悪食
随分と蒸し暑い日だった。
そもそも仕事云々と言う前に、スーツを着て街中に只突っ立て居るだけで、全身に汗が滲んでくる。
今日は余り外を歩き回らずに済む事が、唯一の幸いだった。とは言え、出張の目的である会議はと言えば、どうせ、むさ苦しい集団が小難しい顔を突き合わせ、腕組みうんうんと唸り声を上るだけの、生産性の欠片もないものになるだろうことが目に浮かんでいた。
折角遠方から来たというのに、碌に収穫もなく、只徒労感だけを背負うとあっては、先の会議が思いやられる気分だ。
どうやってあの無益な時間をやり過ごすか。そんな、気が滅入るようなことを考えている最中、友人から連絡が来た。どこから仕入れたのか、私がここに来たことを知ったらしい。『夕食を食べに来ない?』と言うが、そもそも夕飯時に、同棲している彼氏の邪魔になるのは如何なものかと思った。それに、食事の最中、私の眼前でいちゃつかれるのも、この陰鬱な気分が一層やり切れないものになってしまう。
ホテルを取っているからと、言い訳にもなっていない様な断りを入れると、どうやら向こうも察したらしい。『彼氏も出張で今いないから、女子会って感じでさ!』と豪く元気のよさそうな返事が返ってきた。自分で食事が出ないプランのホテルを予約しておきながら、これからの夕食のこと等碌に考えてもいなかった。その上、会議の後の草臥れた様を想像すると、迚も自分で食事を見繕う気にもなれそうにない。
それなりに気心の知れた女二人であれば、気も使うこともそう無いだろう。そう思い、彼女の誘いに乗ることにした。
白塗りの壁で、シンプルな造りの四階建てのアパートだが、一応最低限の防犯設備は整っているらしい。入り口の自動ドアにはロックが掛かっており、所々に防犯カメラが設えられている。
事前に教えて貰っていた暗証番号を打ち込み、中に入る。四階建てということで、エレベーターといった様な、気の利いたものは無かった。仕方がなく、ワックスで磨かれ、踏みしめる度にキュッと音を立てる階段を上る。彼女の部屋は最上階とあって、重い足取りとやたらに響く足音が、僅かに私を苛立たせた。
廊下や階段途中に嵌った窓は一つも空いておらず、密閉された建物内のむっとした空気も相まって、私はたっぷりの汗をたっぷりと掻いて、私は廊下を進んだ。
玄関のドアが開いた瞬間、私は後悔した。
私の背後でドアを閉める彼女が発する溌剌とした挨拶や世間話も耳に入らない。
あぁまずいな。
疲れ果て、感覚が鈍った私は、只そう思った。
「どうかした?」
余りにも私がぼうと突っ立っていたせいか、彼女の不安げな顔が右横から視界に割って入ってきた。
「あぁ、ごめん。どうも疲れちゃってね・・・」
適当に言葉を濁し、彼女の案内に従い鞄を下ろし、テーブルに腰を下ろした。硝子でできたその上には、既に箸とお茶が注がれたグラスが置かれていた。
「仕事お疲れ様っ!適当に寛いでいていいよ~。もうすぐできるから」
「お気遣いどうも。早速お茶でも頂こうか」
そう言いながら右手で掴んだグラスが、やけに冷たく感じる。右手どころではない。冷えたそれに触れた途端、疲れで鈍っていた感覚が蘇り、全身に悪寒が走る。震える手でそれを口元に運び、無理やり中の液体を喉に押し込んだ。恐らく麦茶だろうが、味はせず、唯その冷たさが一層身体を冷やした。
「今日仕事休みでさ、ずっと部屋に居たんだけど、外、暑かったでしょ?」
右手にあるキッチンの方から声が飛んで来た。動揺を悟られては不味いと思い、素っ気なく「まあね」とだけ答えた。
それからは、出来るだけ顔を右に向けない為、部屋の左隅に置かれたテレビに顔を向けて彼女と話した。
しかし、このまま長居をする訳にはいかない。そもそも、この様な状況で食事等、喉を通る訳がない。私はこの場から逃れるための策を必死に巡らせた。もし、何か事を起こすとすれば、彼女が調理に集中し、こちらに目が向いていない今しかない。
私は何気ない様子でスマホを鞄から取り出し、指が震えぬよう慎重に、そして素早く画面に触れる。ふと、腕時計で時間を確かめた。もう八時前になっていた。はたと、目線を腕から手元のスマホに戻し、今すぐ連絡が取れそうな友人に片端から、たった一言を送ってゆく。
「そんなに真剣になって。もしかして仕事関係?」
いつの間にか、盆に皿や茶碗を載せた彼女が、机の向こうに立っていた。
「あ、あぁ。今日の仕事について、ちょっと上司からね」
冷汗が首筋を伝わり、声が変に上ずったり、震えやしないかと胆を冷やす。
「流石キャリアウーマン。大変だねぇ」
そう言いながら、テーブルの上に揚げ物やご飯が次々と食事が置かれてゆく。その香りのせいで、胸の辺りがむかついてきた。
