カキツバタ
わたしは男から貰った紫の花を片手にゆっくりと歩いて家に帰る。
部屋につくとランドセルを机の隣に置いてから本棚を吟味する。普段わたしはあまり本というモノを読まないのだが、お母さんが本棚の肥やしにと買い集めた辞書や図鑑の類いがぎっしりと並んでいるのだ。
そして見つけた薄らと埃を被った花の図鑑を取り出す。
図鑑を小脇に抱えて勉強机まで移動するとそっと図鑑とその横に貰った紫色の花を置いた。椅子に腰掛けてパラパラとページをめくる。花の名前を調べるなんて生まれて初めての経験であった。
「・・・あった ”カキツバタ” コレだ」
カキツバタはアヤメ科アヤメ属の植物であり湿地に群生する。5月から6月にかけて紫色の花を咲かせるその花の花言葉は ”幸運”。
”幸運”・・・とわたしは調べた花言葉を頭の中で繰り返した。思い浮かべるのはあの男の去り際の「グッドラック」という台詞だ。
「・・・何か面白いかも花言葉」
何故かおかしくなってわたしはクスリと微笑んだ。
それがわたしが花に興味を持つ事になった始まりだったのだと思う。
◇
「おやまた合ったねリトルレディ。それとも待っていてくれたのかな?」
翌日いつもの公園で一人ベンチに腰掛けているとやはり男はやってきた。今日はチノパンにグレーのジャケットというシンプルな格好をしているが、どうもこの男は自分というモノの見せ方をよく理解しているらしく。それだけ見れば凡庸なその衣装が男が着ることでセンスのよいモノに見えてくる。
ちらりと今日もいつもと変わらない地味な格好をしている自分を思い、考えても今更どうしようも無いと頭を振って、その思考を追い出した。
一人で勝手に気まずくなりながらもわたしは彼に返事をする。
「・・・そうかもね。何だか最近アナタと喋っている時間が楽しいと思えているの」
そんないつにも無く素直な返答に面食らったのか男が一瞬変な表情を浮かべた。それを見て何かおかしくなったわたしは静かに笑う。
「何よ変な顔をして」
「・・・いや、レディがいつになく素直なモノで驚いたんだ。今日は何か良いことでもあったのかい?」
男の問いにわたしは首を静かに横に振った。
「今日もいつもと同じ退屈な学校生活と意味の無い塾での時間を過ごしたわ・・・それでも、いつもわたしが陰気な顔をしていないといけない訳じゃないでしょ?」
わたしの言葉に男は一瞬キョトンと呆けたような表情を浮かべたが、言葉の意味を少し吟味するとニヤリとまるでいたずらっ子のような顔で笑った。
「言うじゃないかリトルレディ。確かにその通り。日常が退屈で無意味だからといってわざわざ毎日暗い顔をしてやる必要など無い」
そして「隣に座ってもいいかね?」と聞いてくるのでわたしは無言で頷いた。ゆっくりとベンチに座った男はまだ嬉しそうな顔をして笑いながらわたしに問うてくる。
「それで、先日の花について何か調べたりしたかな?」
「ええ家で調べたわ・・・あの花の名前は ”カキツバタ”。花言葉は ”幸運”」
「その通り、よく調べたじゃないか。カキツバタは俺の一番好きな花なんだ」
そう語る男の瞳は何かを思い出すかのように遠くを見つめていた。
「・・・カキツバタの花言葉、”幸運”なんだけど。アナタが毎回別れ際に ”グッドラック”って言うのはカキツバタが好きだから?」
「惜しいなリトルレディ。いや・・・ほとんど正解なのかな? 確かに俺はカキツバタが好きだが、去り際に”グッドラック”というのはそれだけが理由じゃ無い。私はね、出会う人すべての幸運を祈っているのだよ」
出会う人すべて・・・。
「それは何故?」
「・・・人生に置いて運というのとても重要なものだと俺は考えている。どんなに真面目に仕事をしていても運が悪ければ貧困に陥る事もあるし、要領の悪い男に突然幸運が訪れて幸せを掴む事もある。俺はねリトルレディ、君よりも少しばかり長く生きてきた分、色んな人を見てきたんだ」
わたしの方を向いたその顔はどこか悲しげだった。男は悲しげな顔とは対照的にとても優しい声音で言葉を続ける。
「それに俺は悪い男だからね。まっとうじゃない奴らもたくさん見てきたさ。それでも・・・そんなどうしようも無い奴等でさえも不運に見舞われて理不尽な目にあっているのを見るのは心が痛むんだ。だから俺は会った人すべての幸運を祈る事にしている・・・祈るだけならただだからな、悪態をつくよりは建設的だろ?」
そう言って笑う男にわたしはそっと問いかけた。
「・・・ならアナタは毎回別れ際にわたしの幸運を祈ってくれていたの?」
「もちろんだともリトルレディ。君の人生に幸運が訪れる事を祈っているよ」
◇