さつきと梅宮
1
さつきがこの世に戻ってきて最初に目にした景色は、駅のホームだった。普段から、大学へ向かうときによく利用していた駅。高校時代には梅宮や芽衣たちと平和な掛け合いをし、いくつもの場面を過ごしてきた。そして、さつきが命を落とした、生きていた頃の最後の時間を過ごしたホームだった。
その日———三月二十二日、さつきは何も考えてなどいなかった。無意識にそこへ脚を運んでいただけで、具体的な目的などなかった。ただ単純に、思い出の場所を目に焼きつけたかったのかもしれない。その結果、自らの命を落とすとは知らずに。
フラフラと歩き、ホームで立ちどまる。さつきの視界は現実を捉えてはいなかった。五日前のあの出来事が頭にフラッシュバックし、思わず両目を強く瞑ってしまう。
もう涙は出ない。済んだことだと、自分に何度も言い聞かせる。碓氷から受けた傷よりも、その奥に隠れた記憶が表面に出てこないように必死だった。でき始めたカサブタを剥がすことが、自らにとってどれほど危険なのか理解していた。
ゆっくりと瞼を開くと、向かい側のホームに並ぶ大勢の人々が目に入った。午前十時過ぎ、日曜日ということもあり、会社員の数は少ない。並んでいる多くは若者で、友人や恋人と出掛けていくのだろう。彼らの姿を目にしながら、さつきの心は波風一つ立っていなかった。ピクリとも動かない水面に、さつきが一人、立ち尽くしていた。
それでも、梅宮の言葉が脳裏に浮かんだとき、水面が揺れた。その言葉に隠れた意味を理解してしまい、波長が増幅していくのがわかる。
——もし妊娠したら、堕ろせ。
梅宮が必死に口にしたであろう一言が、いつまでも、ゆらゆらと浮かんでいた。
気がつくと、さつきは反対側のホームに立っていた。つい先程までは、いまと反対側のホームにいたはずなのに。
さつきが不思議に思い、周囲の様子を確認しようとした———その直後、ただ事ではない状況だと理解した。周囲の者が慌ただしく口を開き、動揺した雰囲気に包まれている。その中には膝が崩れ、口を押さえている女性もいる。そのうちに駅員が二人走ってきて、目の前に停車した電車に乗り込もうとする者はいなかった。
人身事故だ。
さつきは無意識に理解していた。誰かが、目の前の電車に轢かれたのだと。
隣で立ち尽くす二十代の女性に話し掛ける。「事故ですか?」その言葉に返事はなかった。驚きとショックで、言葉も出ないのかもしれない。さつきは諦め、左隣の女性に声を掛ける。主婦と思われる中年の女性もさつきに返事をすることなく、急いで携帯電話を耳に当てる。誰かと電話し始め、不平不満を口にしていた。
誰からも情報をもらえず、さつきは仕方なく駅員に尋ねることにした。それでも、こんな状況で冷静に教えてくれるとは思えなかった。電車の側へ近寄りながら、さつきは被害者の姿だけは見ないように注意した。おそらく、ただの肉塊に成り代わっているはずだからだ。
そんな中、さつきはもう一つの疑問にぶつかっていた。なぜ自分が反対側のホームにいるのか、という疑問だ。
五日前の出来事にショックを受け、無意識にこちらへきていたのか。歩いてきた記憶がないほどのショックは、確かに受けている。絶対に有り得ないとは言い切れない。いまだって、頭の中がボンヤリとしているくらいだ。
駅員の姿を捉え、まずは尋ねることにした。電車が動き出すのはいつなのか、どうしてもそれを知りたかった。動かないのなら、さっさと家に帰った方が正解に思えた。
「あの、しばらくは動きませんか?」
叫ぶように話し合っている二人の駅員に声を掛けても、さつきに目を向けることすらなかった。———救急車、警察。そんな言葉が飛び交うだけ。まるで、さつきの存在に気づいていない様子で。
このとき、さつきはついに思い出した。
自分の身に何が起きているのか。何が起こったのか。
突如頭に浮かんだ記憶が、さつきの体を支配する。誰が電車に轢かれたのか。その原因は何だったのか。そして、なぜ、自分がここに存在するのかを。
無意識に、さつきは駆け出していた。
2
葬儀場にいる者たちは、全員が絶望に包まれているように見えた。さつきの両親を始め、梅宮たち友人、大学で世話になっている教授など。全員が、さつきの肉体に向かって両手を合わせていた。
自らの体を見下ろし、さつきは奇妙な感覚に陥っていた。眠っているときの自分はこんな姿だったのか。それなりに綺麗じゃないかとすら思える。突然目を開け、動き出したらみんなが驚くだろうと想像してみる。ホラー映画のようだが、有り得ないことは自分が一番理解している。精神だけは、幽霊となった自分の中にあるのだから。肉体と精神が共に存在しなければ、人間は人間でいられない。
会場には多くの椅子が並べられているが、最後列の席に、梅宮がいた。槙仁と芽衣はもう少し前に座っているというのに、梅宮だけが、意図的に後ろの席に座っているように見えた。彼の表情に感情は浮かんでおらず、それがさつきを不気味にさせた。泣いてくれなくても構わないが、少しくらいは悲しんでくれないのか。幽霊となったさつきは、そんな無責任な不満を抱いていた。
それでも、心に引っ掛かったトゲがチクリと痛む。梅宮の様子を見ていると、不安が拭えなかった。彼が何かを企んでいるようで、無茶なことをしでかさないか心配してしまう。それほど、会場の中で浮いた存在だった。
葬儀が終わり、さつきの肉体が骨だけになっても、梅宮の表情は揺るがなかった。表面上の悲しみすらなく、それは砂漠に水が存在しないのと同じだった。彼の中で、涙は枯れきっていた。
さつきには、彼が何かを決意しているようにしか見えなかった。さつきが死の直前に受けた行為を、梅宮は知っている。病院のベッドで休んでいるときも、自宅で寝込んでいるときも、彼は側にいてくれた。さつきがどれほど苦しんでいるのか、最も側で見てくれていたのは梅宮だった。その梅宮の決意に関して、さつきには嫌なイメージしかできなかった。
葬儀が終わると、梅宮は一人で帰っていった。一応は他の弔問者に頭を下げ、ボロボロのトキ婆にも声を掛け、去っていった。その後ろ姿が、すぐにでもこちら側へきてしまいそうでたまらなかった。
自分を穢そうとした碓氷が海外に行っていることは、周囲から感じ取れた。芽衣の家では警察官である父親が仕事モードの顔で食事をしており、芽衣は疲労しきった顔で料理を口にする。とても、食べる気分ではないのだろう。三十分を掛け、僅か四口しか食べられていなかった。
芽衣が自室へ戻った後、両親がさつきについて会話を始めた。さつきが電車に轢かれる五日前に自殺未遂をしたことを。それが、今回の事故に繋がっているのではないかと考えている様子だった。概ね間違ってはいない。それが最も大きな要因であり、さつきの命を奪ったきっかけなのは確かだ。
また、二人はさつきが自殺なのかどうか、判断しきれていなかった。五日前の自殺未遂の原因についても、二人は何も知らないはずだ。知っているのは、梅宮と碓氷だけ。碓氷がそれを口にするはずはないのだから、梅宮が黙っていれば世の中には出ない。彼の性格を考えれば、二度と明かされることのない真実に思えた。
芽衣の家を離れ、さつきは梅宮の家へ向かった。彼の行動を調べ、無茶なことをさせないために。
この世に戻ってきて、あれ(・・)を処分した以上、さつきは成仏できる状態にあった。本人にその意志はなく、成仏のメカニズムを理解していなくとも、可能だったはずだ。にも関わらず彼女がこの世に残っているのは、梅宮のことが心配でたまらなかったからだ。このままでは、のん気にあの世で休んでなどいられない。
梅宮の部屋へ入ることは容易ではなかった。彼は一人暮らしで、部屋のカギを車のキーと一緒にしている。窓ガラスを割って侵入するわけもいかず、さつきは何時間も玄関の前で待機していた。ようやく、彼が車へ忘れ物を取りに行く瞬間があり、玄関のカギをかけずに出ていった。その隙に、さつきは梅宮の部屋へ侵入することができた。こうして、彼の作戦へと近づくこととなった。
梅宮の部屋は相変わらずシンプルだった。物は少なく、必要最低限しかない。それに関しては、さつきと同様だった。
ただ、昔と変わっている部分があった。彼の部屋に、必要最低限のさらに最低限以外、何もなくなっていたのだ。食器やテーブル以外の、例えば本や雑誌、テレビまでもがなくなっている。これは、明らかに人為的な変化だった。梅宮が、全てを処分したということに他ならない。さつきがその理由を考え始めたとき、本人が部屋へ戻ってきた。
さつきは足音を立てぬように歩き、部屋の隅で立ち止まる。壁に背を預けるようにして、梅宮の行動を観察していた。彼はパソコン画面を開き、文章らしきものを眺めている。さつきはそっと動き、彼の後ろから画面を覗いた。そして、そこに書かれている文字を読み、脳が揺れるのを感じた。
———梅宮は自殺しようとしている、そう思ったからだ。
だが、すぐにそれが間違っているのだと理解した。書かれた文字を読み込むと、彼の真意を読み取ることができたからだ。梅宮は、碓氷を殺そうとしているのだと。そして、これを遺書に見立て、碓氷が自殺したと見せ掛けるつもりなのだと。
さつきは、言いようのない悲しみに襲われていた。自分が死んでしまったことが、彼を殺人鬼に変貌させようとしている。なんとしてでも、彼の行為をやめさせなければならない。それでも、直接やめろと言うことはできない。梅宮には、さつきの姿が見えていないのだから。
試しに声を掛けてみることにする。「梅ちゃん!」と大声で叫んでも、梅宮が振り返ることはない。画面を凝視したまま、腕を組んで考え込んでいる。このままでは、彼が碓氷を殺すのを見ているしかなくなる。それでは、さつきがこの世に残り続けている意味がない。何か、よい方法を見つけ出さなくてはならない。