「随分、豪華だね」
気を紛らわせたい一心で、彼女の顔を見る。今の私には、待つしか方法がないのだ。
「そう?いつもこんな感じだよ?さてはぁ、最近ちゃんと食べてないんでしょ~?」
彼女がいやらしい笑みを向ける。これだけを見ていれば、何気ない友人同士のやり取りだ。私は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「ここ最近忙しくてね。大概は外食だよ」
「だろうと思った!そんなんじゃあ女子力、下がっちゃうぞ~」
一層にやけながら、彼女は向かいに腰かけた。
「さぁお待たせ!食べて頂戴な!」
いただきまぁす!と元気よく声を張り上げ、彼女は箸を手に取った。それに習って、遅まきながら慌てて箸を取り上げ、いただきます!、と空元気を絞り出す。些細なことでも、今の彼女ならば機嫌を損ねかねない。
しかし、いざ食べようにも、どの食事に手を伸ばそうか、迷ってしまう。正直に言えば、彼女の作った物など、微塵も食べたくはないが、そうも言っていられない。
私は比較的"まし"だろうと思われる、ご飯茶碗を手に取る。それでも、身体は食事を拒否し、気分は最悪なままだ。鳴らないスマホが恨めしくて堪らない。
「ねぇ!今日のエビフライ、私凄く自信あるの!ちょっと味見してみてよ」
ご飯ばかりをのろのろと口に運ぶ私の様子に堪り兼ねたかの様に、唐突に彼女がこちらに顔を向け、目を輝かせる。
おいおい、勘弁しえくれ。
私はこれに手を付けない為の言い訳を必死に考える。
「私は偏食なのさ。知らなかったかい?特に、こんなに旨そうなメインディッシュは、最後の最後に、ゆーっくり頬張りたい質でね」
え~、だの何だの不服を言ってはいるが、満更でもないといった顔である。
そんな様子に笑いながらも、愈々茶碗は空になり、言い訳が出来なくなってしまったと思い始めた時、待ちに待ったスマホがテーブルの上でがたがたと音を鳴らし振動した。勿論、画面は裏返しておいた。
私はそれを手に取り、画面を一瞥する。そして、誰から見ても、"不快だ"と分かるような、しかめ面を作る。
「ちょいと失礼」
私は顔を左に背け、画面を右耳に押し当てる。
「もしもし、えぇ、私です・・・。はぁ?何ですって?」
勿論、言っている内容は全て出まかせだ。ただ、向かいに座る彼女に向けて、"何かトラブルが起きた"という事を漂わせればいい。
「・・・分かりました。すぐに向かいます」
この一言が重要だ。そして、その後の演技も。
「はぁ・・・ホテルからだ。どうやら部屋が荒らされたらしい」
肩を落として話す私に、彼女は驚いた様子で目を見開いた。
「え、うそ・・・」
「どうも嘘じゃないらしい。向こうも慌てていたよ、とにかくすぐに、確認して欲しいんだとさ」
まぁ盗まれる様なものは無いけどね、とニヒルな笑みを浮かべる。これならば、彼女が私を引き留めることは、普通なら無いだろう。
「早く確認した方がいいよ!」
こんな状況に似つかわしくない程、まっとうな反応だ。しかし、これで安心して、私はここを離れることが出来る。
「折角作ってくれたのに、碌に手を付けられなかった。ごめんね」
「いいよいいよ!それより、急ぎなよぅ!」
その言葉を聞きたかった。
私は鞄を素早く手に取り、足早に玄関に向かう。靴を履く間、私を送り出す為に背後に立つ彼女が、不気味で堪らなかった。
「本当にごめんね」
挨拶もそこそこに、私は玄関をでた途端、走り出した。階段を駆け下り、自動ドアを半ば手でこじ開ける。
駅に着くまで、私は彼女が居るアパートの方を振り返ることが出来なかった。アパートを出たままの勢いで改札を抜け、雑踏に揉まれた時に、漸く安心して、駅の隅の方で一息ついた。
そして、わが救世主たる電話主の友人に再度、電話をかける。
『もしもし、なんだ?いきなり『すぐに電話をかけてくれ』からの、あの出鱈目なお喋り。何かあったのか?』
「何があった、なんてものじゃあないよ。自分が五体満足なのが不思議な程だよ」
『益々訳がわからない。一体何があった?』
「それは・・・先に警察に連絡してから言うよ。取り敢えず、ありがとう。また、かけなおすよ」
"警察"という言葉に驚いたのか、電話口から驚きとも呻きとも言えぬ様な声が聞こえたが、それを無視してそのまま電話を切った。そして、もう一息ついてから、再び画面に向かう。110番なんて、一生縁がないことを願っていたのだが・・・。
しかし、仕方が無いのだ。
腐り始めた死体の真横で、赤黒く血まみれの犯人と、その凶器の包丁で作られた食事なんて、誰も食べれる訳がないのだから。