芽衣と槙仁
1
瀧村芽衣にスポットを当ててみることにする。
彼女は梅宮に対して強く当たっているが、彼女をそうさせる原因が三つあった。全て、芽衣の知らないところで起き、人づてに聞かされた。一つ目は、彼女たちが高校を卒業する頃、梅宮とさつきが別れたこと。二つ目は、約三ヶ月前、さつきが暴行を受けたこと。そして三つ目は、最近、梅宮がさつきの部屋で過ごしていること。そのどれもが、芽衣にとっては許し難いものだった。
だからこそ、彼女は戦うことにした。梅宮に強く当たることで、同時に自分の心を奮い立たせる狙いだった。そうでもしなければ、芽衣自身が崩れ落ちてしまうからだ。
そして、戦うことにした結果、彼女は再び打ちのめされることとなる。憧れ、信頼していた人物に裏切られる形になったのだから。
「ようやく?」
「そう、ようやく」
二人は笑いがこぼれるのを堪えながら、互いの手を握りしめる。左右の掌を合わせ、互いの指が絡まり合う。さつきが握った手を上下に振り、芽衣もそれを助長させた。嬉しかったのだ、言葉にならないほど。互いの腕をぶんぶんと振り回し、二人は喜びを分かち合っていた。
「やったじゃん!」
「どうしよう」
「どれだけ待ったと思う?」
さつきは掌を離し、両手で芽衣の頬を挟む。照れたような芽衣の顔が、さつきの力で歪んでいく。
「おめでとう」
それしか、言葉はなかった。さつきの中にある感情を伝えるには、他の言葉ではふさわしくなかった。
「ありがとう」
芽衣も、それしか言えなかった。
二人きりでさつきの部屋にいる。春休みに入り、半月後には大学四年生になる頃。部屋の暖かさは暖房の影響だけではない。
「芽衣から誘ったの?」
「一応ね。かなりグダグダだったけど」
そのときを思い出すだけで、芽衣は全身を掻きむしりたくなる。それほどまでに恥ずかしく、かっこ悪かった。
「いいんだよ。それでもデートにこぎつけられてるんだから」
さつきの言葉が嬉しかった。その内容も、そう言ってくれる彼女の優しさも。
「いつ? 今週末?」
「ううん。四月末の日曜日。先輩、そこら辺が課題の提出期限なんだって。だから終わった後は遊びまくるんだって」
「芽衣が遊ばれないようにね」
さつきの言葉には嫌味など含まれていない。二人の間の信頼関係が、言葉にしなくても本心を伝え合っている。
農学部に所属している芽衣は、すでに研究室に配属されている。三年の後期から配属される仕組みなのだ。その研究室の先輩に当たる人物、彼は大学院の博士課程一年、D1と呼ばれる学年にいる。その先輩とのデートにこぎつけたことを、初めてさつきに伝えた。その結果が、この部屋の盛り上がりだ。
「どこへ行くのかは決めてるの?」
「先輩がずっと見たいって言ってた演劇が四月にあるの。だからそれを」
「演劇かぁ。ぜーんぜん想像できない」
さつきがさっぱりとした顔で笑う。口を開き過ぎて、舌が見えるほど。
「ねぇ、どうすればいいのよ。どんな服着ればいい? あたしこんなにでかいし」
「いつも通りでいいんだって。研究室でいっつも顔合わせてるんでしょう? ちびっとのオシャレでいいんだって」
「こいつプライベートでも地味だな、って思われないかな」
「だから、ワンポイントくらいのオシャレで大丈夫だって。インテリはそういうとこ細かいんだから」
誰の入れ知恵だろうと思いつつ、芽衣は笑顔で頷く。決して、作り笑顔ではない。
「でも、ほんとによかった。芽衣がそういう気持ちになってくれて」
「やめてよ、親じゃないんだから」
「親みたいなものだもん。気持ち的には、娘が彼氏を連れてきたみたいな」
どういう立場で話されているのか困惑しつつ、それでも、芽衣は嬉しかった。それほどまで、気に掛けてもらえていることが。もっとも、必要以上に心配されていたことは、やや不満だが。
「さつきたちが付き合ってたときは、そんなこと思わなかったけどな」
「梅ちゃんと? まぁ、子供だったしね」
さつきが、懐かしむような笑顔になる。当時の思い出は、彼女にとっては幸せなものなのだろう。いまでも四人で集まることもあるのだから、別れた二人の関係は良好のようだ。芽衣は納得できていないが。
「マッキーはショックだろうねぇ。芽衣に彼氏ができたら」
「いまさら何とも思わないんじゃない? 槙仁だって、いつまでもあたしのこと見てないよ」
「ううん、芽衣はマッキーをナメ過ぎ」
右手の人差し指を左右に振りながら、さつきが挑発するように言う。
「マッキー、ああ見えてしつこいから。タチは悪くないけど、諦めるってことを知らない子だよ」
さつきが自分たちのことをどういう目線で見てきたのか、芽衣は僅かに怖くなる。ただ、彼女の言葉に反論する理由もないし、むしろ頷いてしまうほどだった。
「でもさ、早とちりしないでね。一緒に出掛けるだけだから。別に、ただの後輩として見られてる可能性は高いし。っていうかその可能性の方が高いし」
「そんなに予防線張らなくても」
さつきがケラケラと笑う。風鈴のような軽さだった。
「大丈夫、きっとうまくいくから。みんなで見守ってるよ」
「ついてくるのとか、やめてよね」
「・・・」
「やめてよね」
さつきとの距離を縮めながら、再度忠告する。ようやく諦めたように、さつきが渋々頷いた。おそらく、さつきと梅宮が付き合っていた頃のことが頭に浮かんでいるはずだ。当時、芽衣と槙仁が、二人のデートをストーキングしていたことがあった。すぐに見つかり、二人とも叱られたわけだが。
「・・ケチ」
「おとなしくここで待ってて。ちゃんと報告するから」
「絶対だからね」
さつきが唇を尖らせて言う。拗ねた子犬のようで可笑しかった。
このときは、あんなことになるとは想像していなかった。芽衣はもちろん、さつきですら。どれほど悪い結果になっても、芽衣が失恋のショックを味わう程度のはずだった。そのときはお腹一杯ケーキを食べよう、そんなさつきの想いも、全ては塵と化した。
2
人は、無意識のうちに成長を遂げている。過去に起きた問題を回避することもできるし、経験を生かして乗り越えることもできる。それを実感するのは、後になってからのことが多いが。
梅宮の場合、幽霊に対する免疫が強くなっていた。幽霊に出会ってもさほど驚かなくなったし、初対面の相手を、幽霊ではないかと疑うこともできるようになった。それがよいことかどうかは別にして。
だが、どれほど経験を積んでも、過去とは異なるパターンに出くわすことがある。それこそ、無限に。一ヶ月ほどの間に、同一人物で、生身と幽霊の二パターンで出会うことになるとは思わなかった。それも、梅宮の知らない人物で。
「もう一度言ってもらえますか?」
「はい。瀧村芽衣さん、ご存知ですよね?」
そう尋ねてくる男の顔を、まじまじと見返す。なかなかに整った顔立ちの、梅宮よりも年上の男だ。それでも、まだ三十には達していないはず。
「知ってますけど、どちら様ですか?」
「あぁ、すみません」
男は慌てたように両手を合わせ、「田中と申します」とつけ加える。
「瀧村さんとは研究室が同じなんです。で、ちょっと用があって彼女に会いたいんですが、連絡がとれなくて」
「あぁ」
確かに、芽衣の携帯電話が壊れてしまったことを聞いていた。槙仁経由で。今日は土曜のため大学が休みだが、同じ研究室ならば、二日後には顔を合わせることになるはずだ。それにも関わらず連絡をとりたいというのは、二人の間柄を疑ってしまう。
「でも、俺も連絡を取れないわけで、どうしようもないんですよね」
「梅宮さんとは親しいって聞いています。彼女の実家の連絡先もご存知ではないかと」
「まぁ、調べればわかりますけど」
勝手に伝えてよいものか、僅かに躊躇してしまう。目の前の男を信用して構わない気もするし、実際、問題が起きる可能性などほとんどゼロだ。ただ、ここで伝えられないのが梅宮の真面目すぎる一面だった。それに———、いまの梅宮は心に余裕がない。
「確かに、勝手に教えてもらうのはダメですよね・・」
男は思案するように、右手を口元へ添える。そのまま、三秒間が経過した。
「内容を教えてもらえれば、芽衣に伝えておきますけど」
「ううん、ややこしい用なので、自分で伝えた方がいいと思うんです。・・すみません、もし彼女に会ったら、用があったってことだけ伝えてもらえますか?」
「はい。田中さん、ですよね?」
男は無言で頷き、笑顔を見せた。そのまま、迷いなく歩き出す。
男の後ろ姿を眺めながら、梅宮は相手の正体に探りを入れていた。芽衣と同じ研究室で、おそらくは年上。つまり、大学院に残っている人物であり、芽衣に個人的な用がある。それも、二日後の月曜を待てないほどの。———デートだろうか。だが、芽衣に限ってそんなことを想像するのは難しい。
それ以上考えるのをやめ、梅宮は大学を離れることにした。
梅宮自身は社会人として働いており、この大学に籍はない。籍を置いていたことすらない。さつきと芽衣、それに槙仁の三人が通う大学だ。ここへ来たのは本を借りるためだった。自分の部屋で寝込み続けているさつきのために、気分転換になるものを持っていってやりたかった。傷付き、ひきこもり始めている彼女のためにしてやれることを必死に考えた結果だった。その役目を担えるのは、梅宮しかいなかった。さつきに対する罪悪感に突き動かされているともいえる。
その役目を終え、売店で買ったアイスクリームを食べているときのことだった。先程の男が誰なのか、芽衣の所属する研究室を訪れれば容易に判明する。ただ、そこまでして知りたいことではないし、その必要もない。むしろ芽衣と出会ってしまうことの方が心配で、とてもじゃないが確かめにいこうという気は起きない。
だが、考えようとしなくても、疑問はいくつも浮かんでいる。男は、芽衣が梅宮と親しい関係にある、という内容を口にした。それがまず不可解だし、男が梅宮に尋ねてきた理由もわからない。男が芽衣に何の用だったのかということよりも、別の疑問が頭から離れなかった。
そんな梅宮の疑問も、自宅へ戻る頃には頭の片隅に消え去っていた。現時点で、梅宮の頭の中は殺意で溢れていたからだ。とても、芽衣の問題に首を突っ込んでいる余裕はなかった。
そして、梅宮が殺意を抱いたまま、一ヶ月が経過する。
3
「ごめん、もう一回言って」
『芽衣がね、うちにいるんだ。でも様子がおかしくてさ』