3
——三月三十一日。
梅宮が碓氷を殺害しようとし、さつきがそれを阻止した翌日。二人はついに再会することとなった。梅宮の目が、さつきの姿を捉えたのだ。
テレビのニュースでは、碓氷に関する報道はされていなかった。世の中にとって大した事件ではないし、それも不思議ではない。さつきはインターネットで検索し、ようやく碓氷が死亡していることを知った。彼が亡くなったのは御在所岳という場所で、死亡したのは午後十一時を回ったところだったらしい。死因は一酸化炭素中毒で、自殺と推測されている。完全に、梅宮の思惑通りだった。
午後十時半、さつきは自室にひきこもっていた。一階ではトキ婆が生活しているが、彼女の姿を見ることはできなかった。さつきが亡くなったことを受け止め切れず、ボロボロになっていくトキ婆を見ていられない。時々、さつきがまだ生きていると錯覚している節がある。さつきの名を呼び、探しまわっていることもある。彼女をそうしてしまった原因は自分にあるのだとわかっていても、正面から受け止める勇気がなかった。それは、さつきの弱さに他ならない。
いつか、家の中にさつきの仏壇などが置かれるはずだ。この部屋をわざわざ撤去するとは思えないが、トキ婆が整理しにやってくる可能性は高い。思い出の品を、大切に保管し続けてくれる姿が目に浮かぶ。そうなる前に、あれ(・・)を処分することができてよかったと、さつきは心から思う。そのために、この世へ戻ってきたのだから。
さつきがベッドに腰を下ろし、ただじっとしていたときだった。チャイムが鳴り、訪問者がやってきたことを知らせる。こんなときでも、トキ婆は律儀に玄関へ向かうのだろう。居留守をするという、小さな不良行為もできない人だ。
宅配便ならすぐに帰ってくれるだろうと思い、さつきが油断していた頃だった。誰かが階段を上がってくる。それも、トキ婆ではない足音で。
さつきは立ち上がり、すぐに移動できるような準備をした。自分の姿は見られなくても、何かに触れてしまうのはまずい。ベッドが凹んでいる様子は見えてしまうわけだから、すぐにでも移動しなければならなかった。
だが、そんな配慮も全て、無駄だった。
その人物が部屋に入ってきた瞬間、さつきは全てを理解した。言葉や文字など必要ない、生物が生まれながらにして持っている、第六感とでもいうべきものが働いた。———梅宮には自分の姿が見えている、と。
それでも、梅宮は立派だった。両目を見開き、音もなく息を吸うだけで、大声を上げなかった。さつきは、自分だったら悲鳴を上げている自信がある。
「なんで・・」
ようやく、梅宮がそれだけを口にした。さつきの目を見て、明らかに認識している状態で。唇が僅かに震えているのは、幽霊を見た恐怖か、懐かしの再会を喜んでいるからか。さつきも覚悟を決め、梅宮と向き合うすることにした。幽霊として、誠意を込めて接してやろうと決めた。
「久しぶりだね」
「・・・」
無言のまま、梅宮は一歩を踏み出してきた。ゆっくりと部屋の中を進み、そのまま、さつきの体を抱きしめる。彼の柔らかな温もりが、さつきの全身を包んでいた。
「———夢を見てるのか?」
「どうだろう。でも、梅ちゃんがここにいるのは確か」
さつきも両腕を回し、梅宮の背中に触れる。ごわごわとした上着の肌触りが、不思議と安心した。
しばらく、二人は言葉もなく抱き合っていた。このまま成仏してしまいたいと思えるほど、居心地のよい時間だった。梅宮も、力強く抱きしめながら、穏やかな気持ちでいたのだろう。
それでも、さつきが変化をもたらすことにした。梅宮から両腕を離し、押し返すようにして距離をとる。
「どうしてわたしのことが見えてるの?」
二人の視線が交わっても、梅宮の返事はなかった。というよりも、彼自身、その答えを見つけられていない様子だった。
「ねぇ、梅ちゃん。———あの人が死んだって本当?」
さつきがそれを口にした直後、梅宮の全身が硬直した。必死に動揺を隠そうとしているが、不自然な無表情自体に、それが表れてしまっている。
さつきは全てを知っているわけだが、彼はそうではない。まさか、碓氷を殺害しようとしていた瞬間を、さつきに見られていたなどとは考えていないだろう。———少なくとも、この時点では。
「碓氷は自殺したらしい。もう、何も怯えなくていい」
そう話す梅宮が、一番怯えていた。説得力の欠片もない彼の言葉に、さつきは押しつぶされそうになる。やはり、梅宮は自分が碓氷を殺したのだと思っている。自殺に見せ掛け、殺害することに成功したのだと。
「———そう。わたしはどうしよっかな。どうしてここにいるんだろう」
自分の嘘くさい言葉に、思わず吹き出しそうになる。なぜこの世に残ったのか、自分が一番よく知っている。その目的を果たしたいま、さつきは自分の意志でここに存在し続けているではないか。梅宮の今後が心配で、おちおち成仏していられないだけだ。
「何か、後悔でもあるのか?」
「後悔・・か。不安はあるのかも」
「言ってみろ。俺が何とかしてやる」
梅宮が真顔で、全力の本心で言葉を発している。彼に嘘をついている自分が嫌になるが、死んだいまでもなお、彼から大切に想ってもらえていることが幸せだった。幸福とは、こういうことなのだろう。
「じゃあさ、お願いがあるの」
さつきは笑顔を作り、梅宮の負担とならぬよう心掛ける。彼を幸せにしてやるために、自分に何ができるのか。それを必死に考えた結果だ。
「わたしを成仏させて欲しい。きっと、この世に未練があるから残ってると思うんだよね」
「成仏・・。まぁ、それが自然なんだもんな」
どこか寂しそうな様子で呟き、梅宮は顔を伏せた。だが直後に顔を上げ、吹っ切ったような顔で口を開く。
「任せとけ。必ず、お前を成仏させてやる」
こうして、梅宮のやっかいな旅が始まった。何人もの幽霊と出会い、彼らを成仏させることに全力を注ぐこととなる。それは全て、さつきへの償いのためだったに違いない。
あとになっても、さつきは迷うことなく、正しいことをしたという確信を持てる。梅宮の中から、自分に対する未練を振り払ってやる必要があったのだと。そうすることで、彼が前を向いて歩いていけるようになると信じている。幽霊となった自分は、梅宮を救うために存在しているのだから。
4
四月に入ってからというもの、梅宮の周囲に何人もの幽霊が登場し始めた。さつきの姿が見えるようになり、他の幽霊のことも放っておけなくなったのかもしれない。何度も事件に首を突っ込み、その度に、さつきが彼の面倒を見なければならなくなった。
まず、稲葉という元教師の事件から始まった。彼の望みを叶えるべく、梅宮は奮闘していた。稲葉の過去を調べ、娘との確執に迫っていく。梅宮から相談されたさつきは、彼のサポートをすることにした。具体的には、稲葉という人物について詳しく調べ上げることにした。また、途中から、稲葉の教え子である坂下についても調べることとなった。
その方法は、至ってシンプルだった。市役所や病院へ忍び込み、個人情報を漁るだけ。
他の誰からも姿を見られる心配のないさつきは、神に等しい権限を持っていた。どんな情報も筒抜けなのだ。パソコンのロックさえ解除してあれば。病院のカルテだって、新聞と同じように読むことができる。どんな女性の体重だって知ることができたし、年齢にサバを読んでいる者の真実を知ることもできる。———そんなことに、微塵も興味は沸かなかったが。
稲葉と彼の娘———戸籍上のだが、二人の間に血の繋がりがないことは明らかだった。病院のカルテを調べたところ、彼は子供を作ることのできない体だったのだから。娘の岬は、稲葉の妻と別の男性との間にできた子供だ。夫婦の合意の上で、精子を提供してもらったのかどうか、そこまでは定かではない。だが、重要なのは、彼の家族には秘密が隠されているということ。となれば、稲葉が過去に起こした事件について、その真意を探ることはさほど困難ではなかった。
結局、稲葉の願いは叶ったようで、梅宮も満足した様子だった。さつきが家を抜け出し、こっそりと犯罪行為をしていたことについて、彼は何も言及してこなかった。ぼんやりとは見透かしていたはずなのに。文字通り目をつぶり、他の者と同様に、見て見ぬ振りをしてくれたということか。
次の事件は、四月中旬に起きた。迷子になった田畑優希という少女を、梅宮がさつきの家に連れてきたことから始まった。
正直、さつきは彼の行為に愕然とした。迷子になった少女を、現場から遠ざけるなど愚の骨頂としか思えなかったからだ。探している者にとって、何一つよいことはない。見つけられる可能性を狭めてしまうのだから。
そんなことを考えもしなかった梅宮に呆れたが、自分のところへ相談しにきてくれたことで許してしまった。それほど頼りにされ、信頼されていることが誇らしかった。気持ちよくもあった。
しかし、家へ連れてこられた少女は、さつきには見えなかった。また、少女からもさつきの姿は見えていなかったはずだ。このときはわからなかったが———見えなかったのだから当然だ。後日、少女と老人が出くわしたときの様子で、幽霊同士は、互いの姿が見えないことを知った。
梅宮がそれに気づかなかったせいで、さつきは何も見えない空間に向かって話し掛け、用意したコップが宙に浮くのを目の当たりにさせられた。入っていた液体が少しずつこの世から消え、さつきにも信じざるをえなかった。逆に、さつきの用意したぬいぐるみのことは、少女にとっては不気味に感じられたに違いない。やはり、勝手に移動してきたように見えるのだから。
