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さつきは飛び降りることにした  作者: 島山 平
4/5

梅宮と碓氷

                       1


 ———三月三十日。

 この日、碓氷泉(うすいいずみ)が自分の身に起きている異変に気づいていれば、世界は別のものに一変していたはずだ。梅宮は幽霊が見えるようにはならなかったし、碓氷が命を落とすこともなかった。そして、彼女がこの世に残ることもなかった。実際には、碓氷が異変に気づくことはなく、全員の運命が歪んでしまった。こうなってしまったのは、誰か一人だけの責任ではない。


 大学二年の夏に自分用の車を購入して以来、碓氷は車中泊が趣味になった。元から登山が好きだった彼は、自分で車を運転して山の(ふもと)まで行き、登山を終えたら車の中で泊まるという流れを繰り返していた。一人で行動するのは嫌いではなく、俗世間から隔離された車の中での生活も自分に合っていた。大学四年になる春休みまで、彼は何度も車中泊を繰り返していた。その結果、自らの命を落とすとも知らず。

 亡くなる前日、碓氷は明日登る予定の御在所(ございしょ)岳について思いを巡らせていた。これまでにも何度か登ったことがあり、登山の難易度はそれほど高くはない。ちょっとしたハイキング、慣れた者にとっては、その程度の山だ。春を迎えた御在所岳の景色をイメージしつつ、碓氷は布団へ潜り込んだ。

 当日の天候は晴れ。気温もそれなりに高く、絶好の登山日和だった。

 実際、碓氷が下山するまで、大きな問題は起きなかった。途中、登山禁止区域に入ってしまった者がいたらしく、管理部に動きがあったくらいだ。おそらく、何も知らない素人が軽い気持ちで入ってしまったのだろう。そういった輩がいることを不快に感じつつ、碓氷は頂上でカレーうどんを食べ、問題なく下山した。

 麓に泊めてある彼のシビックも、おとなしく留守番をしていた。荷物をトランクに放り込んだ頃には、午後六時を回っていた。いまから出発すれば、それほど遅くなる前に自宅へ到着することはできる。

 それでも、碓氷はあえて車中泊をすることにした。元から、そこまでが登山の計画に入っていたからだ。翌日は木曜日だが講義は午後から。特に問題はない。それに、いまは落ち着いて勉学に励む気分ではない。

 ガスストーブでお湯を沸かし、あらかじめ用意していたカップ麺を夕飯にした。外は涼しいというよりも寒く、上着を羽織りながら食べるカップ麺は格別だった。戦争区域に持っていけば、争いなどなくなるのではないかと思えるほど。

 買っておいたペットボトルのお茶は、すでに中途半端なぬるさになっている。それでも、口に含むだけでホッとした。自分が日本人であることを実感することができる。カップ麺の汁も全て飲み干し、歯を磨いてから運転席に潜り込む。

 フロントガラス越しに星がいくつも見える。それが何という星なのか知らない碓氷にも、ロマンチックなものに感じられた。隣に奥さんがいたら素敵な時間かもしれないが、一人きりも悪くない。心に浮かぶ雑念を吹き飛ばしてくれる山の世界が、碓氷を受け入れてくれているのだから。

 寒いからといって、この場でアイドリングをするのはナンセンスだった。人間の醜さを持ち込まないためにも、上着のチャックを首元まで引き上げて我慢する。手袋をして、フードを頭から被れば完成だ。このまま、世界の奥底で眠るような錯覚に陥る。約二週間前、自分のした行為から逃げ出すために、山へ来て正解だったと思える。

 明日の朝、眩しい光で目を覚ますのが楽しみだった。疲れ果てた体と心を癒すために、碓氷は幸せな眠りに落ちた。


 だが、碓氷が目を覚ますことはなかった。

 彼が眠った翌日の晩、見回りにきた男性が、運転席で眠り続けている男を不審に思ったことが発見のきっかけだった。病気かと心配になった男性が窓ガラスを割り、碓氷の死に気づいた。なにしろ、朝からずっと同じ姿勢で眠り続けていたのだ。さらに、後部座席には七輪が置かれていた。

 男性はすぐに警察へ連絡をし、碓氷の死亡が正確に決定づけられたのは、三月三十一日の午後八時十七分だった。死因は一酸化炭素中毒と断定され、自殺の可能性が濃厚だった。助手席には遺書が残され、後部座席には七輪が置かれていたのだから。また、発見された彼の体に外傷はなく、無理やり縛りつけられていたわけでもなかった。

 当然、警察は他殺の可能性も考えた。碓氷が車中泊をし、眠っている間に、誰かが車内に七輪を入れたのではないか。もしくは、別の場所で殺害された碓氷を車内に移動させたのではないかと。

 第一発見者の男性が車の窓ガラスを割ったことで、車内にガスが充満していたのかどうか判断できなかったからだ。発見者の男性自身はひどく慌てており、おかしなニオイなどには気づかなかったという。また、司法解剖の結果、彼の体内からは睡眠薬が検出された。だが、それも自殺を裏づける証拠となるだけだった。


 こうして、碓氷泉の人生は幕を下ろした。僅か二十二年間の人生だった。結局、自殺と断定されたものの、動機はわからないままだ。一ヶ月が経ったいまでも、遺族は納得できていないだろう。

 そして、碓氷が亡くなった直後、梅宮は幽霊が見えるようになった。中学時代の恩師を始め、複数の幽霊と出会い、様々な経験をした。彼自身、碓氷の事件が原因であると確信し、おそらくそれは間違っていない。ただ、芽衣の身に起きた事件を踏まえると、幽霊が見える条件は人を殺したことがある者、という考えが誤っていることを知った。では、なぜ、梅宮に幽霊が見えているのか。彼自身、納得のいく結論を導けていない。

 碓氷が亡くなった日から、すでに一ヶ月が経過している。梅宮は静かな社会人生活を続け、槙仁や芽衣は学生生活を満喫している。そのどちらも表面上ではあるが。そして、さつきは迷っていた。自分が、今後どのように行動すべきなのか。何をすることで梅宮を救うことができるのか。彼女の悩みが消える日が訪れるのか、それすらも不明なまま。

 そんな中、ゴールデンウィークを直前に控えた今日、梅宮はついに彼と再会を果たす。


                       2


 ———五月一日、火曜日。梅宮は二十二回目の誕生日を迎えていた。

 平日だが会社は休みだった。年に一日だけ、アニバーサリー休暇という名の休日をもらえるため、梅宮は自分の誕生日を選んだ。誕生日というものに何の執着もないが、さつきが祝ってくれるというのだから、彼女の言う通りにした。どうせなら三連休にしようかと考えたのだが、彼女の気持ちを無下にはできなかった。どうせ、三連休をとっても遠出をすることはない。それよりも、さつきと一日を過ごせることが大切だった。

 ここで、梅宮の正直な気持ちを明らかにしてしまおう。彼は、いまでもさつきのことが好きだった。たまらなく、壊してしまいそうなほど愛し、未練が残っている。おそらく、さつきもその想いを察している。わざと、気づかないふりをしているだけだ。

 昼前にさつきの家を訪れ、彼女と二人で食事を作る約束だった。正確には、さつきが料理をしてくれているのを見ているだけだが。その時間、さつきの祖母であるトキ婆は出掛けているらしい。というのも、毎週火曜日は町内の老人会でゲートボールをしているようなのだ。都合良く、家で二人きりになれる。あんなことやこんなことを想像しているわけではないが、シチュエーションだけで緊張する。

 チャイムを鳴らすと、すぐにパタパタという足音が聞こえてきた。どうやら一階で待っていてくれたらしく、すぐにカギを開ける音が届く。扉が開き、いつものさつきが現れる。つまり、真白な装いのさつきが。首元ではブローチが輝き、梅宮のプレゼントを身につけてくれているのが嬉しかった。

「いらっしゃいませ、ご主人様」

「こわいって」

「酷くない? けっこう頑張ったのに」

 さつきが照れたように笑い、手招きをする。梅宮が建物の中へ進むと同時に、さつきが両手を伸ばした。梅宮が不思議に思っているうちに両手で頬を包まれ、視界が真っ暗になった。

