欲しいのはそれじゃない
「――お話があります」
そう切り出した真帆と魔王の間には、水羊羹と冷えた緑茶が鎮座している。母はまだ帰っていない。狼男と骸骨男は、連れだって銭湯に行った。
ちゃぶ台を挟んで正座する魔王は、頭から角、背から翼を生やしている。「ナミヘーやマスオーとて我が家では着替えて寛ぐであろう」というのが彼の言い分だった。
「なんだろうか」
「実は今日、魔王さんのお子さんにお会いしました」
「ふむ」
うなずいた彼は、ややあってはっとしたように言葉を継いだ。
「ちっ、違う! 我は今はモモコさん一筋で――」
「いや、だからそこはどうでもいいです」
顔の前で手を振ってから、真帆は続けた。
「<魔女王の君>っていう人です」
「まじょおう……」
腕組みをして、水羊羹に、次いで緑茶に、最後に天井に目を遣った彼は、いっそ、かわいいと形容できなくもない仕草で、コテンと首をかしげた。
「誰?」
「だ……誰って、あなたのお子さんですよ。たぶん末のお嬢さん」
「知らぬ」
「いやいやいやいや。ほら、真っ赤な髪で、こう、ぼいぼいーんって感じの……」
胸の膨らみまでジェスチャーしてみせた真帆に、魔王は今度は逆側に首をかしげた。
「覚えがない」
「父親なのに!?」
全力で両手を打ち付けたせいで、ちゃぶ台が揺れた。跳ねたグラスを見もせずキャッチして、魔王は静かに中身をすすった。
「仕方なかろう。我ら魔族の親子の間に、人間のもののような情は希薄だ。特に我のように高位の者の子ともなれば、生まれ出でたその瞬間に独り立ちする。そうできるだけの力があるのだ」
「ネグレクト……!、ヤリ捨て……っ!」
人間社会であれば間違いなく非難の的になるであろう行為。それを当然のようにやってのけたらしい魔王は、今、二つに割った己の水羊羹の半分を、いそいそと真帆の皿に移している。
ともかく、彼に言わねばならぬ。
「お母さんと別れてください」と。
意を決して、息を吸い込んだ真帆の言葉は、発せられることはなかった。
「ただいま~」
という玄関からの声に、魔王が消えたからだ。空になった向かいの座布団に、黒い羽だけが散っている。
「あー、羊羹食べてる。いいなー」
彼は、居間にやってきた母の後ろに、女物のバッグを両手に抱いて続いていた。尽くす系魔王である。
真帆の隣に座った母のために、魔王は台所に消えた。それを見計らってから、真帆は慎重に切り出した。
「あのね、お母さん、魔王さんのことなんだけど――」
今日襲われたんだよわたし。でっかい火の玉ぶつけられそうになったんだよ。クッパかっつーの。わたし、あのブラザーズじゃないんだから残機はイチしかないのにもう無理マジで真剣に無理。だからお母さんあの人と別れ――
「ふふっ」
真帆の言葉が声になる前に、頬杖をついた笑みをこぼした。
「マオさんと仲良くなったんだね?」
「――は?」
母の視線は、真帆の皿の上の1.5個分の水羊羹に注がれている。
「安心しちゃった。マオさん、ちょっと変わってるでしょう?」
変わって――る、という愛らしい解釈の範疇ではなかろう、あれは。
「真帆……」
母の柔らかい手が、口をぱくぱくあえがせる真帆の手を、ぎゅっと握った。
「無理はしなくていいのよ。急に<お父さん>なんて思えないのもわかるし。でも、真帆があの人を嫌いじゃないなら、お母さん、本当に嬉しい」
締め切り明けの疲労が濃い母の目には、涙が光っていた。
「そ、そう……デスカ」
唇をひくつかせる娘の前で、母は目元を拭った。
「やだもう、年取ると涙もろくなっちゃって」
涙を拭った母は、わざと明るい声を出した。
「さて! そんないい子の真帆ちゃんにご褒美でーす!」
じゃじゃーん! と口で言って、母は体の後ろに隠していたらしい包みを取り出した。
華やかな包装紙に、かわいいリボンが巻かれた箱。
きょとんとしている真帆に向かって、母はおかしそうに笑ってみせた。
