?


 じっとりと湿ったような夜だった。

 もう真夜中をすぎているというのに、繁華街は昼にもましてなお爛熟した活気にあふれている。

 行き交う人々の中、ふと、路傍に佇む女に目が止まった。

 一見、派手に着飾っているが、よく見れば身に着けているのはどれも安物ばかり。なにかあてがあるでもなく街灯の下に立ち尽くして通りの人々を見やっている――早い話、街娼たちんぼだ。客を探しているんだろう。この界隈では老若男女、様々な同業者が商売している。ときおり暇をもてあました警官に追われながら。技術も教養もない人間には、手っ取り早い商売だ。

 彼女だって、確かにきれいな容姿をしているけども、格別というわけでもない。客のフェティシズムをくすぐるような、特に変ったところもなさそうだ。

 だれど、何故か、僕の目は彼女に釘付けになった。正確にいうなら、彼女の耳朶に点った赤いピアスに、だ。一瞬、血の珠が浮かんでいるようにも見えた――もしかすると、そうと見間違えたせいかも知れない。

 女は目ざとく僕の視線に気付いて、ニコっと笑んでみせた。悪戯っぽく――目は決して笑わない。なるほど、彼女はプロらしい。まだ二十をこえているようには見えないが。

 なおも僕が彼女《の耳朶》から目が離せないでいると、女は小走りに道路を渡って僕の方へ駆け寄ってきた。

「アタシに用?」

「いや……なんでもない」

 そっけなくいうと女は眉をつりあげた。

「なんだよ、アタシの顔ジッと見てさ。それともあんたも同業者おなかま?」

「まさか」冗談じゃない。

「ねぇ、アタシと遊ばない?あんたってキレイだね。安くしとくよ」

「今夜はそんな気分じゃない」

「じゃあタダでもいいよ、また会ってくれるなら」

「いいってば」僕はさっさと歩きだした。だけど女は僕の後を追ってついてきた。

「待ってよ、じゃ、食事だけでもつきあってくれない?今日はもうアガリにすることにしたの。あんたが気に入ったんだ、食事、おごるから」

 ――僕の方がナンパされるとは思わなかった。


 食事といったって、こんな時間、普通の食堂は開いているわけがない。酒場かカフェか……そんなところだ。

 断る理由が見つからず、僕たちは連れ立って比較的マトモな酒場に入った。バーテンがじろりとこちらを見て顔をしかめる。

 女はラムチョップを注文してから僕の方を見た。

「あんたは?」

「いや、食事は済んだ。アルコールだけでいい――自分で払うよ」

「アタシが出すのに」

「自分よりガキにおごられたくない」

 彼女は鼻でフフフと笑った。

「――あんたってなにやってる人?カタギなの、もしかして」彼女はテーブルにつくなり僕の顔を覗き込むようにしていった。

「そうは見えないか?」

 首を傾げて、「あんまり――よくわかんないや。でもアタシの商売には向いてそう。すごく稼げるよ、きっと。男にも女にも。単にキレイってだけじゃなくて――そそられるっての?」

 女が運ばれてきた肉片を頬張った。僕はグラスを手にとって憮然とする。

「嬉しくないな。僕は職人で結構さ」

「職人だって?あんたが?信じらんないな」

 目を見開いて僕の顔を見つめた。それからグラスを持つ僕の手に視線を移して、

「手だって……まるでらしくない。ウソでしょ、あんたのどこが職人にみえる?」

「君にどう見えようが見えまいが関係ない」

 僕はそっぽを向いた。店内を一望する。労働者風の酔漢。くたびれた給仕の女。カウンターには痩せた中年のバーテン。もうすでにもっとも混む時刻はすぎた。放歌高吟する者もない。落ちついた、あるいは少々さびれた酒場だ。