 ようやくさつきの顔が見えるようになる頃には、唇にほのかな温もりを感じた。

「・・え?」

「プレゼント、フォー・ユー」

 梅宮は言葉も出ず、無意識に唇に触れていた。そこに残る感覚を繋ぎ止めるように、目の前のさつきを凝視したまま。

「さ、早く早く」

 さつきが軽やかな足取りでリビングへ向かい、その姿が消えても、梅宮は動けなかった。キスが初めてだったわけではない。さつきとだって何度したかわからない。それなのに、いまの衝撃は半端ではなかった。心臓をバズーカ砲で打ち抜かれたように、度肝を抜かれたほどの驚きだった。

 喜びよりも前に、不安が全身を包む。さつきは何を企んでいるのか。自分の前から消えてしまうのではないか、梅宮はそれだけを不安に感じていた。

「はやくー」

 リビングから声が届き、ようやく現実に戻ることができた。靴を脱ぎ、リビングへ入りながらも、梅宮はさつきの姿を探してしまった。どうしようもなく、彼女が愛おしく感じられた。

「さぁ、ごちそうを作るよ」

 張り切った様子でさつきが袖をまくる。いつの間にか、お気に入りの上着は椅子に掛けられている。

 梅宮はキッチンの側へ近寄り、彼女の姿を眺める。さつきは不思議そうな顔を向けてくるが、それが意図的なものだとわかる。本当は、彼女にも梅宮の気持ちがわかっている。だからこそ、無理にでも平静を装っている。こうなるとわかってなぜ、彼女はあんなことをしたのか。

 その後、少しずつ普段通りの二人に戻り、さつきが昼食を用意し終えた。それらは文句のつけようのないほど美味しく、梅宮は腹一杯になるほど食べた。おかわりをしてしまうほどで、さつきも喜んでご飯をよそってくれた。

 まるで新婚夫婦のような状況に、梅宮は懐かしさすら覚えた。二人が付き合っていた頃は、こんなことが毎週のように起こっていた。家にトキ婆がいることも多かったが。二人きりで食事を作り、片付けをする。いまとなっては、もう二度と起こりえない状況に、夢を見るのも惨めに感じてしまう。二人が結婚することは、百パーセント有り得ないのだから。

「片付けるから、梅ちゃんはのんびりしてていいよ」

「サンキュー。コーヒーでも淹れるか」

 さつきが頷くのを見て、梅宮は壁際のコーヒーメーカーへ向かう。何度も使ったことがあり、コーヒー豆の保管場所まで知っている。

 梅宮が棚の中に手を差し込んだとき、食卓に置いた携帯電話が振動した。豆を取り出すのを後回しにし、梅宮は急いで確認に戻る。さつきは洗い物をしながら、梅宮に視線を送っている。誰からの電話なのか、僅かに気にする様子で。

 梅宮が携帯電話を手に取り確認すると、知らない番号から掛かってきていることに気づいた。というよりも、公衆電話から掛かってきていた。

 画面を見ながらしばらく悩んでいると、さつきから「出なよー」と声を掛けられる。普段ならば出ないのだが、なんとなく、重要な連絡に感じて通話ボタンを押してしまった。ここで出なければ、少なくとも、今日一日は幸せでいられたのだ。当然、この時点の梅宮にそれがわかるはずもないのだが。

「はい」

『・・・』

 繋がっているはずだが、相手からの声が聞こえなかった。イタズラ電話かと思い、梅宮が電話を切ろうとした———そのとき。

『ウメか?』

 危うく、梅宮は携帯電話を落とすところだった。視界が一瞬ブラックアウトし、脳を左右に揺さぶられたような感覚に陥った。

『ウメだよな。俺、うす———』

 無意識に、梅宮は電話を切っていた。待ち受け画面に戻り、今日の日付を目にしていると、ようやくさつきの声が耳に入った。

「大丈夫? 誰?」

 梅宮は顔を上げることができなかった。いまの動揺した自分を、さつきに見られたくなかった。無駄だとわかりながら。

「ねぇ、梅ちゃん。どうしたの?」

 タオルで手を拭き、さつきが食卓へ近づいてくる。梅宮のすぐ側へ辿り着き、細かく震える梅宮の手を包んだ。

「梅ちゃん・・?」

「大丈夫。大丈夫だ」

「ホントに?」

 何度も頷き、梅宮はようやくさつきに視線を向けた。必死に、平静を装いながら。

「イタズラ電話だった」

「・・そう。ならいいけど」

 さつきは追求することなく、梅宮の顔を凝視する。彼の異変をまじまじと目撃しながら、あえて触れないようにしているようだった。

 梅宮は側の椅子に手を伸ばし、意識的にゆっくりと腰掛けた。さつきはそんな梅宮の後ろ姿を見下ろしながら、彼の身に何が起きたのか推測していた。だが、すぐに歩き出してキッチンへ戻る。

 その後の三分間、シンクを叩きつける水音だけが響いていた。

 梅宮は、このときがくることを予測していた。初めて幽霊と出会った日から、こうなる可能性は考慮していたのだ。それが起こらないことを、心から願いながら。

 幽霊として現れている者は、この世に未練がある。やり残したことがあるからこそ、彼ら彼女らは成仏できない。となれば、何者かに殺された場合、そうなる可能性は非情に高いだろう。そして———、自分を殺した者に復讐したいと思うのではないか。

 梅宮は、キッチンに立つさつきに視線を送る。彼女との幸福な時間に水を差すのは、やはりあの男だった。さつきを傷付けた男。その復讐のために、梅宮が殺すことを決意した男。

 ついに、碓氷泉が帰ってきた。


                        3


「なぁ、ウメ。わりとマジな相談があってさ」

「なんだよ、気持ち悪ぃな」

 二人の男が、こたつに下半身を沈めながら向かい合っている。三月中旬、碓氷の部屋の暖房はフル稼働している。こたつに暖房、それに加湿器が動いた状態で、梅宮は電気代の心配をせずにはいられなかった。碓氷から相談があると言われたこの瞬間も、暖房の温度を下げようかと迷っていたくらいだ。三十度に設定されており、せめて二十八度に———などと平和な悩みを抱えていた。

「五十鈴さつきが好きなんだ」

 その言葉は、梅宮の小さな悩みを吹き飛ばすのに十分だった。茶碗一杯の米のために、肉が三キロ用意されているほど。

「そう・・なんだ」

 梅宮は、それしか言えなかった。様々な感情が交差し過ぎて、適切な言葉が見つからなかった。

「ダメかな」

「いや、ダメじゃないっていうか。ほら、俺がどうこう言うことじゃないだろ」

「まぁな」

 予想通りの返答だったのか、碓氷はそれまでと変わらず落ち着いているように見えた。それでも、残っていたビールを一気に飲み干したあたり、話すのをためらっていたのかもしれない。梅宮とさつきが付き合っていたことを知っているのだから、彼が自分の気持ちを伝えるのが難しかったことくらい、容易に想像できる。

「いつから?」

「ん?」

「だから、いつからその・・、好きだったんだ?」

 梅宮の言葉に、碓氷は「あぁ」と漏らした。

「ずっと前からだ。お前らが一緒にいた頃からそうだったのかもしれないし、別れた後かも。なんとなく、気にはなってた」

「知らなかった」

 本当に、そんな素振りは感じられなかった。梅宮が驚いていることが可笑しいのか、碓氷がリラックスした様子で笑う。

 二人は、高校生の頃からの友人だった。さつきや槙仁とも同じ高校だったが、碓氷は彼らとはそれほど親しくはない。たまたま、一年のときに梅宮と同じクラスだったため親しくなり、個人的な付き合いが続いているだけだ。

「五十鈴にアタックしてもいいか?」

 アタックとは、また古めかしい言葉を使うものだ。梅宮は内心呆れながら、本音とは別の言葉を口にする。

「好きにすればいいさ。俺は関与しない」

「後悔すんなよ?」

 碓氷が煽るような表情で言う。さつきと親しくなれることに、絶対の自信を持っている様子で。梅宮は彼に笑顔を向けながら、脳がアルコールを欲していることに気づいた。こんな状況を、素面(しらふ)で乗り切れるはずがない。酔っぱらうことで、この記憶ごと吹き飛ばしたかった。

