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さつきは飛び降りることにした  作者: 島山 平
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ゆうきとじいじ

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 ——四月十七日、日曜日。

 梅宮が彼女(・・)と再会したのが午前中で、彼女(・・)と初めて顔を合わせたのは午後のことだった。その順番でよかったと、梅宮はホッと胸を撫で下ろす。

 梅宮には使命があった。先日の件でさつきに助けられ、彼女へお礼をしなくてはならない。さらに、彼女の誕生日が二日後に迫り、どうせなら一気に恩返しをすることにした。決して、二度もプレゼントをするのが億劫だったわけではない。

 さつきの好きなものを思い出そうとしながら、商店街を歩く。幼い頃から、お人形やアクセサリーに興味はなかったはず。かといって、本や電子機器、プラモデルが好きだという言葉を聞いたこともない。

 改めて考えてみると、さつきが何かを欲しがっている場面を思い出すことができなかった。何をもらっても喜んでいた気がするし、もしかすると、何ももらえなくても構わないのではないかとすら思う。確か、付き合っていた頃は、彼女の誕生日に低反発まくらをプレゼントした。少なくとも表面上は喜んでくれて、いまでも使ってくれているが、本当によかったのかどうか確認する術はない。

 とにかく、何を買うにしても、こんなしがない(・・・・)商店街に売っているものではダメだ。梅宮自身が納得できない。

 昨晩、インターネットでプレゼントについて予習をしたものの、どれもありきたりなもので気持ちが乗らなかった。とはいえ、明らかに手の込んだものをプレゼントするというのも、下心があるようでマズい。梅宮たちは、四年前にきっちりと別れているのだから。

 手を繋いだカップルとすれ違いながら、彼女の方へ訊いてみたくなる。———彼氏に、何を買ってもらいたい? 派手な服装をした女だから、高いバッグでも要求するのではないか。偏見かもしれないが、正解の可能性は七十パーセントを越えているに違いない。

 梅宮がそろそろ困り果てた頃、その出会いが訪れた。懐かしいような、つい最近にも顔を合わせたような人物と、運命の再会を果たす。梅宮にとっては、できれば顔を合わせたくない相手だったが。

「暇なの?」

 一言目がそれだった。梅宮に気づいた一瞬、気づかなかったふりをしたのも気になる。

「別に、買い物」

「こんなとこで?」

 梅宮以外、数人しか歩いていない商店街を見渡しながら、瀧村芽衣(たきむらめい)が言う。自分だって、こんなところで買い物をしているではないか。彼女の態度だけで、見下されているのが十分に伝わってきた。

「お前こそ何してんのさ」

「言わなきゃいけないこと?」

 やはり、芽衣とは気が合わない。そうなった原因は、彼女の方にあるはずだ。高校時代、梅宮とさつきが別れてからというもの、芽衣からの当たりが強くなったのは確かだ。

「行くとこあるから、じゃあな」

 そう言って梅宮が芽衣の隣を通り過ぎようとすると、意外なことに腕を掴まれた。それも、とても女のものとは思えない力で。

「あのさ、さつきの様子はどうなわけ?」

 わざわざそこに触れてこなくてもよいのに。梅宮には、彼女の意図が読めなかった。その上、芽衣の眼差しは人を刺し殺せそうなほど尖っており、二秒以上目を合わせられなかった。

「・・家にいる。いつも通りだけど」

「へぇ。そこそこ元気なんだ。ヨリを戻そうとでも?」

「違う。たまたま用があって行っただけ」

 あざ笑うかのように、芽衣が冷めた視線を送ってくる。梅宮から手を離すと、胸の前で腕を組み、ため息をついた。そして、ためらいもなく罵倒の言葉を口にする。

「あんた、いい加減にしなよ。あたしらだけならまだしも、さつきのことバカにするのも大概にして。そろそろ現実を見なよ。あんたはもう、一人なんだから」

 反論する気にもなれなかった。

 芽衣はそれ以上言葉を重ねず、何の未練もなく歩き出した。仕事を終えた職人のように、これ以上やることはないと背中が語っていた。

 梅宮は音も出ないため息をつき、足元に視線を落とす。

 自分が一人になったことくらい、とうに実感している。だが、改めて言葉にされると、心にくるものがあった。最近はあんなこと(・・・・・)もあったし、幽霊とも出会った。梅宮は、自らの人生がゆっくりと落下しているのを認識させられた。———ひとりぼっちじゃない。稲葉の言葉が、頭の中で迷子になっている。