結局、少女が探している祖父についても、さつきが調べることとなった。だが、この事件に関しては、梅宮一人でも解決できたはずだ。それでも、頼まれれば断れないのがさつきだった。
少女が亡くなった現場について調べ、彼女の祖父という人物を突き止めた。そして、老人が事故で死亡していることも知った。———このときから、さつきの中に嫌な予感が生まれていた。明らかに、偶然、別々の事故で二人が亡くなったようには思えなかったからだ。
少しでも多くの情報を入手すべく、芽衣の家へ忍び込み、彼女の父親の言葉を待った。だが、さすがに家で事故の話をすることはなく、重要な情報は得られなかった。この頃には、芽衣も本来の彼女に近い強さを取り戻しており、梅宮に対する不満を抱き続けているようだった。それがよいことかどうか、さつきには判断できなかったが。
芽衣の父親のあとをつけ、警察内部にも忍び込んだ。田畑優希の事故に関する捜査資料を読み込み、担当刑事の捜査にも介入しようと試みた。その結果、案の定ともいうべき事実が明らかになった。壁に衝突した老人の車の様子と、少女が轢き逃げに遭った様子が一致していたのだ。車の左前方の凹みが、歩いている少女を轢いた場合と一致した。そして、時間などを踏まえると、二つの事件が関連していることも理解できた。
このときばかりは、さすがに、さつきもショックを隠し切れなかった。大切に想い合っている二人が、このような形で終わりを迎えることになったのだから。ただ、この時点では、警察も最終的な結論を導き出せてはいなかった。少女を轢いたのが彼女の祖父ではないかという疑いを抱いたまま、捜査を進めていたようだ。
梅宮に真実を伝えられずにいる頃、彼は幽霊となった老人とも出会っていた。まるで死神のような梅宮に、呆れるほどの歓声を浴びせたい。
梅宮から電話を受け、どうやらそれが彼の部屋から掛かってきているのだと知った。だが、梅宮以外の二人の声は聞こえるわけもなく、彼が何かに落胆していることしかわからなかった。幽霊同士は互いの姿が見えず、触れることもできないのだと知ったのはこの瞬間だ。
そして、梅宮にできる限りのアドバイスをした。二人に筆談させるように言い、様子を伺いながら逡巡していた。真実を、梅宮に伝えるかどうか悩んでいた。
電話越しに梅宮が困っていることだけを察し、ついにさつきも覚悟を決めた。二人の間に起きた真実、それを伝えることを。梅宮にそれを伝えると、彼も何かを決意したようだった。その後どうなったのか、さつきは正確に把握していない。
通話を終え、そして、二人の幽霊の事件は終わりを迎えた。
さつきは自宅の一階にある受話器を置き、梅宮の様子を想像する。二人を成仏させることが正しいと信じきっており、必要以上に介入しているのではないかと心配してしまう。それでも、これ以上は自分の出る幕がないだろうとも感じる。あとは、知らないところで頑張ってくれればいい。
翌日、さつきの誕生日に梅宮が家を訪ねてきた。二件の御礼などと言い、サツキのネックレスをプレゼントしてくれたのだ。小さく輝くネックレスも、梅宮の想いが詰まっていると思うと、不思議なほど暖かかった。
こうしている間にも、梅宮の中では感情の変化があったのかもしれない。自分はなぜ、幽霊が見えるようになったのか。その理由に心当たりがある様子だったが、ハッキリとは口にしてくれなかった。はぐらかすような、さつきに隠している様子で。
だが、さつきには容易に推測できてしまった。彼が碓氷を殺害しようとしたことは、目の前で目撃しているのだから。おそらくはそれが関係しているはずだと思いつつ、梅宮から説明してもらえる日を待った。成仏するまでに、そのときが訪れるのか不安に感じながら。
5
芽衣の身にそれが起きたとき、さつきは自宅でのんびりと過ごしていた。四月下旬、ようやく暖かさが安定してきた頃のことだ。
芽衣が憧れていた田中という院生について、さつきは好印象を抱いていた。優秀な頭脳だけでなく人当たりもよく、外見にも恵まれている。福島という女性と付き合っていることを知り、二人の姿を目撃したときも、お似合いのカップルだと思ったほど。芽衣が憧れる気持ちは理解できるし、彼女であれば、田中の気持ちを引き寄せることもできると思っていた。心から、芽衣の恋愛を応援していた。だからこそ、二人が休日に出掛けると知ったとき、自分のことのように嬉しかったのだ。
四月二十七日、梅宮から芽衣の異変を伝えられ、その中に出てきた名前に衝撃を受けた。芽衣の憧れていた田中が、彼女の前に現れたというのだから。
この二日前、田中と福島が亡くなったことはニュースで報道されていた。ワイドショーではくだらない憶測が述べられ、大学も酷い被害を受けていたに違いない。すでに自分は所属していないとはいえ、母校が穢されていくのを黙って見ているのは辛かった。
芽衣と田中がデートをするはずだったことを思い出し、さつきは頭に浮かぶ嫌な予感が、思い過ごしであって欲しかった。芽衣が、二人の事件に関与しているなどと考えたくもなかった。だが、実際に梅宮から伝えられた話を踏まえると、芽衣が無関係とは思えなかった。現実は、いつだって非情なのだ。
芽衣は槙仁の家で過ごし、梅宮は独自に調査を始めていた。田中と福島の間に何があったのか、それを探って。当初、さつきの中に田中を疑うような考えはなかった。芽衣と田中の関係を妬み、福島が怒りに身を任せてしまったとしか考えられなかった。
だが、梅宮の口から出た推論を聞き、さつきは決意した。芽衣に会い、腹を割って話すことを。
梅宮は、幽霊が見える条件を次のように話した。
『人を殺したことがある者』だと。
本人はそれを確信し、だからこそ芽衣が田中を殺害したと考えていた。梅宮にとっては、それが揺るぎない真実なのだろう。彼は、幽霊が見える条件を信じているのだから。だが、さつきは言葉にしないものの、彼の考えを一蹴できる。———梅宮は碓氷を殺してなどいないのだから。あの日、最後の一押しをしたのはさつき自身だった。
となれば、梅宮は誰も殺してなどおらず、幽霊が見える条件とやらも変わってくる。それはまた、芽衣が田中を殺害したという推論を覆すことにも繋がる。梅宮本人には伝えられなかったが、さつきはそれを確信していた。
だからこそ、芽衣の元へ行き、話し合わなければならないという結論に至った。芽衣には幽霊が見えている。いまなら、さつきの姿を目視することもできるはず。本当の意味で再会することができると考えた。
梅宮との小さな衝突を経て、さつきは芽衣の元へと向かった。
玄関で文字通り腰を抜かした芽衣を見て、さつきは笑いを堪え切れなかった。ひどく失礼で、芽衣を傷付ける行為だとしても、漫画のようなリアクションがたまらなく可笑しかった。腰を抜かすという現象を、ここまで完璧に体現されるとは思っていなかった。
「入ってもいいかな」
芽衣は言葉を発することができないのか、口をアワアワと動かすだけ。それも仕方がない。死んだはずのさつきが目の前に現れたのだから。また、梅宮の言葉を信じていなかった芽衣にとっては、価値観をひっくり返されたことになる。床に尻餅をついたままの芽衣が頷き、それを見てさつきは建物の中へと足を踏み入れた。
午後九時前、家には彼女以外の誰もいない様子だった。
芽衣の家を訪れる際、さつきは堂々とチャイムを鳴らした。もし、芽衣の両親がドアを開けても、さつきの姿は見えない。誰かのイタズラかと思うだけだ。一方、いまのように芽衣がやってくれば、さつきの姿を直視することとなる。煩わしい儀式をしている暇はなく、さつきは正面突破をすることにした。その結果、勝利できた。そのために、わざわざネックレスを外してきた甲斐があった。
立ち上がることのできない芽衣を尻目に、さつきは二階へと上がることにした。芽衣の部屋の場所も、その様子も目に浮かぶ。これまで、何度訪れたのか覚えていないくらいだ。
さつきは芽衣の部屋へ入り、ベッドに腰を下ろした。その一分後、芽衣がふらつく足取りでやってきた。
「どうして・・?」
「元気してた? ってそんなわけないよね」
さつきはゆっくりと微笑み、芽衣が落ち着いてくれるのを待った。彼女が椅子に腰掛けるのを見届けてから、できるだけ静かな声で話す。
「田中先輩のことも見えているんだから、わたしのことが見えてもおかしくないよね。でも、久しぶり」
「・・ほんとにさつきなの?」
「そう。正真正銘、五十鈴さつき。死んじゃってるけどね」
その言葉を耳にした途端、芽衣が涙を零した。
普段はあれほど強く、弱みなど見せない彼女が泣いている場面を、さつきは数えるほどしか見たことがない。ただ、さつき以外の者は、一度も見たことがないのではないかとすら思う。学校の卒業式だって、芽衣はけろっとしていたくらいだ。
「会いたかった・・、ずっと。会えないと思ってた」
「ごめんね。急にいなくなって」
「どうして死んじゃったの・・?」
「それはまた後で。芽衣、教えて欲しいことがあるの」
さつきは、田中が幽霊として現れたことについて尋ねることにした。芽衣の前に現れたときの様子、また、何をされたのか。そして、二人がデートをするはずだったあの日、福島の家で何が起きていたのかを。
さつきの存在を認めることができ始めたのか、芽衣は少しずつ落ち着いて話を聞いているようだった。だが、さつきの問いに対し、全てを曝け出して答えることはなかった。
「あの人はこの部屋にきて・・、何だか様子がおかしかったの。だから槙仁のところへ逃げて・・」
「逃げ出したのには理由があるはずだよね。何かされたのか、彼が現れたこと自体が恐ろしかったのか。どっち?」
「違う・・、違うの。そうじゃない」