「シケてるな」

「でもこのラムはいけるよ。あんたもどう?」

「いや。さっさと食べろよ」

「やだ。あんたとも少し一緒にいたいから。……それとも、この後も付き合ってくれる?お金払うからさ」

「ごめんだ」

「巧いよ、アタシ。こう見えても。同い年の仲間ん中じゃ一番、長くやってるし」

「ふうん」

「……アタシから払ったげる、っていってんのに。――あんた、もしかして、ホモ?」

「違うよ。あんまり興味ない。君みたいに生きてる人間にはね」

「アタシが売女だから?なにスカしてんの。アンタだってこの町の住人だろ。この町で生きてくってことが……アタシみたいな、他に技術テク教養アタマもないヤツがさ!」

「そういう意味じゃないよ」

「じゃあ、なんで」

「興味がないだけだ」

「ロリコン?フェチ?それとも」そこで女は声をひそめて、「不能インポ?」

 ちょうどグラスが空になったので、僕は金を置いて立上がった。

「待ってよ、ゴメン、怒ったの?」

 女が追ってくる。

 暗い街路に踏み出した。夜霧で石畳が湿っている。ボウと店の前の灯火が黄色く光の珠を作っている。どことなく騒々しい夜だ。町自体はけして眠りはしない。

 ガラガラと音を立てて、すぐ目の前を黒っぽい馬車が居丈高に通り過ぎていった。女が危うく引っ掛けられそうになって悪態を吐いた。

「……ったく!〝ゼスター〟ときたら!」

 馬車の過ぎていった後には、すえた腐敗臭が漂っていた。ゴミ収集人だ。各建物から出されるゴミを集めたり、道路清掃をしたりする。街に必要不可欠な存在なはずなのに、大抵の住民からは疎まれている。彼らは貪欲に、路上に遺棄されたものはなんでも自分の財産に変える。石畳の隙間に挟まったコインから、動物の死骸から……他の住人たちの目が見逃してしまうような物ですら、目ざとく見付けだして取り込んでしまう。あの独特の臭気をまとって、武骨な馬車で街を徘徊する、そんな彼らを、他の者は、〝Zesterゼスター〟と蔑んでいる。

「――どうしたの?」

 黒い馬車が夜闇に溶けていくのを見送っていると、女が不可思議そうに問いかけてきた。彼女にとってすらゼスターなど注目すべき相手ではないのだろう。

「いや――なんでもない」

「待ってったら!ホントにアンタに惚れたんだってば。また会ってくれない?」

「気がむいたらね」

 今夜は、もう、なにもする気になれなかった。


 朝靄の中、一台のゼスターの車が道端に停まって作業をしていた。彼らは大概、日が昇るころには街からすっかり姿を消している。まるで壁や道路の石の隙間に吸い込まれてしまうかのように完璧に。その仕事に就いていないときの、個々の彼らというのがまるで想像できない。他の市民たちと同様に生活しているはずなのに、彼らは彼らで独立したひとつの生物種のようだ。あるいは街という大がかりな機械を構成する部品だ。

 〝ゼスター〟などと呼ばれ蔑まれるものの、彼らは決して貧者ではない。どころかこんな下町の商店主よりは遥かに金を稼いでいる。他人の廃棄物を金に換える術を知っているからだ。他の住民達の嫌悪感も、実のところ、そういった錬金術へのやっかみから来ているのかも知れない。

 なにげなく通りかかったとき、そのゼスターが小さな声を上げるのを耳にした。珍しい。ついつい僕もそいつの方を見て、それからその見ている先に視線を移した。

 ゴミ箱とゴミバケツの間に若い男が倒れている。目と口をだらしなく開けて鉄の柵によりかかっていた。口から流れ出た唾液が胸の上で黄色く泡立っている――ジャンキーか。

 ゼスターが手にした箒でそいつをつついた。死んでいるらしい。ぴくりとも動かない。ゼスターはジャンキーに近付くと、すばやくその服の内側やポケットを探った。――しかしなにも金目のものは見つからなかったようだ。

 と、突然、その死体がむっくりと起き上がって暴れだした――いや、まだ死んでいなかったのか。ゼスターに襲いかかる。ゼスターは箒でジャンキーを突き飛ばした。ジャンキーはもう一度石畳の上に倒れ、また気を失った。あいつの運がいいのなら、命は助かるだろう。それが本当に運がいいことなのかどうかはわからないが。