 芽衣との涙ぐましい再会を済ませた後、梅宮は彼女と出会った。ゆうきという、六歳の少女に。

 芽衣から受けたダメージは、思いのほか大きかった。相手の口にした言葉が正しいというのが、反論すらできない悔しさに変換される。横暴な上司に叱られた方がマシだった。だからこそ、その後で少女に出会えたのが大きかった。受けたダメージを、ほんの少しでも癒してくれたからだ。

 梅宮が自宅付近のコンビニで買い物を済ませ、店の外へ出たところだった。喫煙所で煙草を吸う男が目に入り、禁煙期間のツラさを味わう。禁煙すると心に誓ったものの、この苦痛だけはどうしようもなかった。仕方なく、ポケットからライターを取り出す。煙草を持ち歩かない代わりに、ライターをお守りにしていた。

 駐車場には数台の車が停まっており、普段と変わらぬ景色が目に入る。だが、一点だけ、気になるものが目に入った。一人の少女が、ふらふらと歩いていたことだ。親を待っているのか、出入り口付近をうろついている。梅宮は脳内で煙草を吸いながら、横目で少女を眺めていた。なんとなく、気になったからだ。店内に親らしき人物はいただろうか。スーツを着た男がいたことは覚えているが、主婦らしき女性の姿を見た覚えがない。迷子でなければよいのだが。

 コンビニのドアが開き、中からスーツ姿の男が出てくる。———あっ。

 梅宮が声を出す間もなく、出入り口の前で立ち止まっていた少女がドアとぶつかり、尻餅をつくようにして転んだ。男は少女の方へ視線を落とし、一言もかけることなく歩いていってしまう。梅宮は注意しようかと迷いながら、ポケットのライターを握りしめた。男は車に乗り込み、携帯電話を手にしている。フロントガラス越しに睨んでも、梅宮に気づいていない様子だった。

 仕方なく、梅宮は少女に声を掛けることにした。すでに立ち上がり、お尻の砂を払っている。どうやら、大した衝撃ではなかったようだ。泣き出しもせず、立派に我慢していた。

「大丈夫?」

 少女は、梅宮の顔を見つめたまま動かなかった。数秒経ってから、無言のまま頷く。

「誰かを待ってるの?」

 店内を覗き込みながら尋ねる。あまりしつこく話し掛けると、別の意味で問題が発生してしまう。監視カメラにもバッチリ映っているはずだ。ピースでもしておこうか。

「じいじを探してるの」

 初めて少女が口を開いた。たどたどしい年相応の喋り方が可愛らしく、思わず頬が持ち上がってしまう。

「じいじか。お店の中にいる?」

「ううん。いないみたい」

 確かに、それらしい客はいなかったように思える。もしかすると店員なのかと想像しながら確認しても、レジには女性しかいない。夕方になると、白髪の老人がレジにいることもあるのだが、いまは出勤していないようだ。

「一緒にお出掛けしてたんだよね?」

 屈伸するようにして、少女と顔の高さを合わせる。ゴミ箱よりも視線が低くなり、急に世界が強大なものに感じられた。子供たちは、こんな世界で戦っているのか。

「ううん。いなくなったの。ゆうき一人」

「いなくなった?」

 ゆうきと名乗る少女は、困ったように俯いている。

 これ以上ここにいることが危険に感じてきた。いまのところ買い物客がやってくることはなさそうだが、いつきてもおかしくはない。もっとまともな服装をしていればよかっただろうかと後悔する。後の祭り———とは少し違う気もする。

 梅宮が周囲を見渡していると、少女は一人で歩き出した。コンビニの駐車場を突っ切るように、店から離れていってしまう。目的地もわからないが、心配で放っておくこともできない。ただ、追い掛けることもためらわれる。

「あああ・・・」

 マヌケに口を開きながら、梅宮は思考する。自分のすべきことは何か。どの判断が、最も正解に近いだろうか。

 五秒後、梅宮は携帯電話を取り出していた。


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「その子の名前は?」

「ゆうき、だよね?」

 梅宮の隣で、少女が頷く。梅宮を真直ぐ見つめながら、不思議そうに。

「ゆき?」

「ゆうき」

 少女をチラリと確認しながら、さつきに向かって丁寧に名前を伝える。さつきは考えるように黙り、少女の目の前に置かれたコップを凝視している。

「あ、飲んでいいんだよ。オレンジジュース、飲める?」

「うん」

 見上げるように梅宮と顔を合わせてから、少女がコップに手を伸ばす。迷いなくジュースを飲み始め、一気に半分がなくなった。睡眠薬や毒を盛られているという発想はないようだ。先入観や思い込みのない子供時代に戻りたい。———もちろん、そんなものを混ぜてはいないが。

