生きねば?
「おおお、落ち着きましょう、話し合いましょう!」
平素、立ち入り禁止の屋上で、真帆は正しく追い詰められていた。
罪のないクラスメイトと動物たちから怒れる魔女を引きはがしたことは、我ながらグッジョブと言わざる得ないが、事態は好転と言うには最悪すぎる。
(なんで、よりによって<上>に逃げたんだよ、わたし……!)
たどり着いたのが校舎の屋上では、袋の鼠もいいところだった。
かつん、かつんと硬質な足音が近づいてくる。
「貴様は、死なねばならぬ」
薔薇の花弁に似た唇が、笑みを形作る。
「貴様は、殺さねばならぬ」
青白い牙の間から見え隠れするのは、のたうつ炎。
「貴様は、貴様であるがゆえに、我が手で縊られねばならぬ」
魔女のしなやかな腕が、紅の瀑布が如き髪に差し込まれる。再び真帆の眼前に現れた手には、黒革の柄が握られていた。
(……燃やされるのと、あの長ーい鞭で叩かれるのと、どっちが痛いんだろうね?)
真帆は虚ろな笑みを浮かべた。風を切る音を響かせて、身の丈を超す鞭の先端が、鼻先3cmで踊った。
悲観主義者の脳内では、既に遺書の作成は完了している。
とはいえやっぱり、生きられるもんなら生きたいのである。
母が開いてくれるらしい誕生日パーティーは楽しみだし、ケーキも食べたいし、友達とプールに行く約束もある。ずっと買ってるマンガの新刊が来月発売だし、TSUTAYAのDVDもまだ返していないし、注文してた落語CDもそろそろ届くはずだ。
そしてなにより、
(死ぬ前に、魔王を一発、殴らせろ――)
真帆が、ありとあらゆる生きる理由を並べ立てている間に、意思を持った鞭の先端が、喉に巻き付いていた。
「ぐげっ!」
たたらを踏んで、つんのめる。
その細い両腕に秘められているとは信じられぬほどの力で、魔女は鞭をたぐり寄せた。
「ぐげっ、ぐげっ、ぐげっ、げっ」
一歩踏み出すごとに、ひきつぶされた蛙の鳴き声が抜群のテンポ感で真帆の喉から漏れた。
口づけせんばかりに迫った秀麗な唇が、真帆に告げる。
「呪うなら、父を呪え」
華奢な腕が、巻き付いていた鞭ごと喉をつかみ、真帆の体をつり上げた。足先が地面を離れ、宙を蹴る。
「恨むなら、その身に流れる血をこそ恨むがよい」
規定された勝利を目前に、真帆を見上げる金の瞳は、どこか茫洋としていた。
魔女が獲物を通して見つめていたのは、兄か、姉か。
あの水牢の冷たい壁か。
あるいは、囚われていた幼い自分自身か。
――と、いったようなことは、もちろん、真帆の考えの及ぶところではない。
真帆の顔は赤を通り越して青を通り越して白すら突き抜けて、なんだか面白おかしいまだら模様になっている。フェイスラインは京都特産・賀茂ナスそっくりに仕上がっていた。
綺麗な小川の向こうで舞妓はんたちがおいでやすしている光景を幻視しつつ、真帆は思った。
(ちっ……くしょう、全部あの魔王のせいだ! 許さん絶対許さん、生きて帰れたらあの人の分だけ晩ご飯のおかず一品少なくしてやる! 誕生日ケーキも分けてやらん!)
しかし、限りない魔王への呪詛は、福音であった。
「おぶぶぶぶ」と口の端から泡を吹いている真帆の脳裏に、ひらめくものが去来する。
悲観主義者は用心深い。
悲観主義者は用意がいい。
悲観主義者は使えるものなら何でも使う。
それが例え、生きた目ん玉のくっついた、珍妙怪奇な代物であっても。
腰の後ろにのばされた真帆の手が、ベルトに差し込んでいた<用心>をにぎった。
手のひらに、人肌の弾力が返ってきた。