 その光景を黙ってみているとゼスターが僕の方を振り返りわずかに帽子を持上げて軽く会釈をする。

 僕はその場を後にして歩きだした。


 夜の街でいつぞやの彼女を見掛けた。一瞬、向こうが僕を見付ける方が早かった。彼女は嬉しそうに笑うと、僕の方へ駆け寄ってきた――来ようとした。

 どこから現れたのか、数人の男達が人ごみの中から現れて彼女を取り囲み、数瞬もめた後、ひとまとめになって去っていった。その後に女の姿は消えていた。

 珍しい話じゃない。元締に逆らって、連れ戻されでもしたんだろう……

 途端、後頭部をガツンとやられた。気を失う寸前、最後の感覚が、ぬらぬらと濡れて冷えきった石畳だというのが、どうしようもなく情けなかった。



 薄暗い汚い部屋で数人のチンピラ達に囲まれている。僕は粗末な椅子に座らされ、両腕を椅子の背の後で縛られていた。どうにも芳しい状況ではない。

 後頭部がズキズキ痛む。おまけに不潔な匂いが部屋の中に漂っていて、一層、気分が悪くなった。

「おい、おめぇはなんだ」

 気がついてから真っ先に聞いた言葉がこれだ。

「……そっちこそ、僕に用があるんじゃないのか?」

 途端、固く重い物で軽く頭を小突かれた。

「訊いてんのはこっちだ。あのアマになにもらった」

「何の話だ……つ……」

「とぼけんな。てめぇがアイツのヒモだろ、受け取ったもんを返しやがれ」

 小太りの男がもっぱら一人で喋っている。後の男達はとりあえずその場にいるという感じだ。

「僕はなにも知らない。顔を見知ってるってだけだ」

「ウソを吐け。客以外でアイツがここ数日接触したんはテメェだけだ。アンプルうけとったろう。アレはなぁ、てめぇらが持ってたってどうしようもねぇんだよ」

「知らないってば」

 なんとなく事情が飲み込めてきた。それくらいつまらない事件に巻き込まれているらしい。

「おいこら、素直に吐かんと、かあちゃんでも見分けつかんようにしてやるぜ。オレはテメェみてぇなヤサ男がでぇきれえなんだ」

 小太りが、グイと僕の胸座をつかんで引っ張った。

 いきなり僕はそいつを突き飛ばした。

 相手にはなにが起きたかわからない。無様によろけて、あっけに取られた表情で、いつのまにか僕の手に収まっていたナイフをみつめた。

 そして一瞬後、手首を反対側の手で押さえて呻いた。

 そのときには、僕は、動けないでいるチンピラたちを尻目に、部屋の扉から外へ飛び出していた。

 部屋と同様に暗く臭い廊下を走って突き当たりの金属の扉を開けると、どうも見憶えのある通りに出た。既に夜は明けて朝靄が街路にたなびいている。せっかくの夜をつまらないことに潰されてしまったんだ。

 入り口のステップを下りてふと背後を振り返る。

 今、僕が出てきたのは、ウィスプの所有しているビルだった!



「いや、すまんすまん」

 ウィスプは言葉と裏腹に大笑いして手を打ち合わせた。

「笑い事じゃない。お前のとこのチンピラだろ。教育がなってないぞ」

「あの連中は最近、オレんとこに来たばかりだ。お前の顔知らんやつだっているさ。授業料は高くついたらしいな」

「右手首の腱を斬った――早く手当てしないとこれからは左手だけでカードをやることになるぞ」

「なに、あいつはもうカードはやらんさ。――それより、アンプルだと?」

 急にウィスプが真顔になって尋ねた。

「ああ……女に盗られたらしいな」

「あいつら……オレに報告もせんで――」ウィスプが考え込んだ。

「それじゃ」

 信じ難い色彩感覚のソファから立上がってウィスプの事務所を出て行こうとした。すると、ウィスプに呼び止められた。

「ああ、同じ建物の三階にいるぞ。一番奥の部屋だろう」

「なんのことだ?」

「女さ。ウチで飼ってる娼婦オンナだろう。恐らくそこに監禁されてるはずだ。……まだ生きてんならな」

「それが?」

「それが……って、お前、助けてやらんのか?」ウィスプが意外そうな顔をした。

「どうして。彼女のおかげでロクな目に遭わない」

「やつら、お前逃がして殺気立ってるぞ。下手すっと殺されるだろうな」

「僕の知ったこっちゃない」

「お前な、仮にも――」

「仮にも、なんだよ。助けたいんならあんたが一言命令すればすむ話だろ」

「こっちこそなんの義理もねぇ。単に人騒がせな泥棒猫プッシーキャットだ」

「じゃあほっときゃいい」

 何故、ウィスプがそんなにムキになっているのかわからない。

「プアゾ!」僕が背を向けようとすると怒鳴り声が飛んできた。

「行ってやれ!オンナたちだってホントは好きでやってるわけじゃねぇんだ。お前が助けてやるなら、その女は無罪放免にしてやるさ」

「関係ないね」

「さもないと、プアゾ、ボスのコレクションがどうなるか、わかってんだろうな!」

 この言葉は僕を振り向かせるのに充分だった。

 ウィスプの組織の、ついこないだ死んだ先代は美術愛好家だった。マイスタータゾーラの熱心なファンでもある。

 それはひどく高価なものだから、工芸品の価値を金額でしか量れないウィスプに、それらをどうにかできるとは思えなかったが……だけど……ああ――



 結局、早朝に逃げ出してきた建物に舞い戻ってきた。

 入り口に男が一人で突っ立っている。顔に見憶えがあった。僕を監禁していたチンピラの一人だ。向こうも気付いたらしい。一瞬、おびえた表情をした。それからせいぜい虚勢をはってみせた。