芽衣は明らかに動揺し、口を割ろうとはしなかった。それがさつきには理解できなかったが、それでも、彼女を疑う気持ちはなかった。話すことのできない、何かしらの必然的な理由があるに違いないからだ。
「言えないの。待って、お願いだからもう少し待って欲しい。でも、信じて欲しい・・」
芽衣は次第に顔を伏せ、涙とともに呟いた。
さつきにも、彼女の想いは想像できる。理解はできなくとも、共感はできる。芽衣の味方でいようと心から思える根拠がある———友達なのだ。
「信じてるよ、昔から。いまだって」
「あたしは、梅宮のこと信じてなかったの。さつきが帰ってきたって言われて、何回も酷いこと言っちゃった」
「まぁ、それは信じられなくても仕方ないよ」
さつきは苦笑いをし、どうしようもないだろうと思う。幽霊が見えるいまだからこそ、芽衣は自分と会話ができている。そうでない人からすれば、さつきが現れたことを話されても、気が狂ったとしか思えないはずだ。
「芽衣はさ、どうして自分に幽霊が見えていると思う?」
「どういうこと?」
「田中先輩もそうだし、わたしのことも見えてるじゃない? そうなった理由に心当たりはある?」
さつきの言葉を、芽衣が疑問に満ちた顔で聞いている。そんなことを考えたことはなかったのか、返答に困っている様子だった。
彼女の姿を見ただけで、さつきは満足だった。掌を振り、「気にしないで」とだけ口にする。どうしても、尋ねてみたかった。梅宮の言う幽霊が見える条件は間違っているわけだが、他の可能性は何一つ浮かんでいない。誰か、心当たりのある人物はいないものか。
「ねぇ、訊いてもいいかな」
「ん?」
芽衣が覚悟を決めたように、唇を噛んだまま視線を送ってくる。彼女にとって最も大切な問いを想像し、さつきはため息を隠し切れなかった。
「どうして死んじゃったの? あれは事故?」
予想通りの質問だったが、返答を決めるのは間に合わなかった。芽衣は不安げに、これを尋ねたことでさつきが消えてしまわないか怯えるように見つめてくる。体の大きな芽衣のそんな様子が可笑しく、さつきは開き直ることができた。
「事故だと思う。よく覚えてないんだけど、気がついたときにはこうなってた」
両手を広げ、歓迎するかのようなポーズを取る。嘘がバレないように必死だった。さつきは、自分の死の真相を思い出している。なぜ、自分が電車に轢かれたのかを。
「警察の人は、さつきが自殺したんじゃないかって・・」
本当に、消えてしまいそうなほど怯えている芽衣がいた。そこまで怖いのなら、口にしなければよいのに。さつきは呆れながらも、彼女の勇気に感服していた。砂漠に咲く一輪のバラのように、芽衣は強く、美しい。
「違うよ。ふらついてたのか、他の人にぶつかったのか、落ちちゃっただけ。最後までドジでごめんね」
芽衣はさつきの顔をジッと見つめたまま、下唇を噛み続ける。さつきの言葉の真意を確かめようと奮闘しているに違いない。だが、さつきはこれ以上話すことができなかった。真実を、誰かに伝えるわけにはいかないのだから。
「話を戻すけどさ、田中先輩は芽衣の味方? それとも・・」
「あたしを信じて。自分でなんとかするから」
「それができないから困ってるくせにぃ」
さつきがからかうと、芽衣は言い返すこともできないようだった。
それでも、さつきは芽衣のために力になることを誓う。彼女の身を傷付けるのが誰なのか、それはわからないとしても、芽衣を守ることはできる。紫外線から皮膚を守るオゾン層のようなものだ。存在自体が芽衣のためになればいい。それは同時に、梅宮や槙仁のためにもなると信じて。
「また明日、会いにくるね。それまでに話せるようになってくれてると嬉しいな」
さつきは立ち上がり、芽衣の側へ近寄る。
不安そうに顔を上げる芽衣に向かって両腕を伸ばし、優しく包み込む。芽衣の柔らかな髪の毛を頬で感じながら、この友人を守ろうと心に誓う。芽衣がいたおかげで、さつきはこれまで生きてこられた。梅宮や槙仁も含め、自分の周囲にいる者たちが、心底儚く感じられた。
「芽衣、大好きだよ」
彼女を傷付けるものを、全て排除してやりたい。これ以上、友達が傷付くのを見ていられない。さつきは、田中の姿を見張ることにした。
6
芽衣の窮地を救い———救ったのは梅宮と槙仁だが、全ては終わったかに思えた。芽衣とのわだかまりはなくなり、彼女と梅宮の間にも、不思議な信頼感が生まれているように感じた。その中心には自分の存在がある。さつきは、それが誇らしかった。
だが、そんな束の間の平和も、すぐに崩れさることとなった。
ついに、あの男が帰ってきたからだ。
五月一日、梅宮を家に招いたのは、彼の誕生日だったからというだけではない。数ヶ月前の時点ではそうだったのだが、いまとなっては目的が変わっていた。そろそろ、消え去るべき頃だと考えていたのだ。
彼のために食事を用意し、なんてことのない談笑をしている時間は、何事にも代えられぬほど幸せだった。こんな日が、あと一日でも続いて欲しい。心からそう思えるほど。
だが、さつきにはやるべきことがあった。あるべき場所に戻る。そして、梅宮の中に未練を残さずに消える。そのために、わざわざ二人きりの時間を使い、話す決心をしていたのだ。自分がこの世に残っている、本当の理由を。
だが、それすらも伝えることはできなかった。梅宮の携帯に、あの男から連絡が入ったからだ。その瞬間、リビングの中の平和は終焉を迎えた。二人が唯一幸せになれる一筋は切れ、力押しの幕切れへと向かい始めた。
結局、その後、さつきが真実を口にするチャンスは訪れなかった。梅宮が、上の空になってしまったからだ。電話の相手が碓氷だということは、彼の口から聞かなくても想像ができた。梅宮の態度、状況、何に動揺するかを考えれば、単純な問題だった。幽霊となった理由を話すのは後日にし、二人の楽しい食事会は終わった。
次にさつきが梅宮と再会したのは、その三日後だった。それも、予期せぬ事態となって。
さつきの家を正面突破してきた梅宮の表情を見て、何かが起きているのだと推測できた。強い意志に全身を包まれ、硬く強ばった梅宮の表情から、鬼気迫るものを感じたほど。だからこそ、さつきは真剣に彼の話を聞こうとしたのだ。適当な態度で接しては、彼が無茶なことをしでかすとわかったからだ。
だが、梅宮のとった行動は、さつきの予想の範疇を越えていた。まさか、幽霊となった自分と、そういった行為を始めるとは考えられなかった。
さつきは自分の部屋でベッドに押し倒され、梅宮の真意を計り兼ねていた。なぜ、彼はこのような行為に及ぶのか。さつきが碓氷から何をされたのか、梅宮だってよく知っているはず。それにも関わらずこうするというのは、彼の中に何かしらの意図があるということ。しかしそれが表には現れていなかった。
——碓氷を、もう一度殺しにいくんだ。
梅宮の口から放たれた言葉は、さつきの脳を停止させるのに十分な威力を持っていた。碓氷を殺す。それはつまり、幽霊となった彼を再び殺すということなのか。
さつきの頭に迷いが生じた隙に、梅宮に肉体の自由を奪われた。嫌悪感や恐怖はない。それでも、これが許されない行為なのだということは、本能で理解していた。後日振り返ってみて、正しかったなどと思えるはずがないのだから。
それでも、抵抗することはできなかった。彼が本気であることは伝わってくる。あれほどの悲しい顔を見せられては、さつきの中の情が騒ぎ出しても仕方がなかった。ただし、一つだけ譲れない部分があった。このまま流されてはならない。どうしても、受け入れられないこともある。
「今度は、ちゃんとつけてね(・・・・)」
ようやくそれだけを口にし、あとは梅宮に身を任せることにした。本音を伝えれば、それを無視するほど彼も馬鹿ではない。さつきの希望を叶えるように、梅宮はしかるべき手順を踏んだ。これで、二度目の妊娠を避けることができる。さつきは安心し、梅宮に身を委ねた。
梅宮が部屋から出て、家を離れていっても、さつきはベッドの上から起き上がることはできなかった。涙が溢れ、やり切れない気持ちに包まれていた。
このままでは、梅宮が再び殺人鬼になってしまう。相手がすでに死んでいる碓氷だとしても、彼の行為は立派な殺人だ。世間は気づかなくても、さつきは全てを知ってしまっている。彼の行為を、黙って見過ごすわけにはいかなかった。
必死に体を起こし、服を着てから立ち上がる。自分が何のためにここにいるのか、それを心に言い聞かせる。梅宮を守るために、ここにいるのではないのか。そのためならば、他の全ての者を傷付け、嘘をつき続けることだって厭わないのではないのか。
気がつくと、さつきは駆け出していた。
宙に浮いたナイフを目掛け、全力でぶつかりにいく。その結果がどうなるのか、全く予想もできないまま。結論的には、どうやら碓氷にナイフが刺さったらしい。梅宮の表情を見れば、自分の行為が成功したことを知れた。
さつきは息があがった状態だったが、ここでのんびりするわけにはいかなかった。これ以上、梅宮の人生に関わってはいけない。綺麗サッパリ、この世から消滅すべきなのだ。梅宮が碓氷を殺すのを防ぎ、同時に彼の望みを叶えることができた。ならば、もう成仏しても構わないじゃないか。そろそろ、眠りにつきたい頃でもあった。
梅宮の部屋を飛び出し、無我夢中で走った。廊下の端に辿り着き、柵に両手を掛けたまま、追ってきた梅宮を振り返る。不安な顔を隠そうともせず、梅宮もさつきの姿を捉えた。そして、彼が走り出す前に、さつきは神に祈る。
———どうか、彼を幸せにしてあげてください。
さつきは勢いよく柵を越え、自由を得るために飛び出した。
7
