BLOOD STAIN CHILD ~a moment nickname~
器用に片足を鉄棒に掛けながら、ミリアは必死にぐるぐると前回りを回り続けていた。目の前には美桜がいて、半ば驚嘆した目つきでその回数を数えている。
「二十一、二十二、二十三、……ミリアちゃん、大丈夫?」
ミリアは顔を真っ赤にしながら新記録に挑戦する。
「二十四、二十五、二十六、……目回らない?」
自分が今鉄棒の上にいるのか、下にいるのか、そんなことはとうにわからなくなっている。ただ美桜を驚かせるのだ。そればかりがミリアの胸中を覆っている。
「……三十!」
ミリアはようやくその声を聞いて、熟れた果実がぽたりと地面に落ちるように、鉄棒から腕を離した。すたん、と両手両足がグラウンドの冷ややかな土を触る。
「凄いよ! 三十回も連続片足前回りできた! 明日先生に言おう! 絶対先生もびっくりするよ!」
ミリアは盛んに目を瞬かせる。「……もっとできそう。四十回ぐらいは。」
美桜はぎょっとしてミリアの肩を掴み、「もう十分だよ。これ以上やったら、ミリアちゃん目回りっぱなしになっちゃう。……どう? 立てる?」
美桜が手を差し伸べる。ミリアは美桜の手を握り、そうして何度も首を振り、視界がどうにか均衡を取り戻すと「うん。」と言って立ち上がった。
学校のグラウンドは放課後ということもあり、多くの児童たちがあちこちで遊びに興じている。その時鉄棒の方に向かって、グラウンドの中央の方から声がした。
「相原―! 黒崎―!」
見れば、クラスの男子たちが汚れたサッカーボールを持ってこちらに向かって手を振っている。
「一緒にフットベースやろうよー!」
「人数足んないだよ!」
盛んに声を上げる。美桜とミリアは見詰め合った。それから笑顔でうんと肯き合うと、手を繋いだままグラウンドへと走り出した。
「ああ、良かった。ユウタがテニススクールに行く時間だっていうからさ。」一番体の大きなコウヘイがそう言って安堵の溜め息を吐く。
「ごめんな。」ユウタはその傍でランドセルを背負った。
「でも一試合は、できたしな。」別の男子がそう言ってユウタのランドセルの埃を払ってやる。「また明日続きやろうぜ。」
「うん。明日はテニスもないから。」ユウタは苦笑を浮かべる。
「ユウタ君、テニスなんて習ってるんだ。凄いね。」ミリアが感嘆の声を上げた。
「そう、駅前にあるスクール。週に一回だけだけどね。まだ始めたばかりだけど、楽しいよ。そろそろお母さんが迎えに来てくれるんだ。」
「ふうん。」
すると校門の前に、大きな銀色のメルセデスが停まった。窓がゆっくり下がり、中の運転席からユウタの母親が笑顔で手を振った。「ユウ君!」
「あ、来た! じゃあ、またね。また、明日。」ユウタは嬉しそうに校門の方へ走っていく。
「よっし、じゃあ続きやるか。相原と黒崎はユウタの代わりな。人数増えちゃうけど、お前ら仲良しだしおんなじチームでいいよ。」コウヘイが言ったが、しばらくミリアは眩しいものでも見詰めるようにユウタの後姿を見守っていた。
「どうしたの?」心配そうに美桜が問うた。
「さっき、ユウタ君のママ、ユウタ君のことユウ君って言った。」
「そだね。おうちではきっとそう呼ばれてるんだね。」
ミリアは驚いたように美桜を見詰めた。「美桜ちゃんはおうちでは美桜ちゃんじゃないの?」
「美桜って呼ばれてるよ。ママには。パパは美桜ちゃんって呼ぶけど。」
「美桜ちゃん……。」ミリアは呟くように繰り返した。「いいな。」
「ミリアちゃんはお兄ちゃんに何て呼ばれてる?」