「な……なんだテメェは!なんの用だ」

「ウィスプから聞いてるだろ。荷物を引き受けにきた」

「あ……ああ……う上の部屋にいるけどよ……まだ生きてっかな」

「そうかい」

 いわれた部屋に向かった。得体の知れないゴミやらそれに近いものを慎重に避けながら階段を上る。

 扉を開けると、僕が連れ込まれていたのと大差ない、粗末な部屋だった。

 女が、両手両足を縛られて、汚れた床の上に転がされていた。そばに仏頂面の男が立っている。退屈そうに飛出し警棒をもてあそんでいた。

「ウィスプさんから聞いてるぜ」

 男が素っ気なくいって女の後頭部を革靴の爪先で軽く小突いた。女が小さく呻く。まだ生きているらしい。相当手荒に扱われたようだが。

「ホントなら運河に叩っ込んじまうとこだがよ」男がいまいましげにいった。

 縛めているロープを切って助け起こすと、彼女はしばらく放心していた。が、じきに気付いて、僕に飛び付いてきた。

「あ……アタシ、こんな仕事辞めたくて……でも、それにはお金が要るから、……あんたまで巻き込んじゃって……ごめんなさい……」

 彼女は泣いていた。その涙を疑う理由はない。

「いいよ、もう。済んだことだ。いこう」

「だけど……アタシ、もうこの町にいられない……この町の他にだっていくとこ……」

「おいで、僕と一緒に」

 一瞬おいて、彼女の顔が明るくなった。飛び切りの笑顔だ。商売用のものじゃない。本物の。この町にあってはそれすら珍しい。それは美しかった。僕は魅了されていた。



 夕刻、いつかの約束を果すべくレディバグのお招きに預かって、彼女の店に出向いた。

 工房の棚の上ではルアナがむくれている。今夜も留守番だというので。

 昼間ウィスプに会ったが、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。僕にむかってなにかいいたげだったが、「お前な……」と言葉を切って、それ以上なにもいわなかった。

 道を歩いていると、騒々しい音を立ててゼスターの馬車がわきを通り過ぎていった。運河のほうへ向かっているのかも知れない。さきほど小太りの男の死体が上がったという話だったから。

 街路はすでに夕闇がおりてきている。まもなく街灯が灯るだろう――壊れてさえいなければ。そんなものは三つに一つしかなかったが。

「まあ、よく来てくださいましたわ!ホラ、ちゃんと席を用意してありますのよ」

 店は結構混んでいた。いつも、空いているときにしか行かなかったから、よく商売が成り立つものだとひそかに心配していたのだが、杞憂だったようだ。

 女将のいうとおり、いつも僕の座るテーブルだけ空いていて、丁寧にセッティングされている。にぎやかな大衆食堂が、ここだけはアップタウンのレストランのようだった。

「昨夜、とっても上等のラムが入りましたのよ。滅多に手に入らないくらいの」

 レディバグはいつにもまして上機嫌だった。店を切り盛りして、調理をして、客に振る舞うこと、それが彼女の生きがいであり道楽なんだろう。

 彼女の言葉に嘘はなかった。彼女の目も舌も確かだ。高級レストランのシェフにも負けない。調理の腕だけではない。素材の吟味の仕方、テーブルウェアのセンス……僕にもわかるほどだ。

「さすがはレディバグだね」

 激務をかいくぐってテーブルに近付いてきた女将にいうと、嬉しそうに頬をあからめた。

「ありがとう、あなたのために特別に腕を振るいましたのよ」

 もちろんお世辞なんかじゃない。こんな食事は久しぶりだ。

 慌ただしくテーブルを去っていく彼女の背中にむかって、小さく、心から礼をいった。

 肉の中に、カチッと歯に当たるものがある。骨にしてはヤケに硬い。

 そっと口からつまみ出してみると、それは赤い石のピアスだった。


fin.

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