槙仁の困った様子が、電話越しに伝わってくる。彼にしては珍しく狼狽えている。午前八時過ぎ。梅宮は自宅でコーヒーが冷めるのを待っているところだった。
『昨日の夜に突然やってきて、泊めてって言うんだよ。いまもうちにいるんだけど、何かに怯えてて・・』
「怯える? お前、何かしたのか?」
『するわけないよ! ねぇ・・、助けてくれないかな』
槙仁からそう言われれば、梅宮に断る理由はない。ただ、奇妙に感じて仕方がないのも事実だ。あの芽衣が、他人を頼るということに。それが親しい槙仁だとはいえ、他人を頼るほどの理由が想像できない。さらに、槙仁の家へきて、何かに怯えているのだという。奇妙な状況が重なり過ぎて、いまいち実感が沸かないのが正直なところだった。
「オッケー、とりあえずいまから行けばいいんだな」
『ごめんね。芽衣から説明してもらいたいんだけど、ボク一人じゃどうしようもなくて』
槙仁にどうしようもないことを、梅宮が解決できるとは思えなかったが、彼の頼みならば仕方がない。あれこれ考える前に、槙仁の家へ向かう準備をする。
祝日のため、今日は仕事が休みだった。まだ出掛ける支度はできていないが、わざわざオシャレをする必要もないだろう。槙仁も芽衣も、気を遣う必要のない相手だ。今日———四月二十七日になるまでに、全てを曝け出してしまっているのだから。
槙仁の部屋へ入ると、彼の言葉に偽りがなかったことを知った。
芽衣はベッドの上で膝を抱え、顔を伏せたまま動かない。スカートを履いていれば、下着が見えてしまうような格好だ。槙仁に案内されるまま、梅宮はフローリングの床に腰を下ろす。
「芽衣、拓也がきたよ」
そんな槙仁の言葉にも、芽衣は反応する気がないようだ。困ったように顔を向けてくる槙仁に、梅宮は両手を挙げて返事をする。お手上げのポーズだ。
「今日もお泊まり会か?」
「別にそれでもかまわないけれど・・。芽衣、事情を話してもらえないかな」
芽衣の機嫌を伺うように、槙仁が慎重に声を掛けている。この二人が結婚できたとして、長く続くかどうかは槙仁に委ねられているに違いない。
「おい、せっかくきてやったんだ。なんか言えよ」
理解できない状況に、梅宮も僅かに苛立ちを覚えた。
「・・きて欲しいなんて頼んでない」
顔を伏せたまま、弱々しい声だけが届いた。
「槙仁が困ってんだろ」
「・・・」
「ほんとに帰るぞ」
梅宮が立ち上がろうとすると、槙仁に素早く腕を掴まれた。想像以上の力で、床に縛りつけられる。
「待って、お願い。力を貸して」
助けを求めるというよりは、協力を要請されている気がした。槙仁は、真剣に芽衣のことを心配しているのだと伝わってくる。———だが。
「ウダウダしてねぇでさっさと話せよ。一方的に槙仁に頼って、お前らしくもねぇ」
「うるっさいわね!」
ようやく、芽衣が顔を上げた。そこには敵意を丸出しにした彼女がいて、普段通りで安心する。決して、罵られたいわけではないが。
「こっちだってね、好きでこんなことしてるんじゃないの! でも・・、しょうがないじゃない・・」
「ハッキリしねぇな。何があったのか言ってみればいいじゃねぇか」
「それができたら苦労しないんだって・・」
弱々しく、芽衣が頭を垂れる。彼女が真剣であることは理解できるし、感情に任せて行動しているわけでもないのだろう。それでも、余程の事情があるとはいえ、歯切れの悪い説明では何も進展はない。
槙仁も同感なのか、そっと立ち上がり、芽衣の隣へ腰掛ける。彼女に触れることはせず、静かに問いかけた。
「芽衣が何か酷いことされたの? それとも他の誰か?」
無言のまま、芽衣が首を振る。どういう意味の否定かは伝わらない。
「泊めて欲しいって言うくらいだから、家で何かがあったんでしょう? ご両親とケンカでもした?」
「そんな、中学生じゃあるまいし」
「しっ」
梅宮が声を掛けると、被せるように槙仁から注意を受ける。自分をこの場へ呼んだのは誰か、無性に問いただしてやりたくなる。
「おうちに帰れない理由は何?」
「・・怖いの」
「何が?」
槙仁の問いに、芽衣は再び口を閉ざしてしまう。何が、彼女を追いつめているのだろう。
「・・ねぇ」
芽衣が顔を上げると同時に、梅宮は自分が話し掛けられていることに驚いた。「なんだよ」とだけ口にし、慌てて頭を働かせる。
「あんた、見えてるんでしょ」
「は?」
「だから、見えてるんでしょ」
「見えてるって・・」
——あのことか?
「なんであたしまで・・」
「・・おい、お前。何を言ってる?」
急に、全身の体温が上昇したのがわかる。芽衣の言葉に、体中が反応している。
「お前にも見えたのか? 幽霊が?」
「え!」
槙仁が瞬時に反応し、隣にいる芽衣の顔を覗き込む。信じられないというより、本当なのか確かめたい様子だ。
「あんなの、妄想よね・・」
「誰が見えた?」
思わず、体を前のめりにしてしまう。梅宮には、彼女の答えが重要だった。
「あんたに言ってもしょうがない。知らない人だし」
「芽衣にも、本当に見えたの?」
槙仁の問いに、芽衣が小さく息を吐く。否定する気はないようだ。
梅宮の知らない人物、そうであれば、それほど心配する必要もない気がする。芽衣に助けられた覚えもなく、大した恩もない。自分は引き上げてよいのではないかとすら思い始めた。
「その・・、幽霊が見えて、家にはいられない(・・・・・)の? その人が亡くなった理由に、芽衣が関係してるの?」
槙仁が、なかなかに踏み込んだ質問をする。梅宮は感心し、顔を伏せて反応している芽衣を眺める。可笑しいほど、ハッキリとした答えだった。
「お前が殺したのか?」
梅宮が冗談を口にする。———冗談のつもりだった。
突如、芽衣が自らの体を抱きしめ、倒れ込むようにしてふとももに突っ伏した。予想外の反応に、槙仁だけでなく、梅宮も唖然としてしまう。この反応は、まさか本当にそういうことなのか。
「芽衣、大丈夫・・?」
槙仁の声にも反応はない。
「誰が見えたんだよ、おい」
反応を期待できなくとも、尋ねてしまう。芽衣の身に、何が起きているというのか。わかっているのは、芽衣の家に幽霊が現れ、彼女はその人物に怯えているということ。親しい者であれば、驚きはするものの、ここまで怯えることはないはず。つまり、芽衣にとっては歓迎できない相手ということになる。
「襲われたのか・・?」
梅宮の質問には、槙仁の方が驚いたようだ。芽衣の肩を揺すり、彼女の返事を催促している。否定して欲しくてたまらないのだろう。芽衣は顔を伏せたまま僅かに首を振り、それを見て槙仁の肩から力が抜けた。
梅宮も、これ以上周囲の者に傷付いて欲しくはない。たとえその相手が犬猿の仲である芽衣だとしても、女性が襲われる事件に出くわしたくはない。次は、梅宮の心が決壊する。
「なぁ、せめて名前だけでも教えてくれ」
芽衣の前に現れたのが誰なのか、それがわかれば、できることもある。おそらく、梅宮にもその人物が見えるはずだからだ。そして、さつきに頼ることもできる。芽衣のためなら、彼女は全力で力を貸してくれる。
男二人が、芽衣の言葉を待っている。彼女も、それを隠し通せるとは思っていないはずだ。こんな状況を作り、ここまで話してしまった以上、説明しなければならないことを理解している。ただ、それを口にするのが恐ろしいのだろう。禁忌の果実のように、そこに触れてはならないことを知っている。
それでも、ようやく芽衣が口を開いた。
彼女の口から出た名前を聞いても、梅宮には思い当たる人物はなかった。どこにでもある名字で、友人の中にも何人か思い出せる。だが、フルネームが一致する人物はいなかった。
それでも———槙仁の表情を見れば、ややこしい状況にあるのだと理解できてしまった。
4
「田中光司って言った?」
「たぶん。田中先輩、田中コウジって」
梅宮の言葉に、さつきが悩むように口元を覆った。その様子を見ただけで、さつきに心当たりがあるのだと推測できる。槙仁も知っているようだが、梅宮には聞き覚えのない名前だ。となれば、三人に共通する大学に関係している人物なのか。
梅宮の予想通りの説明をさつきが始めた。
「田中先輩はね、芽衣の研究室の先輩なの。D1でね」
「D1ってなんだ?」
「ドクター、つまり大学院の博士課程一年。大学院っていっても、修士と博士があるから」
梅宮にはピンとこなかったが、重要ではないのだろうと思い黙っていた。
「でね、芽衣はその田中先輩のことが気になってたの。———こんなこと、勝手に言ったら怒られちゃうかな」
さつきが困ったように唇を噛んだ。
「でも、ご存知のように、田中先輩は亡くなったの。この間、ニュースにもなってたでしょ?」
「・・わりぃ、マジで知らない」
世間知らずを批難するような視線を送り、さつきがパソコンに手を伸ばす。が、すぐにその手を止めた。
「調べれば出てくるから、自分でお願い。先に結論から話すと、田中先輩は殺されちゃったの」
「誰に?」
「福島友美さんっていう、M1の先輩。M1は修士の一年ね」
梅宮の質問に先回りする形で、さつきが説明する。犯人がわかっているのならば、芽衣が怯える理由はわからなかった。
「その田中先輩が見えて、どうして芽衣は怯えているんだ? 好きだったんだろうに」
疑問を口にしながら、梅宮には察するところがあった。それは、芽衣に幽霊が見えている、ということの意味を理解しているからだ。おそらく、梅宮以外の者には想像もできないだろう。
「怯える・・、そんなはずはないのにね。そりゃ、ビックリするだろうけど。しかも家にいられないって、田中先輩が家に現れたってことでしょ? なにがなんだか・・」
珍しく、さつきも混乱している様子だった。梅宮も同様の疑問を抱いているものの、何一つ答えには辿り着いていない。
「田中先輩に会って、他には? 何か言ってなかった?」
「あぁ。部屋に現れて、怖くなって逃げ出したそうだ。お前のところじゃなく、槙仁のところへ行くってのが可笑しいよな。あいつのこと、男だと思ってねぇのかよ」
「まぁ、わたしのとこには来ないでしょうね」
さつきが困ったように笑う。自分が頼りにならないことを自覚しているのかもしれない。梅宮はふさわしい言葉が思い浮かばず、話題を変えることにした。
「その田中先輩と芽衣は、どういう関係だ? 同じ研究室で、芽衣が一方的に憧れてただけか?」
