どこから説明しましょうかね
台所から、お味噌汁と卵焼きの香りが漂ってくる。
「ごめん、お母さん! 今日の朝ご飯当番、わたしだったのに寝坊――」
台所の入り口で足を止めた真帆の目に飛び込んできたのは、2メートル近い毛むくじゃらの後ろ姿だった。
「あっ、おはようございます、お嬢さん!」
ニコニコと笑って――たぶん、の但し書きがつくが――振り向いた顔は、灰色のオオカミだ。二本の足で立っているから、正確には狼男か。フリルのエプロンが似合う狼男がいれば、の話だが。
「奥方様なら、昨夜は仕事場に泊まり込みだそうです。いやー、大変なんですねえ、漫画家って」
母とマオさん――魔王さんは、正式な夫婦になった。
母の仕事の都合と魔王さんの仕事(?)の都合で、結婚式はまだだが、市役所で婚姻届を出す二人はそれはそれは幸せそうだった。
真帆も幸せだった。魔王が婿入りしてくれたおかげで、名前が<真帆・タスマニアデビル>になるのを避けられたのだ。危なかった、本当に危なかった。
魔王が我が家に居を移すと同時に、彼も――彼らもやってきた。
ザ・魔物な狼男たちの出現にのけぞった真帆を、こんこんと諭したのは魔王その人であった。
「マホチャンよ。聞けばそなた、モモコさんが画業にいそしんでいる間は、この館に一人きりだという話ではないか。なんたることか。幼いそなたに万一のことがあったらなんとする。これからはこの者らを、そなたの手足として使うがよい。なに? この者らの面が気に入らぬか? ふむ。おい貴様、今すぐその顔の皮をはいで――」
「うわあああ! あ、ありがとう魔王さん! よろしくオオカミさん!」
……まあ、犬は好きだし。
見事な毛並みを危うく敷物にされるところだった狼男は、今、お盆を抱えて真帆の横に座っている。
「たくさん召し上がってくださいね! あっ、筑前煮、しょっぱすぎないですか? お取り寄せの醤油を使ってみたんですよー」
「と、とってもおいしいです……」
よかったー、と狼男はとても嬉しそうだ。
「そうそう、裏のおばあちゃんのもらったスイカ、切りましょうね」
いそいそと狼男が立ち上がったとき、
「たーだいまっと」
台所の勝手口から、軽い足音が響いてきた。
「ハヨザイマース、お嬢さん。今日もカワイイっすね」
「おい! お前はまたっ! お嬢さんに向かって失礼だぞ!」
毛並みを逆立てた狼男に向かって、新たな同居人その2はヘラヘラ――というか、カタカタ――笑ってみせる。
「もー、カタいこと言うなって~」
いや、カタいのはあんたの体だろう。
「はー、ゴミ捨ても骨が折れますねーなんつってー」
自分では鉄板だと思っているらしいボケに一人で笑った彼には、肉がない。皮膚もない。髪もない。水分という水分がない。彼は――有り体に言って――ガイコツ男なのだ。動くたびにカラカラカロカロと軽い音を立てる。
……ま、まあ、ガイコツもね、うん。嫌いじゃないしね。ていうか、骨を好きとか嫌いとか、考えたことなかったけどね!
