失敗と、涙
3
茜たちの住む廃墟のは雑木林に囲まれている。
夏真っ盛りの今、けたたましい蝉の鳴き声が廃墟の中にも聞こえてくる。
茜の場所になっている五階で、茜は水を張った桶に足を浸け、雑木林の方を眺めていた。
五階は天井と壁の一部が半壊していて、所々骨組みの鉄棒が飛び出ている。天気のいい日は日光が直接入ってくるので茜はここにいることが多い。
「ピッチピッチチャップチャップらーんらーんらーん」
茜は歌いながら桶の水をチャプチャプさせる。水はもうぬるくなってしまっていて、茜を冷却する力はもうない。
昨日は仕事で寝るのが朝方だったため、もう正午だが涼香はまだ寝ている。
茜も寝ていたのだが蝉の鳴き声のうるささに目を覚ましてしまった。
「暇だなぁ……あ! お菓子作ろ! マドレーヌ!」
茜は桶の水を壁の壊れた所からそのまま流して、濡れた足のまま下へ降りて行った。
廃墟にはほとんど物がなく、必要最低限の家具しかない。
しかしリビングにある小さな本立てにはお菓子の本があった。
涼香が本のレシピを参考にお菓子を作ることはほとんどないので、その本は茜がリクエストするときの為のものだった。
「えーっと、卵……砂糖……バター……薄力粉……レモンの皮……レモンの皮?」
本を見ながら材料と道具を揃える。レモンはなかったので庭のレモンの木から採ってきた。
そうしてマドレーヌを作り始めたが、薄力粉を計るときに薄力粉をこぼし、電子レンジでバターを破裂させ、電子レンジの中に溶けたバターが固まる。更に力任せに生地を混ぜる度にキッチンに生地が飛び散った。
生地は出来たものの、それまでにキッチンは酷い有り様になっていた。
「貝殻の形の型なんてないよ~! あ、そういえばりょかちゃんは銀のお皿で作ってたな……」
キッチンの惨状には目もくれず、棚からカップを探し出す。
「あったー! これこれ!」
見つけたカップを並べて生地を注ぐ。
なみなみと入ってるものや、他のよりも明らかに少ないものもあるが、茜はそんなことは気にしない。
百八十度に設定したオーブンで十五分計って焼き始める。
「りょかちゃん喜んでくれるかな~! びっくりするかな。」
焼き始めて暫くすると、初めてお菓子を作って上機嫌な茜の元へ、白衣を着た涼香が降りてきた。
「茜。何してるの? なんか焦げくさ……」
涼香は目の前に広がる光景に絶句した。
キッチンには粉が零れ、飛び散った形跡のある黄色い生地が乾燥して固まる。オーブンから焦げた臭いが漂い、使った道具は洗わず水に浸けっ放し。
「あっ! りょかちゃん!」
涼香を見て、茜は嬉しそうにドヤ顔をした。
体から隠さんばかりに褒めてほしいオーラが溢れている。
「あのね! マドレーヌ作ったんだ! 今焼いてるの!」
涼香はキッチンに行って、オーブンの中を覗く。
確かにマドレーヌがきちんと焼かれているように見えた。温度を見ると百八十度。
涼香は茜に尋ねた。
「何分焼いてるの?」
「えーっとね。十五分! んで今十分過ぎたよ!」
そう言って涼香にタイマーを見せた。タイマーは九分四十六秒を表している。
「……茜。」
「なーに?」
「……焦げてるわ。」
「えーーーーーっ!!!!! そんなわけないよ! だってまだじゅっ……」
抗議する茜をよそに涼香はオーブンを開けた。甘い匂いと焦げた臭いがキッチンに充満する。
マドレーヌは六個中三つが焦げて黒くなっていた。」
「えーーーーーーっ⁉ なんでなんで⁉ ちゃんと時間図ったよ⁉」
「それ以前の問題よ、茜。まず生地がそれぞれのカップに均等に入っていない。それから……」
涼香は焦げてない、比較的焼き色のいいマドレーヌを茜に渡した。
「食べてみて。」
茜はそれを口にする。そして表情を曇らせた。
「焼けてない……」
茜の食べたマドレーヌは表面は焼けていたが、中まで火が通っておらず、半生状態だった。
「そう。温度も違うわ。マドレーヌはまず二百度で八~十分焼くの。それで生地の真ん中が膨らんだら温度を百六十度に下げて更に十分焼くのよ。」