「よしっ」

 新しい缶に手を伸ばし、勢いよくプルタブを開ける。右手でそれを持ち上げ、碓氷の目の前に差し出した。彼も察したように笑い、別の缶を開けた。

「お前らの幸せを願って、乾杯!」

 スチール缶がぶつかる鈍い音が響き、二人は無心でアルコールを摂取した。そうでもしなければ、恥ずかしさと気まずさに押しつぶされてしまうところだった。

 碓氷は馬鹿ではない。梅宮がどのような気持ちでいるのか、ある程度は察しているはずだ。手放しで応援できるほど吹っ切れているなどと、楽観的に考えてはいないだろう。実際、梅宮は複雑な感情を抱いたままだ。すでに終わった恋でも、梅宮の気持ちに整理はついていない。それを隠しつつ、無様に引きずっているだけだった。

 ただし、少なくともこの時点で、梅宮の中に殺意など芽生えていなかった。友人同士の恋を応援しなければならないという、複雑な嫉妬と戦っていただけだ。———そのはずだった。

 だが、この後、梅宮が碓氷に対して殺意を抱くまでに、多くの時間は要さなかった。


 『今日は楽しかったんだよぉ』

 さつきの言葉を聞いたとき、梅宮は心臓が揺れながらも、疑いはしなかった。彼女の声が僅かに震えていたのは、テンションが上がっているからか、恥ずかしさを誤魔化すためか、そのどちらかだと思っていた。言葉の裏に秘めた想いなど、探ろうとも思わなかった。

 碓氷がさつきと出掛けると言っていた三月十七日、梅宮は珍しく外出をしていた。家でのんびりと過ごすことなどできない、それを確信していたからだ。図書館で本でも借りようと思ったものの、文字列が頭に入ってこなかった。ショッピングセンターのフードコートへ立ち寄れば、近くに二人がいるのではないかと探してしまった。結局、精神的に疲労した状態で帰宅した。そして、さつきに連絡することにした。

 後になって考えれば、あのとき電話などしなければよかったのだ。少なくとも、さつきに強がりの嘘などつかせずに済んだし、梅宮が受けた衝撃も小さくなっていたはず。もっとも、どちらにしても殺傷能力は高かったわけだが。

 その後、梅宮がさつきと再会したのは翌日だった。病院の一室で、いまにも泣き出しそうなさつきが、ベッドの上で横たわっていた。

「やあ。どうしたのさ、そんなに息上がって」

「お前・・」

 大丈夫か、などと口にできなかった。できるはずもなかった。布団で顔の半分を隠し、必死に自分を保とうとしているさつきを目の当たりにして、無責任な言葉を吐くのは罪だった。昨晩のうちに病院へ搬送され、一日中横になっているらしい。

「ごめんね、ちょっと体調が悪くて」

 そんな、あからさまな嘘をつかないで欲しかった。辛いなら泣き叫んでくれればいい。自分のことを責めてくれればいい。梅宮は、彼女の優しさに殺されそうだった。

 ベッドの側で膝をつき、祈るように枕元へ顔をうずめる。さつきの顔を見ながら話すことはできなかった。

「こんなとこまで来て、なんで梅ちゃんが寝るの」

「・・・」

「いびきかかれたらイヤなんだけどなぁ」

 さつきの軽口が、梅宮の心を抉り続ける。いっそのこと、そのまま殺して欲しいとさえ思う。自分のせいで、さつきは傷付けられたのだから。布団の中にある彼女の手に触れる。許されるか不安に感じながら、梅宮は両手でそれを包む。

「・・悪かった」

「なんで梅ちゃんが謝るの。別に、何も関係ないじゃん」

 関係なくなど、ない。梅宮が二人の恋を応援しなければ、さつきが傷付くことはなかった。碓氷に対し、さつきに近づくなと宣言すればよかった。梅宮にその権利がなくとも、素直な気持ちをぶつけていればよかったのだ。二人を接触させなければよかった。

「今回はたまたま悪い方へ転がっちゃっただけだよ。気にしない気にしない」

 話しながら、さつきの声が震える。これ以上、彼女が強がるのを見ていられなかった。彼女の手を離し、布団をさつきの顔全体に掛ける。布団に埋もれたまま、さつきはそれをどけようとはしなかった。

「必ず、俺がやってやる」

 さつきの返事はない。必要もない。

「俺が、碓氷を殺してやる」

 布団の中で、漏れた嗚咽が響く。布団がクシャリと歪み、さつきの抑えた泣き声が大きくなる。

 梅宮は立ち上がり、顔の見えないさつきに誓う。彼女が平穏に暮らせる世界を取り戻すことを。そのために、さつきを傷付けた碓氷を、自らの手で殺すことを。その役目は、梅宮にしか担えない。

 さつきが苦しんでいる姿を目に焼き付け、梅宮は歩き出す。やるべきことはただ一つ。碓氷を殺す。それも、完膚なきまでに。


                        4


 ——五月三日、木曜日。そのときは、唐突に訪れた。

 梅宮は仕事を終え、アパートの駐車場へ車を停めた。二階にある部屋まで階段を上がろうとした———その瞬間だった。

「ウメ」

 頭上からの言葉に、無意識に顔を上げてしまった。そこにいるのが誰なのか、相手の声が、記憶の中の人物と照合される前に。

 気づくと、梅宮は駆け出していた。建物から離れ、行き先など考えずに走っていた。後ろを振り返るのが怖い。碓氷が追い掛けてきているかもしれないと思うと、立ち止まることは許されなかった。

 目についたコンビニへ入り込み、洗面所へ真直ぐ歩く。窓の外を確認しても、碓氷らしき人物は見えなかった。トイレの個室へ入り、心を落ち着けるために腰を下ろす。

 碓氷が自宅へやってくる可能性は考えていた。電話が掛かってきた以上、何かしらの接触があることくらい、誰にでも想像できる。だが、それが突然訪れると、こうまでも自分は脆くなるのか。梅宮はそれに愕然としていた。また、この場へ逃げ込んだことが失敗にも思えた。万が一、碓氷が店内に入ってきてしまったら。梅宮には、逃げ場などない。

 個室の中で、三分ほど経過した。

 どれだけ考えても、梅宮にできることはない。碓氷が自分を追って、どこか別のところへ行ってしまったことを願うしかなかった。たとえそうでも、彼は何度でも家へやってくるだろう。梅宮に復讐するために。

 トイレを出て、店内の様子を伺う。そこに碓氷の姿はなく、ひとまず深呼吸をする余裕ができた。いずれやってくる現実だとしても、できることなら先延ばしにしたかった。窓の外の様子を伺いながら、慎重に歩く。

 店の外へ出て、ひんやりとした空気を味わうと同時に、梅宮は寒気を覚えた。視界の端に碓氷がいたからだ。

 梅宮の姿を捉え、これ以上は逃げられる心配がないと踏んだのだろう。碓氷はゆっくりと歩き、梅宮へ近づいてくる。コンビニと碓氷に挟まれ、文字通り逃げ場はなかった。諦めて、彼と戦うしかないことを悟る。

 それでも、梅宮の中に疑問が生まれていた。碓氷の様子が、想像していたものと違っていたからだ。梅宮の中の彼は、復讐にとらわれ、憎しみをぶつけてくるはずだった。自分を殺した男に復讐するために。

 だが、実際の碓氷は落ち着いていた。少なくとも、怒りに身を任せている様子はない。それが不気味でもあり、また、梅宮を混乱させる原因だった。

「ようやく見つけた」

 呆れたように、碓氷がため息をつく。

 二人の間には三メートルほどの距離があり、それ以上近寄られたら逃げ切る自信がないというギリギリの位置だった。

「どうして逃げるんだ。せっかく俺が見えてるってのに」

 お決まりのセリフを吐き、碓氷がまじまじと見つめてくる。梅宮の言葉を待っているのか、久しぶりの再会を懐かしんでいるのか。後者であれば、碓氷は異常なほどのん(・・・)な人間ということになる。

「どうして戻ってきた」

「え?」

「何のために、この世にしがみついてるんだ」

 梅宮の言葉が理解できない様子で、碓氷が首を捻る。自分の身がどのような状態なのか理解しているはずだが、まだ幽霊としての経験が浅いようだ。

「何のためにって、よくわからないけどさ、お前に訊きたいことはある」

 碓氷の言葉を受け止めながら、梅宮は逃げられる可能性を模索していた。そのためには、少なくともいまは会話をするのがベストに思えた。

「・・歩きながら話そう」

 コンビニの前で独り言を喋り続ける勇気はなかった。その気持ちを察したのかわからないが、碓氷は左手で体の横を示した。梅宮は指示通りに歩き出し、碓氷との距離を測り続けていた。いつ、どんな瞬間に刺し殺されるのかわからないからだ。