「ミリア。……ミリアちゃんじゃなくって、ミリア。」ミリアは口を尖らせながら言った。「リョウに、ちゃんって付けて呼んでもらいたいな……。」
美桜は暫く考え込んだ。「じゃあ、ユウタ君ちみたいにさ、あだ名を付ければいいんじゃない?」
「あだ名?」
「そう。……ミリちゃんとか。」
ミリ、は算数の時間に出てきた単位だ。あまり喜ばしいものではない。「ううーん。」ミリアは頬に両手を添えてとりあえず否定の意を表すと、突如「みーちゃんにする!」と叫んだ。「猫ちゃんの名前みたいでかっわいいもの! みーちゃんって呼んでもらおう!」
「わあ、かわいい。みーちゃん!」
「おい、相原、黒崎、早くこっちに並べよ!」コウヘイが呆れたようにグラウンドの真ん中から叫んだ。
「黒崎じゃあないの、みーちゃんなの!」ミリアは早速新たなあだ名を公表し、上機嫌で駆け出して行った。
「あ、待って! ミリアちゃん、じゃないみーちゃん!」
「みーちゃん?」グラウンドの中央に集まった男子たちは一斉に口をひん曲げて聞き返したが、「そうなの。今日からみーちゃんって呼んでね。」とミリアはそう言って俄然胸を張り、一切引く気配を出さないので、別に不便ではなし、それに、まあ、可愛いと広く校内に名の知れているクラスメイトに対し、自分たちだけが特別な名称で呼ぶのは決して悪いことではなかった。
「わかったよ。じゃあ、黒崎はみーちゃんな。」
「うん。よろしく。」何がよろしくなのかはわからなかったが、美桜以外に初めてちゃん付けで呼ばれ、非常な満足がミリアの胸中を覆った。
そうしてフットベースは行われた。ミリアはなかなか運動能力が高く、男子にも負けじと何度も高々とボールを蹴り上げたし、ボールを素早く追いかけた。
「ミリ……、じゃない、みーちゃん凄い、凄い!」先程の鉄棒の前回りよりも大活躍である。少々運動能力ではミリアに劣る美桜は、何度も手を叩いて賛嘆した。
フットベースが終わる頃、下校の放送が流れ出した。グラウンドに見回りに来た教師に促され、児童たちは渋々帰る準備をする。ミリアも男子たちに手を振り、美桜と二人校門を出た。
「楽しかったねえ! フットベース。いっぱい蹴っ飛ばしたねえ!」美桜が興奮しきりといった口調で言った。
「うん! またやりたいね! ユウタ君もいたらよかったのに。」
「今度は体育でやらせてもらえるといいね! みんなでやったら絶対楽しい!」
「そうそう! それにこれで、みーちゃんってあだ名もみんなに覚えて貰えたしね。」
「うん!」ミリアはすこぶる上機嫌である。可愛い子猫のような名前だ。なんだかみんなに愛されるべき子になったような気さえする。
「今日帰ったらリョウに、フットベースやったこと教えてあげよ。ミリアが、……じゃないみーちゃんが3点も取ったこととか!」
「そうだね。お兄ちゃん何て言うかな? 凄い、凄いって言う?」
「あのねえ、きっと言うよ! リョウはとーっても、優しいの! あのねえ、ご飯も美味しいしねえ、それからお誕生日とかそういう時にはプレゼントって買ってくれるし!」
「優しいねえ。」
「そうなの!」嬉しくて飛び上がったので、ミリアの水色のランドセルの中で筆箱がかしゃんと鳴った。
「今日リョウおうちにいるかな。いてくれるといいな。」
「そっか。会社にお勤めじゃないから、帰ってくる時間もバラバラなんだね。」
「そうなの。ライブの時とか、りはーさる? の時とかは真夜中にならないと帰ってこないし、でもレッスンだけの時は早く帰ってきてくれるの。そうすると一緒にスーパー行ったり、ご飯作ったりもね、するの。」
「いいねえ。」
「いいの。」
