夜の公園
疲れた。
全身を言いようのない倦怠感が包んでいる。一歩も動きたくない、早く家のベッドに飛び込み目覚ましもセットせずに思い切りぐうぐうと眠りこけてしまいたい。
しかし現実のわたしには迎えに来てくれる車も白馬の王子様も現れやしないのだ。そして疲れた両足に鞭打ってとぼとぼと帰路につく。
お日様はとうに沈み、街は夜のベールに包まれている。通い慣れた塾からの帰り道をうつむきながら歩くわたしは、そういえば明日までに仕上げなくてはならない小学校の宿題がまだ終わっていない事を思い出して、そっと舌打ちをした。
くだらない
くだらない
本当につまらない
義務教育だか知らないが、わたしは小学校とかいうものが吐くほど嫌いだった。
なぜ塾で習った範囲の勉強を、低いレベルでもう一度習わなくてはならないのか。学力が低いクラスメートと足並みを揃えて授業を進行する必要があるのか。
そして「みんな仲良く」などと意味のわからない事を抜かして、嫌いな人間とのコミュニケーションをとるという、世界で最も無意味な時間が我慢ならないのだ。
ため息を吐く。くしゃくしゃと髪を掻いて視線を横に向けると、古い街灯に照らされて夜の公園がぼんやりと浮かび上がっていた。
何を考えた訳でもない。ただなんとなく、本当に気軽な気持ちでわたしはその漆黒の水面にぼんやりと浮かぶ笹舟のような場所に足を踏み入れたのだ。
夜の公園は日に照らされた昼のそれとは違った表情を見せる。小さな子供達に優しくにっこりと微笑んでいた遊具達は街灯のスポットライトに照らされて、どこかツンとしたすまし顔で大人のような佇まいで起立している。
子供のためにつくられた遊具が背伸びをして大人のまねごとをしているようでどこか滑稽に見えるその風景を、わたしは木製のベンチに座ってなんともなしに眺めていた。
早く家に帰らないと翌日がしんどいだろう。
しかしそんな当たり前の心配ごとを抱えながらもわたしの足は立ち上がろうとはしなかった。もしかしたら帰ってやらなくてはならない学校の宿題が嫌だったのかもしれないし、そうでないかもしれない。まあどちらでも良いのだが、とにかくわたしは立ち上がる気力も無くただただぼうっと過ごしていたのだ。
どれだけそうしていたのだろうか。ふと人の気配を感じて振り向くと、暗闇の中ぼんやりとした人影がどうやら公園内に入ってくるようだった。
その人影はゆっくりとわたしの方へ歩み寄ってくる。背の高さからして大人、そして男性だろうか。
「こんばんはリトルレディ。こんな時間に君みたいな女の子が出歩いているのは関心しないなあ」
渋みのある低い声。しかし口調はとても優しく、聞いていると安心するようなものだった。
「余計なお世話、それに歩いてないわベンチに座っているの」
そう答えると、やってきた男は一瞬の間の後、快活な笑い声を上げた。
「ははは、確かに。これは一本とられたようだね。隣に座ってもいいかなリトルレディ」
無言でどうぞをジェスチャーをすると男は静かに隣に座った。街灯の薄暗い明かりの中改めて男の顔を確認すると、存外歳をとっているようだった。
オールバックにした髪は白いモノが混じり灰色に見える。目尻には深いシワが刻まれ、口ひげは定規で揃えたかのようにきっちり刈り込まれていた。年甲斐も無く派手な革ジャンを着ていたが、背筋はピンと伸びておりその育ちの良さがうかがえるようだった。
「それで、君はなんでこんな時間に出歩いて・・・失礼、ベンチに座っているのかね。家出か何かかな」
男の質問に、わたしは首を横に振る。
「違う、塾の帰り」
「ふむ、塾の帰り道に夜の公園で黄昏れていたと。ずいぶんと粋なお嬢ちゃんだ」
男の言葉にわたしはふと疑問を覚えた。
「・・・怒らないの?」
わたしの問いに、男はキョトンとしたような表情を見せる。
「なにを怒るんだい?」
「塾の帰り道に寄り道したこと。真夜中に公園のベンチに座っていること。学校の先生やお母さんならきっと怒る」
そう、きっと怒るだろう。まともな大人なら真夜中に公園に行く小学生をきっとしかる筈だ。
「そうかい。まあ、きっと君のお母さんや学校の先生だったら怒るだろうね。夜の公園というのはあまり子供に向いている場所では無いのだろうから」
「じゃあ何故?」
男は肩をすくめると、いたずらっ子のような顔をしてパチリとウインクをした。
「まともな大人なら怒るべきだろう。だけど俺は悪い男でね、君をしかれるような人生を歩んでは来ていないんだ。それに本当にやっちゃいけない事に比べたら夜の公園でぼうっとしている事なんてたいしたことじゃない。子供にだって一人の時間は必要だろうさ」
「悪い、男?」
「そうさ。俺は最悪な人生を歩んできた。運が無かったねリトルレディ、君はとことん悪い男に捕まっちまったぜ」
出会ったばかりの人物の何が分かるというのか、しかしそれでもわたしは彼がそれほど悪い大人だとは思えなかったのだ。
「・・・わたし、そろそろ帰らなきゃ」
現実逃避はここまで、家に帰ったら宿題という現実に向き合わなくてはならないだろう。
「そうかい、よかったら家まで送っていこうか?」
「結構よ。すぐそこだから」
わたしの言葉に男は頷くと、静かに立ち上がる。
「ではわたしも帰るとしよう。グッドラック、リトルレディ」
気障な様子でそう言うと、男は夜の闇に消えていった。不思議な大人だ。人見知りなわたしが何も不快に思う事無く自然に会話をしていた。今まで出会ってきたまっとうで退屈な大人達とはどこか違う、そんな気がするのだ。
「帰らなきゃ」
ああそれでもわたしの日常は続いていく。それはあらがいようが無くひたすら退屈で、そして言い様もないほど理不尽なのだ。
◇
「ただいま」
ぽつりと発せられたその声は電気の消えた薄暗い室内に吸い込まれて消えていく。もう時間も遅い、健康志向のお母さんはとっくに寝ているだろう。
そろそろと寝ているお母さんを起こさないように寝室の前を横切り、冷蔵庫を開ける。ラップされた夕食の残りのチャーハンがあったのでそれを食べる事にした。
冷蔵庫から出したチャーハンをそのままレンジに入れて温める。食欲などさほど無いのだが、食べなくては翌日にまた文句を言われるだろう。
しんと静まった夜中、一人テーブルで温めたチャーハンを食べる。慣れ親しんだお母さんの味、しかしチャーハンは口の中でもったりと重くなり食事はなかなか進まなかった。
ゆっくり食べながら思い出す、先ほどまで公園で話していた初老の男の事を。正体もしれない不思議な大人、しかしその記憶は何故か不愉快では無かった。
きっとわたしは楽しかったのだろう。
馬鹿な同級生とのくだらない会話でも無く。自身に正義があると信じて疑わないまっとうな大人達による上から目線の会話でも無い。
そう、自身を悪い男だと称したあの不思議な大人との会話が新鮮に感じられ、そして楽しかったのだ。そんな感情は、最近のわたしにはなかなか感じられなかったモノで、わたしは無意識のうちに彼との再会を願っていた。
「・・・ごちそうさま」
返事をする相手もいない部屋に、わたしのごちそうさまがむなしく響いた。食器を流し台に片付けて自分の部屋に向かう。
楽しい回想はここまでだ。学校の宿題という最高につまらない現実に向き合うため、わたしは疲れた身体に気合いを入れるのであった。