あの日、あのとき。さつきは帰ってきた。梅宮を守るために。
三月二十二日のことを、さつきは幽霊となったいまでもハッキリと思い出せる。自分が死亡した駅のホームでのことは曖昧でも、その後の、自分の行動はコマ送りで思い出せる。それほどまでに必死だった。
さつきは自宅へ向かって走りながら、溢れる涙を拭おうともしなかった。息があがり、両脚が悲鳴をあげても、立ち止まることは許されなかった。
誰にも見られることなく街中を走り続け、無我夢中で自宅の玄関へ向かう。昼の十二時前、トキ婆は外出しており、わざわざカギを開けることすら煩わしかった。隠してある合鍵を使って扉を開け、全速力で二階へと向かう。タイツのせいでフローリングの床で滑り、階段で思い切り脛をぶつける。涙が勝手にやってきても、歯を食いしばって前へと一歩を踏み出し続けた。
どうしても、それを梅宮に見られるわけにはいかなかった。彼には何も知らせていないのだから。産婦人科の通院手帳を処分しなければならない。
さつきが自らの体の異変に気づいたのは、クリスマスを過ぎた頃だった。年明けを数日後に控えた朝、突然の吐き気に襲われ、洗面所へと駆け込んだ。胃の中身を全て吐き出し、昨日の食事に問題があったのかと考える。トキ婆が作ってくれた、普段通りの温かな料理だったはず。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、さつきはようやく呼吸を落ち着けることができた。このときはまだ、ただの体調不良だと考えていた。せいぜい、お腹からくる風邪ではないか、と。
その一週間後、再び突然の吐き気に襲われた。それまでは体調がよかっただけに、これは何かマズいのではないかという不安が生まれた。誰かに毒を盛られているとか、トキ婆が腐った食材を使っているなど。または、妊娠しているのではないかと。
それが頭に浮かんだとき、さつきの中の感情は複雑だった。女性としての母性本能は存在していたはずだが、彼女自身は、バンザイして喜べる状況ではなかった。その相手として思い当たるのが、梅宮しかいなかったからだ。
クリスマスを二人で過ごし、過ちはその夜に起きた。アルコールの影響、言葉にしてしまえば、そんな安っぽいものになる。とはいえ、互いに好意を寄せ続けていたのだから、いずれはそうなっても不思議ではなかった。さつき自身、それを望んでいた部分がないとは言い切れない。
そして、二人は自然と交わった。完全に、避妊もせずに。
翌朝、さつきが目を覚ますまで、その後のことを考えていなかった。アルコールに脳を浸食され、まともな思考すらできていなかった。朝になってから僅かに焦りを覚えつつ、さつきはできる限りの処置をした。それでも、自らの生理周期を考え、妊娠はしないだろうと高を括っていた。このとき、病院を訪れていれば話は別だったのだが。
こうして、さつきの中に新たな命が芽生え、彼女を追いつめていった。
妊娠していると正式にわかったのは、年が明けた一月末のことだった。産婦人科を訪れ、医者から認定されてしまった。母親になったことを。誰も、それを望んでなどいなかったのに。
さつきの中で、この問題に対する結論は出ていた。———生もう、この子と共に生きていこう、と。
それでも、梅宮には何も言い出せなかった。彼に受け入れられようと拒否されようと、これまでの関係を続けることはできない。たとえ結婚できたとして、それが二人にとって幸せなのかわからない。トライすることすら、さつきには怖かった。
唯一、芽衣にだけは相談したかった。同じ女性として、心から信頼している友人として、アドバイスが欲しかった。だが、それすらもできなかった。芽衣の性格を考え、根っこの優しさを考えると、何もしないでいてくれるとは思えなかったからだ。槙仁を含め、梅宮本人に真正面からぶつかっていく姿が目に浮かび、言い出せなかった。
芽衣には生理痛が酷いと嘘をつき、一緒に産婦人科を訪れてもらったことがある。女同士、隠し切れない部分もあるからだ。誰にも言わず、さつきが産婦人科に通っていると知られれば、察しのよい芽衣のことだ、感づいてしまうに違いない。あえて自分から公表することで、芽衣に対する防衛戦を張ったつもりだった。
こうして残酷なまでの時間が過ぎていく中、ついにそれが起きる。母体が耐え切れなくなったのか、流産してしまったのだ。
二月十日。梅宮へプレゼントするチョコレートの材料を買うために、スーパーへ向かっていたときのこと。
自宅から歩いていける距離にあるスーパーまで、残り五分ほどのところだった。普段から通り慣れている道を、何も身構えずに歩いていた。楽観的に、晩ご飯の献立を考えながら。
だが、それは唐突に訪れた。
下腹部に嫌な感覚を覚え、さつきは無意識に屈んでいた。全身を寒気が襲い、脂汗がとまらない。本能的に、何か悪い予感を察知していた。運悪く、周囲に歩行者はほとんどいなかった。唯一、反対側の歩道を男性が一人歩いているだけで、その男性も、さつきの異変に気づいてはいなかった。
さつきが地面に膝を突いてから、どれほどの時間が経過しただろう。気がつくと、さつきは病院のベッドの上で横たわっていた。全身を襲う疲労感と、下腹部の物足りなさ。ここへやってくるまでの記憶は、まるで夢のように曖昧だった。
そして、病院の先生からそれを伝えられた。お腹の子は助からなかった、と。
これが、さつきが死を望んだ一度目の瞬間だった。
梅宮との間にできた子供が、たとえ望んでできた子ではなくとも、この世から消えてしまった。そうなった原因は、自分しか考えられない。母体として正しい生活をしていたのかと尋ねられれば、自信を持って頷くことはできない。ただ、それにしてもあまりにも唐突だった。まだ、誰にも話せていなかったタイミングだったのに。
家族に連絡をするから、そう言って連絡先を尋ねてきた看護師には、頑に口を割らなかった。連絡がいくとすれば、それはまずトキ婆だ。彼女に対し、こんなショックを与えたくない。妊娠していたことも知らないのだ。唯一の家族であるさつきとトキ婆の間には、ギリギリの薄さのガラス窓しかない。どちらかが力を加えれば、すぐにそれは崩壊してしまう。また、友人———芽衣や梅宮たちにも伝えられるわけにはいかなかった。
子供の父親の存在も確認されたが、そこでも梅宮の名前は出さなかった。それだけは、梅宮に知られるわけにはいかなかったからだ。そうして、さつきは絶望を味わいながら、独り身になった体で帰宅する。生まれてくるはずだった子供は、静かに埋葬された。
さつきを襲った流産から、一ヶ月もしないうちに次の事件が起きる。
梅宮から紹介された碓氷と顔を合わせ———本心では会うことすら煩わしく、嫌々出掛けただけだったが、彼から酷い目に遭わされた。。これが、彼女が死を望んだ二度目の瞬間だった。
ただし、梅宮が勘違いしていることがある。碓氷とさつきは、行為には至らなかった。というのも、襲われたさつきが、碓氷にそっと呟いたからだ。———もうあんな思いはしたくない、と。そして、流産の経験があることを。
それが碓氷にとって、どれほどの衝撃だったのか。いまとなっては確かめることはできないが、少なくとも、生半可なものではなかったはずだ。これから性行為をしようとしている女性が、つい最近流産したばかり。そこには、不快感や嫌悪感とは別の、本能的な引っ掛かりが生まれたはずだ。
碓氷から解放され、ついにさつきは自殺未遂を図る。もう、何もかも嫌になった。その一瞬だけは、現実から目を背けたと認めざるを得ない。
そして———。
病室で梅宮と再会し、彼に殺意を芽生えさせてしまった。その結果、梅宮は碓氷を殺害しようとし、さつきが最後の引き金を引くこととなった。
碓氷を殺したのは、さつきなのだ。
8
三月三十日、この日を、さつきは今後死ぬまで忘れることはないだろう。成仏しても、忘れることはできないに違いない。
梅宮が碓氷の車を追い、三重県内の山へ辿り着いた。梅宮がそこで何をしようとしているのか、言葉で説明されなくても、さつきにも充分理解できた。車の後部座席に七輪を乗せて出発したのだから。その隣にさつきが乗っているなど、考えもしなかったはずだ。この時点では、梅宮には幽霊が見えていなかったのだから。
ロープウェイの乗り口が見える駐車場に車を停め、梅宮はじっと動かなかった。その間に碓氷は車を降り、登山へと向かった。
昼前になると、ようやく梅宮が動き出した。運転席を降り、後部座席のドアを開けて七輪に手を伸ばす。すぐ側まで梅宮の手が伸びてきて、さつきは逃げるように体を縮めた。梅宮の手がさつきの体に触れてしまえば、何か違和感を感じ取られるはず。そうなれば———具体的な問題は思いつかなかったが、異常が発生するはず。そのおかげで梅宮の気が変わってくれるだなど、とてもそんな楽観的には考えられなかった。
だが、梅宮は思い出したように手を引っ込め、碓氷の車へと向かった。七輪と遺書を持たずに。
二台の間には数十メートルほどの距離があり、碓氷に気づかれなかったのも不思議ではない。それだけの距離を、梅宮は一人で歩き続けていた。まるで息子を戦場へ送り出すかのような気持ちになり、さつきはいても立ってもいられず、彼のあとを追うことにした。自分の車の扉が開いたことに、梅宮は気づかなかった。
彼が碓氷の車のロックを開けたことは、さほど驚かなかった。昨晩、彼がどこかへ出掛け、見知らぬカギを持って帰ってきたことを知っているからだ。それが碓氷の車のカギなのだと、薄々気づいていた。