ミリアはアパートの前に立つと「じゃあ、美桜ちゃんまたね。」と満面の笑みで言った。「うん、またね、みーちゃん!」そう言って美桜は大きく手を振って歩いていく。
「ばいばーい!」
アパートの下にリョウの黒いバイクが停まっているのを発見すると、ミリアは慌てて部屋へと駆けあがった。「ただいま! ただいま!」
リョウはソファに座ってギターを弾いていた。「おお、お帰り。」
「ねえ! 今日ねえ!」ミリアはランドセルを背負ったままリョウの隣に座り込んだ。何から言おうか、頭の中があれこれ渦巻いていく。
「今日何があった?」面白そうにリョウが尋ねる。
「あのねえ、ミリアのあだ名何だと思う?」
「はあ? あだ名?」リョウは眉間に皺をよせミリアを見下ろした。
「そう! 今日ミリアあだ名を付けたの! 何だと思う?」
リョウは首を傾げて、「はあ? ……チビとかか?」と身もふたもないことを言った。
ミリアの顔がみるみる強張る。「酷い! 酷い! うわあーーー!」拳でやたらめったらリョウの背を叩いた。
「お、お、怒るなよ。悪かったよ。じゃあ、何だよ、猫好きちゃんか、……それともギター弾きちゃんか……。」すこぶるセンスのないあだ名を思い浮かべて言った。
ミリアは濡れたまつ毛を力いっぱい拭って、「違う。」と言下に言い放った。
「じゃあ……」リョウは考え込む。しかし思いつくのはチビ以上の罵倒ばかりだ。本棚崩壊ちゃんに、プリント溜め込みちゃん……。更にミリアは怒るだろう。「わっかんねえな。」
「教えてあげんね。あのね、」勿体ぶって「みーちゃん。」ミリアはにっと笑って言った。
「みーちゃん?」それってあだ名なのかとリョウは訝る。
「そうなの。だからリョウもミリアのこと、みーちゃんって呼んでね。」
「はあ? 何で。」
「だから、ミリアのあだ名なの! ちゃんとみーちゃんって呼んでね!」
はなはだ面倒なことになった。しかしミリアが何かを頼み込んでくるということは、ほとんどなかったことなのでこれを無下にするのは、忍ばれた。
「ちゃんと、ちゃん、まで付けてね。みーちゃん、なんだから。」ミリアは胸を反らせて大層自信満々にそう言った。
既に夕飯の材料は買い込んでいたので、リョウは台所に立ち、豚肉と白菜のミルフィーユを作っていくことにした。
「ミリアもやる。」約束の宿題の漢字ドリルを終えたので、リョウはミリアに鍋を渡し、白菜をちぎって「端っこから肉と交互に入れてくんだ。」と、一枚一枚入れるよう指示する。
ミリアは言われた通り、丁寧に一枚一枚白菜と肉を交互に敷き詰めていく。
「そうそう。ミリアは巧ぇな。」
にわかにミリアは渋面を作り、「ミリアじゃない。みーちゃん。」
「あ、そうか。みーちゃん。」リョウはそう言っていつまでこれが続くのだろうかと、頭を重くした。
「うん、みーちゃん。」
リョウは肉の下ごしらえをしながら、「それって、誰かに付けられたんか。」と尋ねた。
「ううん。ミリアが付けた。」
「何だそりゃ、自分で自分のことみーちゃんって呼べっつったのか。」
「そうだよ。」
「……面倒くせえ奴だって言われなかったか。」
ミリアは口を尖らし、「言わないもん。ユウタ君だっておうちではユウ君って呼ばれてるんだもん。ミリアだって……」ちら、とリョウを見上げ「ちゃん付けで呼ばれたいんだもん。」と言った。
「そんなもんか……。」
「リョウはリョウちゃん……?」
リョウはぎょっとして手を止めた。「お、俺はリョウでいい。」
「ふうん。……みんなリョウって呼んでるから?」
「そうだな。メンバーも客もリョウって呼ぶしな。まあ、バンドネームでもあるかんな。」