「やっぱり今年も忘れてた。あんた今日、誕生日じゃない!」
「たん……じょうび……?」
確かに、真帆は元来、今時の若者には珍しいほど記念日にこだわらないタイプだ。誕生日だってクリスマスだって、友達に言われて初めて気づく体たらくである。
ここしばらく続く非現実的な騒動の中にあって、<誕生日>という単語は場違いに過ぎた。その単語は、平凡な幸福感に輝きすぎていた。真帆が忘れていたのも無理はなかったのだ。
(そ、そういえば、今日、みぃちゃんたちがプレゼントくれたっけ……)
その後、焼かれそうになったり吐血の大噴射を浴びたりで、日常の心温まるやりとりなど、すっかりトんでいた。
「ごめんねー、締め切り前だったから今日はプレゼントだけ。ケーキ買ってくるから、週末はパーティーしようね!」
呆然とキラキラ輝く箱を見下ろしていた真帆を現実に引き戻したのは、台所から聞こえたガラスの割れる音だった。顔を上げた先に、戸口で硬直している魔王がいる。足下には、お盆と、緑茶と、水羊羹――確実にキロ単位だ――がぶちまけられていた。
「たん……じょうび……?」
先ほどの真帆とそっくりな口調で、魔王は唇をわななかせた。
「も……っ」
瞬間、魔王は消えた。
そして現れた。母の隣に。
「モモコさん! 何故に我に言わなかった!」
魔王は、鬼気迫る表情で母の両手を握っている。
反対に、母は陽気にケラケラ笑った。
「ごめんなさい、実は私もすっかり忘れちゃってて」
ぺろっと舌など出してみせる母。
光速をも超えそうな勢いで、魔王が振り向いた。焦点を失った金の眼差しが、箱を抱えた真帆に降り注いでいる。
「あ……、あ……、あ……」
肌という肌から汗を垂らした魔王は、
「あぁーーーーーーっ!」
濁点つきの母音を叫ぶなり、消えた。
そして再び現れた。同じ位置に。
が、この瞬きの間に、魔王の様相はひどく変わっていた。マントが半分に千切れている。肩からはプスプスと煙があがっている。そして何より、
「手ーーーーっ!」
左肘から先が、なくなっていた。
「ままま、マホチャン! これ!」
真帆の絶叫の尾が消えぬうちに左手を生やし終えた魔王は、義理の娘に何かを突きつけた。
小ぶりの刀剣であるようだった。緩やかに湾曲したそれは、見慣れた包丁ほどの大きさしかない。黄金に輝く鞘にも、柄にも、無数の宝石がはめ込まれ、複雑な模様が彫られている。博物館にでも飾られるのが相応しかろう宝剣は、しかし、決して人の世のものではない。その証拠に――
(……目が合っちゃったよ、おい)
柄頭には、よく動く目玉が象眼されている。
ばっちり交差してしまった視線を引きはがせない真帆をどう思ったか、魔王は新品の腕をオロオロとさまよわせた。
「うむ、この程度の品では不足もあろう。すまぬ、まことにすまぬ。先に知っておれば世界の半分なりとくれてやったものを――」
「ウレシイ魔王サン! コウイウノ前カラ欲シカッタノ!」
「そ、そうか! つまらぬものではあるが、古き竜どもが、必死に我から守っておった品だ。それなりの力はあろう。それに我がささやかな<調整>を加えておいた」
あからさまに、魔王は胸をなで下ろしたようだった。
「マホチャン、万一、そなたの身に危難が及ぶようなことあらば、その剣を抜くのだ。必ずや、そなたを守ってくれよう」
「ソッスカ……」
巨大な目玉が、じいっと真帆を見上げている。
魔王は、ぱーてぃーには必ずや、必ずや世界の半分を! と意気込んでいる。
母は、そんな義理の父子のやりとりを、微笑ましいもののように眺めている。
「マホチャンよ! 他に欲しいものはないか!? ゴルゴーンの首を百ほどもどうか? 万物を塩の柱ならしむる雷は?」
「わたし……は」
柄をぎゅっとにぎる。金属なのに、金属のはずなのに、人肌のような弾力と温かみがひたすら不快だ。
「消火器が、欲しいかな……」