「ううん、もう少し距離は近かったみたい。わたしもそこまで詳しくはないけど」
そう前置きをしてから、さつきが二人について話し出した。田中が亡くなったときの様子も含めて。話を聞きながら、梅宮はようやくそれを思い出した。約一ヶ月前、大学で田中という男から話し掛けられたことを。芽衣の前に現れたのは、おそらくあの男なのだろう。
芽衣が田中と親しくなったのは、つい最近のことだった。もちろん、研究室に配属された当初から、毎日顔を合わせ、当たり障りのない会話をする程度の繋がりはあった。だが、それ以上でもそれ以下でもなく、ただの先輩後輩の関係だった。そんな二人の距離が縮まったのは、田中が恋人と別れてからのことだ。
当時———二ヶ月前の二月の時点では、田中は福島友美と交際していた。研究室内にも知られており、二人が一緒にいる姿はよく目にされていた。二人の交際が始まったのは、約一年前のことだったらしい。だが、原因はわからないが、二月下旬、二人の関係に終わりが訪れた。それ以降はただの仲間として、互いに研究に取り組んでいた。特別、二人が険悪な関係ではなかったことが幸いだった。おそらく、二人共が意識して振る舞っていたのだろう。
そうして、二人が別れた直後から、芽衣と田中の距離は縮まっていった。それでも、芽衣があからさまにアプローチをすることははなく、よく話すようになった程度だ。最初は、その程度だった。
そこから一歩踏み出したのは、芽衣が、二人で出掛けないかと誘ったからだ。そうして、二人は休日に出掛ける約束をし、初めてのデートを楽しむはずだった。———田中が亡くならなければ。
田中が亡くなったのは、四月二十四日の日曜日だった。ただし、亡くなったのは田中だけではなく、福島も同様だった。田中が亡くなったのは福島の部屋で、彼女の方は、同じ建物の外で亡くなっていた。地面に叩き付けられて。
「つまり、田中先輩が亡くなっていたのが福島さんの部屋で、その福島さんは転落死をしたってこと?」
「たぶんね。わたしも詳しいことは知らない、警察じゃないから。全部芽衣から聞いただけ」
「あのさ。その日は、芽衣と田中先輩がデートをする約束だったわけだろ? なんで田中先輩は福島さんの部屋にいるんだよ。浮気か?」
「それ、芽衣に言ったら殺されるよ」
さつきの様子を見ただけで、絶対にやめておこうと思えた。浮気という言葉が不適切だというのもある。
「福島さんの部屋にいた理由はわからないの。前の晩、福島さんからメールが届いていたみたいだけどね。わかってるのは、田中先輩は頭を殴られて亡くなってて、福島さんは、たぶん地面に叩き付けられたことが死因」
「凶器は?」
「福島さんの部屋にあったバット。中学生の頃から野球部だったみたい。バットからは彼女の指紋が検出されてる」
女性の部屋にバットがあるのを不思議に感じたが、さつきの説明で納得しておくことにした。
「それとね、部屋の玄関にはカギが掛かってたの」
「密室殺人?」
初めて口にする言葉に、梅宮の鼓動が高鳴った。
「そんな大げさなものじゃないと思う。だって、福島さんが田中先輩を殴って、自分は飛び降りれば完成でしょ。それに、ベランダに出る窓のカギは開いていたの。ほら、特におかしなところはない」
梅宮も、福島が自殺したという可能性はすぐに思いついたが、あまりに短絡的ではないかと思ってしまった。だが、そういうものが真実なのも、また事実だ。
「部屋の中におかしな点はなかったのか?」
「探偵さんみたいなこと言うんだね」
さつきが僅かに顔を綻ばせる。
「聞いたとこによると、特におかしなところはなかったみたい。女性の一人暮らしと考えて、普通の部屋。拳銃が落ちてたり、薬物が見つかったわけじゃない」
発想が怖いと思いつつ、そうだとすればさつきの言う通りの可能性しか思いつかなかった。部屋のカギが掛かっていたというのも、内部の二人だけで完結した事件に思えてしまう。———いや、そうとも限らないのか。
「彼女の部屋へ入れる人なら、その状況を作れるんじゃないのか? 田中先輩を殺して、福島さんを突き落として、部屋のカギを外から掛ける。その後で、建物の下へ降りて彼女のポケットにカギを入れればいい」
「うんうん。でも、それはない。亡くなってた福島さんはカギを持っていなかったし、カギは彼女の部屋の中にあったから。それで、警察は福島さんの犯行として結論づけたみたい。わたしたちの知らないとこで、他にも証拠があるのかもね」
「なんだ、答えは出てんだな。考えるだけ無駄か。合鍵でどうにかしたのかと思ったけど」
「うん。ちなみに、マスターキーを持ってるオーナーさんのアリバイも証明されてる」
梅宮は納得する一方で、新たな疑問にぶつかった。それならばなぜ芽衣は怯えているのか、という点だ。
「事件が起きて、芽衣はどうなってた? 学校は騒ぎになったんだろ?」
「うーんとね、どうだろう。やっぱりショックは受けたみたい。好きだった人が、デート当日に別の女の人の家で亡くなったわけだからね。ずっと家で休んでたんだけど、知らなかったでしょ」
「まぁな」
芽衣の行動など、ほとんど把握していない。
「あと、学校はそんなに騒ぎじゃなかったみたい。まぁ、ひきこもりのわたしが言うのはヘンだけど。さっきも言ったけど、ネットとかニュースでは騒がれたの。でも、学校は報道陣を拒否したっていうか、できるだけ騒がせないようにしたみたい。国立だし、警察に裏から手をまわしたのかな」
そういうのはむしろ私立ではないかと思ったが、梅宮は発言を控えておいた。マスコミのことは、ウジ虫のように感じているからだ。過去の経験から、生理的に拒否してしまうところがあった。
「でもね、ショックだったみたいだけど、芽衣は大丈夫だと思ったの。家でも、ちゃんと動けてたみたいだから」
「あいつんち、行ってたのか」
「たまには外出もしてますー」
梅宮には意外だった。それでも、決して悪い気はしない。傾向としてはよい方だろう。
「それで、芽衣は昨日田中先輩と再会して、いまはマッキーの家にいるわけね。うん、全然わかんない」
「アイツがちゃんと話せばいいんだ。助けて欲しいくせに、重要なことは言わない。そういうのが一番腹立つ」
「梅ちゃん、そんなんじゃ女の子に嫌われちゃうよぉ」
さつきが冗談で言っているのはわかる。それでも、梅宮は不愉快だった。本当に、そういったナンセンスな状況が苦手なのだ。美しくなく、品もないように感じる。
「まあまあ、そんなこと言わないで。なんだかんだ言って、芽衣のこと助けてあげる気なんでしょう?」
「アイツには興味ないけどな。槙仁が迷惑してるから、さっさと終わらせてやりたいだけだ」
言葉の裏を読み取ったように、さつきが優しく微笑む。彼女を見ているのが恥ずかしく、梅宮はコップに手を伸ばした。
「そういうとこ、いまでも好きだよ。わたしも何とかしてみるから、また情報が入ったら教えてね」
事件に関する話は、ここで一旦終了した。午前十時半、そろそろ帰宅すべきだろう。さつきの表情が芳しくない。女性特有のイベントがきたのかもしれない。
いま頃、槙仁はあたふたしているはず。もしかすると梅宮の家に泊めて欲しいと言われるのではないか、そう思ったが、彼が芽衣を放っておくわけがない。梅宮にできることは、槙仁の悩みを聞いてやるくらいだ。
さつきの家から退散し、戦うことにする。どこへ行けば、亡くなった田中に会えるだろう。幽霊と会うのは、次で五度目だ。
5
梅宮の計算通りだった。その人物は、芽衣の自宅付近をうろついていた。厚手のパーカーを着て、紺色のジーパンを履いている。黒ぶちの眼鏡が、彼の知性を表しているようにも見えた。
「お久しぶりです」
梅宮が彼の肩を叩きながら声を掛けると、田中は酷く驚いた表情で振り返った。言葉の意味か、話し掛けられたことに驚いたのか。おそらくはその両方だろう。
「あぁ・・、梅宮さんでしたか。大学でお会いして以来ですね」
「はい。芽衣に何か御用ですか?」
「本当にボクが見えてるんですね?」
田中は僅かに高揚したように頬を持ち上げ、この状況を楽しんでいるように見えた。
「瀧村さんにもボクの姿が見えたみたいだし、どうなっているんだろう」
「ここではアレですので、あっちの公園に行きませんか?」
梅宮は自分の背後を指差した。芽衣の家から歩いて五分もしない位置に公園がある。正直、ここで話しているところを、芽衣の家族に見られたくはなかった。梅宮が、一人で話し続けているようにしか見えないからだ。田中もそれを察したように微笑み、ゆっくりと歩き出した。
公園の中には、一組の親子がいるだけだった。若い母親と、五歳くらいの少女。先日出会い、別れた少女のことが頭に浮かび、急いで吹き飛ばした。
「ここらでいいですかね」
梅宮がベンチに腰掛けると、一人分の距離を空けて田中も腰を下ろした。午前十一時すぎ、今日が祝日でよかった。だらしのないニートだと思われずにすむ。
「前に、芽衣のことを訊かれましたよね」
「はい、あのときはすみませんでした」
「いや、全然いいんですけど。芽衣に何の用だったんですか? デートの約束を取り消したかったとか?」
試すつもりで梅宮が言うと、田中は困ったように笑った。そこまで知っているのか、という顔で。
「どうして俺のことがわかったんですか? どこかで写真を見たとか?」
「瀧村さんが、懐かしむように話すんです。大事な仲間だって言って、みなさんの写真を見せてくれますよ」
そこに自分が含まれていることに驚きながら、梅宮は納得しておくことにした。
「でも、やっぱり彼女は落ち込んでいるみたいですね・・」
「その話はやめましょう。すみません」
梅宮が話を遮ると、その理由を問いただすことなく、田中は話題を変えた。
「ボクたちの事件は、解決しているようなものなんですね」
「福島さんがあなたを殴って、彼女自身は自殺した。そんな感じらしいですね」
先程、さつきと別れて一度帰宅した後、梅宮はインターネットで事件について検索した。その結果、さつきの説明とほぼ同一の内容が出てきた。世間的には、事件は終息しているようなものだ。
「それに対し、どう思われますか?」
「どうって、別に。僕が決めることじゃありませんから」
「否定しないってことでしょうか?」