「ばんどねーむ? はリョウが決めたの?」
「ま、そうだな。」
「じゃあ、ミリアがみーちゃんって付けてもいいじゃない。」
「……ま、たしかに。」
鍋にはぎっしりと白菜と豚肉が並べられ、火に掛けられた。
それからは暫くうっかりリョウがミリアと呼び、訂正されるということが幾度となく繰り返され、夕飯を終え、ギターの練習を終えると、ミリアはお気に入りの猫のぬいぐるみを手に、夢の中へと誘われていった。
翌朝、ミリアは元気いっぱいに学校へと出かけていく。
「今日、リョウは早く帰ってくる?」
「そうだな。今日はレッスンと雑誌のインタビューだけだから。まあ、夕方には帰ってくるよ。今日はスーパーへでも一緒に買い物行くか?」
ミリアは目をぎゅっと瞑りその場で激しく足踏みをし、全身でその溢れんばかりの喜びを表現してから、「いってきます!」と玄関から駆け出して行った。
アパートの前には美桜が待っていて、一緒に手を繋いで学校へと歩き出す。ミリアは「今日はね、リョウとスーパー行くの。」などと言っている。
「へえ、いいなあ。」
「うん! リョウのバイク乗るとねえ、風がぎゅーんって当たるよ。雨の日は乗れないけど、晴れの日はすっごい気持ちいいの。」
「ねえ、美桜ちゃん!」後ろから声がする。
美桜とミリアは二人で振り向いた。そこには同じクラスの女の子三人がいた。「おはよう。」
「ミリアちゃんもおはよう!」
「今、みーちゃんって呼んだのかと思った。」
「ううん、美桜ちゃんって呼んだよ。」女の子が笑って訂正する。
「あのね、ミリア、あだ名付けたの。みーちゃんって。」
「へえ、そうなの。」女の子が目を丸くする。「じゃあ、気を付けて呼ばないとね。美桜ちゃんっていう時と、みーちゃんっていう時。二人いつも一緒にいるから。」
「うん。」ミリアは心得顔で肯いた。この新たなあだ名は美桜とも似ているのかと思い、ますます機嫌を良くした。
放課後になるとコウヘイが「フットベースやろうぜ!」と教室で人数と募り始めた。「今日はユウタもできるだろ? 相原と黒崎も、どうだ? ……あ、黒崎じゃないや、みーちゃん。」少々照れたように言った。
「みーちゃん?」と怪訝そうに問い返したのは、同じクラスの麗奈である。
「そうなの、ミリア、あだ名付けたの。みーちゃんって。」だからそう呼んでね、とミリアが言い終わらぬうちから麗奈は、ずいとミリアの前に立ちはだかり、強固に「おかしいじゃない、そんなの。」と言い放った。
「え。」
「何で自分勝手にあだ名付けるの? おかしくない?」
ミリアは目を見開いて硬直している。
「あのね、麗奈ちゃん。ミリアちゃんがそう呼んでほしいっていうんだから、別にいいんじゃない?」美桜はミリアを庇うように言った。
「だってさ、あだ名って人から付けてもらうもんだよ。自分でこう呼んで、なんておかしいよ。」
ミリアの手が細かく震え始める。
「いいじゃん、別に。」ユウタがにこやかに助けに入る。「みーちゃんって、なんか、可愛いし。」
麗奈の顔色がさっと変わった。
「可愛いからいいの? そんなの自分勝手! 先生だって自分勝手はダメって言ってるじゃん! だってうちのクラスだけだって、みの付く子は他にもいっぱいいるんだよ? その子たちに、ちゃんと『いいよ』って言って貰ったの? 美桜ちゃんだってそうじゃん!」
「でも……。」美桜が言い終わらぬ前に、「だいたいさ、」麗奈はほとんど泣きそうになりながら、激しく抗議を始めた。「ミリアちゃんってわがままなんだよ。うちのクラスだけだって、美桜ちゃんも、美咲ちゃんも、みのりちゃんだっているんだよ? なのに自分勝手にみーちゃんなんてあだ名にしちゃったら、他の子にめいわく!」
