飾りじゃないのよ赤血球は
「おかえりなさーい、晩ご飯は冷麺ですよー。あっ、髪切ったんですね」
「大胆なイメチェンっすね、似合うっすー!」
夕餉の香りが漂う居間に足を踏み入れた真帆に、狼男と骸骨男は、はしゃいだ声をかけた。
真帆は、自分が少女漫画の主人公たちのメンタリティでなくて本当に良かったと思っている。ゆかしい彼女らなら、己の頭が昭和コント的爆発アフロののち20cmばっさりカットともなれば、深く深く傷ついただろう。かつて、髪は女の命だった美しい時代があった。しかし、今、その価値観は、きっぱり否定させていただこう。危うく本物の命の方を失うところだったのだから。
「……お母さん、今日帰ってくるの?」
「はあい、もうすぐおもどりになりますよー」
台所から狼男が答えた。
ちゃぶ台の前で、見てもいないTVのバラエティを眺めていた真帆は、すっと目を閉じた。
自分は、子どもだ。社会的に保護されてしかるべき未成年だ。
だから、母の胸にすがりついてもいいはずだ。「魔王と別れてええええ!」って。
焼け死にかけた2時間後なら、なおさらに。
「ちわーっす、なんかご用はないっすかー」
瞑目していた真帆の目を開かせたのは、勝手口から飛び込んできた陽気な声だ。
「あ、四河屋のご用聞き」
「次郎でーす。いい加減名前覚えてよお、オオカミちゃーん」
「ちょうど良かった、みりんが切れそうだったんだ。あとキッチンペーパーと、お風呂の洗剤と、あとはええと……」
紺の前掛け姿で戸口に現れたのは、無精ひげが似合う雑貨店の若旦那だ。いつも明るく軽やかな彼は、真帆が生まれたときからの知り合いである。
メモを取りに奥に戻った狼男と入れ替わるように、とことこ近づいてきた真帆を目にとめると、次郎はニカっと笑ってみせた。
「ウィース、女子高生。ベンキョーしとるかね?」
両手ピースをひょこひょこさせる次郎発明の挨拶を交わしながら、真帆は、ずっと聞きたかったことをぶつけてみた。
「あのさ、次郎ちゃん。うちの家……変だよね?」
「変?」
次郎が首をかしげる。
「オオカミ……いるし」
「普通だろ、オオカミくらい。三丁目の鈴木さんちなんか、土佐犬飼ってんだぞ、土佐犬」
「家事全般、してるし……」
「後藤さんとこのペスは新聞とってくるらしいぞ」
「が、ガイコツとか……」
「バッカだなー、骨なんか、オレもお前も体ん中に持ってるだろー」
だからメンタル強すぎだっつの、うちのご町内!
がっくりうなだれた真帆をどう思ったのか、次郎は彼女の両肩にそっと手を置いた。
「――悩んでんだろ? わかるよ」
「次郎ちゃん……」
「新しい親父さんとうまくいってないんだよな。ギクシャクしてんだろ? 大丈夫。ちゃんと話し合ったら、わかり合えるよ。家族なんだから」
ちっげえっ……!
そういう、センシティブだが一般的な話じゃねえ。
うなだれの角度を深くする真帆をよそに、次郎はなんだか慈愛に満ちた目を宙に向け、いい話をしてる風に語っている。
「うん、うん。複雑だよな、ずっと親子二人でやってきたんだし。だけどさ、ここはお前が大人になってだな、真帆――」
言葉を続けようとしていた唇が、びしり、と音を立てそうな勢いで固まった。
「次郎ちゃん?」
次の瞬間、赤い液体が噴水のように次郎の口から吹き上がった。
あ、虹。
「血ィーーーーっ!」
吐血と呼ぶのもおこがましい大発射の血しぶきを浴びて、真帆は絶叫した。
しかし、次郎が三和土に倒れ伏したのは、大量出血のためではなかった。
顕現したからだ。
ハルヤマ謹製ツーパンツスーツに身を固めた魔王様が。彼の背を踏んづけて。
空間転移の名残である黒い羽を舞い散らせ、魔王は真帆の姿を認めると、にこっと笑った。
「ただいま、マホチャン。出張土産である。笹かまは好物であったな?」
「うん、大好き――って違っ! 魔王さん、次郎ちゃんが、次郎ちゃんが!」
お土産を義理の娘に渡すという重大任務を終えた魔王は、
「ああ」
と、しごく詰まらなさそうに靴底の下でピクつく体を見下ろした。
「我が呪詛を身に受けたか。死にはせぬ」
(でも、今ので死にましたよね、絶対)
真帆が冷静に突っ込んだのは、魔王が次郎の襟首をつかんで、ぶん投げたからだ。大空に、次郎の影が吸い込まれていく。四河屋の方角だったのが、せめてもの情けか。
「なんで、急に血!? 次郎ちゃん、病気なんじゃ――」
「案ずるでない。奴は禁忌を口にしたのよ」
「禁忌……」
「奴はそなたの名を呼んだであろう」
勝手口から身を乗り出し、夕暮れに染まる空を呆然と見やる真帆の後ろで、魔王はなぜだかモジモジ身をよじらせた。
「マホチャンを呼び捨てにして良いのはモモコさんと、ちっ、父親である我のみであるのが道理。余人が呼ぶのは許さぬ」
ごめん次郎ちゃん! そして魔女の人!
一番星に向かって、声にならぬ咆哮がこだました。
仲のいい友人たちに、自分を呼び捨てにする習慣がなくて良かった――こっそりそう思ったのは、次郎のために絶対内緒にしなくてはならない。