飲み物を入れ替え、梅宮はすぐに引き返してきた。さつきは車から降りてしまったことを後悔しながら、とるべき行動を考え続けた。梅宮の車へ乗り込むことは、おそらく不可能だろう。ひとりでにドアが開けば、やはり梅宮に気づかれてしまう。となれば、碓氷の車へ乗り込むしかない。別に外で待っていても構わないのだが、いかんせん山は寒い。春になったとはいえ、気温は一桁のままらしい。
梅宮が自分の車へ向かい、歩き続けているのを確認する。彼が振り返る前に、さつきは素早く碓氷の車のドアに手を伸ばした。ドアノブを引くと、カギが掛かっていないことを確認できる。梅宮は、カギをかけることを忘れたのかもしれない。または、自然にロックされることを見越した可能性もある。どちらにしろ、さつきには好都合だった。この車内へ入れば、梅宮の作戦に関与することができるからだ。その具体的な方法は、まだ何も思いついていないが。
午後六時頃、碓氷が車へと戻ってくるのが見えた。登山で疲労しているのか、足取りは出発時よりも重い。
それでも、満足げに帰ってくる碓氷を見て、さつきの心が動き始めた。碓氷を見ると、あの日の出来事が自然と頭に浮かぶ。押さえ込もうとしても無意識に浮かんでくるそれらを、食い止めることはできなかった。諦めて、殺意に身を任せることにした。
碓氷はトランクを開き、いくつかの荷物を持って車を離れていく。彼の右手に握られているペットボトルは、梅宮が用意したものだ。外身だけでは、それに細工が施されていることなど気づけるわけもない。
碓氷はお湯を沸かし、カップ麺を美味しそうに食べ始めた。その途中で、何度もペットボトルのお茶を口に含みながら。その中に、毒でも入っているのだろうか。さつきが不安に見舞われたまま眺めていても、碓氷に異変はない。即効性の劇物ではないようだ。
碓氷は食事を終えると、運転席へ乗り込んできた。後部座席の左側に、先日襲った女がいるとも知らずに。
携帯電話を操作していたと思えば、そのうち碓氷は眠りに落ちたように動かなくなった。コートのフードを被り、体をぎゅっと丸めるようにして。確かに、車内の温度はだいぶ低くなっている。さつきもコートを着ているとはいえ、平気ではなかった。息は白く陰り、自分の目で確認できる。他の者からは、これすらも見えていないのかもしれない。
碓氷が静かな寝息を立て始めるのを聞き、さつきの中の憎しみが沸き上がる。自分をこんなにもボロボロにしておきながら、この男はのん気に登山を楽しんでいる。自分の行いなど忘れ去ったかのように、善良市民として生きていこうとしている。そんなことが、許されるのだろうか。
さつきが碓氷に対する憎しみと戦っていると、外の異変に気づいた。いつの間にか、梅宮がすぐ近くに立っていたのだ。思わず顔を隠してしまったが、その行為に意味がないことを思い出す。堂々と、ここに座っていて問題はないのだ。
梅宮は碓氷の様子を伺いながら、車の背後を通り、左側の扉に手を掛けた。さつきは慌てて右へ移動し、梅宮との距離を少しでも離した。
彼は扉を開け、中へ入り込んできた。後部座席の中央辺りに七輪を置くと、チャッカマンで火をつけ始めた。十秒もしないうちに七輪に火が灯り、さつきのすぐ側で輝きを放ち出す。七輪と梅宮、その両方に触れるわけにはいかなかった。さつきは辛い姿勢に耐えながら、梅宮の次の行動を見守る。
彼は助手席に一枚の紙を置き、すぐにそれが遺書なのだと理解できた。梅宮が昨晩用意していた、碓氷が自殺したと見せ掛けるための遺書。梅宮はそれらの準備を終えると、後部座席に腰を下ろした。そして、しばらくして目を瞑ると、動かなくなった。
さつきは不思議に思いながらも、どうすることもできなかった。ただ、不安が頭から離れなかった。もしかすると、梅宮もこの場で自殺するつもりなのではないかという不安が、体中にまとわりついていた。
だが、すぐにそれは振り払われる。梅宮が両目を開き、行動を再開したからだ。
窓ガラスを開けるスイッチに手を掛けると、慎重にそれを押す。一瞬だけ機械的な音が響いたと思うと、梅宮は窓ガラスの上辺を睨みつけていた。何か細かい狙いがあるはずだが、梅宮の真意は読み取れなかった。
窓ガラスを操作することに満足したのか、梅宮は碓氷の姿を見つめていた。そのまま十秒が経過し、ようやく、梅宮は車の外へ出ることにしたらしい。一酸化炭素中毒で気分が悪くなる前にそうしてくれたことが、さつきの心を落ち着かせた。正直なところ、このまま自分も苦しむのではないかという心配も生まれていた。
梅宮がドアを開けると、外の冷たい空気が迷い込んできた。車内のくすんだ空気が浄化される。それでも、再びドアが閉められれば、どす黒い空間に逆戻りすることとなる。地獄行き特急、途中に停車駅はない。
無意識に、さつきは梅宮の体に手を伸ばしていた。
このまま、彼を殺人鬼にしてしまいたくはなかった。いけないとはわかっていても、梅宮の体を引き止めたかった。こんな馬鹿なことはせず、綺麗なまま生きて欲しい。碓氷への復讐を果たしてくれているのだということは理解できる。感謝もしている。それでも、人としての道を踏み外して欲しくはなかった。
さつきの手を振り払い———実際にはその意志はないはずだが、梅宮は外の世界へと飛び出した。ドアが閉じられた直後、梅宮が何かを呟くのが見えた。
車内にはさつきと碓氷が取り残され、梅宮は自分の車へと戻っていった。一度も振り返ることなく、仕事を終えた疲労感を背負っている様子で。
さつきは、自分の行動を決定しなければならなかった。
こっそりと抜け出し、無事に家まで帰る。碓氷と共に、一酸化炭素中毒で死んでしまう。そのどちらも受け入れ難かった。自分の命云々ではなく、梅宮を殺人犯にしてしまうことが、だ。
七輪を外へ放り出せば、それを防ぐことはできる。簡単だ。それでも、碓氷を殺してやりたい気持ちはさつきの中にもあり、また、そんなことをすれば梅宮が怪しむ。七輪が、自分の意志で車の外へ出ることなどありえないのだから。
長考の末、さつきはその結論を導き出した。
梅宮を殺人犯にせず、碓氷を殺すことを。
先程から、車内の空気は悪くなっている。———だが、それだけだ。決して、人を殺せるような状況ではない。梅宮が意図的に開けておいた隙間が、人の命を救おうとしているのかもしれない。彼はいったい、何のためにこんな細工をしたのか。
さつきはそれを理解することを諦め、自分の計画を実行することにした。
つまり、窓を完全に閉めてしまうことを。
それを実行すれば、さすがに、車内は一酸化炭素で満たされるはずだ。その結果、眠っている碓氷は死亡するだろう。梅宮と、さつきの狙い通りに。また、梅宮は、自分の行為によって碓氷を殺したのだと勘違いする。実際には、さつきが窓を完全に閉めたことが、碓氷を殺すことになったのだとは知らずに。
明日の朝、碓氷が発見され、死亡が確認されたとする。警察は、梅宮のことを疑うだろうか。少なくとも話を訊きにいくことは間違いないが、犯人だと結論づける可能性は低いように思えた。この車の状況を踏まえ、こんなにも回りくどい殺害方法を選ぶ必要はないからだ。梅宮のところへ事情聴取に行くとしても、逮捕状が出ることはない。それを確信できる。
梅宮が運転席に座っているのを確認し、さつきはゆっくりと窓を上まで引き上げた。限界まで到達し、機械が停止してからも、何度も何度も上げる。一ミリの隙間も作らず、碓氷を葬り去るためだ。
気がつくと、さつきの両頬を涙が伝っていた。スイッチを強く引き上げ過ぎて、人差し指の先が赤くなっている。
ようやく肩の力を抜いた頃には、頭がフラフラし始めていた。まさか、こんなにも早く一酸化炭素が回るはずがない。おそらく、疲労とストレスが原因だろう。そこまでは冷静に考えられ、まだ死なずに済むことを安心した。すでに自分が死んでいることを、このときばかりは忘れていた。
梅宮の車のエンジンが掛かり、すぐに発進した。碓氷の車の側へ近寄ってくるに従い、車のライトで車内が照らされる。碓氷はピクリとも動かず、眠り続けたままだ。このまま、永久の眠りに落ちてくれればいい。
梅宮の車が遠ざかり、やがて、完全に姿が見えなくなった。
さつきは全身を包む疲労感を払いのけ、必死に動き出した。
もう、この場に居続ける意味もない。すぐにでも、暖かい布団で眠りたかった。後部座席のドアを開け、すぐに閉める。一秒でも早く、確実に碓氷を殺してしまいたかった。
外の新鮮な空気が肺に到達すると、とめどなく涙が溢れてきた。
もう、全てが終わったのだ。復讐は近いうちに達成され、梅宮の中の殺意も静まる。それに、彼は殺人犯にならずに済んだ。警察がどう判断しようと、真実はさつきの中にある。碓氷を殺したのは、間違いなくさつきなのだ。
あと少し、梅宮の無事を見届けてから成仏したい。空一面に広がる星々に、消え去る日の予約をする。
9
さつきが梅宮のことを本当に信頼するようになったのは、高校を卒業する頃だったのかもしれない。
それまでも二人は親しく、槙仁や芽衣と共に過ごしてきた。梅宮とさつきの交際は始まっていたし、わかり合うことはできていたはずだ。だが、さつきの中で大きな変化点となったのは、高校三年生の冬、センター試験直前のことだった。
さつきが自分の部屋でひきこもり、受験勉強の追い込みをしているときだった。当時はまだ健康で、ひきこもっていた理由も健全なものだった。受験生らしい生活をしていただけ。それを崩すこととなったのは、トキ婆から入った一報だった。
——さつきちゃん! 拓也くんのご両親が・・。
突然部屋のドアを開けられたことに憤慨する間もなく、さつきは部屋を飛び出していた。とても、他人事とは思えなかった。あれほど幸せに包まれ、家族に不自由なく生活していた梅宮の世界が崩壊してしまった。
——梅ちゃん!