「そんな……。」ミリアの双眸は既に潤んでいた。
「だってそうじゃん! 誰にも相談しないで自分勝手に、一番最初に言ったもん勝ちなんて、思いやりがないよ! 絶対先生に怒られると思う!」
ミリアの肩が震え出す。
「そんなことないって。たかが呼び方ぐらいでさ。」ユウタがそう言って顔を顰めたのを横目に、麗奈は慌ててランドセルを背負った。
「だいたいさ、ミリアちゃんっていっつもそう! わがまま! 可愛いから何してもいいって思ってるんじゃないの? 貧乏な癖に、美桜ちゃんにくっ付いてさ。美味しいお菓子とかいっぱい貰ってるんでしょ? 知ってるから!」
ふんとそれだけを言い捨てると、麗奈は教室を駆け出して行った。
残されたミリアは俯いたきり、硬直している。
「酷い……。」美桜は口元を震わせた。そして、怒りを向けるよりも今一番自分の成すべきことは、目の前の甚く傷付いてしまったミリアのフォローにあることを思い出し、慌ててそっとミリアの肩を撫でた。「ミリアちゃん……。もう、帰ろうか。ごめんね、フットベース、また今度ね。」美桜がそうコウヘイに言って、ミリアにランドセルを手渡す。ユウタもコウヘイも何と言ったらいいのかわからず、ただ目配せをし合っていた。美桜はミリアがランドセルをなかなか掴めないので、そっと腕を引いて背負わせてやった。
そのまま手を引いて、無言で教室を出て行く。
「ミリアちゃん、……じゃない、みーちゃん、気にすることないよ。」美桜は昇降口を出た所で、無言のミリアにそう語り掛けた。「みーちゃん、全然自分勝手なんかじゃないし。いつも優しいし。私にとって一番の親友だよ。一緒にお菓子食べるのだって、ミリアちゃん、……じゃないや、みーちゃんと一緒に食べると特別美味しいから、一緒に食べてるだけなのに。なんか麗奈ちゃん、勘違いしてるよ……。」
ミリアの双眸から遂に大粒の涙が零れ落ちた。
「ミリア、……ミリア、美桜ちゃんもみーちゃんなのに、全然麗奈ちゃんに言われるまで気付かなくって……。自分ばっかりみーちゃんになって。」
「そんなこと!」美桜は驚いたようにミリアの前に立ちはだかった。「私はみーちゃんって呼ばれたいって思ってなかったし。」
「……でも、美咲ちゃんのこともみのりちゃんのことも、考えなかった……。」ミリアの喉から嗚咽の声が漏れ始める。
「麗奈ちゃんさ、」美桜はミリアの手をぐいと握りしめて言った。「ユウタ君のこと、好きなんだよ。それで、ユウタ君がミリアちゃんに向かって、みーちゃんっていうあだ名可愛いって言ったから、怒っちゃったんだよ。ミリアちゃんが自分であだ名付けたって、ちーっとも悪いことじゃないのに。」
うわああああ、とミリアの泣き声が甲高く響き渡った。美桜は驚嘆して足を止める。
「ミリアが、ミリアが、自分勝手なことしちゃったから。……ごめんなさい。」
美桜はミリアを不器用そうにぎゅっと抱き締めた。ミリアは思ったよりもずっと温かかった。「全然自分勝手なことなんて、してないよ。」
「もう、やめる、みーちゃん、やめる。」
「……ミリアちゃんの好きにしていいんだよ。」美桜は溜め息混じりに答えた。「でも、ミリアちゃんは私の一番大切な親友だから。ずっとだよ。」
美桜は盛んにミリアの肩を撫で、それから「ミリアちゃんは何にも悪いことしてないよ、大丈夫だよ。」と何度も何度も呟くように語り掛け続けた。そして二人は、ミリアのアパートの前に到着した。