「そのどちらにしろ、重要なことだとは思いません」
インテリらしい、はぐらかすような返答だった。
「どうして、芽衣の前に現れたんですか?」
「彼女に謝りたかったんです。だって、待ち合わせの時間に遅れてしまったし、彼女の時間を無駄にしてしまいましたから」
「そもそも、どうして福島さんの家にいたんですか? 芽衣と出掛ける約束をしていたのに」
田中は二度頷き、梅宮をじっと見つめた。梅宮は、これから真実を話されるのだと覚悟できた。
「彼女が、福島さんがですよ、不安定だったんです。一人にするわけにはいかなかったんです」
「もう少しお願いします」
「うん」
田中は宙を見上げ、言葉を選ぶようにして話し出した。
「あの日曜日は、瀧村さんと一緒に過ごすはずでした。彼女から誘ってもらって、僕の研究も区切りがいいところだったので。実際、前日の夜、寝る瞬間まではそのつもりだった」
田中が梅宮を横目で見る。信じているかどうか、確認するように。
「でも、起きたら福島さんからのメールに気づいた。夜の間に届いていたみたいで。内容を見て、彼女を放っておくわけにいかなくなって、会いに行くことにしたんです。もちろん、瀧村さんとの待ち合わせには間に合わせるつもりだった」
二人の待ち合わせ時刻は午前十時、田中が亡くなったのは午前九時頃だという。その時間に福島の家にいたのであれば、芽衣との待ち合わせ場所へ向かう時間は十分にある。
「そもそも、メールの内容は?」
「詳しくは言いたくないけれど、危険な状態であることがわかるものでした。以前から、そういうところはあったので」
ネット上で写真を見ただけで、詳しいことはわからなかったが、福島という女性に危ない面があったのは確かなようだ。
「会いに行って、どうでしたか? 何かが起きたんでしょうけど」
「うん。まだ彼女は無事でした。先に言っておきますが、彼女を突き落としてはいません。疑われるのはご免ですよ」
田中が落ち着いた表情で言う。完全に否定できるほどの自信が伺える。
「福島さんと話をして、彼女が落ち着いたことを確認したので帰ることにしました。先程も言ったように、瀧村さんとの約束が迫っていたわけですから」
「でも、それは叶わなかった。何が起きたんでしょうか」
梅宮の問いに、田中が困ったように笑った。子供の失敗に迷惑を掛けられた親のような様子で。
「瀧村さんが来てしまったんです」
「え?」
あまりに予想外の言葉に、梅宮はそれ以上何も言えなかった。
芽衣がその場に居合わせたことなど、誰からも聞いていない。ネット上にも書かれていない。芽衣が関係しているとは想像していたものの、そこまで直接的な関係だとは思わなかった。もしかすると、警察も把握していないのではないか。
「芽衣は———どうして? だって、先輩との約束があったはずなのに」
「うん。たぶん、福島さんが呼んだんだ」
田中の瞳を見ただけで、男には理解できない感情が関係しているのだと察することができた。女性特有の争いがあったに違いない。梅宮が最も関わりたくないシチュエーションだ。
「芽衣が来たとき、お二人はどんな状況でしたか?」
まさか、裸でベッドの上にいたわけではあるまい。
「話し合っていただけです。大丈夫、安心してください。僕の方は落ち着いていたし、彼女の方も危険なことをしてしまう様子はなかった。でも、瀧村さんからすれば・・、どう思うのでしょうね」
梅宮は芽衣の立場に立って考えてみる。———なるほど。確かに不愉快であり、やり場のない悲しみを背負うに違いない。だが、それと二人が亡くなった事件の間を埋めるには、まだ情報が不足している。
「それで、どうなりましたか?」
「ちょっとした修羅場、かな。別に、僕が被害を受けたわけじゃない。いや、殺されちゃったから、被害はあるのかもしれないけど」
田中が、冗談なのかわかりにくい言葉を発した。
「二人は言い争ってた。というより、福島さんが瀧村さんに向かって不満をぶつけるっていうか。でも、瀧村さんは立派だった。きちんと自分の意志で立っていたんだ。あれは、福島さんの方に問題があった」
確かに、芽衣ならば強くいられただろう。先輩とはいえ、相手にひれ伏すようなことはしないはず。むしろ、福島という女性を哀れんでしまう。相手が芽衣では、争うには分が悪すぎる。
「お二人が亡くなったところまで、教えていただけますか?」
「正直、わからないんです。福島さんが転落死したことは、後になってわかったから。僕がこうして戻ってきた後ってことですよ。それに、自分が死んだときのことも、一瞬だったからわからなかった」
「誰に殴られたのか、覚えていないんですか?」
この質問は、なんと非人道的なのだろうと思う。殺された被害者に対して尋ねるものではない。
「覚えていない。犯人の顔を見たわけじゃないからね。でも、」
その後に出てきた言葉を聞いて、梅宮の視界が真っ赤に燃えた。おそらく、芽衣の烈火の影響だろう。———田中が最後に見た景色は、福島の驚いた顔だというのだから。
「僕の方からも、一つ訊いていいかな」
「はい。あんまり事件のことは詳しくないですけど」
「僕が発見されたとき、部屋の中はどうなっていたのかな。何か変わった様子はあった?」
田中の問いの真意を探りつつ、梅宮は記憶を呼び覚ます。重要な情報を思い出そうとしてみたものの、そんなものは最初からなかったことに気づいた。
「いえ。田中先輩が倒れていたこと以外、特別おかしなことはなかったそうです。普通の、女性の一人暮らしの部屋だったとか」
「そっか。いや、僕が殺されてしまった理由に繋がる何かがあればと思って。ヒントでもあればよかったのだけれど」
「残念ながらなさそうですね。だからこそ、福島さんが犯人だと判断され、事件は解決してしまった。———田中先輩、本当は、何があったんですか?」
梅宮の問いには、微笑みだけが返ってきた。やはり、田中はそれ以上話す気がないようだ。つまり、意図的に隠したいことがあるということか。彼が最後に見た景色の意味を考え、梅宮は腹の底に泥が溜まっていくのを感じた。
6
「芽衣、隠してることを教えてよ」
先程から、同様の質問を浴び続けている。無視し続けるのは困難だが、それ以上に、諦めない槙仁にも頭が下がる。芽衣の隣で、槙仁は寄り添い続けている。
「福島先輩の家に行ったんでしょう? いつ? どのタイミング?」
どうやら、槙仁はそれを確信している。芽衣の中に、否定する気力は残されていなかった。
「二人が亡くなったのと、芽衣は関係しているんでしょう? だから田中先輩が見えているし、彼に怯えている。普通に考えると、芽衣がやった(・・・)って結論に至るんだ」
槙仁の顔に批難する色はなかった。つまり、彼の言葉と本心は一致していないということだ。
「でも、それは間違ってる。芽衣がそんなことするはずないし、それに、幽霊として戻ってきた田中先輩と出会っているなら、その時点で芽衣は殺されてる。復讐しに戻ってきたはずだから」
「・・槙仁は幽霊の存在を認めてるんだ」
「認めるっていうか、芽衣のことを信じてるだけだよ。それと拓也のことも」
梅宮のことはともかく、彼が自分のことをそこまで信用してくれていることが嬉しかった。にも関わらず、芽衣は心に隠した真実を彼に話すことができない。アンフェアなこの状況が、申し訳なくてたまらない。
「芽衣は何を見たの?」
槙仁が、顔を覗き込むようにして尋ねてくる。このまま、全てを話してしまいたい。自分のしたことも、あの部屋で見た光景も。だが、それは許されない。あの人のために、自分のためにしてくれた行為を仇で返さぬために、口外するわけにはいかないのだ。
「じゃあさ、これくらいは教えてよ。どうして福島さんの部屋へ行ったの?」
「・・友美先輩から電話があった。家に田中先輩がくるからおいでって」
「それってどういう意味? ボクの想像が外れているといいんだけど」
槙仁の察しのよさに、男を甘く見てはならないのだと認識させられる。おそらく、彼の想像通りなのだ。福島は、田中が部屋にいるという状況を、芽衣に見せつけるために自宅へ呼んだ。これから出掛けようとしている二人の平和をぶち壊すために。
「見に行ったのも事実だよね?」
芽衣は無言のまま頷く。
福島から連絡があったことは、携帯電話の通話履歴から明らかだ。それでも、福島の部屋へ行ったことは、警察には話すことができなかった。家で父親から尋問される苦痛は、他のどんなものよりも辛かった。
「二人が何をしていたのか、芽衣が何をしたのかは教えてもらえないんだよね。警察にはなんて言ったの?」
「待ち合わせ場所にいたって。実際、途中まではそうだったし」
「ウソつきだね」
槙仁が、全てを見通したように言う。本当に、この男に隠し事は通用しないのかもしれない。
「芽衣ってね、嘘をつくときに唇を尖らせるんだよ。気づいてないだろうけど。お父さんにもバレてるかもね」
思わず、口元を隠してしまう。それを見て槙仁が笑い、罠に嵌められたのではないかとすら思う。この調子だと、一時間後には全てを話してしまっているのではないか。
「話したくないならいいんだよ。ただ、ボクは芽衣のこと助けたいから、何をして欲しいのかだけ教えてもらわないと」
槙仁の言葉には裏などない。この男は、他人の心を見透かすのが得意なくせに、自らの想いを隠そうとはしない。それが魅力でもあり、武器でもある。この場においては、畏怖の対象でもあった。
「・・もう少しだけここにいさせて(・・・・)欲しい。それだけでいい」
「ボクは構わないよ。ただ、ご両親には連絡してね。それと、どうやったら田中先輩を成仏させられるのか、それも一緒に考えて欲しい」
「成仏?」
思わず、槙仁に顔を向けてしまった。大したことではないという様子で槙仁が微笑む。
「だって、いつまでもここに隠れているわけにはいかないし、いずれは田中先輩と会うときがくるよ。それを回避するためには、成仏してもらうしかないでしょう?」
———なるほど。
芽衣にはその発想すらなかった。頭が冷静に働いていない証拠か。
そういえば、梅宮が同じようなことを言っていた。幽霊たちは、この世に未練があるから帰ってきているのだと。それを解決してやれば、きちんと成仏するのだと。だが、今回に限っては、それは叶わないだろう。というより、叶ってもらっては困る。芽衣の身がただでは済まないからだ。