「迷子、ってことになるよね。誘拐じゃない?」

 何がおかしいのか、さつきが表情をコロコロ変えながら言う。にやつくのを堪え切れない様子でもある。

「だよな。警察にも連絡しようかと思ったんだけど、この子がどんどん歩いてっちゃうし。無理やり引き止めるのもダメだし」

「近くにおじいさんがいたなら、いなくなって心配してるでしょうね。近くにいたらの話だけど」

 少女の方を見ながら、さつきが一瞬だけ真剣な顔を見せた。少女は何も気づかぬ様子で、部屋の中を見渡している。さつきの部屋は整頓されているものの、やや殺風景でもある。梅宮自身は好きな部屋だが、女性にこんな部屋で過ごして欲しくない。

 また、さつきの言う通りで、梅宮は自分の行動に自信を持っていない。わざわざこんなところに連れてこなくても、コンビニの側で一緒に待ってあげていればよかったのだ。だが、一人きりでそれをする勇気がなかった。そこでさつきに連絡したわけだが、彼女はひきこもりだ。必然的に、この部屋へやってくることとなった。

「そういえば、いくつ?」

 梅宮が尋ねると、少女は右の掌を大きく開いた。その直後に、忘れていたかのように左手の人差し指を立てる。六歳という意味か。おそらく、最近誕生日を迎えたのではないか。

「じいじとは、どこではぐれたの?」

 少女は梅宮を見つめながら、困ったように首を傾げる。

「じいじは、どこに行ったんだって?」

 さつきの言葉にも反応することなく、少女は無視するように俯いた。男の梅宮よりもさつきを怖がるというのは、どういうことだろう。さつきはそれほど気にする様子もなく、僅かに微笑みながら頷いている。

「なぁ、これくらいの年頃の子って、何が好きなんだろう」

 さつきに顔を寄せて尋ねた。

「いくつって? 五歳?」

「六歳だよ。大した差はないと思うけど」

 梅宮が横目で確認すると、少女は両膝を抱えて俯いたままだった。

「ウルトラマンとか? 最近だと妖怪ウォッチかな」

「いや、少なくともウルトラマンはないだろ。女の子なんだぞ。テレビもないしなぁ、この部屋に人形なんてあるはずもないし」

 梅宮がさつきに視線を送ると、そこには無表情の顔があった。それでも、一瞬でそれは取り払われた。

「大丈夫か?」

「うん。———たぶん、わたしは嫌われちゃってる。二人で話した方がいいかもね」

 残念そうにさつきが笑い、目の前のコップに手を伸ばす。あとは二人でどうぞ、と言われているようだった。さつきの興味を引けなかったのだろうか。仕方なく、梅宮は少女の隣で向かい合う。

「おうちはどこにあるかわかる? この近くかな」

「わかんない」

「お名前は? 名字はなんていうの?」

「たばた」

 田畑、だろうか。市役所へ行けば、何か情報をもらえるものと思いたい。個人情報云々と言われる気がして、決して気持ちは楽にならないが。

 二人で話している最中、さつきが何も言わずに部屋から出ていった。気を遣ったのか、トイレだろう。

「今日は何をしていたの?」

「おでかけしてたの。でもここにいた」

 少女が無邪気な様子で答える。嘘をついているわけではないのだろうが、支離滅裂で理解できない。ここにいたとは、何を意味しているのか。———誘拐? いや、それはいまの状況をさすに違いない。

「お母さんの名前はわかる?」

「いないよ」

「お母さんいないの?」

「うん」

「それじゃ、じいじの名前は?」

「のりおじいじだよ」

 少女はコップに両手を伸ばし、残る半分を飲み干した。感情の読み取れない顔をして、コップを掴んだまま真直ぐ一点を見つめている。

 梅宮は困り果ててしまった。さつきの家へ連れてきたのはよいものの、何の手掛かりも得られない。これなら、さつきの言うように連れてこなかった方がよかった。余計な善意が働いたせいで、状況を悪くしているとしか思えなかった。さらに運の悪いことに、今日はトキ婆が出掛けているのだ。年長者のアドバイスももらえない。

 少女の横顔を眺めながら、どうすべきか模索しているところだった。部屋の扉が開き、さつきが顔だけをのぞかせる。

「大丈夫?」

「何がだよ。問題はないけど」

 安心したように顔をほころばせ、さつきが部屋の中へ入ってくる。特に何かを持っているわけでもなく———と思いきや、体の後ろに何かを隠している。床に腰を下ろしながら、少女のコップの側へそれを置いた。ピンク色の、うさぎのぬいぐるみだった。家のどこかから探してきてくれたのか。

「お姉ちゃんが、くれるって」

 梅宮が話し掛けると、少女は困ったように視線を揺らす。ぬいぐるみを見て、梅宮を見て。口を開かず、拒否するように首を振った。

「どんまい」

「拒否された?」

 さつきも、苦笑いしかできないようだった。渇いた笑いを響かせ、諦めたように言う。

「芽衣に連絡しなよ。お父さん、刑事さんじゃん」

 その言葉を、待ってなどいなかった。頭の片隅に芽衣の存在が浮かびつつ、どうにかしてそれを避けようとしていたというのに。

「それなら、直接交番に行く方がマシだなぁ」

「ダメ。ちゃんと芽衣を経由したほうがいい。犯罪者扱いされたいの?」

 本気で話しているのか、さつきの顔に冗談の色はない。だが、まるで変質者を見るような目をしているのはどういうことだ。———ここは、おとなしく従うべきなのか?