「ミリアちゃん、明日学校来るよね? 私、迎え来るからね。朝、ここで待ってるからね。」
ミリアはぐすり、と鼻を啜り上げるとうんと小さく肯いた。「美桜ちゃんと、一緒に、行く。」
美桜の顔がぱっと笑顔になる。「また明日ね。」いつもの挨拶が自然と出た。「またね。」ミリアも泣き顔の向こうにどうにか笑顔を取り戻し、そう言った。
それでも一人になると、自ずと涙が頬を伝ってくる。ミリアは泣き声を上げながら家の扉を開けた。
作曲のためにパソコンに向かっていたリョウは、転げ落ちるようにしてミリアの前にしゃがみ込む。
「おいおい、どうした。」
「うわああああ。」
「どうした? 美桜ちゃんと喧嘩でもしたんか?」
ミリアは激しく首を横に振る。「仲良しいいいいい。」
「じゃあ、……何だ? 誰かにいじめられたんか?」
ミリアは再び首を横に振った。
「……じゃあ、どうしたってえんだよ。」
ミリアはしゃくり上げながら一言、一言、今日麗奈に言われたことを語った。しかし、貧乏云々は言葉にはできなかった。言葉にするには、あまりにそれは刺々しく、ミリアの喉元を通り過ぎることはできないのである。
一通り話が終わると、「……そうか。お前はいい子だよ。わがままなんて、一緒に暮らしてから一度だって聞いたことねえし。可愛いみーちゃんだよ。」リョウはそう溜め息混じりに言って、ミリアを抱き締めてやる。
「もう、みーちゃんやめる。もう、やめる。ミリアでいい。」ミリアが涙声でそう訴えるので、リョウは思わず吹き出しそうになる。
「そうか。でも、ミリアっていいと思うけどな。他に聞いたことねえし。」
ミリアは余計に泣き声を大きくする。
「みーちゃんだと、たしかに他にもいっかもしんねえけど、ミリアは一人だ。ミリアって聞くと、すぐにミリアを思い出せる。俺はミリアって呼ぶのが好きだな。」
「……本当に?」ミリアは腫れた目でリョウをじっと見つめた。
「ああ、本当。」ミリアのか細い腕が強くリョウの首を抱き締める。
「だから、気にしねえで明日から元気で学校行けよ。」
ミリアは無言で何度も頷いた。
ミリアは宿題のドリルをテーブルの上に出すものの、さすがに集中できないようで、一問を解いてぼうっとし、また二問目を解いてぼうっとする有様である。リョウは見て見ぬふりをしながら、「さあて、曲作りもそこそこ出来てきたし、そろそろ飯でも買いに行くかな。」と独り言めいて言ってはみたものの、いつものようにミリアがうわあいと歓声を上げたり、颯爽と準備を始めたりする様子はない。仕方ない、一人で買い物に行ってくるかと立ち上がった矢先、リョウの携帯が鳴った。
画面を見れば、美桜の母親からである。何だろうと思って電話を取ると、心配そうな声が響いてきた。
「すみません、突然に。相原美桜の母親です。」
「ああ、いつもお世話んなってます。」リョウは愛想よく答えた。
「あのですね、ミリアちゃん大丈夫ですか? なんでも学校で、ミリアちゃんがお友達に酷いことを言われたって、帰ってくるなり美桜が……。」
「ああ。」リョウは苦笑を浮かべる。「大したことねえんすよ。まあ、子供のよくある喧嘩っていうか……。」
「あの、うちの美桜、本当にミリアちゃんのことが大好きなんですよ。」
「ありがたく思ってます。馬鹿だし、片付けもできねえのに、いっつも面倒見てもらっちゃって。」
ミリアが抗議の眼差しを向ける。リョウは優しくその頭を撫でた。
「あの……突然こんな話をして、変だと思われるかもしれないのですが、ミリアちゃんが越してくる前に、実は、うちの美桜、円形脱毛症になってしまったことがあるんです。」