「田中先輩は、何を望んでいるんだろうね」
独り言のように、槙仁が呟く。彼の言葉を隣で聞きながら、芽衣には答えがわかる気がする。口にすることはできないが、あの部屋の状況、その後の出来事を踏まえれば、答えは容易に導き出せる。
「芽衣が部屋を出たときさ、二人はどういう状況だった?」
槙仁の笑顔が、どこか不気味にも感じられる。芽衣の返答次第で、全ての結論を出せるという自信に満ちあふれている。だからこそ、芽衣は答えることができなかった。答えてしまえば、全てが水の泡になるからだ。これまで隠してきたことも、あの人の想いも。そして———芽衣の罪も。
「うん、わかった。これ以上は訊かないでおく。安心して泊まってっていいよ」
「・・本当に?」
「でも、おうちには連絡すること。それだけは約束して欲しい」
芽衣は僅かに迷った後、静かに頷いた。確かに、あの事件に巻き込まれて、両親には心配されている。ここでさらに問題を起こせば、さすがにただでは済まされない。大事になってしまえば槙仁にも迷惑が掛かる。諦めて、最大限の妥協をすることにした。
芽衣が頷くのを見て、槙仁が満足そうに微笑む。「何か作ろうか」とだけ言うと、キッチンへ向かって歩き出した。芽衣が壁の時計を確認すると、午後八時半を示していた。現実に戻ると、自分の体が食事を欲していることに気づいた。
キッチンから、水がシンクを叩きつける音が聞こえてくる。槙仁は普段から自炊をしているらしい。テキパキと調理をしてくれるだろう。
それでも、彼の横顔を眺めていると、どこか不安になってしまう。彼から危害を加えられるなどということではない。自分の知らないところで、槙仁が無茶なことをするのではないか。そんな、漠然とした不安だけが残されていた。
7
———四月二十八日、木曜日。
梅宮は会社へ向かいながら、事件について頭を働かせていた。実際には、昨晩考え続けてある答えに辿り着きながら、それを必死に否定しているだけだった。そんなことがあって欲しくないと、粗を探すことに全力を注いだ。
世間では、田中を殺害した福島が、その後に自殺したと考えられている。状況としては矛盾もなく、そう考えるのが妥当だ。だが、実際には、芽衣がその現場へ訪れている。しかも、芽衣はそれを隠したままだ。福島から電話が掛かってきたが、待ち合わせ場所にいたと言い張っている。警察がそれ以上を追求しないのは、事件現場にいたという証拠がないからか、彼女の父親が警察官だからなのか。なんにせよ、重要参考人で留まった。そして、福島が犯人であると結論づけられた。このまま誰もが黙っていれば、芽衣が罪に問われることはない。
梅宮は、自分がどうすべきかわからなかった。真実を明らかにすべきだという正義感と、このままでもよいのではないかという現実的な意見が混在していた。
福島は亡くなってしまっている。彼女が殺人犯であろうと、単なる自殺であろうと、本人には影響がないのではないか。実際、田中は幽霊としてこの世に現れたが、彼女はそうではない。それはつまり、この世に未練がないことを意味しているように思える。そこから考えると、福島は自分の意志で自殺したと考えるのが妥当だ。少なくとも、梅宮にとっては。
その一方で、芽衣に対する疑いは消えない。その最大の理由としては、彼女に幽霊が見えているということだ。そして、梅宮にはその理由がわかる。
幽霊が見えるのは、他人の命に手をかけたことのある者だけ。
それが、梅宮の出した結論だった。梅宮以外、誰にも理解できない理由だろう。だが、梅宮にとっては、これ以上ない確固たる理由なのだ。芽衣は、人を殺めたのだ。
その芽衣が、田中の姿を見て怯えている。理由は明白、彼女が田中を殺害したからだ。だからこそ、自分が殺した人物の姿を見て、芽衣は逃げ出した。復讐されることを恐れたのか、真実を明るみに出されることを恐れたのか。どちらにしても、彼女の行動が、真実を映し出してしまっている。
赤信号で停車し、梅宮は空を見上げる。
青天が続いていたこの頃だったが、久しぶりに雲が覆っている。午後に雨が降り出してもおかしくない様子だ。傘を持ってくることすら思いつかなかった自分を恨み、頭の中が事件で溢れているのだと知る。
一応は友人である芽衣が真犯人であるなど、信じたくはない。このまま黙っていれば、世の中が彼女を許すのだ。犯行が明るみに出ることはなく、梅宮も気づかなかったふりをすればいい。———そんなことができるのであれば。
ただ、一点だけ疑問が残っている。事件現場である福島の部屋のカギが掛かっていたことだ。それだけが、魚の小骨のように引っ掛かっている。
芽衣が田中を殺害したとしても、カギを掛けられるのは福島だけ。そして、玄関のカギを掛けた後で、彼女はベランダから飛び降りたことになる。何しろ、部屋のカギは福島の部屋の中で発見されたのだから。梅宮が最初に考えていた、犯人が外からカギを掛け、転落した福島のポケットに忍び込ませたという案は完全に否定されている。やはり、カギを掛けたのは福島自身でなくてはならない。
ここで生まれる疑問は、なぜ福島は芽衣を逃がした後で自殺したのか、ということだ。
事件の起きた順番は、次のようになる。芽衣が田中を殺害し、福島の部屋から出た。その後、福島が玄関のカギを掛け、自らはベランダから飛び降りた。
芽衣が現場から逃げるのは容易だろう。福島も、殺人犯を追い掛けるとは思えない。だが、それと福島が自殺したこととは、論理が結びつかないように思える。梅宮が福島の立場であれば、まず警察に連絡するはずだし、自殺するなどありえない。
ただ、福島が自殺している以上、この考えのどこかにミスがあるのは確かだ。それを見つけられず、梅宮は自らの行動に自信を持てなかった。芽衣を警察に突き出すことも、黙り通す覚悟もできていない。
会社へ近づいたところで、梅宮の中に新たな疑問が生まれた。———芽衣はなぜ、田中だけを殺害したのだろう。
犯行の動機としては、彼に裏切られ、感情的になってしまったというのが容易に考えられる。それは理解できなくもないが、なぜ福島は無事なのか。梅宮には、同性の福島に対する憎しみの方が大きいように思えた。わざわざ自分に見せつけるために、福島に呼び出されたわけだからだ。
それでも、実際には田中だけが頭部を殴られ、福島は転落死している。芽衣に突き落とされたのかと考えたが、すぐにそれが間違っていると気づく。犯行現場のカギが掛かっていたことを考慮すれば、それはありえないのだ。芽衣が部屋を出た後で、福島がカギを掛けた。それ以外には考えられない。
ここで、凶器について考えてみることにする。田中を殴った金属バットは、福島の部屋に残されていた。彼女は野球経験者であったことから、それが部屋に存在していても不思議ではない。また、そこに付着していた指紋は福島のものだけだった。それも、芽衣が手袋をしていたと考えれば矛盾はない。まだ寒いのだから、ありえない話ではない。
——いや、そうか?
思わず、心の声が漏れてしまった。
三人は部屋の中にいたのだ。芽衣が手袋をしていたというのは、おかしな状況ではないのか。玄関での出来事ならともかく、犯行現場は奥の部屋だ。そこまで、芽衣が手袋をしたままというのは考えにくい。普段通りならば、芽衣はブーツを履いていたはずだ。それを脱ぐ際、手袋をしたままというのは考えにくい。
この考えからいくと、芽衣が奥の部屋へ入ったとき、彼女は素手だった。にも関わらず、凶器のバットに彼女の指紋は付着していなかった。改めて手袋をつけたとしても、犯行後に拭き取ったのだとしても、それを福島がおとなしく見ているとは思えない。やはり、この道筋には間違いがある。僅かなポイントだけかもしれないが、このままでは納得できない。
この先は、考えても仕方がないのかもしれない。最も容易に真実に辿り着く方法は、芽衣自身に説明してもらうことだ。そのためには、槙仁の力が不可欠だった。昨晩も、二人は槙仁の部屋で過ごしている。そこで、彼がうまく情報を引き出してくれていることを願うばかりだ。
大通りの先に、梅宮の働く会社が見えてきた。こんな状態では、おちついて働くことなどできない。まったくもって、芽衣には迷惑を掛けられてばかりだ。
「ということを、考えたんだけど」
「いいと思う。思うけども・・」
さつきが、脳みそのシワまで確認するほど食い入るように見つめてくる。
午後八時過ぎ。最近、毎日さつきの家へ寄っている気がする。
「あ、そういえば芽衣は自宅へ戻ったらしい。槙仁が説得したみたいだ」
「ほう、それは良き知らせじゃ」
さつきが眉を上げ、安心したように微笑む。梅宮も、その知らせを聞いたときはホッとした。ただ、芽衣の心境がどう変わったのか、それだけは知るべきだと考えている。
「で、話を戻すけども」
さつきの様子を見て、梅宮は逃げられないことを悟った。もっとも、自分から話した以上、こうなることは容易に想像できていたが。
「誰が、誰を殺したって?」
「芽衣が、田中先輩を殺したって」
「本気で言ってる?」
「うん、そうとしか考えられないからな」
「その心は」
梅宮は自分の中の考えを、順を追って説明した。芽衣が現場にいたこと、彼女に幽霊が見えていること。それらに、どのような意味があるのかを。
「ある仮定で話を進めれば、梅ちゃんの話は納得できるよ。幽霊が見える条件が正しいと仮定すればね」
「正しいと思うぞ」
「はてはて、いかがなものか」
さつきが視線を外してくれない。彼女を納得させることは困難だろう。
「梅ちゃんも同じなの?」
「あぁ」
「誰を?」
その問いには答える気になれなかった。梅宮は、その人物について考えただけでも吐き気がするからだ。
「幽霊が見えた以上、芽衣が人を殺したことは確定してる。で、俺がわからないのは、福島さんを殺さなかった理由だ。何か考えはないか?」
「ないよ。だって、わたしは芽衣が犯人だなんて思わないもん」
「なんでだ?」
さつきの態度があまりにハッキリとしており、何かしらの根拠があるように思えた。
「友達だから」
「・・・」
「他に理由は必要?」
梅宮には言い返す言葉もなかった。純粋すぎる感情を目の当たりにして、触れることが恐ろしくなったのかもしれない。それほどまで、人を信じられることが羨ましい。