 コンビニを離れ、どこへ向かえばいいのかわからないまま歩き続ける。自然と、梅宮の住むアパートへ向かってしまっていた。いまさら開き直っており、梅宮も覚悟を決めた。

「俺って、死んでるんだよな。幽霊みたいなもんなんだろ?」

「だろうな」

「こうして動けてるのは不思議なんだが、その前に、なんで死んでるんだ?」

 碓氷の言葉を左側から聞き、梅宮は必死に無表情を作っていた。あからさまな動揺を見せては、碓氷の殺意を助長してしまうかもしれないからだ。

「自分がどこで死んだのかわかってるのか?」

「御在所岳の麓だ。あそこへ行ったことはよく覚えてる。だけど、どういうことだ? 俺が自殺したとか、ふざけんじゃねぇぞ」

 碓氷が憤りを見せる。それをぶつける相手が定まっているのかは不明だ。

 碓氷は車内で七輪を焚き、一酸化炭素中毒で亡くなった。自殺した———とされている。

「俺は自殺なんかしてねぇ。誰かにやられたんだ」

 碓氷の言葉が、散弾銃のようにそこら中から迫ってくる。狙うべき相手に予測ができたように。

「なんとか言ってくれよ」

 碓氷が立ちどまり、梅宮もそれを無視するわけにはいかなかった。ここで真正面から戦わなければ、余計に怪しまれる。

「その犯人を探すために、ここにいるのか?」

「さぁな。ただ、俺を殺したやつに訊きてぇ。なんで俺を殺したのかって」

 碓氷の言葉に嘘も裏もない。それは、彼の表情を見れば明らかだった。それでも、梅宮は感情を抑えるのに必死だった。なぜ殺されたのか、彼が理解していないことが許せなかった。自分の行為を忘れたとは言わせない。

「俺はカギをしたんだ、車にな。ヤンキーに絡まれたならともかく、車内にあんなもんを置かれる意味がわからねぇ。カギは車内にあったんだぜ?」

「誰かが、車のカギを開けて入ったんだろうな。それで、お前を殺すために七輪を置いた」

「あぁ。それができるのは誰かって、考えてるんだけどさ」

 碓氷が真直ぐに見つめてくる。まるで、梅宮ならば可能だと言わんばかりに。

「誰かが入ってくるのに気づかなかったのか?」

「残念ながらな。爆睡してたらしい」

 碓氷が悔しがるように言うが、それは仕方のないことだった。睡眠薬を飲まされたのだから。即効性はなくとも、一度眠りに落ちれば、多少の音では起きないはずだ。おそらく、彼は司法解剖の結果を知らない。睡眠薬が検出された事実すら、知らないままだろう。

「あの日、お前があそこに行くことを知ってたのは誰だ」

「・・ウメ、どういう立場で喋ってるんだ? 探偵にでもなったつもりか?」

「そうじゃない。一緒に考えてやろうかと思っ———」

「ウメ」

 その声を耳にし、梅宮は立ち止まる。碓氷が追いついてくるのを待つことにする。

 これ以上、無駄な足掻きはできないようだ。碓氷がすぐ隣で立ちどまり、二人は無言のまま視線を交わす。

「説明してくれ。・・どうして俺を殺したんだ」

 もう、誤魔化す言葉は必要なかった。碓氷がそれを確信しているのだと、梅宮にも理解できてしまったからだ。不思議なのは、彼がさほど怒っていないことだ。内心ではどうかわからないが、少なくとも表面上では平静を装っている。単に、疑問を解決したいという様子で。

「なぁ。お前が死んでから、なんでこんなに時間が経ってるんだ」

「は?」

「死んだのは一ヶ月も前だ。それなのに、こうして俺の前に現れるのは遅かった。蘇るのに時間が掛かったのか?」

 梅宮の問いを不思議がるように、碓氷の眉間にシワが寄る。

「あそこにいたんだ、御在所岳。意味わかんなくてな。しばらく現実逃避をしたい気分だったから、ちょうどよかったってのもある」

 その言葉に嘘はないのだろう。梅宮には、そう思える根拠があった。

 碓氷とさつき、二人が出掛けた日。さつきが傷付き、帰ってきた夜。その翌日から、碓氷は十日以上も海外へ渡っていた。突然決めたのか、梅宮は何も聞かされていなかった。おそらく、逃亡したのではないかとすら思っていた。

 碓氷を殺してやりたいと思っても、その十日間は殺意を貯めておくことしかできなかったのを覚えている。蘇った後、碓氷が一ヶ月近くも現実逃避をしていたというのも、それほど有り得なくはない。梅宮には、自然と納得できてしまった。

「で、教えてくれないのか?」

「お前は、自分を殺したヤツに心当たりでもあるのかよ」

 梅宮は話しながら歩みを進め、次第にアパートが見えてきた。このまま、碓氷との会話を楽しまなければならないのだろうか。精神的な疲労が大きく、何も考えずに横になりたい。そんな現実逃避を始めた頃だった。

「やっぱり、五十鈴のことか」

 左後方から聞こえてきた言葉に、思わず足を止めてしまった。あのときの記憶が、苦しんでいるさつきの様子が脳裏に浮かび、視界が真っ赤に変わる。じっとすることに全力を注ぎ、噛み締めていた奥歯を離す。

「五十鈴、いまは何をしてるんだ?」

 気づいた時には、碓氷の頬を殴りつけていた。地面に転ぶ彼を見下ろし、梅宮の中から恐怖は吹き飛んだ。たとえここで殺されてもかまわない、そう思えるほど。目の前の男を、もう一度殺してやりたいとさえ思う。

「・・五十鈴の家に行ったんだ」

 碓氷が起き上がりながら口にした言葉を耳にし、梅宮は再度殴り掛かろうとした。碓氷が強い視線でそれを拒み、二人の間に僅かな距離ができる。

「でも、いなかった。どこにいるんだよ」

「いなかった?」

 さつきが部屋にいなかった? そんなはずはない。

 だが、碓氷の言葉の意味を考え、梅宮はようやく気づいた。言葉にならない感情が、喉元からこみ上げてくる。

「もう行かない、誓う」

 碓氷が姿勢を立て直し、梅宮と向き合う形となった。

「俺をやったのは、ウメなんだろ? そう考えたら、原因は彼女しかない。そうだよな?」

 碓氷の問いを無視し、梅宮は歩き出す。家へ帰り、一人で休みたい。このままではもう一度殺してしまう。せっかく、神に委ねたというのに。

「どうして何も言わないんだ! 何か弁解してみろよ!」

 碓氷の言葉を背中に浴びながら、梅宮は歩みを止めない。

「・・また会いに行く。今度こそ、ケリをつけよう」

 碓氷は諦めていないようだが、今日のところはこれで終わりだろう。

 アパートの階段を上がりながら、梅宮はあの日の自分を思い出す。計画を実行する準備をし、迷うことなく碓氷の車へ近づいたことを。そして、迷わず七輪に火をつけたことを。

 玄関のカギを開け、ようやく平和な世界に帰ってくることができた。気づくと、涙がこぼれかけていた。早くさつきに会いたい。


                        5


 ———さつきが自宅へ戻った翌日。

 肉体的な不調は治まっているはずだが、精神的に立ち直るには時間が掛かる。梅宮にできることは、彼女の側にいてやることだけだった。ベッドで横になり続け、食事もろくに摂っていないはずだ。このままでは、別の問題で体を壊してしまう。

「・・さつきちゃん、眠っているかい?」

 扉が開き、様子を伺うようにトキ婆が顔を覗かせる。梅宮が頷くと、足音を立てないようにして部屋の中へ入ってきた。両手でお盆を持ち、その上に乗った皿からは湯気がたっている。おかゆでも作ったのかもしれない。

「さつきちゃんが起きたら、食べさせてやってよ。拓也くんの分もあるからね」

 皿を並べて置き、トキ婆がお盆を胸の前で抱きしめる。眠っているさつきを見下ろし、言葉もなく苦悶の表情を浮かべていた。トキ婆にとって、さつきは唯一の家族だ。そのさつきが傷付き、打ち拉がれていれば、我が身のように苦しむのは当然だ。梅宮がどれだけ悲しもうが、トキ婆の気持ちを理解してやることは不可能だった。