「はあ。」リョウは目を丸くする。小学生で、ましてやあの優等生の子が一体なぜそんなことになってしまうのか、想像もつかなかった。
「お医者さんに連れていきましたら、ストレスだって。小学生なのに、そんなこと信じられませんよねえ、でもそう、仰って。それまであの子、自分から英会話習いたいとか、バイオリンやりたいとか、色々言ってどれもこれも頑張っていたんです。本人がやりたいのなら、やらせようと主人とも話し合って応援してきたんですが、それが自分でも気づかない内にストレスになっているのかもしれないと。巧く、こう、言葉で表現できない子供には往々にしてそういうことがあるのだと、お医者さんに言われまして、……本人がどうしてもって言った英会話だけ残して全部辞めさせたんです。そして、これから習い事やっていた時間をどうやって過ごすのかなと思って見ておりましたら、ちょうどミリアちゃんが越してきてくれて、二人して毎日遅くなるまで遊ぶようになって。あっという間に円形脱毛症が治ってしまったんです。」
「はあ。」
「やっぱり習い事でがんじがらめにするよりも、お外で目いっぱい遊ぶ方がいいんですよね。子供時代には子供時代にしかできないことがありますものね。美桜も、ミリアちゃんといるととっても楽しいんだって言ってます。一緒にお菓子作りしたり、ビーズ作りしたり、お庭で自転車乗ったり、犬のロビンと遊んだり。……ですから、ミリアちゃんには本当に感謝しているんです。たしかに学校で先生には信頼して頂いているようですが、今まで、そんな風に毎日一緒に遊ぶ友達なんていなかったんです。習い事をしていたせいかもしれませんが、でも、美桜は学校に行くのも今ほど楽しそうではありませんでした。物がなくなったり、そんなこともありましたし。ミリアちゃんに悪口言ってきた子というのも、実は去年美桜とトラブルがあった子で。なので、ミリアちゃんに負けないでって、そう伝えて下さい。美桜も、それから他の子たちも、ミリアちゃんの味方でいるからって。」
リョウは礼を述べ、困惑した表情で「お前のこと、心配してくてれるよ。」とだけ伝えた。ミリアは目を合わせなかった。ただただ、安堵感に胸が温かくなるのを感じた。
「ねえ、リョウ、スーパー行くの?」
「ああ。」
「ミリアも行く。」ドリルはほとんど白紙であったが、リョウはにっこりと笑って、「じゃあ、一緒に行くか。」とバイクの鍵とヘルメットを手に、玄関を出た。階段を降りていくと、そこには数人の小学生の男の子たちが、何をするでもなく、いた。
「あー! みーちゃん!」と真っ先に叫んだのはコウヘイである。
ミリアは一瞬驚いた顔をしたが、みるみる頬を赤くして、「もう、みーちゃんじゃない。何で、ここにいんの。」と拗ねた。
「だって今日、フットベースやんないで帰っちゃったから。岡本に悪口言われて、帰っちゃったから。……その、心配でさ。」
リョウは噴き出す。「お前、凄ぇな。泣いて帰ったら美桜ちゃんのお母さんから電話くるし、こんなにクラスの子来てくれんのか。モテモテだな。」
ミリアは怒っていいのか笑っていいのかわからず、リョウの後ろでもじもじと足踏みをした。
「ねえ、今からフットベースやりにいこうよ!」
「相原も誘ってさ!」そうほぼ同時に叫んだのはユウタである。
リョウはミリアのつむじを見下ろす。「行ってこいよ。」驚いたようにミリアはリョウを見上げた。「いいの?」
「夕飯までには帰ってこいよ?」
「うん!」ミリアはリョウの手を強くぎゅっと握りしめると、一目散に階段を駆け下りていった。陽に当たった髪がキラキラと輝いていた。