病院へ飛び込み、梅宮の姿を探す。どうやってそこまで辿り着いたのか、さつきは思い出すことができない。記憶に残っているのは、病院の廊下のソファーに腰掛け、無表情で俯く梅宮の姿だけ。まさにいま、家族を失おうとしている彼の横顔だけ。
梅宮の両親の乗った車は、対向車線からはみ出してきた車と正面衝突したらしい。相手の車に乗っていたのは、今年成人式を終えたばかりの若者四人で、そのうちの三人が飲酒をしていた。その中には、運転手も含まれていた。
ふざけるな!
さつきは生まれて初めての感情に襲われていた。
そんなやつらは、どこかで勝手に死んでしまえばいい。好き放題暴れて、誰にも迷惑を掛けずに死んでくれればいい。どうしてわざわざ、何の罪もない梅宮の両親を巻き添えにしたのだ、と。
その事故で生き残ったのは、相手の車に乗っていた内の一人だけだった。飲酒をし、後部座席に座っていた男だけ。梅宮の両親は病院に運ばれ、やがて死亡が確認された。梅宮は泣いていたのか、現実を受け止められなかったのか。さつきには、どちらとも覚えがない。取り乱していたという意味では、さつきの方が酷かったくらいだ。
そこからの受験は、本当に地獄だった。結果的には三人が同じ大学へ進学し、内定をもらっていた梅宮も順調に就職した。少なくとも表面上は、大きな問題はないように見えた。当然ながら、そんなはずはなかったが。
結局のところ、その事故が二人を別れさせるきっかけとなった。特にどちらから切り出したわけではない。自然と、逆らいようのない力に流されただけだった。さつきは両親を幼い頃に亡くし、梅宮も同様の状況になった。そんな二人が一緒にいるのは、ひどくエネルギーの高い状態だったのかもしれない。
梅宮との別れが目の前に迫ってきたとき、さつきは一度だけ涙を流したことがある。彼の前で、子供のように。
——一緒にいられない?
——悪いけど、ムリだ。さつきのことは好きだけど。
そう口にした梅宮の表情を見て、さつきも悟ってしまった。もう、無理なのだと。彼の中に、さつきに対する愛情は残っていないのだと。いや、正確には、愛情に気づかぬように蓋をしたのだとわかった。これまでのように、無邪気な感情に従うことはできなくなっていた。
——なぁ、さつき。
さつきの部屋で、正面に座る梅宮が言う。
——俺さ、これ以上家族がいなくなるのが怖いんだよ。・・だからごめん。
最初は、彼の言っている意味がわからなかった。両親を失った彼が、これ以上何を失うのだろうかと。
だが、悲しげに微笑む梅宮を見ると、ようやくさつきにも理解できた。それと同時に涙が溢れ出し、どうしようもなく切なかった。全身の皮膚が縮み、心がキュルキュルと悲鳴をあげる。梅宮はこう言いたいのだ。『お前とは家族になれない』と。
——俺さ、さつきのこと大好きなんだよ。
こうして、二人の交際に終止符が打たれた。
外部の要因により終わりを迎えることに、最初は納得できなかった。自分も梅宮も、何一つ悪いことをしていない。それにも関わらず一緒にいられない状況を作った事故を、さつきは憎しみ続けていた。
それと同時に、さつきは自らの心に誓った。梅宮を、自分が愛したこの男を、死んでも守りきろうと。どれほど困難な状況が訪れても、辛く深い苦痛を味わうことになっても、味方でいようと。
高校へ入学した当初、両親のいないさつきが一人ぼっちにならないように、みんなが助けてくれた。歩み寄ってきてくれた。その恩を返すのが、自分の生きる意味なのだとわかる。梅宮が死にたくなったときは、自分がその絶望を和らげてやろう。
たとえ傷の舐め合いだと言われても、さつきの決意が揺らぐことはなかった。愛していたのだから。梅宮は、さつきを失うのが怖いと言ってくれた。それほどまでに愛されているとわかったのだから、いいじゃないか。これ以上、梅宮の悲しみを上塗りしたくはなかった。
だからこそ、梅宮との子供ができ、流産してしまったとき。さつきは誰にも明かすことができなかった。彼に、再び家族を失う悲しみを背負わせるわけにはいかなかった。それは、自分一人で背負うべき罪だった。
そして、さつきは戻ってきた。流産したという事実を、永遠に消し去るために。それが、梅宮に対する償いだった。
こうして別々の道を歩き出した二人だったが、複雑に絡み合った糸のせいで、さつきは命を落とすこととなる。二人は愛し合っているのに、それが報われることはなかった。
10
さつきは一人で歩きながら、最後の時間を味わっていた。
いずれ、自分はこの世からいなくなる。梅宮の言うところの成仏を体現することとなる。もう何も怖くなどない。梅宮にとっての障害を排除し、あとは自分が消え去るだけ。生まれてくるはずだった子供に関する証拠も処分したし、梅宮と家族にならずに別れることができる。これで、全てが終わる。
穏やかな心で、空に広がる星々を眺めることができる。こんな日が訪れるなど、思ってもみなかった。
二月に失った子供、三月に受けた傷、そして———。
後悔がないかと尋ねられたら、そんなもの、答えは決まっている。
後悔にまみれている、溢れている。どこかで別の選択肢をとっていれば、結果も大きく変わっていたはずだ。幻だとわかっていても、それを空想してしまうのが人間たる証。生きている証拠だ。
それでも、さつきは思う。自分の選んできた道に、間違いなどなかったのだと。
望まぬ決断もあったが、あのときは仕方がなかった。どの道だって、先など見えない。ならば、自分の信じた道を進むことこそ、生きるというものだ。その過程や結果など、付属品に過ぎない。迷い、決断することこそが、生きるということなのだから。
あの日、三月二十二日の自分の行いも、間違いだったとは思わない。仕方がなかったのだと信じている。あの駅のホームで、さつきは覚悟したのだから。梅宮の言葉が頭に浮かび、心へと到達したときに。
突然、右肩に強い力を感じた。そのまま後ろ側へ力づくで引かれ、さつきの全身が振り返る。目で確認する前に、心が理解してしまった。自分が負けたことを。
「ふざけんなよ!」
両肩を掴まれ、とてもじゃないが身動きなどとれない。
「勝手に消えようとしやがって・・ふざけんじゃねぇぞ!」
息を切らした梅宮が、真っ直ぐに睨みつけてくる。
懐かしい顔に、心が揺さぶられる。彼の胸で、穏やかに眠りたくなってしまう。
二人の視線が交わったまま、五月の風が舞っている。梅雨前の柔らかな匂いを含んだ風が、二人の心に問いかける。———最後に話し合わなくて大丈夫か、と。
「芽衣から聞いた」
「・・何を?」
「お前が産婦人科に行ってたことを」
「だったらなに?」
さつきの言葉を無視し、梅宮が無言で問いかけている。真実はどこにあり、何なのかを。
「お前は何を隠してる?」
「隠してなんかない。わたしは、自分に正直に生きてる」
「俺には? 言ってないこともあるだろ」
正直、さつきは迷っていた。あとは成仏するだけだと思っていたところで、最も見つかってはならない相手に捕まってしまった。それに、産婦人科へ通っていたことを知られたことに、激しい動揺を呼び起こされる。彼は、どこまで知ってしまったのか。
のんびりと散歩をしている場合ではなかったと後悔しつつ、次の手を探す。
「梅ちゃん、あのね———」
「どうして戻ってきた? 目的は何だった?」
梅宮は次々と問いをぶつけてきて、さつきは耐え切れなかった。この瞬間に成仏したいくらいだが、どうもうまくいかない。神様とやらは、なかなかに意地が悪い。
「やめて。もう終わりにしようよ。わたしのことなんて忘れて」
「ふざけんな! 勝手に一人で背負い込んで、少しは周りのことも考えろ!」
「だから! わたしのことなんてほっといてよ! ・・もう消えるんだから」
さつきの言葉に、梅宮も口を閉ざしてしまう。
二人ともわかっている。これが、二人で過ごせる最後の時間なのだと。だからこそ梅宮は全てを明らかにしようとし、さつきは真実を飲み込んだまま消え去ろうとしている。どちらも、譲れるわけがなかった。
「あの日、どうしてお前は死んだんだ。電車に轢かれたのには理由があるんだろ」
ついに、梅宮がそれを口にした。さつきの死の真相を暴きにきた。
「俺はこう思ってる。———お前は、誰かに突き落とされたんだって」
「誰かって、誰?」
「幽霊だ」
梅宮の表情を目の当たりにし、逆にさつきが驚きを隠せなかった。彼が真剣にそれを口にしているのだとわかったからだ。冗談やごまかしなどではない。心の底から、そう信じている。
「ずっとわからなかったんだ。警察も、お前が誰かに突き落とされたわけじゃないって言い張るし、防犯カメラにもそんな様子はなかったって言う。だけど、わかったんだ。誰にも見つからずに、お前を殺せるやつがいることに」
「梅ちゃん———」
「ただ、それが誰かはわからねぇ。あの時点でお前を殺したがってるやつなんて、心当たりがないしな」
いまなら誰か心当たりがあるのかと気になりつつ、さつきは思考を切り替える。次に口にすべき言葉は何なのかを。
「お前は、犯人を見たか?」
「・・見てないよ。そんなわけない」
不満げに梅宮が顔をしかめる。「見えてなかったんだよな・・」などと呟き、一人きりの世界に迷い込んでいる。そこには何もないのに。真実は、さつきの中にしかないというのに。
「あのね、梅ちゃん」
「戻ってきた理由は何か、それだけでも教えてくれないか?」
「梅ちゃん!」
堪え切れず、さつきは叫んでしまった。
これ以上、梅宮の空回りを聞いていられなかった。聞いているさつきの方が辛かった。彼が、現実を受け入れてくれないことに。
「———あのとき、誰かに突き落とされたわけじゃないんだよ」