「さつきちゃんのこと、頼むね」

 申し訳なさそうに、消え入るような声でトキ婆が言う。梅宮は、無言で頷くしかなかった。さつきの寝顔を見つめながら、彼女のためにしてやれることを探していた。

 トキ婆がそっと部屋を出て、梅宮だけが部屋に残された。手を伸ばせば触れられる距離にいるさつきが、果てしなく遠くに感じる。うかつに触れることのできない、ガラス細工のような存在へと変化していた。

「・・梅ちゃん」

 瞼を閉じたまま、さつきが口を開いた。慌てて彼女の側へ顔を寄せる。

「起こしたか?」

「起きてたよ、最初から」

 ようやく目を開け、眩しそうに片目をつぶった。気まずそうな表情を見せ、「あんまり見ないで」とつけ加えた。

「腹減ってるか?」

「ううん。梅ちゃんは食べてていいよ」

 さつきはテーブルに置かれたおかゆに視線を送り、その後、梅宮を見つめた。

「食べてあげて。ばあちゃんが可哀想」

「・・うん」

 食べることに異論はないのだが、この期に及んで、他人の心配をしているさつきが不憫だった。いまはまず、自分の身を案じて欲しい。体を安め、英気を取り戻して欲しかった。

「自分を責めないでね」

「・・なんだよ」

「わたしがこうなったのは自分のせいだとか考えてるなら、やめてよね」

 天井を見つめたまま話すさつきに、どう答えればよいのかわからなかった。まさに、彼女が言ったことを考えていたのだ。

「わたしとあの人の問題だから。梅ちゃんは関係ない。———調子に乗らないで」

 有無を言わさぬ口調でさつきが言う。言葉にすることで、自らに言い聞かせるように。

「でも、梅ちゃんと別れなきゃ、こんなことにはならなかったのかもね」

「後悔してるのか?」

「ううん。残念ながら、それはないな」

 さつきが自嘲気味に弱々しく笑い、両手で顔を覆う。

「・・後悔なんてないんだよ」

「どうしたらいい? 何かできることはあるか?」

 それをさつきに尋ねるというのが、どれほどかっこ悪いことなのか、梅宮はよく理解していた。それでも、尋ねずにはいられなかった。このままでは、彼女の側にいてやることしかできない。それでは何の意味もない。

「そんなのいらない。何もしないでくれればいい」

 結局、さつきはこう言うだけなのだ。尋ねたところで、本心を口にするはずがない。梅宮が自分で決定し、行動しなければならない。

「なぁ・・。こんなことを言っちゃいけないってわかってるけど、それでもあえて言うぞ」

 さつきが疑問に満ちた視線を送ってくる。

 梅宮は、ここで逃げるわけにはいかなかった。彼女を傷付けるとしても、ハッキリと言ってやらなければならない。

「もし妊娠したら、()ろせ」

 それを口にした瞬間、世界の時間が停止したような錯覚を覚えた。梅宮の脳は緊張で麻痺し、さつきはピクリとも動かなくなった。目を開いて天井を見つめたまま、何の反応もない。

 それでも、彼女の目尻から涙がこぼれるのを見て、梅宮は後悔に包まれた。ただ、言わなければならなかったことに違いはない。そう信じている。

「・・最低だな」

 梅宮が俯くと同時に、さつきが瞼を閉じた。涙がさらに溢れ、耳元へ消えていく。

 梅宮は、自分の言葉がどれほど残酷か理解していた。傷付けられた記憶を呼び起こし、さらに将来の不安までかき立てたのだ。まだそうと決まったわけでもないのに、さつきに負担を掛けるような言葉を発している。自分の方が、よっぽど悪魔に近い。

 梅宮が顔を伏せていると、頭上からさつきの声が届いた。消えてしまいそうなほど小さく、それでも力強い言葉だった。

「———わかってる。わかってるよ」

 さつきの苦しむ姿を見ることはできなかった。顔を伏せたまま、歯を食いしばって決意する。碓氷泉を殺すことを。


 そして、魔の十日間が経過する。

 全てが始まった、あの事件(・・・・)へと繋がる。

 碓氷が日本に帰ってきたという噂を聞き、梅宮の決意は固まった。涙が枯れ、殺意の塊となった梅宮には、碓氷を殺す以外に選択肢がなかった。

 碓氷が日本を離れていたのは、自分の行為から逃げるため。梅宮はそれを確信していた。そして、十日も経てば、嵐が過ぎ去ると踏んで戻ってきたのだろう。

 ———そうはいかない。

 梅宮は、改めて罰する権限を握りしめた。

 碓氷の行動を予測することは難しかったが、彼が山へ向かうのではないかと想像していた。碓氷は大きな問題に直面したとき、登山をすることが多いからだ。これまでの経験から、それくらいは理解できていた。

 となれば、彼がどこへ向かうのか、それが問題だった。車で追走すればいいのかもしれないが、殺害の準備は困難になる。登山中の事故に見せ掛けて殺すことも可能だが、彼に後悔する時間を与える必要がある。さつきを傷付け、周囲の者まで巻き込んだ彼を、ただ単に殺すわけにはいかない。最大級の後悔を味合わせる必要がある。

 それでも、結局は碓氷の行き先を突き止めることができなかった。梅宮は自分の車にそれら(・・・)を積み、碓氷のあとを追うことに決めた。彼が車中泊をすることは確実なのだから、それを利用しない手はない。殺害方法も決め、自殺したのだと見せ掛けるための準備もできた。


 そして、当日。

 碓氷の死に場所は、三重県内の御在所岳に決まった。碓氷の向かった先がそこだったからだ。梅宮にとって都合良く、天候は晴れた。

 午前十時過ぎ、梅宮は一人で出発した。碓氷が出発するのを見届けてから。

 御在所岳は、標高1212メートル、麓の駐車場からロープウェイで頂上付近まで登ることができる。登山に自信のない者や、ロープウェイからの景色を楽しみたい者にとっては最高だった。碓氷のような登山者は、自分の脚で登ることを選ぶわけだが。

 御在所岳に到着すると、梅宮の希望に沿うように、碓氷は一人で麓を出発した。

 彼が帰ってくるまでの数時間の間に、梅宮は準備をしなければならない。といっても、やるべきことは少ない。碓氷に気づかれぬ位置に自分の車を停める。碓氷の車へ侵入し、飲み物を入れ替える。ただそれだけだった。そこから先は、碓氷が眠ってからだ。彼を殺し、自殺したと見せ掛けるための細工をすればよい。

 それでも、梅宮の中に迷う気持ちがあった。

 決して、殺すことに迷いがあったわけではない。殺害方法に対して、これでよいのかという疑問があっただけだ。碓氷が車中泊をすることは、おそらく確実だろう。彼を眠らせ、その車内を一酸化炭素で充満させれば、殺害することができるかもしれない。

 ただ、どうにも納得できないところがあった。眠った状態の碓氷を殺したところで、彼は何の後悔も反省もしない。殺されたと気づくことすらなく、あの世へ旅だってしまうからだ。それでは何の意味もない。

 用意しておいた昼食を車内で食べながら、梅宮は葛藤し続けていた。他にもっとふさわしい殺し方はないものか。なにしろ、彼を殺すチャンスはいくらでもある。一秒でも早く殺すに越したことはないが、一度しか実行できない以上、後悔のないように終えたかった。おそらく、碓氷は夕方には戻ってくる。すでに睡眠薬の準備は完了しているのだから、五時間近く準備の時間が残されている。

 あらかじめ、遺書を用意してきている。パソコンで入力したものを印刷して。それを碓氷の車の中に置いておけば、警察が、自殺したと判断してくれる可能性は高い。まさか、こんなところで誰かに殺されたとは考えないだろう。犯人がいるのであれば、眠らせた時点で刺し殺すなり首を絞めるなりすればよいのだから。

 梅宮は、改めて自分の殺害方法が回りくどいと思い、自分の心に問いかけていた。———まるで、この方法を選択したくないようではないか、と。

 数十分の迷いの後で、梅宮は決意する。碓氷を殺すべきなのかを、自分一人の判断に任せてはならないと。他の誰か、それこそ神が認めなければならない。そのための方法を模索し続けた。