「そうなんだ……めんどくさいね……」
「本見ながらやったんでしょう? 温度は書いてなかったの?」
「書いてた……と思う。でも大体でいっかなって……」
「焼くことはお菓子を作る過程において最も大切。あと時間はタイマーじゃなくてオーブンに内蔵されているのを使ったほうが正確よ。事実、茜のタイマー壊れてるしね。」
「ええ⁉ そうなの⁉」
「それ途中で時間止まっちゃうのよ。どうしてオーブンの使わなかったの?」
「オーブンの……使い方よくわからなくて……」
落ち込む茜に涼香は優しく笑って言った。
「でもよくここまで出来たわ。初めてにしては良い方だと思う。」
そして別の生焼けのマドレーヌを取って食べた。
「りょかちゃんそれ……!」
「うん。確かに生焼けだけど、美味しいわ。塩と砂糖を間違えてないし、ちゃんと隠し味も入ってる。」
「隠し味……?」
「そうよ。茜が私の為に作ってくれたって想いがちゃんと入ってる。どんなお菓子でも愛情が入ってなかったら美味しくないもの。茜はちゃんと食べる人のことを考えてお菓子を作れているわ。」
「りょかちゃん……!」
嬉しそうにうっすら涙を浮かべた茜だったが、涼香は急にいつもの真顔に戻って言った。
「でもこのキッチンはいけないわね……作りながら片付けるのはお菓子だけじゃなくて料理をするときでも基本中の基本……このキッチンじゃ食事もお菓子も作れないわ……」
静かに怒りのオーラを出す涼香に、茜が青ざめる。
「ごめんなさい~~~! 今すぐ片づけるよ~~~!」
茜が片付けている間、涼香はなんとなくテレビをつけて、茜の使っていたお菓子の本をなんとなく見ていた。
テレビは昼のワイドショーを終え、どのチャンネルもニュースの時間帯だ。
日本という国は平和なもので、いくつかの事件を流した後、動物園に生まれたパンダが可愛いだの魚介が美味しいだのといった情報に切り替わる。それが終わってもさっき流れた事件を再度流し、それに関してコメンテーターがテンプレのようなコメントを残す。
見てはいなかったがなんとなく涼香がチャンネルを変えると、大きな病院が映され、そこの経営者がインタビューを受けていた。上の見出しには『日本で最も多くの臓器移植に成功した病院』と出ている。
画面の中のインタビュアーが言った。
『先生の病院ではドナーからの臓器提供率が最も高いとか……』
『ええ。日本には多く臓器を必要とされている方々がいらっしゃいます。その方々の為に、脳死で亡くなってしまった家族の遺族の方々が、提供を快諾していただけているというだけです。ですので決して我々の力では……』
涼香はそこでテレビを消した。同時に茜の声がかかる。
「ふいーー! 終わったよ! りょかちゃん! ……りょかちゃん?」
反応のない涼香の顔を茜が覗き込む。
「え⁉ どうしたの⁉ どっか痛いの⁉」
「え?」
驚く茜の声にようやく反応する。茜は心配と不安がごっちゃになったような顔をしていた。
「どうして?」
「だって……りょかちゃん……泣いてるよ?」
そう言われて涼香は自分の頬に手をやる。しかし涙は伝っていない。
「そっちじゃなくて、右。」
右側を触ると確かに涙が流れていた。正確には右からしか涙は出ていなかった。
「ごっ、ごめんね! 私がキッチン汚しちゃったから⁉ あっ、マドレーヌ失敗しちゃったからかな⁉」
茜がオロオロしながら謝る。涼香は涙を拭うと微笑んで言った。
「大丈夫。茜の所為じゃないわ。気にしないで大丈夫よ。」
そしてキッチンを見て言った。
「うん。綺麗になったわね。じゃあ今日は何が食べたい?」
「えっと……オムライス……」
「わかったわ。デザートは私が決めちゃっていいかしら。」
そういって言って遅めの昼食の準備を始めた涼香の背中に茜が言った。
「本当に大丈夫? 何か、辛かったら……」
「問題ないわ。心配しないで。」
そう言って涼香が微笑むと、茜は少しだけ心配したような顔で頷いた。