魔の森と勇者2
期待とは裏腹に、その拓けた場所は元いた道ではなかった。不気味な霧がかかり、草木のほとんど生えてない地面は枯れ果てている。霧のせいで視界がほとんど失われていたが、その正面からは森に居た時のような敵意を感じない。森に帰るよりはマシかと、霧の中に足を進める。
私は恐らくこの場所に出るまでに、相当数の魔獣を殺してしまっていた。その姿形すら認識できないままに。
霧の中を出来る限り直線に歩いていると、正面に何かがそびえ立っているのが見えてきた。
「遺跡......?」
いやもしかすると未だに使われている建物かもしれない。燃え盛るいくつもの松明が置かれている。その炎に照らされて目の前に現れたのは古びた白い遺跡のような建物であった。真っ先に目につく建物を支えているだろう太い柱には大きなヒビが何本も入っている。更には入り口へと続く階段も壁も何もかもが今にも崩れ落ちそうな程古ぼけている。しかし入り口であろう正面の扉だけがまるで今この瞬間に取り付けられたかのように真新しい。明らかに異質だ。
建物の観察に夢中になっている間に、この建物周辺の霧だけが綺麗さっぱり晴れ切っていた。
明らかに怪しい建物だが夜になりこれ以上の移動も困難な現状、ここに入る他ないだろうと足を踏み出した瞬間、背後にヒヤリとした感覚が突き刺さる。明らかな敵意だった。
しかしビリビリと感じるその敵意は、明らかに今まで感じた敵意とは異質なものだった。直感が告げている。これは今までのものと比べる事すら出来ない強者からの敵意だとーー。
私は振り返る事も出来ずにお互い制止したままの状態で沈黙が続いたが、背後に立つ何者かがその重たい口を開いた。
「何者だ」
重低音が響く。明らかに威圧を込めた声だった。冷や汗が流れる。私はその問いに対して望まれる正しい答えなど持っていない。
「.....私は......ただの迷い人です」
「ここはただの人間が入れる場所ではない」
馬鹿正直に答えたが、それで納得してもらえるはずも無い。ただの人間か......、つまりそれは背後に立つ男が”ただの人間”ではないということに他ならない。ここは恐らく魔の森。ならばこの場所をテリトリーとする、”魔族”と考えるのが一番妥当だろう。
魔族。それは魔獣や魔物から進化したと言われる人間とよく似たカタチをした、高位の存在だ。それこそ勇者でなければ対峙出来ない程の。
「目的はなんだ」
頭はフル回転しているが、気の利いた言い訳は一つも浮かんで来ない。背後に突き刺さる敵意は膨れ上がり、私は言葉を発する事すら出来なくなっていた。今まで感じたことのない”恐怖”が私を支配している。
「答えないのなら”侵入者”と見なす」
淡々と、しかし確かな威圧を込めた言葉の意味を理解しても私の口も体も自由に動いてはくれなかった。
背後で魔法を構成する魔力の流れを感じる。これは恐らく氷魔法だ。もう避けることは不可能、私は最後の希望にかけるしかなかった。
魔法が発動される。
ああ、そして同時に私の希望は打ち砕かれてしまう。最後の瞬間まで、男の圧倒的な”敵意”が”殺意”に変わることは無かったーー。
殺意の代わりに向けられたあまりにも、あまりにも圧倒的な敵意に、私は何度死にかけた所で感じなかった筈の心の底からの”恐怖”を感じていた。
煩いほどに鳴り響く己の鼓動、乱れる呼吸、今にも気を失ってしまいそうな程の恐怖だった。
己の感情がコントロール出来ないほど掻き乱されたのは、生まれて初めてのことだった。
しかしそこまでの敵意を持って放たれた魔法が、私を貫くことはなかった。
そして覚えのある魔力回復の感覚。
まさかと、初めて男がいる筈の背後を振り返る。しかし予想に反し、そこには憮然と立ち此方を睨みつける男が健在していた。
圧倒的なオーラを纏う長身の男だ。髪も含めて全身黒づくめで、作り物めいたその顔は美しいと思うより前に恐怖を抱かせる。そして何より此方を睨みつける不気味な赤い瞳が私の”恐怖”を助長させる。
「......っ......」
恐怖に引きつる顔をそのまま晒してしまうが、男の警戒が解ける気配はない。再び沈黙が落ちる。
「本性を見せたらどうだ」
「......はっ...?.......」
言っている意味が分からずそのまま困惑が口をついて出る。
「そのままその態度を崩さないと言うならば......」
男が此方に向けて片手を突き出す。魔法を発動する気だ。恐らくだが先ほどの比ではないあまりに大きな魔力を感じ取ることができた。一瞬で、恐らく上級魔法の大きさの魔法陣が構築される。上級魔法がここまで早く構築される所など見たことも聞いたこともない。
魔法が発動する瞬間、私は男の明確な”殺意”を感じ取っていた。