———ただし、
「俺のことは?」
「ん?」
「俺のことは、信じてくれないのか?」
「信じてるよ。梅ちゃんが嘘をついてるとは思ってないし、考えを否定する根拠はない。ただ、梅ちゃんが誰かを殺したっていうのも、きっと何かの勘違いだと思ってる。そう思うことにする」
「どうしてそこまで・・」
さつきの表情を見ていると、それを尋ねることすら愚かに思えてきた。誰かを信じることに、理由なんて必要ないのだ。
「うん、まぁいいや。話を戻そうか。福島さんが亡くなっていた状況を考えればさ、彼女は自殺したと考えるのが妥当だよね。あの部屋のカギを掛けることができたのは、本人とオーナーさんだけ。でもオーナーさんのアリバイはハッキリしている以上、彼女にしかできないもんね。合鍵はないものと仮定します」
「つまり、芽衣はその前に部屋を出たんだ。田中先輩を殴った後で」
「そこが納得できないんだよねぇ」
さつきが腕を組み、考え込むように瞼をぎゅっと閉じた。
「芽衣がやったっていう証拠はないじゃない。凶器に指紋はついてないわけだし、あの子は部屋にいただけかもしれない」
「でも、田中先輩が言ってたんだ。最後に見た景色が、福島さんの驚いている顔だったって」
さつきが瞼を開き、右手の人差し指を突き出す。梅宮の顔まで、僅か数センチまで迫っている。
「どうしてそれを信じるの?」
「だって、本人が言ってるんだぜ。何よりの証拠だろう」
「それがウソではないっていう根拠は?」
「根拠は———」
ない。確かに、彼が嘘をついている可能性はある。嘘でなくとも、勘違いをしている可能性も考えられる。
「芽衣が犯人だっていう根拠はそこだけでしょ。それが間違っていれば、あの子が犯人だっていう考え自体が崩れる」
「いや、もう一つある。あいつには、田中先輩が見えているんだ。それは犯人であるという確固たる理由になる」
「梅ちゃんにとってはね」
さつきが、感情の読み取りにくい目で言う。彼女はこの考えを微塵も信用していない、それがひしひしと伝わってきた。
「まず、幽霊が見える人イコール人殺し、ってのが納得できない。そんなことで芽衣を疑うなんて、馬鹿げてる」
「理解できないのはわかる。でも、それ以外にありえないんだ」
「どうして?」
「だって・・」
梅宮が幽霊を見えるようになったのは、あの男が死んだ直後だったからだ。それまでは幽霊なんて見えず、信じてもいなかった。だが、いまもこうして見えるようになったのだから、その理由はあの事件しか考えられない。
「わたしはそんなこと信じない。だから芽衣を疑うなんてこともできない。そんなわたしが考えるとっかかりは、なぜ芽衣は田中先輩に怯えているのか、そして、事件当日、芽衣があの部屋にいたことをなぜ隠しているのかということ。そこを解きほぐすことから始まるの」
「田中先輩に怯えているのは、自分が殺したはずの男が目の前に現れたからだ。事件当日の様子を隠しているのは、そこにいたと知られたら、犯人だと疑われるからだ」
「もっともらしいこと言わないの」
さつきにデコピンをされ、こんなことは初めてだと気づいた。これまで、さつきから一度たりとも暴力を振るわれたことはない。今回のデコピンだって、暴力というには大袈裟だ。それでも、彼女が他人に手を上げるというのがどれほど珍しいことなのか、梅宮は知っている。さつきがどれほど怒っているのか、それもわかってしまう。
「怯える理由として、他にもあるでしょう」
「・・あぁ、秘密をバラされることを恐れているのかもな」
「いやいや、どんくさすぎるよ」
心底哀れむような目で、さつきがため息をつく。ここまで冷たい態度をとられると、逆に清々しくなってしまうほど。
「芽衣が身の危険を感じているっていう発想はないの?」
「・・おぉ。復讐されるってことか、それは考えたぞ」
今度は、言葉もなくさつきから睨まれた。母親に叱られた気分になり、自分の言葉におかしな点があったのか探してしまう。田中から復讐されることを恐れた芽衣が、槙仁の家へ逃げた。その可能性は十分に考えられるのではないか。
「もういい」
さつきが立ち上がると、怒りを纏った視線を送ってくる。彼女を見上げている梅宮としては、絶対に逆らえないゴッドのように見える。天井のライトの影響も大きいだろう。
「芽衣に会ってくる」
「・・え?」
「梅ちゃんは来なくていいよ。ジャマだから」
梅宮に背を向け、さつきが歩き出そうとする。慌てて彼女の腕をとり———掛ける言葉がなかった。
「離してよ」
「本当に、芽衣に会いに行くのか?」
「そう。そろそろ勝負しなきゃ」
さつきが振り返り、梅宮と視線を合わせる。そこには何の迷いもなく、決意した女がいるだけだった。つまり、梅宮にしてやれることはない。
「一つだけ、お願いがあるの」
意外な言葉に、思わずさつきの腕を離してしまった。
「たぶん、一時間もすれば、芽衣から連絡が入ると思う。だから、必ず起きていてあげて。あの子の話に付き合ってあげて」
さつきの言葉を理解し、梅宮はゆっくりと頷いた。予言者でなくとも、芽衣の行動は容易に想像できる。梅宮の携帯に電話が掛かってくること、その内容までも。
「それじゃ、行ってくるね」
さつきが、ためらうことなく歩き出す。その途中で身につけているネックレスを外し、慎重な動作で机に置いた。その意味を理解し、何か言葉を掛けようとして、梅宮はそれを堪えた。必要ないからだ。女が一世一代の勝負に向かうときに、男が余計なことをするものじゃない。黙って、行く末を見守るだけでかまわない。
さつきが部屋から一歩を踏み出し、扉が閉ざされる。いつもと同じ、真白なコートを着た彼女が出陣した。
8
さつきとの再会を果たし、芽衣は現実と向き合うことにした。田中の姿が見えるようになり、その意味を理解し、逃げ出すことしかできなかった。だが、いまは違う。正面から、彼と戦うことができる。
その勇気をくれたのは、他でもなくさつきだ。彼女が、ひきこもっていた部屋から出るのにどれだけの勇気を振り絞ったのか、芽衣には理解できる。自分を傷付けた人間はこの世にいなくとも、恐ろしくてたまらなかったはずだ。それにも関わらず、この家までやってきてくれたことの意味を、芽衣は深く理解している。そして、彼女と再会することができた奇跡に感謝している。自分の身に起きた変化に、初めて感謝することができた。
昨晩、さつきと話し合っても、真実を伝えることはできなかった。どうしても、あの人の想いを無下にすることはできなかったのだ。それでも、さつきは理解してくれたようだ。いや、最初から、芽衣のことを疑ってはいなかった。あの部屋で何が起きていたのかを、正しく理解しようとしてくれていた。
そして、昨晩、さつきと別れた後———。芽衣は我慢することができず、梅宮に電話をしてしまった。なんと話せばよいのかわからず、ほとんどが沈黙だった。だが、梅宮も何も言わなかった。責める言葉も馬鹿にする言葉もなく。それが芽衣には辛かった。敗北を味わうとは、まさにあの状況だった。
あんな思いをした以上、もう誤魔化すことはやめよう。さすがに、話してしまう決意ができた。その相手に父親を選ぶことは、さすがにできなかったが。最も身近にいる相手だからこそ話せないこともある。いずれは伝わってしまうとしても、直接話すのはできれば避けたかった。
芽衣は立ち上がり、決意を込めて深呼吸をする。警察へ行って、全てを話してしまおう。自分のしたこと、見たこと、真実を明らかにする。それが、福島への最大の恩返しになるのだと、さつきから教わった。
クローゼットへ近づき、ゆっくりと扉を開く。半透明のビニール袋に包まれたそれ(・・)を目の当たりにし、再度決意する。あの人と戦うことを。
芽衣が歩き出したとき、その扉は勝手に開かれた。
「やあ、お久しぶり」
言葉を失うとはこういうことか。芽衣は一歩も動けなくなり、叫ぶタイミングすら逃してしまった。
「この間は驚かせてごめんね。今回もそうかもしれないけど」
部屋の入り口に立ちふさがるようにして、田中が笑顔で言う。前回に比べて、堂々としていることに腹が立つ。場数を踏んで、余裕すら生まれているではないか。いったい、どれだけの人物に手を掛けてきたというのか。
「入ってもいいかな」
芽衣の返事を待たず、田中が部屋の中へ足を踏み入れた。
「あの・・」
「どうして、きみたちにだけ見えているんだろうね。彼も、僕のことが見えているみたいだった」
彼———梅宮のことだろうか。芽衣は、自分以外に幽霊が見える人物を梅宮しか知らない。
「僕がどうしてここへきたのか、わかる?」
微笑んでいるものの、その奥にはどす黒い感情が見え隠れしている。とても、歓迎してお茶を出す気にはなれなかった。
「わからないのかな。まぁ、自分がこんな姿になるとは思っていなかったし、運がよかっただけなのかもしれないけど。せっかくまだ動けるから、やり残したことをしにきたよ」
背中に氷水を流し込まれたように、芽衣の全身が小刻みに震えた。これから何をされるのかと思うと、希望などどこにも見当たらなかった。福島と同じように、彼に洗脳されてしまうのか。
「一つ、教えて欲しいんだ」
芽衣が昔から愛用している机に手を起きながら、田中が言う。
「僕が発見されたとき、あの部屋に異常はなかったんだって? 一人暮らしの女子大生らしい部屋だって。———そんなはずはないよね? 普通、手錠や鎖なんて置いてるはずないんだから」
そう、芽衣があの部屋へ入って驚いたのは、田中がそこにいたことではない。福島が、ベッドに鎖で結ばれていたことだった。犬小屋に結ばれた犬のように。
「彼女も亡くなっているようだけど、それじゃあ、誰があれを処分したんだろう。福島さんがあれを捨ててから、自殺したのかな」
椅子に勝手に腰掛け、田中が脚を組んで尋ねる。それに対する返答は決まっているし、答えられるのは芽衣だけだ。だが、彼のペースに乗せられたくはない。
「もしかして、何も話す気がない? だとしたら、僕も手段を選ばなくちゃいけなくなるなぁ」
このままではマズいとわかりながら、芽衣になす術はなかった。ここで警察に連絡しても意味はない。助かったとして、病院に放り込まれるか、哀れむような目で見られるだけだ。