 気がつくと、午後四時を回っていた。

 そして、梅宮の中にも、ある結論が生まれていた。碓氷が死ぬかどうかを、神に任せることにしたのだ。


 計画に問題はなかった。それを実感したとき、梅宮は喜びの絶頂を迎えていた。

 午後六時過ぎに碓氷は戻ってきた。梅宮の予想通り、駐車場の隅で山を見つめながら食事を摂り、梅宮が用意したペットボトルのお茶を飲んだ。碓氷の車の中にあったものと同じメーカーのお茶を用意し、中に睡眠薬を入れておいたのだ。それを飲んだ碓氷は、車内に戻った後、眠りに落ちた。

 午後十時前、梅宮は車を降り、道具を持って碓氷の車へと近づく。周囲に人影はなく、世界に二人だけが取り残されているような感覚に陥る。

 運転席の窓から中を覗くと、コートに包まれるようにして碓氷は眠っていた。眠りの深さを確かめるために、窓ガラスを叩いてみる。碓氷に反応はなく、さらに強く叩いても起きることはなかった。これで、気づかれずに犯行を終えられる。

 左側の後部座席へ回り込み、そっとドアノブに手を掛ける。直前で思い出し、車のロックを外した。碓氷が海外に行っている間に、彼の部屋からスペアキーを持ち出しておいたのだ。普段から互いの家を行き来していた梅宮は、彼の部屋へ侵入することができる。合鍵の隠し場所を知っていたからだ。一週間以上も家を空けるにも関わらず、同じ場所に合鍵を置き続けている碓氷に問題があった。

 そっとドアを開け、後部座席に滑り込む。

 碓氷の様子を確認しても、起きる気配はなかった。梅宮は安心しながら、持ってきた七輪を座席に置く。助手席には、遺書を置いておくことを忘れずに。これで準備は整った。迷わず七輪に火をつける。あとは、車内が一酸化炭素で満たされるのを待つだけだった。

 これで終わりにしても構わないのだが、最後にもう一仕事残されている。窓ガラスをほんの僅かだけ開けておく(・・・・・)ことだ。

 完全に密閉すれば、おそらく碓氷は死亡する。ただ、それでは神が認めたことにはならない。となれば、僅かに隙間を開けておき、彼の行く末を見守ればいい。死亡すれば神の仕業だし、失敗しても構わない。碓氷にも、誰かが自分を狙っていると知らせることができる。何らかの後遺症を与えることだってできるかもしれない。そして、自らの行為を、激しく反省するはずだ。その上で、後日改めて殺してやればいい。

 ドアのスイッチを使い、ほんの僅かだけ窓ガラスを開ける。細かく確認しなければ、見ても気づかないほどに。

 これで、全てが終了した。七輪の火は少しずつ強くなり、三十分もすれば威力を発揮し出すだろう。この場を離れ、車のスペアキーを碓氷の自宅へ戻す。それで、彼の自殺は完了する。

 梅宮は感傷に浸りながら、さつきの姿が頭に浮かんでいた。まるで、すぐ側に彼女がいるような錯覚を抱くほど。

 高校生の頃から、何年間も一緒に過ごしてきた。槙仁や芽衣と共に、これからも楽しく生きてゆくはずだった。その幸せをぶち壊したのは、すぐ側にいる碓氷だ。彼のせいでさつきは傷付き、そして———。

 涙がこぼれる前に、梅宮は退散することにした。この駐車場へ来ていることを誰かに気づかれてはならない。警察に疑われても、自宅に居続けたと言い張る覚悟をしなければならない。

 ドアを開け、未練を振り払いながら外へ出る。まるで、誰かに引っ張られていると錯覚するほど、体が重かった。もしかすると、車内の空気の影響かもしれない。ドアをそっと閉め、車のロックを掛ける。

「じゃあな」

 碓氷の姿を目に焼きつけ、彼の死を願う。

 ———神様。どうか、碓氷を殺してください。

 この願いが叶えば、天国のさつきも安心して眠れるのだから。


                         6


 ——五月四日、午後九時前。

 梅宮は一週間の仕事を終え、さつきの自宅を訪れていた。これから本当に最後の仕事へ向かうために、彼女の存在を感じておきたかった。

「梅ちゃん、本気?」

「あぁ、残念ながら」

 さつきの部屋、彼女のベッドの上に二人はいる。仰向けのさつきに覆い被さるように、梅宮がベッドに両手を突いている。梅宮が押し倒した形だ。

「・・急にどうしたの?」

「会いたくなった」

 さつきに顔を近づけると、横を向く形で避けられる。なおも梅宮が体の距離を縮めると、さつきが両腕で彼を押し返した。

「どうしたのほんとに。酔ってる?」

 さつきも、梅宮の態度が冗談ではないことを理解している。それでも、彼の行動を受け入れる気はなく、不気味に感じている様子だった。

「これで最後なんだ」

 さつきへ顔を近づける。

「梅ちゃん!」

 両腕で顔を覆い、さつきが叫ぶ。本気で嫌がるというよりも、悲しみに耐え切れないように。自分が梅宮にとってそういう対象であるということを認めるのが苦痛だったのだろう。

「碓氷を、もう一度殺しにいくんだ」

 梅宮がハッキリと宣言すると、さつきが目を見開き、体の動きが停止した。その瞬間を狙う。

 梅宮は彼女の唇を奪い、力づくで密着した。さつきがどれほど抵抗しても、男の梅宮には敵わない。この行為がどれほど醜いか、梅宮自身も理解していた。さつきは過去にも、同じような状況に遭遇している。そのときの相手は、碓氷だった。

 梅宮は本能に身を任せているわけではなかった。むしろ、理性が働き続けている。体とは別に、脳がいまの状況を俯瞰して見つめていた。

 幽霊として現れた碓氷をもう一度殺す。そして、自分も死ぬつもりだった。これ以上、さつきの人生に関わることが怖かった。彼女にとっての障害を取り除き、自分も消えてしまおう。それが一番なのだと、自分を納得させた。

 さつきの抵抗が弱まる。受け入れたというよりも、諦めたに近い。声も涙もなく、心を無にして、されるがままになる。いつも着ている上着はベッドから落ち、床で静かに広がっている。

 ——梅ちゃん。

 さつきの声に気づき、梅宮の動きが一瞬だけとまる。

 ——今度は、ちゃんとつけてね(・・・・)。

 理性が吹き飛びそうになる。

 梅宮は歯を食いしばり、さつきの全てを奪うことにした。


 梅宮は自宅のアパートへ向かいながらも、周りの景色が目に入ってこなかった。無意識に見慣れた道を歩いているだけで、精神は別の次元をさまよっていた。

 高校生の頃、さつきや槙仁たちと出会い、賑やかな日々を過ごしていたこと。さつきに恋をし、それが終わりを迎えてもなお、共に時間を過ごしていたこと。そして、最近それが突然途絶え、彼女が亡くなってしまったこと。その原因となった碓氷を殺したにも関わらず、再び梅宮の前に姿を現したこと。

 その全て中心にいる梅宮は、終焉のスイッチを押すのは自分の役目なのだと確信していた。それができるのは、自分だけなのだと。

 角を曲がると、アパートが視界に入る。そして———。

 二階の角部屋、ここ何年も住み続けた部屋の前に、彼はいた。予想していた通り、梅宮の帰りを待つようにして。碓氷は廊下に腰を下ろし、空を眺めていた。その姿が絵になっていることに腹が立ったが、余計なことを考えないように意識する。梅宮には、やらなければならないことがある。

 アパートの側まで辿り着くと、彼も梅宮に気づいたようだ。ゆっくりと立ち上がり、階段に体を向ける。そこから上がってくる梅宮を迎え撃つような形で。

 梅宮は、一歩ずつ数えるようにして階段を上がる。階段は二十二段。普段から、数えながら上がっている。十五段目に足を掛ける。つまり、残り七段。梅宮はポケットに右手を差し込み、それを強く握りしめる。あと三段。廊下にいる碓氷が歩き出した。二人の距離は、十メートルもない。

 梅宮が階段を上がりきると、碓氷がすぐ側まで近づいていた。やるならいまがチャンスだ。そう思いつつ、梅宮は握りしめたナイフから手を離す。彼を殺すなら、自分の部屋でけり(・・)をつけたいと考えているためだ。