「見えなかったんだから、気づかなかったんだろ」
やはり、梅宮はそれを信じきっている。さつきは誰かに———幽霊に突き落とされたのだと。完全に、間違った道を進んでいる。
さつきは思う。そうしてしまったのは、全て自分の責任なのだ。彼を困らせ、焦らせるのは、いつも自分なのだと。そうだとすれば、正しい道を示してやるのも自分の役目なのではないか、と。
「梅ちゃん、あのね———」
「なんだよ」
梅宮が、泣き出しそうな顔で言葉を待っている。子供のように、無垢な心で。
さつきは決意する。真実の蓋を開けることを。
あの日、あのとき。さつきの頭をよぎったのは、梅宮の一言だった。
——もし妊娠したら、堕ろせ。
碓氷から受けた行為を知り、その先までを心配した上での言葉だったに違いない。さつきもそれは理解していたし、彼の気持ちは嬉しかった。だからこそ、何も言わずに涙を流した。現実を受け止めよう、そう思いながら。
だが、その言葉の奥に隠れた意味に気づいたとき、さつきはどうしようもなく焦ってしまった。脚が震え、立っているのがやっとだった。
梅宮は、新たな家族を望まなかった。同じ苦しみを二度と味わってたまるものかと、失うことがないよう、最初から家族を作らないように誓っていた。だからこそ、さつきは彼の子供の存在を隠した。
さつきの中に突如生まれた不安は、次第に膨らみ、彼女の脳を支配するまでに至った。
——もし、彼に子供のことを伝えていたら。
怖くて言えなかったそれを伝えていたとしたら、彼は何と言ったのだろう。
結婚して一緒に育てる。
中絶し、これまで通りの関係を続ける。
最初から、その二つの可能性を考えていた。どちらを選んでも厳しく、辛い道だとわかっていたからだ。そして、梅宮がどちらかを選ぶのが怖かった。知らない方がよいことがある。さつきは現実から目を背け、一人で子供を育てようとしていた。
だが、耳にした梅宮の言葉が、頭にこびりついてとれない。
——堕ろせ。
まるで、そう言われたように感じてしまった。まだ伝えてもいない子供の存在を、彼に拒否されたように感じてしまった。何も言われていないというのに。さつきの頬を涙がこぼれ、無意識に一歩を踏み出していた。
視界には何も映らなかった。駅のホームも、右からやってくる電車の存在も。ただ必死に、近づきたかった。離れていこうとする梅宮を引き止めたかった。さつきは、彼のことを愛していたのだから。
その後、さつきが目を覚ますまでの間、彼女の中に記憶はない。気づいたら反対側のホームに立っていて、自分が電車に轢かれたことを知った。
そして———、直後に思い出した。このままでは、流産した子供の存在に気づかれてしまうことを。突発的に自殺してしまったものの、このままでは何も守れない。梅宮の心を、再び土足で踏みにじることになる。
さつきは、迷う前に走り出していた。
自分の死が誰か他人の手によるものだったら、どれだけよかっただろう。その人物を恨み、幽霊として生き続けることも可能だったかもしれない。梅宮たちだって、悲しみながらも、その人物に対する憎しみで生きられたはずだ。それの善悪はともかく、他人に責任を押しつけることはできたに違いない。
だが、現実は非情だった。
さつきは自らの意志で死を望み、それを完了させてしまった。無意識の行為でも、さつきが自殺したことに変わりはない。そこに、誰一人として介入していないのだから。
梅宮は、これを受け入れてくれるだろうか。先程から、魂を打ち抜かれたように動かず、さつきの姿を直視しているだけ。言葉も涙もなく、心が折れたように。
「だからね、梅ちゃん。わたしのことは忘れて。それが無理でも、せめて呪いみたいなしがらみを捨てて欲しい」
梅宮の幸せだけを願い、さつきは進んできたつもりだった。彼と家族になれなくとも、別の形で幸せにすることはできると信じて。結果的に、それは失敗だった。何もかもうまくいかず、梅宮を傷付けてしまった。
だが、これが信じた道なのだ。正しいと信じて、精一杯歩いてきた。歯を食いしばり、苦痛を味わいながらも、彼を愛していた。
仕方がなかったと思えるようになるには、まだ数十年は掛かるだろう。それでも、都合良く、さつきには時間がある。あの世で会いたい人だってたくさんいる。いつか、梅宮がおじいさんになってやってくる頃には、未練もなく再会できるはず。
「———俺のせいなのか?」
「ううん。誰のせいでもない。わたしが決めたことだから」
さつきの言葉に、梅宮が歯を食いしばって俯く。
彼には、真実を明かすことはできなかった。子供ができたことも、流産したことも。梅宮の言葉が引き金となり、自殺したことも。ただ、現実が辛くて自殺したのだと、嘘をついた。梅宮には、それが嘘だと見透かされているかもしれない。だが、それでも構わないではないか。お互いに相手のことを想い、嘘をついているのだから。誰かに咎められることではないと、さつきは信じている。
それでも、一つだけ彼に残してあげられる真実がある。梅宮の手は穢れていない、それを伝えてやるべきではないのか。さつきは心に強く願う。この行為が、梅宮を救ってくれると。
「梅ちゃん」
梅宮は虚ろな目をしたまま、無言でさつきを見つめる。
「あの人が死んだのは、梅ちゃんのせいじゃないんだよ」
「・・何を言ってる?」
「あのときさ、車の窓をちょっと開けたでしょう?」
その言葉を耳にした直後、梅宮の両目が限界まで開かれた。大きく息を吸い、彼の全身に鳥肌が立つのがわかる。
「あれが何のためかはよくわからないんだけどさ。隙間があったままじゃ、あの人は死ななかったんだよ」
梅宮の顔に動揺が広がる。さつきの言葉に、その奥に隠れた意味に、彼の心は揺さぶられている。さつきがそれを話しているという、その意味を理解して。
「だから、梅ちゃんは誰も殺してなんかいないんだよ」
「お前、あのとき・・」
「それじゃあ、わたしは行くね」
これ以上は、あえて言葉にする必要もないだろう。梅宮だって馬鹿ではない。いまは受け止められなくても、時間を掛けて乗り越えてくれるはずだ。
「———行くって、どこに」
「どこだろう。あの世? 死ぬ前はちゃんとした人間だったと思うし、天国に行けるといいなぁ」
できる限り、綺麗な姿で消えたかった。涙でぐしょぐしょになり、後悔に包まれた姿を見せたくない。梅宮には、何度も命を救われた。最後くらい、彼のために消えたかった。
そういえば、幽霊が見える条件とやらは、何だったのだろう。さつきは正解に辿り着くことができず、それは梅宮も同様に違いない。それでも、さつきは深く考えるのをやめた。一応、自分なりの答えは導き出している。正しいかどうかを確認するつもりはないし、正解を知りたいとも思わなくなった。
それが何であれ、済んでしまったことに影響はない。今後梅宮に幽霊が見えるままかどうかもわからないが、どちらでも構わないではないか。答えを知ることに、何の意味がある。各々が辿り着いた考えを信じていけばかまわない。そう思うことにした。それに、あの世でゆっくりと考えることがあった方が楽しいかもしれない。梅宮がくるまで、彼に誇れるように生きるつもりだった。
「いつか、天国まで会いにきてね」
さつきは深く息を吐き、梅宮に頭を下げる。
——これまで、たくさんの時間をありがとう。わたしのためを想って、何度も手を汚させてしまってごめんなさい。全部、わたしは知っている。だけど、その全てを飲み込んであげる。あなたの罪は、わたしがあの世まで持っていってあげるから、だから、せめてあなただけは、幸せに生きてください。
梅宮の頬を涙が伝うのを見て、さつきは駆け出した。これ以上、側にいるのが辛かった。この世にしがみついてでも、梅宮の側にいたくなってしまう。それだけはできない、してはいけない。あるべきところに帰らなくてはならないのだ。誰もが、自分の存在すべき場所を持っている。
階段を駆け上がる。どこなのかもわからない建物も、最後の場所だと思うと愛おしい。息を切らしながら、涙を流しながら、さつきは笑った。気持ちがいい。一歩ずつ、重力が消えていくようだ。このまま、あの世まで飛び立てる気がする。
屋上まで駆け上がり、呼吸を整えながら空を見上げる。
あと少しだ。自分の命に、人生に、意味があったと思える幸せを噛みしめる。本当に、幸せだった。梅宮と、みんなと出会えてよかった。こんなにも恵まれた環境に感謝するしかない。
屋上の端に立ち、真下を眺める。
そこには———梅宮がいた。
まだ泣いているのか、複雑な顔をした彼が、両脚で立っている。崩れ落ちることなく、必死に生きている。さつきの愛した梅宮は、確かにそこにいた。
「梅ちゃあああん!」
全力で、心を叫ぶ。
この気持ちは届くだろうか。受け入れてもらえるだろうか。
下にいる梅宮が、驚いたように顔を上げた。涙を拭うことなく、さつきの姿を真直ぐ見上げている。
「生まれ変わっても、友達になってもらえますかぁ!」
心臓がバクバクと鳴り響く。肩で息をしながら、なんてみっともない告白だろうと思う。それでも、気持ちがよかった。こんなことを、全力の本音を叫んだことなどなかった。
梅宮が口を開く前に、さつきは地面を蹴り出した。
彼の返事はわかっている。確認するまでもない。さつきは梅宮を愛しているし、それは梅宮の方も同じだと信じて、さつきは飛び降りることにした。下で待つ梅宮の元へ、この想いが届くのを願って。
梅宮の両手が、確かにそれを受け取った。サツキのブローチをぎゅっと握りしめ、梅宮は地面に膝をつく。両手で握ったそれを、力強く天に捧げる。
「———愛してる」
この想いが、天国まで届くことを信じて。