槙仁か梅宮、頼れるのはそのどちらかだろう。だが、それを田中が許してくれるとは思えない。特に、梅宮とは接触したようであり、彼にも自分の姿が見えていることを把握している。まったく、重要なところで役に立たない男だ。
「あれは・・」
「ん?」
「あれは、田中先輩の仕業ですか?」
「仕業って、言葉が悪いよ」
田中が呆れたように笑う。
「彼女もあれを望んでいたんだ。僕に管理されることを」
———管理。その言葉だけで、芽衣の中で拒否反応が大騒ぎを始めた。あんな、調教とも監禁ともとれるような行為をしておいて、管理だなど。福島の精神を蝕んだ男の口からは最も聞きたくない言葉だった。
「いつから?」
「付き合っているときからだよ。別れたけど、彼女は管理されることを愉しんでいるみたいでね」
「・・・」
「信じてない顔だなぁ」
田中が困ったように頭をかく。だが、大したことではないというように口を開いた。そして、泥水のような言葉を口にする。
「大丈夫、瀧村さんもやってみればわかる。気に入ってくれると思うよ」
「けっこうです。あのときもそう言ったはずです」
「隠さなくていいってば。それに、もう彼女はいないんだ。遠慮する必要もない」
田中が静かに立ち上がり、芽衣に近づき始めた。芽衣は必死に後ずさり、距離を保とうとする。それが無意味だと理解しながら。
あの日、福島の部屋でも似たような状況にあった。二人の関係を目の当たりにし、芽衣はその場を離れることにした。関わりたくなかったのだ。まるで宗教のように田中を崇拝する福島と、それを当然のように受け入れている彼を見ると、関わってはならないものだと瞬時に理解した。それでも、理解する前に田中に迫られた。取り押さえようとしていたのか、落ち着かせることが目的だったのか。
だが、それを食い止めたのは福島だった。彼女が———。
「友美先輩は言っていました。見なかったことにして欲しいって」
「・・いつ?」
伸ばした手を下ろし、田中が不思議そうに尋ねる。
「あなたを殴った後、私を部屋から逃がしてくれたときのことです」
「へぇ・・」
意外そうな様子で田中が笑う。福島を洗脳しきれていなかったことに驚いている様子だった。
芽衣は、あの日の光景が瞼の裏から消えたことはない。目を閉じれば、いつだって勝手に浮かんでしまう。福島が田中の側頭部を殴りつけているシーンを。彼の頭から血が溢れ、死にかけのカエルのように手足を動かす様子を。そして、福島から、あの部屋から去るように指示されたことを。
「あれは誤算だった。福島さんが僕に歯向かったことよりも、女性同士のプライドのぶつかり合いをだ。まさか、彼女があそこまできみに負けたくなかったのだとは想像できなかった。僕のミスだったと認めるしかないね」
「友美先輩は、私を守ってくれたんです。それに、あなたとの関係が間違っていることにも気づいていた。だから、最後に私に言ったんです。あの部屋にあったものを処分しておいて欲しいって」
田中が真直ぐに視線を送ってくる。芽衣の一言一句を聞き逃さないためか、逃げ出さないか注意しているのかもしれない。
福島が田中を殴り殺した後、彼女から頼まれ、芽衣はそれら(・・・)を持ち出した。手錠や鎖、床に置かれた皿などを。そうすることで、二人の間の歪んだ関係を隠すことにした。福島がそれを望んだからだ。いまは、この部屋のクローゼットの中に隠してある。
「やっぱり、きみの仕業だったんだね。調べてみても、彼女の部屋の様子は特別視されていないから不思議だったんだ。ようやく理解できたよ」
「これで満足ですか?」
「いや、全く。だって、きみのせいで僕の愉しみは奪われてしまった。殺されてしまったわけだからね。償ってもらわなくちゃ」
「償うって・・。友美先輩はあなたを殴ってから飛び降りました。これでもう解決しているんです。私はあの部屋で見たことを口外する気もないし、安心して成仏してください」
そう、あとは勝手に成仏してもらうだけだ。芽衣は誤魔化すために言っているのではない。本当に、口外する気などなかった。一秒でも早く忘れたいと思っているほど。
だが、現実はそう優しくはない。
「僕の一番の望みは、きみで遊ぶことだ。だから、まだ動けると知ったとき、真っ先にここへきたんだよ。きみに会いに」
「諦めてください。それに、これ以上近寄ったら大声を出します」
「別に構わないよ。いまは家に誰もいないみたいだし、たとえ近所の人が来たって、僕の姿は見えないんだから」
ハッタリが通用しないことを察し、芽衣の心が折れそうになる。そもそも、幽霊が相手であれば、勝ち目などないのだ。肉体を持たず、他人からは見えない存在。世界で最も力を持っているようなものだ。誰にも見つからず、何万人だって殺せてしまう。
田中が笑顔のまま芽衣に近づく。叫んでも無駄なことは、芽衣自身が最もよく理解している。
やはり、槙仁の家にいるべきだったのか。彼に迷惑を掛けていることが申し訳なくなり、逃げ出すように帰ってきてしまった。槙仁は、いつまでいても構わないと言ってくれたのに。
田中の手が芽衣の肩に触れる。幽霊が存在することを、改めて実感させられる。これが幽霊との初めての接触ではないにも関わらず、やはり不気味に感じてしまった。そして、諦めてしまう。逆らいようのない災害に、自らの体を差し出す覚悟をする。
芽衣がゆっくりと瞼を閉じた、そのとき。
「まだ早いよ」
どこかから、彼の声が届いた。
9
「誰かな?」
返事はなかった。部屋へ入ってきた槙仁は、真直ぐに芽衣の側まで歩いてくる。田中のことなど、微塵も気にしない様子で。芽衣は初めてそれを思い出した。———彼には田中の姿が見えていないことを。
「槙仁・・」
「行くよ」
槙仁が、躊躇なく芽衣の腕をとる。腕から伝わってくる彼の力強さ、意志の頑丈さに、涙が溢れそうになる。自分が一人ではないこと、必要とされていることを実感できる。それでも、
「おい」
田中が、歩き出そうとする槙仁の肩を掴む。そのまま引っ張られ、槙仁のバランスが崩れかけた。それでも、槙仁に動揺はなかった。こうなることも予想していたのか、それとも関係ないのか。芽衣の腕を離すことなく、部屋から連れ出そうとしている。
「待てよ!」
田中が思い切り槙仁の脇腹を蹴り飛ばした。その衝撃で彼が右に倒れ込み、芽衣も一緒になって転ぶ。床に這いつくばりながら、槙仁の手は芽衣の腕を離さない。苦痛に顔を歪めながらも、弱音の一言も吐かない。
「槙仁、あたしのことはいいから・・」
「うるさい」
槙仁がハッキリと言う。芽衣を強く睨み、すぐに部屋の扉に視線を移す。そこまで辿り着けば、芽衣を守れると信じているかのように。
「かっこいいなぁ、おい」
再び、田中が脚を蹴り上げる。それが槙仁の顔面を捉える瞬間を、芽衣は見ていられなかった。短い悲鳴をあげ、顔を覆ってしまう。恐る恐る目を開くと、床に頬をつけている槙仁が見える。
「やめて!」
芽衣にできるのは叫ぶことだけだった。こんなことを続ければ、槙仁は死んでしまう。田中の姿が見えていない以上、槙仁は防御体勢すらとれない。芽衣の腕を掴んでいるのだから、空いているのは左腕だけ。そんな状態で、田中から逃げられるわけがない。
「こいつ、なんなんだよ」
苛立った様子で、田中が何度も槙仁を踏みつける。その度に槙仁の体が崩れ、それでも起き上がろうとしている。
芽衣は、自分が涙を流していることにも気づかなかった。そんな余裕すらなかった。槙仁の体に覆い被さろうとしても、彼は必死に立ち上がろうとしている。それを田中が踏みつけ、結局は倒れ込むことを繰り返す。槙仁の表情から、彼が限界であることが伝わってくる。もうすでに、気力だけで動いている状態だった。いつ意識を失ってもおかしくはない。
「もういいから!」
「だめだ!」
槙仁は諦めてくれない。どうして、こうまでして自分を助けようとするのか。芽衣には理解できなかった。彼に対し、そこまでのことをしただろうか。むしろ、酷い言葉を浴びせただけではないのか。それなのに———、どうして命がけで守ろうとしてくれるのか。
「・・もういいや」
その言葉の直後、田中からの暴力が途絶えた。
芽衣が歪んだ視界で確認すると、田中が椅子を持ち上げようとしているのが見えた。それの重さがどの程度なのか、芽衣が一番よく知っている。男の力でも大変なほど、あの椅子は重いのだ。高級品など買わなければよかった。
「死ねよ」
その言葉を頭上から浴び、今度こそ芽衣は槙仁に覆い被さった。自分も、幽霊として蘇ることを願いながら。
自分の身に何も起きていないことに気づくまで、長い時間が掛かったように感じた。実際には、三秒ほどの間に、この部屋の異変に気づいた。芽衣の身に椅子が振り下ろされることはなく、それは槙仁も同じだった。二人とも、床にうずくまったままだ。
芽衣が顔を上げると同時に、ドサッという重低音が響いた。床が僅かに振動し、椅子が床の上でひっくり返っているのが目に入る。そのすぐ側で、床で抱き合うようにはしゃいでいる二人の男。いや、そんな愉快な場面ではない。上に覆い被さった男が、必死の形相で田中の腕を押さえつけている。その顔に見覚えがあり、芽衣は余計に混乱していた。
「離せ!」
「いいから・・、落ち着いて!」
田中の動きを制しながら、梅宮が苦しそうに叫ぶ。全身の力で、田中の両腕を押さえつけている。少しでも力を抜けば、相手が自由になることを理解している様子で。
「芽衣! 離れてろ!」
それが梅宮からの指示だと気づき、槙仁を支えながら扉へ向かう。その間にも二人の男のうめき声が届き、ここが動物園かと錯覚してしまう。
「・・わかった。離せ」
芽衣が部屋から一歩出たところで、田中の動きが落ち着いた。どうやら、諦めたようだ。それでも梅宮は力を抜かず、田中の上でマウントポジションをとり続けていた。
「もういい。きみも落ち着け」
梅宮を見上げながら、田中が無表情で言う。約五秒後、梅宮の体から力が抜けていくのがわかった。
「そのまま動かないように」
田中の動きに注意しながら、梅宮がゆっくりと立ち上がった。肩で息をしながらも、彼の表情には冷静さが戻っていた。
「どうして、ここがわかった」
「勘です。いや、ウソです。友人から知らせがあったので」
梅宮がおかしなことを口にしている。芽衣にはよくわからなかったが、彼が味方であることだけは、本能が理解していた。