「もう逃げないんだな」

「あぁ。とりあえず部屋へ入れ」

 碓氷の横を通り過ぎ、カギを開けて部屋へ入る。後ろをついてきている碓氷に目もくれず、梅宮は奥の部屋へと進んだ。この部屋へ幽霊を招き入れるのは、これで四人目だ。あの三人は、天国で幸せな時間を過ごしているだろうか。少なくとも、碓氷を天国へ連れて行く気はない。彼らの邪魔をする心配もない。

「教えてくれる気になったのか? どうして俺を殺したのか」

「あぁ。教えてやる、全部」

「そもそも、どうしてあんなに回りくどいことをしたんだ」

「ただで殺したって、さつきの復讐にはならないだろ」

 男二人が、部屋の中心で立ったまま話している。互いに油断や隙を見せぬようにして、空間に緊張感が漂う。

「五十鈴は、自殺したんだろう?」

 碓氷の言葉に、梅宮の視界が歪んだ。怒りが酷く、脳の血管が何本か切れたほど。

「駅のホームで身を投げたって」

 意識して無表情を貫き、梅宮は鼻で大きく息を吸う。目を瞑って息を吐き、平坦な口調で言う。

「そんなはずない。あれは、誰かの仕業だ」

「自殺で片付いてるんだろう?」

「お前には何もわからないだけだ」

 梅宮の言葉に、碓氷がムッとした表情を見せる。

 梅宮は、自分の考えが正しいと確信していた。何人もの幽霊と出会ったからこそ辿り着いた答えだった。電車に轢かれて亡くなったさつきは、誰かに突き落とされたのだ。

 ——幽霊となった、誰かに。

「自殺した理由は、俺が彼女にあんなことをしたからだろう。それに関しては・・、何も言い訳はできない」

「当たり前だ。殺すぞ」

 碓氷を一睨みする。さすがに、碓氷も自分が恨まれていることは自覚している。その程度では怖じ気づくことはなかった。

「お前があんなことをしなければ、さつきは死なずに済んだんだ。全て、お前の責任だ」

「だから殺したのか? 俺を」

「神様が、それを認めてくれたんだ」

「何を言ってる?」

 碓氷は理解できない様子で眉を潜める。梅宮は、わざわざ説明してやる気も起きなかった。碓氷を殺害したとき、あの車の窓は僅かに空いていたのだ。運がよければ、一酸化炭素中毒で死なない程度に。それでも、結果的に彼は亡くなった。梅宮は、それが運命だったと確信している。

「お前は戻ってくるべきじゃなかった。おとなしく、あの世で後悔していればよかったんだ」

「そんなこと知らんさ。こうして動けてる以上、自分を殺したやつから話を訊きたいって思うのは自然な感情だろう。それに、あんな殺され方をしたんじゃな」

「さつきが死ななければ、殴るくらいで済ませてやったんだけどな。なんにせよ、お前はやりすぎた。調子に乗り過ぎたんだ」

 梅宮の言葉に、碓氷が視線を逸らした。バツの悪そうな、言い返せない事実を投げつけられたように。

 梅宮が圧倒的有利な状況を味わっていたが、それが一変することとなる。

「なぁ、知ってるか。・・五十鈴が隠してることを」

「なんのことだ」

 相手の隙を見つけたように、碓氷が不敵に微笑む。見下すように首を傾げ、もったいぶってから口を開いた。

「彼女に手を出そうとしたときのことさ。五十鈴はこう言ったんだ。『もうあんな思いはしたくない』ってな」

「あんな思い?」

 梅宮には、碓氷の言葉が理解できなかった。さつきが言ったというセリフが、どこに繋がっているのかも。

「なぁ、ウメ。お前にその意味がわかるか? わからねぇなら、教えてやってもいいんだぜ」

 煽るような碓氷の表情に、梅宮の感情がかき混ぜられる。彼のペースに持っていかれそうになり、慌てて思考を切り替えた。

「適当な話で誤魔化すな。お前にさつきの何がわかる」

「ウメこそ、彼女のこと理解してるのかよ。まぁ、信じないならそれでもいい。一生わからないままでいろよ」

 碓氷は勝ち誇った様子で、壁に背中を預けた。

「それでも、これだけは教えてやる。俺は何もしちゃいない。いや、一線は越えてないって意味だが」

「・・・」

「どこまでが一線なのかは、お前の想像に任せるよ」

 まるでゲームに勝ったように、碓氷が愉しげに笑う。梅宮は無表情で彼に視線を送りながら、耳にした言葉の意味を反芻していた。さつきの身に何が起き、彼女が何を隠しているのかを。だが、所詮は碓氷の嘘だと決めつけることにした。その可能性は、大いにあり得るからだ。

「なぁ、俺はどうしたらいい? どうやったら成仏できるのかわからねぇし、何をしたいのかも思いつかないんだ」

「消えればいいんだ。俺の前から。さつきの前からも」

「そうはいかない。俺にだって、お前にやり返したい気持ちくらいはあるんだよな」

 壁から背を離し、碓氷は上着のポケットからナイフを取り出した。自分と似たような準備をしてきていることが可笑しく、梅宮はつい歯を見せて笑ってしまった。

「何で笑うんだ?」

「いや、俺たち仲良かったんだなって。昔は」

「ほんとに、どこで間違ったんだろうな」

「全部、お前が勝手に転んでったんだよ」

 梅宮は真顔になり、ポケットからそれを取り出す。男二人がナイフを握りしめ、無言で向かい合う。冗談にしてしまえるほど、柔らかい空気ではなかった。

 碓氷が一歩を踏み出そうとし、梅宮もナイフを握る手に力を込めた。どちらか一方、もしくは、両方が死ぬ運命にある。すでに死んでいる碓氷が相手だと、自分が不利に思えて仕方がなかった。

 それでも、やるしかない。この勝負に勝てば、全てが終わるのだから。

 試合開始のゴングが鳴ろうとしたとき、玄関から物音が聞こえてきた。ドアの開く音、閉まる音。それに———、誰かが近づいてくる音。碓氷も驚いた様子で、玄関の様子を伺っている。梅宮に背を向けぬよう注意しながら。

 梅宮が驚いたのは、部屋の中へ姿を現したのがさつきだったからだ。決意したような顔で、部屋の中を見つめている。梅宮が手にしたナイフと、向かい合う碓氷の姿。———彼女にそれは見えていないのだから、宙に浮いたナイフを。

 誰も、言葉を発することはなかった。だが、最初に動き出したのはさつきで、真直ぐ碓氷へ近づいていく。そして、彼の体へと突進した。

 梅宮には二人の姿が見えているが、二人はそうではない。互いの姿など見えていないのだ。それでも、さつきには碓氷の姿を認識することができた。碓氷の持っているナイフが、彼の位置を知らしめているのだから。碓氷には逆に、宙に浮いたナイフが勝手に近づいてくるように見えただろう。とても、反応できる余裕はないはずだ。

 さつきに突進され、無防備だった碓氷が床に倒れ込む。———ことはなかった。幽霊同士は、触れることができないことを思い出す。ただし、それは本人たちに限ってのことだ。

 偶然にも碓氷の腹部に刺さったナイフは、彼の自由を奪うのに十分だった。

 さつきは動かなくなったナイフを無理やり抜き取ろうとするが、そう簡単ではない。筋肉に刺さり、固定されたのかもしれない。それがわからない彼女は、ただただナイフの柄を引き抜こうとするだけ。

「やめろっ!」

 背後からさつきの両腕をつかみ取り、碓氷から離れさせる。膝が崩れるようにして、碓氷は床に落ちた。

「ここにいるんでしょう? どうして止めるの」

「もう十分なんだ」

「あ、そうなの? 全く見えないから」

 さつきがおとなしくなり、自分の両手に視線を落とす。血が付着していないか確認するつもりだったのだろうが、彼女には見えていない様子だった。梅宮の目には、新鮮な血が付着している手が見える。それでも、美しく、正しい色が浮かんでいるように思えた。

