魔女王の君
笹熊 真帆は運が悪い。
獅子唐を食べれば三本に一本は激辛に当たるし、あらゆるタンスの角に足の小指をぶつけるし、ハズレなしのクジで見事ハズレを引き当てる。
ゆえに、笹熊 真帆は悲観主義者である。
しかるに、笹熊 真帆は現実主義者である。
楽観主義者は現実主義たり得ない。現実とは常に、最悪の上で愉快なダンスを踊るものだからだ。言い換えれば、現実主義者はおしなべて悲観主義なのだ。
而して、華麗なる三段論法の上に鼎立する真帆は、ソレが目の前にやってきても、
(あー……、ですよね、そうなりますよね)
と、諦観の笑みを浮かべる余裕すらあった。
夏休み最中の登校日、学校からの帰宅途中だった。閑静な、とまではいかずともそれなりに穏やかでごく普通の住宅街の角を曲がった先に、ソレは当たり前のように立っていた。
真夏だと言うのに足首まで届く黒のマントを羽織っている。見ているだけで暑くなりそうな真っ赤な髪からはぶっとい羊の角。おまけにでかい。無駄にでかい。
遠い目でその異物感あふれる後ろ姿を見やっていた真帆は、
「ひょっとして、コスプレかも?」
という一縷の希望にすがりついてみた。
真っ黒に日焼けした小学生の一団が、虫取り網を抱えて真帆と異物の間をかけぬける。
遠ざかるはしゃいだ声に限りない羨望を送ってから、真帆は意を決して声をかけた。
「……あのう」
漆黒のマントが弧を描いた。
豊かな深紅の髪がひるがえる。宵闇にも似た沈丁花の肌を飾る二つの宝石は、金。魔王と同じ、ミダス王の黄金。
艶やかに塗られた唇から、不吉な牙が覗く。
「我を見て臆さぬか」
(ハイ、一人称<我>いただきましたー!)
<普通のコスプレイヤーさん>という単語が含む希望の星が、流れて消えた。
――いや、コスプレイヤーさんだったとしても、普通ではないかも知れない。
異物は、女だった。
惜しげもなく晒された豊満な胸を、申し訳程度の黒革が包んでいる。飾り紐で締め上げられた腰から、蠱惑の稜線を描いて太股が続く。その半ばまで達する長靴は、攻撃的に尖っていた。
(革って。ブーツって。露出度の割りにクッソ暑そう……)
熱中症とか、大丈夫? 日本の夏なめてない? と、どうでもいい心配をする真帆をよそに、女は軽蔑の色を面にのせた。
「かような小娘に入れあげるとは、奴も惚けたものよな」
「ええと……、どちらさま?」
「羽虫が、我が名を問うか。まあよい」
片手が、ゆるやかに差し出される。身体を包むものと同色の手袋の上に舞い降りたのは、猛禽の爪を持つ大鴉。
「我は魔王が末姫にして序列第十八位。庶人、我をこう呼ぶ。<魔女王の君>と」
――今のとこ、一番ヤバいのは<魔女王の君>ですね。あの方は、自分こそ次の魔王だって公言してましたから。
――おまけに、その性情は炎。あのヒトを怒らせて滅ぼされた種族は数知れねえっす。
同居人の言葉を裏付けるように、熱風が奔った。
黒き羽を炎に化した鴉は、制服のスカートの裾を切り裂き、燃え尽きて消えた。
「―――!」
(ぎゃああああっ! やめてよ制服って結構お高いのに! うちは零細な母子家庭なんだから家計に余裕は、あ、でもこないだお母さん新刊でたから今なら――って、そうじゃない!)
くつくつと、心地よさげに魔女が笑う。
「どうした、小娘。まさか我が挨拶を受けぬとは言うまいな?」
新たな大鴉を肩に止まらせた女を、真帆は見上げた。
繰り返そう。笹熊 真帆は運に見放された悲観主義の現実主義者である。ゆえに、生存の知恵として、あるいは単なる習慣として常に最悪の事態を想定している。
「……<魔女王の君>、あなたが来ることは予想していました」
リュックサックを投げ捨てた真帆に、魔女は、「ほう?」と面白げな視線をよこす。
「考える時間はありました。十分すぎるほどに」
足に力を込める。反対に、両腕は身体のわきに垂らし、力を抜く。
「――”準備”を整える時間も」
大きく息を吐く。
「今こそ、この秘策、お見せしましょう!」
次の瞬間、真帆は、跳んだ。
怪鳥の羽ばたきにも似た跳躍に、暫時、陽光が陰る。
「――何ぃっ!?」
魔女が、跳ねるように後ずさる。
警戒に染まった金の瞳が見下ろしたのは――
「ごめんなさあああああああああい!」
大音量とともに放たれた、土下座である。
土下座。DOGEZA。ジャパニーズトラディショナルスペシャルソーリー。
「いやいやいやいや、あのね、誤解がね、あると思うんです? わたし、魔王とか狙ってないし、超いりませんから。どうぞどうぞどうぞどうぞ、座っちゃってください、魔王の座。さささささ、どうぞどうぞ。シッダン、シッダンプリーズ!」
ああ、アスファルトが近い。膝が熱い。
だが、それがなんだというのか。
土下座のひとつやふたつで命と平和が守れるなら安いものである。
そもそも、なにもかも誤解なのであるからして、こちらに戦意がないことさえ証明できればよかろうもん。
秘策を開陳した満足感に、土下座姿勢のまま顔を上げた真帆は、
「何……だと!?」
驚愕する羽目になった。
魔女の全身が、発光していた。長身を包む、赤く、白い炎。深紅の髪が、逆立ち、ゆらめく。まとわりつく火をまとった美しい顔が示すのは、
「小娘、貴様――っ!」
全き憤怒であった。
「へっ? いやっ、ちょ、なんでっ!?」
「ふ、ふふ……。我に向かって、ようも、ようも、そのような仕儀に及んで見せたな……」
怒りのあまり震える唇で、魔女が言葉を紡いだ。
「シギ……?」
「とぼけるでないわ!」
激怒の咆哮にはじき飛ばされたように、炎がかき消えた。
「その<雌伏の構え>! 無為に背をさらすことで、眼前の相手を取るに足らぬ者と愚弄する挙措を、ようもこの魔女王に向かって……!」
ええーと、つまり、ようするに、わたしは知らず知らず、彼女に向かって中指立てちゃったってこと?