「芽衣、大丈夫だな?」
「うん・・」
「槙仁は?」
「———ボクも大丈夫」
起き上がることはできなくても、槙仁の口調はしっかりしていた。それを聞いただけで、芽衣の全身に安堵感が広がった。
「田中さん、よくわかりませんが、あなたは芽衣にとってよくない存在のようですね」
「・・さぁ。彼女にとって何が幸せなのか、まだわからないよ」
田中が仰向けのまま床に手を突き、ゆっくりと上体を起こす。梅宮が近づこうとすると、右手を突き出してそれを制した。「もう何もしないよ」の言葉通り、脚は投げ出したままだ。
「芽衣を襲おうとしたのは事実です。槙仁のことも。ここであなたを殺すことは簡単だ。どうせ見つかることはないし、そもそも死んでるし」
梅宮の言葉に、田中が自嘲気味に笑った。
「でも、そんなことはしたくない。これ以上人を殺したくないし、二人にそんな場面を見せたくない。だから・・、成仏してください」
「無茶だ、それはもの凄い要求だよ」
田中が心底可笑しそうに笑った。開き直った男がそこにいた。
「あなたが成仏できていない理由がなんなのか、俺にはわからない。ただ、今後は芽衣に近づくことなんてできないし、させない。だったら、ここでおとなしく成仏した方がいい。さもないと・・」
「さもないと?」
「あなたの本性を世間に公表します」
梅宮の言葉に、田中の顔が固まった。それがどういうことなのか、どのようにして公表するのか、想像できたのだろう。
「いまのままなら、あなたは被害者として扱われます。痴情のもつれで福島さんに殺された可哀想な男でいられます。でも、俺や芽衣がその気になれば、全てを明るみに出すことができる。なんなら、俺があなたを殺した後でも」
「きみ、本気で言ってる?」
「えぇ。俺、いまさら怖いもんなんてないし。それに、あなただってバカじゃないはずだ。どちらを選択すべきかなんて、考えるまでもないでしょう」
田中は口を開かず、梅宮を見つめたまま計算をしている様子だった。何をすべきか、どうすれば最もリスクを減らせるのか。二人の男の駆け引きを、芽衣は黙って見続ける。
「僕が受け入れたとして、成仏する方法を教えてくれるのかな」
「いえ。そんなのわからないし、自分で頑張ってください」
「容赦がないね、まったく。———でも、わかった。ここは僕の負けを認めよう」
田中が両手を挙げ、大きく息を吐く。演技なのか本心なのか、それはまだ判断できない。
「彼女には近づかない。それに、きみたち二人にも」
「どうやって信じろと?」
「きみから言ってきたんじゃないか。酷い男だよ、本当に」
田中が諦めた様子で笑う。梅宮の頬も僅かに上がっている。別の出会い方であれば、二人は親しくなれたに違いない。
「瀧村さん、それと彼も。悪かったね、酷いことして」
芽衣は何も言わず、田中を睨みつける。それくらいしか、できることはなかった。
「僕はここから消える。努力するよ。ただね、一つだけ言っておきたい」
田中は膝に手を起き、ゆっくりと立ち上がった。臀部を叩き、両脚に力を入れた。
「福島さんは、アレを望んでいたんだ。僕は彼女の望みを手伝っただけだ。だから、彼女が死んだことを恨まれるのは納得できないな」
「もう彼女はいません。それに、死人に口無しの通り、あなたの言葉だけを信じられるはずないでしょう」
「まったく、最後まで冷たい男だな」
田中は呆れた顔で両肩をグルグルと回すと、窓に手を伸ばした。カギを開け、躊躇なく窓を開ける。
「さようならだ。———みんな、お元気で」
窓の冊子に足を掛けると、田中は勢いよく向こう側へ飛び出した。芽衣の部屋は二階にあるため、飛び降りても死ぬことはないだろう。だが、芽衣は思わず声をあげてしまっていた。梅宮も驚いたように窓から顔を出す。下を確認し、ホッとしたような顔を向けてきた。
「・・いない。成仏してくれたのかもな」
「大丈夫なの?」
「さぁ? もうどうしようもないからな」
そんなことを、あっけらかんと言う。つかみ所がないのは昔からだ。
「槙仁、大丈夫か」
いつの間にか仰向けで寝ている槙仁を見て、梅宮が哀れむように声を掛ける。二人の男の友情が輝いている。
「・・遅いんだよ、まったく」
「わりぃ。時間差があってさ」
「まぁ、結果オーライかな」
体中が痛くて、起き上がることもできないのだろう。槙仁は目をつぶったまま、それでも満足そうに微笑んだ。顔のアザも、いまでは勲章に見える。
「よくやったよ、お前」
「うん。やっぱりさ、最後に愛は勝つんだよね」
「恥ずかしいやつだな」
槙仁の側に腰を下ろし、梅宮も深く息を吐いた。
これで、全てが終わった。芽衣の身は守られ、槙仁は死なずに済んだ。今回ばかりは、梅宮に感謝しなければならないだろう。悔しいが、謝らなければならないこともある。そして、槙仁の言う通りだった。芽衣の心の壁も、槙仁の愛が叩き壊していた。
10
いまのところ、田中が現れることはなかった。芽衣の部屋から脱出し、その後成仏したのかはわからないままだ。それでも、梅宮は確信していた。これ以上、友人に危害が加わることはないのだと。そして———、自分の罪を隠し通すことはできなくなったのだと。
「今回はうまくいったけど、こんなことは続かないんだからね」
「わかってる。でも助かった」
「タイミング、ギリギリだったみたいだしね」
仕事を終え、いつものようにさつきの家へ寄った。午後十時前、一日の疲れがどっしりとやってきていた。遅刻を取り返す分、必死に働いたからだ。
「ガムテープが宙に浮いているときは、何事かと思ったんだからね。そしたら玄関のドアが開いてさ、あぁそういうことかって」
懐かしむようにさつきが微笑む。梅宮の行ったイタズラが、まさかこんな形で身を結ぶことになるとは。
二日前、梅宮が田中と再会したとき、彼の肩にガムテープを貼付けたのだ。肩を叩いて声を掛けたときに。彼が味方なのかどうか、判断できなかったからだ。自分以外の者にも彼の存在を確認できるように、という作戦だった。幽霊である田中が、見られていることを意識するはずがない。上着に何かが貼ってあっても、気づく可能性は低いと踏んでいた。
その結果、芽衣の家へ入っていく田中を、さつきが認識することができたというわけだ。二日前の夜、さつきが芽衣との戦いを終えた後、彼女は一晩中見張っていたらしい。田中が芽衣の家へ近づいてくる、それを予測して。
「でも、俺に連絡をくれた後、どうして部屋へこなかったんだ? どこにいた?」
「ほら、みんなで同じとこにいても意味ないしさ。外で、警察に連絡できるように待機してた」
さつきが笑顔で話すのを聞きながら、それが彼女の本心ではないのだと理解できた。それでも、梅宮は追求することをやめた。知る必要もないし、知らない方がいいことだってある。みんなが無事だった、それだけでよいではないか。
「田中先輩の秘密に関しては、どうしてわかったんだ?」
「別に、ちょっと考えればわかるよね。何か秘密があるんだろうなって。それに、あの人は何度も芽衣の家を訪れるわけだから、よっぽどの秘密だよ。マイナスのイメージしかできないでしょう?」
確かに、さつきの言うことは一理ある。田中が芽衣の家を訪れるのを発見したさつきから電話が掛かってきた。そのときには何の説明もなかったが、やはり、さつきの推理は正しかったというわけだ。
「それじゃあ、そろそろ教えて欲しいんだけどね」
「どんどこい、だ」
「なにそれ」
さつきが口元を押さえ、からかうように笑う。
「芽衣は、誰も殺してなんかいなかったでしょ。わたしの言った通り。ほらほら、梅ちゃんの勘違いだったわけだ」
さつきの口調はメチャクチャで、彼女が話すのをためらっているのがわかった。
「どうして、芽衣には幽霊が見えたんだろうね」
「知らん。俺の考えが間違っていたことは認める。でも知らん」
「うん、だと思う。でもさ———、梅ちゃんに幽霊が見えている理由は何なんだろう。梅ちゃんも、誰かを殺したなんてウソなんでしょう?」
満面の笑みで尋ねるさつきは、そうであって欲しいと願っている。梅宮は、どう答えるべきかわからなかった。確かに、幽霊が見える条件に関しては勘違いだったのかもしれない。それでも梅宮は、自分が人殺しであることを確信している。
「芽衣はこれからも幽霊が見えるのかな。その方がいいんだろうけど」
「え、質問には答えないつもり?」
「もうトラウマもないだろうし、案外見えなくなったりしてな」
「うわぁ・・。そういう態度ですか」
さつきが呆れたように顔をしかめ、それでも、諦めたように笑う。梅宮も、笑うしかなかった。
みんな無事だったのだ。芽衣に罪はなく、隠していた物品も処分したらしい。ならば、もう忘れてしまえばいい。削除ボタンを押すように、ほんの少しの努力でかまわない。全ての出来事に、真正面から向き合う必要などないのだから。
「わかった、いつか話してくれればいいや。それにほら、これ、けっこう気に入ってるんだ」
さつきが右手で首もとを示し、そこには控えめな存在感を放つブローチがあった。梅宮がさつきの誕生日にプレゼントした、サツキのブローチだ。彼女はいつも同じ服を着ているし、たまには気分転換をさせてやりたかった。さつきとサツキ、芽衣にバレたら叱られるに違いない。
「わたしもさ、思うんだ。最後に勝つのは愛だと思う」
「急になに?」
「みんな、満足には死ねないんだよ。やり残したこともあるし、後悔してることばっかり。でもさ、それでもいいのかなって思う。ぜーんぶ、綺麗サッパリ満足してから死ぬなんてできないもの」
「怖いこと言うなって」
本当に、梅宮はゾッとしたのだ。さつきの口からそのような言葉が出てきたことに。まるで、改めて念を押された気分だった。
「大丈夫。そのうちわたしが死んだって、もう化けて出ることはないから。これ以上、幽霊に会わなくて済むと思うよ」
さつきの言葉の裏に、どのような想いが隠れているのか。梅宮はその扉に触れ、必死に堪えた。やはり、見ない方がよいものだからだ。他人の心に踏み込むよりも、他にすべきことがある。いまを生きる自分たちが、崩れ落ちないように歩き続けることが重要だ。
「あっ」
思い出したようにさつきが口を開く。
「そうだ、芽衣からの伝言」
「なにそれ、怖すぎ」
「きちんと成仏させてよね、だって」
明日も、扉は開かれる。