「さつき・・」

「これで、わたしの役目は終わりかな」

 さつきが振り返り、梅宮の顔を見上げる。スッキリとした顔で微笑み、彼女の頬を涙が伝う。

「二度と、こんなことしちゃダメだよ」

 さつきが足元に視線を落とし、大きく息を吐く。

 彼女の背後には、床に倒れて苦しむ碓氷がいる。自分の身に何が起きたのかわからず、ゆっくりと二度目の死へ向かっている。

「梅ちゃん」

 さつきが背伸びをするようにして、梅宮に顔を寄せた。

 二人の唇が重なり、それが離れると、さつきが駆け出した。逃げ出すようにして、玄関へ向かう。梅宮も慌ててあとを追う。床の碓氷を一瞥し、迷うことなくさつきを優先することにした。彼女の様子がおかしく、このまま放っておくことができなかったのだ。

 さつきは玄関を飛び出し、姿が見えなくなる。梅宮が外へ出たときには、彼女の姿は廊下の隅にあった。一度だけ振り返り、梅宮と視線を交わす。

 ——バイバイ。

 さつきが柵に両手を添え、迷わず右脚から跨ぐ。全身が柵の向こう側へ移り、梅宮が走り出すよりも先に、彼女は飛び降りた。


                        7


 チャイムを押すのに、多大な労力を要した。二人と顔を合わせて、何と話せばよいのか。梅宮はそれを考え続け、答えが出ないまま諦めた。

「はーい」

 部屋の中から明るい声がする。それが槙仁のものであるとわかり、ほんの僅かだけ緊張が和らぐ。ガチャガチャとカギが開けられた後、金属製の扉が開いた。

「やぁ。いらっしゃい」

 槙仁に笑顔で迎えられることが心苦しかった。自分の行い、そして、その結果を伝えなければならないからだ。

「芽衣も来てるよ」

 槙仁の手招きに従い、梅宮は玄関へ足を踏み入れる。こうして、逃げられない状況が完成した。

 奥の部屋へ入ると、仏頂面をした芽衣が座っていた。梅宮の姿を一瞥し、めんどくさそうにため息をついた。槙仁が椅子に腰掛け、梅宮は芽衣の正面に腰を下ろした。

「それで、何があったの? 芽衣まで呼び出して。問題発生?」

 事情のわからない者の特権を生かし、槙仁が気楽に尋ねる。

「問題か。あぁ、問題発生だ。———さつきが消えた」

「・・は?」

 芽衣が素の反応を見せ、戸惑った様子で視線を逸らした。それでも、我慢できずに口を開く。

「どういうこと? 消えたって、成仏しちゃったってこと?」

「わからない。少なくとも、俺の視界からは消えた」

「拓也、落ち着いて。詳しく話して」

 槙仁も姿勢を正し、場の雰囲気を整えた。梅宮も正直に話す覚悟をし、この一時間の様子を伝えることにした。

 梅宮の家で碓氷と再会し、彼を殺そうとしたこと。その場へさつきがやってきて、梅宮の代わりに碓氷を刺し殺したこと。その後、逃げるようにして廊下の柵から飛び降り、梅宮が探しても彼女の姿はどこにもなかったことを。

「さつきの家には行った? 拓也が見失っただけで、実は家に帰ってるんじゃない?」

「ここへくる前に行った。でも、トキ婆しかいなかった」

「碓氷っていう人を殺して、さつきは成仏しちゃったの?」

 芽衣が怒りと悲しみの混ざり合った表情で言う。

 さつきが幽霊として存在することに、最も苦しんでいたのは彼女だったのかもしれない。最初は、梅宮の言葉を信じようともしなかった。だからこそ、梅宮の態度に突っかかってきていたはずだ。それでも、いざ成仏したと思うと、やり切れない気持ちがあるのかもしれない。

「その場合はさ、さつきが幽霊になった理由は、幽霊の碓氷さんを殺すためだったってことになるよね」

 梅宮は何も言わず、槙仁の意見に同意していた。

 ずっと、さつきがこの世に残っている理由を探してきた。彼女の死の原因となった、碓氷に関することだろうとは思っていたが、まさか彼を殺すことが目的だとは考えにくかった。

 というのも、さつきが幽霊として戻ってきたのは、梅宮が碓氷を殺すより前だったに違いないからだ。その場合、当初の彼女の目的は、碓氷を殺すことだったに違いない。一度目の、生身の碓氷を。そして、幽霊として戻ってきてすぐに碓氷を殺しにいっていただろう。

 また、碓氷が亡くなった後も、彼女はこの世に残り続けている。まさか、碓氷が幽霊として戻ってくることまで想定できていたはずがない。碓氷を二度も殺す、それが彼女の目的だったとは考えられなかった。

「自分を苦しめた相手に、さつきはずっと復讐したかったのかな」

 槙仁が独り言のように呟く。信じたくない気持ちが隠しきれていない。

「それでも、最近はずっと普通にしてた。碓氷が死んだこの世で、芽衣の事件のときだって一緒にいたじゃないか。あのとき、碓氷はすでに死んでたんだ。そのうち幽霊として現れるなんてわかるはずもない」

「あんたに何か考えがあるわけ?」

 批難するように、芽衣が梅宮を睨む。責任転嫁をするというより、何とかして欲しい苛立ちが含まれていた。

「ない。わからないんだ。幽霊として現れた碓氷を殺した直後、さつきは消えた。だとしたら、さつきの目的はそれだったってことになるだろ。でも、これまでの状況を踏まえたらそれも変だ。だから、きっと他の何かがあるんじゃないかと思って、お前らに相談しにきたんだ」

 梅宮の言葉に、二人も考え込んでしまう。さつきの身に起きていた何かを探しながら、彼女の気持ちをトレースしようと試みているに違いない。

 そして、芽衣が口火を切った。女の問題は、女が解決してくれる。

「さつきが亡くなったのはさ・・、自殺なのかな」

 言いづらそうにしながら、小さく「ごめん」と口にする。

 梅宮に芽衣を責める気はなく、むしろ似たような疑問を抱いていた。さつきの死が、全ての始まりともいえるのだ。碓氷に襲われたさつきは、一度、自殺未遂をした。その後、治療を受け、病院から帰ってきたさつきは、改めて自殺しようとしたのだろうか。可能性としては十分に考えられる。決意が揺るがなかったほど、彼女が死を望んでいたのであれば。

 だが、梅宮には納得できない。

 彼女が亡くなった直後は、仕方がないと諦めかけていた。それでも、さつきが幽霊として現れた時点で、その考えを捨てたのだ。なぜなら、さつきが自らの死を選んだのであれば、幽霊として戻ってくるはずがない。未練などないはずだからだ。つまり、彼女の死は、本人の望みとは別の何かが関係している。梅宮は、ずっとそれを信じ続けている。

「さつきは何も言ってなかったの? ———ごめん、こんなこと言うのも申し訳ないけど」

「大丈夫だ。でも、アイツは何も言わなかった。初めて再会したときから、何も。当たり前のようにそこにいて、俺の悩みを解決してくれたんだ。それなのに、今度は急に消えやがった。意味わかんねぇよ・・」

 頭を抱えるようにして、梅宮はため息をついた。

 本当に、心当たりがなかった。さつきが現れた理由も、消えた理由も。何も言わずに消えた彼女を、恨みたくなってしまうほど。この先一生、さつきの想いを理解してやることはできないのか。そう思うと、全身が後悔に包まれる。

「あのね。・・一つだけ、隠してることがある。さつきに関して」

 沈黙を破るようにして、芽衣が口を開いた。決意した女の美しさは、他の何にも負けることはない。


                        8


 梅宮の住む部屋を見上げ、さつきは呼吸を整えるのに必死だった。

 碓氷を刺してしまい、その感覚はいまでも両手に残っている。それでも、間に合ってよかったと思える。自分がこの世に残っている意味を実感できた。

 先程、梅宮は慌てた様子で階段を下り、アパートの周囲を駆け回っていた。自分を探しているのだとわかりつつ、さつきは必死に隠れ続けた。もう、梅宮の前に姿を見せる気はなかった。これ以上、彼の負担になどなりたくない。

 梅宮はアパートを離れ、どこかへ姿を消した。それを確認し、さつきは動き出すことにした。倉庫から出て、体中についたほこりを払う。勲章のようで、少しだけ誇らしい気分だった。

 今後の梅宮の行動を予測してみても、具体的なものは浮かばなかった。自分の姿を追うはずだが、二度と出会うことはない。すでに、いつでも成仏できる準備は整っているのだから。

 さつきがこの世に戻ってきた目的は、三月二十二日の時点で達成されている。

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