OH……、魔物文化、複雑怪奇デースHAHAHAHA。
「笑ろとる場合か!」
脱兎の如くかけだした真帆は、自分にむかって突っ込んだ。そのかかとすれすれに、炎の柱が吹き上がる。憤怒に総身を燃え立たせた魔女は、絶望の速度で真帆を追ってきている。
(ど、どうしよう、誰かに助けてもらわないと――警察? 自衛隊? 米軍!?)
交番のおまわりさんになんとかできそうな事態ではない。なにせ、街路樹を次々と消し炭に変えている相手なのだ。
「あらー、笹熊さんとこの真帆ちゃんじゃない?」
曲がり角の先にいたのは、三軒隣の奥さんだ。今日も買い物カゴと虎の顔面がでっかくプリントされたシャツがよく似合っている。
真帆はたまらず、すがりついた。
「おばさん、逃げて! 助けて!」
「なあにー、鬼ごっこ? 暑いのに、若い子は元気ねえ~」
おばさんもねえ~、若い頃はかけっこ得意だったんだけど、今はほら、腰がねえ~、グルコサミン飲んでるんだけどねえ~、と、語るおばさんのパーマがぶわりと熱風にあおられた。
「おのれ、小娘、ちょろちょろと……っ!」
「うぎゃあああっ!」
飛びすさった真帆が、一瞬前までいた地面に大穴が開き、炎が吹き上がる。買い物かごからはみ出した葱が、溶け落ちた。
あんまり遅くなっちゃだめよう~お母さん心配するわよう~、というおばさんの声を背に聞いて、真帆は再びかけ出した。
動じなさすぎだろう、おばさん。どうなってるんだご町内。
よそ事を考えたのが、良くなかったのかも知れない。
気づいた時には遅かった。
眼前には、無情にそびえ立つブロック塀。前門の行き止まり後門の魔女。袋の鼠というやつだ。
「く、く、く……」
地獄の底から響く嘲笑に、真帆は振り向いた。
「ひ――」
空気すらをも煮え立たせ、一歩、また一歩と怒れる魔女が近づいてくる。
どこからか舞い落ちてきた瑞々しい青葉が、彼女の髪に触れた刹那、断末魔をあげて燃えはじけた。
「――先の威勢はどうしたのだ」
アホか! 威勢なんか元からないわい!――という言葉は発せられない。熱せられた空気が真帆の喉の粘膜を焼いていた。
がたがたと震える背に、ブロック塀の感触。
鼠をなぶる猫の愉悦で、赤い舌が唇を舐める。
「小娘、名は?」
「笹熊 真帆――ですけど、な、なんで今そんなことを?」
「ふ、墓標には、名が必要であろう?」
長い爪が彩る手のうちに、小さな火球が生まれる。と、見る間に、炎は真帆の身の丈を超すまでに膨張した。未だ炎に触れてもいないはずの髪が焦げる、嫌な匂いが鼻先に漂った。
「ヒィ……」
魔女が、腕を大きく振りかぶる。
「死して我が礎となれ、マホ――!」
真帆は、とっさに目を閉じた。
(さよならお母さん、さよならみぃちゃんヒナちゃんハセっち長良川くん、さよなら裏のおばあちゃんそしてお久しぶりお父さん今会いにゆきます。ハセっち、ノート借りっぱなしでごめん。みぃちゃん、明日の飼育当番よろしく。あ、しまったTSUTAYAのDVD借りっぱなしだった。来週までに返さないと延滞金が――)
どれほどの時が流れたのだろう。
いくら待っても、予想していた熱も衝撃も、やってはこなかった。代わりに、八月には珍しい涼風が、真帆の頬をなでた。
庭木の梢が揺れる爽やかな音を聞いて、真帆は、おそるおそる目を開いた。
火球は、跡形もなく消えていた。
炎を生み出していたはず長い爪が食い込んでいたのは、
「な……んだ……!?」
魔女自身の細い喉だった。
かはっ、と魔女が苦しげにあえいだ。ふっくらとした唇から、少なからぬ血があふれ出る。
「うわっ!? だ、大丈夫――?」
「これ、は……!」
地面に片膝をついた魔女は、驚愕と、そして隠しきれぬ恐怖に目を見開いている。
「こ、この力の気配は……、父よ、貴様か……っ!」
まるで、見えない鎖でくびられてでもいるかのように、魔女は爪で喉をかきむしった。
「く、く……、我、としたことが……油断し……」
最後まで言い終えることかなわず、魔女はどう、と地面に倒れ伏した。
そうっと近づいて、そこらに落ちていた木の枝で突っついても、起きる気配はない。
(な――なんだか知らんが、とにかく好しっ!)
そして真帆は三度、後ろも見ずにかけ出した。
一応、救急車を呼んでから。