「最近、魔王さん帰ってこないね」
「あー、なんか、お仕事が忙しいらしいっすよ」
「魔王業が?」
「いいえー、地上の仕事のほう。MMソリューションズでしたっけ?」
買ってきたらしいコーラを美味しそうに飲み干しながら、ガイコツが言った。喉を、正確には頸骨の喉のあたりを通り過ぎた液体がどこに消えるのかは、考えない方が良さそうだった。
「なんかねー、社名を変更するんですって。<MM>から<MMM>に。よくわかんないんすけど、『マホチャンだけ仲間はずれはかわいそうであろう! 3人で、かっ、家族なんだから!』とかおっしゃって」
――日本有数の巨大企業の、社名の由来も考えない方が良さそうだ。
「その手続きやらなんやらでてんてこ舞いみたいで、機嫌悪いんすよ。まあ、新婚を邪魔されてんですから、気持ちは分かりますけど、八つ当りは勘弁っすよ。こないだなんか、肋骨一本ぶっこ抜かれちゃって」
「か、返してもらうように言っとくね! 肋骨!」
「お嬢さん、やっさしー! ヨロシクっすー」
まあ、新しい父親が魔王だろうが、大企業のトップ(超セレブ)だろうが、真帆の生活に変わりはない。住み慣れた中古住宅から、通い慣れた公立高校に通っている。お醤油がちょっと贅沢になった程度――だった、はずだ。
「そう言や、ゴミ捨て場で八百屋の若奥さんから、嫌な話聞いたんすよ」
瑞々しいスイカに伸びていた手――指骨――を狼男にはたき落とされたガイコツが言った。
「――最近、カラスが増えてるって」
ああ、この辺も人が増えてきたからねー。また、<ゴミ捨てルールを守りましょう>みたいな回覧板が回ってくるかもねー、なんてのんきに考えていた真帆は、ピタリと箸をとめた。
ざわり、と空気がゆれた気がしたのだ。
「――カラス?」
問うた狼男の声が、常にないほどに、低い。
「そうだ、カラスだ」
答えるガイコツの骨が、不吉に鳴る。
「考えすぎ……だとは思うが、気をつけたほうがいいな」
「ああ、あの<魔女王の君>のことだ。あらゆる事態を想定しておけ」
「ひとたび、こと起こらば」
「無論、血の購いを」
魔族が魔族たりうる、妖気と殺気を漂わせ始めた彼らをこちら側に引き戻したのは、
「どうしたの二人とも。ちょっと怖いよ」
浅漬けをポリポリはむ真帆だった。
はっとしたように顔を上げた二人は、コンマ三秒顔を見合わせた後、スクラムを組んで居間の隅にかけ出した。
「お、おい! 駄目だろ! こういう話をお嬢さんに聞かせたら!」
「でもでも、知ってねえってのも問題じゃね?」
「うーん、そりゃ、お嬢さんご本人のことだしなあ」
「だろ? だろ? 逆にかわいそうだって!」
「でもなあー、やっぱりなあー、そのー」
「……聞こえてるよ」
笹熊家の居間は六畳だ。
隅っこに固まろうがひそひそ声だろうが、丸聞こえだ。
しおしおとちゃぶ台まで戻ってきた二人は、やがて、意を決したように言った。
「ここまで知られたからには正直に申し上げます。どうぞ、お心を強く持って聞いてくださいね」
「実は、お嬢さんは――」
――お命を、狙われています。
キュウリの浅漬けがすっ飛んだ。
「い……命ぃ!?」
ゴミ捨て場にカラスが増えて、八百屋の奥さんが困ってる。そんな話から急転直下、命を狙われている、だと?
大体、どこの誰が平凡な女子高生の命を狙うというのか。何の得が。はっ、アレか。お金持ちの子どもが身代金目当てに誘拐される、とかそういうヤツ。ていうことはつまり義理の父たる魔王のせい。あああ、やっぱり再婚なんか反対しとくんだった。ハゲでもデブでも加齢臭満載でも、普通のおっさんお父さんが良かったわたし。
キュウリの皮をアゴにはりつけたまま、虚ろな目で固まる真帆に、
「お、お嬢さん、お気を確かに!」
「お前の馬鹿力で揺するなバカ!」
人のいい魔物二匹は大いにうろたえた。
ややあって。
「それで……、わたしの命が狙われてるって、どういうこと?」
ガイコツの硬い手のひらで、おでこを冷やしてもらいながら、真帆は聞いた。
「ええと――どこから話しましょうね」
ガラス玉のように透明な目を遠くにさまよわせ、狼男はぽつりぽつりと語り出す。