魔王、かく語りき
あれは、ヒトの刻で数年前のことであった。
我が無聊にたゆたう日々に倦んでおった時分の話だ。
「……あの、回想入るんですか?」
「左様である、マホチャン」
我は飽いておった。
永遠に等しい生、並ぶ者なき力、額ずくしか知らぬ者どもに。
倦怠と懶惰の胞衣が、我に戯れ心を起こさせた。
地上を這い回る小虫どもを、尽く討ち滅ぼしてみようかと。
なに、我が軍を動かすほどのこともない。
我と我が力のみで、半日とはかかるまい。
半日もの間、暇がつぶせるならば僥倖であろう――そう思って。
我は地上に顕現した。あの地の名は――嗚呼、忘れられようか、おーすとらりあだ。
我にとって数百年ぶりの陽光が降り注いだ大地は、草に覆われておった。
彼方には自らをヒトと称する小虫の町が見えた。
さあ、手始めになにをくれてやろうか。
火か、雷か、地震か。
疫病か、飛蝗か、赤き死か。
いいや、それではつまらぬ。
この忌々しき陽の光を十月十日隠してやろう。
心を決め、太陽神を射るべき槍を具現させたその瞬間。
『あんたああ! そこのあんた! 動かないで!』
――我が秘槍は溶けて消えた。
岩陰から現れたのは女であった。
麦の穂でできた妙なかぶり物をし、手には帳面のようなものを抱えておった。
そうだ、それがモモコさんであったのだ。
「……そう言えば、お母さん、行ってましたね、オーストラリア。取材旅行で」
「うむ、運命的な出会いであった」
モモコさんは身を伏せ、獲物に飛びかかる刹那の孤老の如き様で我に近づいた。その右手は、疾風もかくやの早さで筆を操っておった。
我は、全き愚かなことに、見誤った。
この女、いち早く我に気づきし地上の王が送り込んだ刺客かと。
ならば、相応の礼を持って迎えねばなるまいと。
我は女の頭上に、千の槍を具現させた。刺し貫かれた者のみならず、因果律の定めによりて、その者の過去、その者の未来、その者の異層までも無に帰する槍だ。
我が腕をひらめかせようとしたその時だ。女は再び叫んだのだよ。
『だから動くなっつってるでしょ! 馬鹿か!?』
動けなんだ。
常勝無敗の我が麾下にも、あれほどの覇気を出せる者はおるまい。
「ああー……、お母さん、仕事の時とか、人が変わるから……」
「うむ、だが心得違いするでないぞ、マホチャン。我は何も、恐ろしさですくんだのではない」
我が足を萎えさせ、我が力を封じたのは――トキメキ、であった。
生まれ出でた瞬間より魔族の頂点に君臨し続けた。余人の頭は足を乗せるものであった。
我は、あのような強い視線を向けられたのは、初めてのことであった。
味わったことのない、戸惑いという名の感情に翻弄されている我に、彼女は重ねて言ったのだ。
『もう少しで描き終わるから、絶対動かないで! あんたが動くと、タスマニアデビル逃げちゃうから!』
――彼女の強き瞳は、我が長衣に巻き付いてもがいていた、黒いケダモノに向けられておった。彼女は、我などまるで眼中になかった。たすまにあでびるの添え物であったのだ、この魔王が。
「その瞬間、我は恋に落ちたのだよ」
「ドMですか!?」
我は、日が暮れるまで、たすまにあでびるが逃げぬよう呼吸すら止めた。
長き生で、あれほどの幸福を味わったためしはない。
目の前には、天上の女神よりなお麗しく、我が心を引きつけてやまぬ女性が確かに存在するのだ。存在していてくれたのだ。
そして、その幸福は、今この時まで続いているのだ。
彼女がニホンジンという礼節と世間体を大切にする種族だと知り、まずは地上での社会的な立場を手に入れた。この風変わりな衣も、彼女の故国で人気爆発だというハルヤマという店であつらえたのだ。似合っている? それは僥倖。
一番の難題は、彼女の心そのものであった。
我は<めんずのんの>なる魔道書を読み、<ルルブ>なる貴書を漁り、時には<あんあん>の<恋人にしたい芸能人特集>に耽溺した。
我が望外の希みは、かなえられた。
彼女のペンだこまみれの美しい手は、我が手をとってくれたのだ。
しかし、我が心底に、新たに一叢の暗雲がわき出でたこともまた事実であった。
そうだ、そなただ、マホチャン。
そなたは、我が命たるモモコさんの、至上の宝だ。
ふっ、我が恐怖などという感情を覚えようとな。
だが、我は屈さぬ。我は脅えぬ。我は退かぬ。
我は魔王だ。
そなたを斃しうる秘策は、見よや、我が手にある。
「……なんですか、これ」
「釣り書きだ。履歴書はこちらだ」
それを目にすれば、そなたも必ずや、我を<お父さん>と――。
どうしたマホチャン。
なんだ、眠るのか?
早すぎないか? 歯磨きは? お、お父さんにお休みの挨拶は――
……モモコさん、やはり早計だっただろうか。
先ほどのマホチャンは、幽鬼もかくやという力なさであった。
我のような年の離れた男は、父とは思えぬのだろうか。
なに? 違う?
戸惑ってるだけ?
成る程、マホチャンはシシュンキであったな。
くっくっく、なれば是非も無し。
衣を一緒に洗濯しないでという讒言も、甘受しようではないか!
そして、早晩<お父さん>と呼んでもらおうではないか!
ふはははははははははは!
はーっはっはっはっはっはっはっはっは!
え? ご近所迷惑?
……すまぬ。