「気が重いです、ワタクシは非常に」

「わがまま言わないの。背に腹は代えられないってやつだよ。・・たぶん、芽衣に会えば一発で解決できるから」

 さつきからは犯罪者扱いされ、少女の言葉は理解できない。こんなにも最悪の状況なのに、さらに不幸を上塗りしなければならないとは。先日は幽霊と出くわすし、梅宮は自分の不運を呪うしかなかった。


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 待ち合わせのコンビニは、さつきの家から歩いて十分ほどの距離にあった。梅宮が少女と出会ったコンビニでも距離的には問題なかったのだが、さすがに、同じ場所でこれ以上目立つことはしたくない。芽衣に連絡して、わざわざ別方向のコンビニを待ち合わせ場所にしてもらった。

 少女と隣り合って、店の外の柵に腰掛ける。少女は、背中を預ける形だった。さつきの家を出てからというもの、少女の顔に余裕が出てきた。まるで冒険をしているかのような様子で、気楽に過ごしているように見える。それほどまで、さつきのことが嫌いだったのか。外見も口調も、さつきは優しい部類に入ると思うのだが。どちらかといえば、これから出会う芽衣の方が、好き嫌いが別れるはずだ。身長は百七十センチを越え、重度のヘビースモーカーでもある。とても、女性らしい魅力は感じられない。少なくとも、梅宮からすれば。

「お腹空いてない? 大丈夫?」

 少女は視線を上げることなく、こくりと頷いた。昼の十二時四十分。梅宮の方が、空腹に耐え切れなくなっていた。芽衣がくる前に、コンビニで何か買っておこうか。

 そんなことを考えているうちに、梅宮の視界に彼女が入り込んできた。パーカーとジーパン、ヒールなどぶら下げていないブーツを履いている。普段通りの芽衣だった。

「よう、また会ったな」

「あんたに呼ばれたから来たんだけど」

 本当に好きで吸っているのか疑ってしまうほど、芽衣は不味そうな顔で煙草を吸う。もしかすると、梅宮と顔を合わせてから不味くなったのかもしれない。調味料の分量を間違えたようなものだ。

「で、女の子を拾ったって?」

「この子。田畑ゆうきちゃんっていうんだ」

 梅宮の後ろに隠れるような格好で、少女は芽衣を見上げている。叱られることに怯えるように、梅宮の右脚にしがみつきそうな勢いだった。初対面で、芽衣の凶暴性を見抜いたのかもしれない。

「また、そういうこと言うんだ」

「なにが?」

「いい加減にしてくれないかな、あたしも暇じゃないわけだし。色々あって辛いのはわかる、理解できる。でも、これ以上あたしらをバカにしないで」

 芽衣が何を言っているのか、梅宮は全く理解できなかった。それでも、芽衣の様子を見ていれば、何か異常が発生していることは察知できる。本能が警報を鳴らしている。

「誘拐じゃないって。たぶん迷子だ」

「だから、それをやめろって言ってんの」

 芽衣の殺意が高まっている。本当に、そのうち殴り殺されそうな予感がする。素手で撲殺される自信があるほど。いったい何が、彼女の怒りを助長しているというのか。梅宮が背中越しに少女を見下ろすと、彼女も怯えたように顔を上げてくる。芽衣の気迫に怯えているに違いない。

「俺が何かしたか? この子、おじいさんとはぐれちゃったみたいでさ。会わせてあげたいだけなんだけど」

「———じゃない」

「え?」

「そんなとこに、誰もいないじゃない!」

 芽衣が爆発したように叫ぶ。勢いだけで、小動物なら死んでしまうだろう。

「いないって・・。いるよね?」

 再度、少女の姿を見下ろす。彼女はここにいる。確かにいるのだ。それに、少女だって不思議そうに見上げてきているではないか。

「あたしには、なんにも見えないけどね」

 芽衣が泣き出しそうな顔で叫ぶ。怒りを通り越して、涙に切り替わったのだろうか。

 だが、梅宮は芽衣を慰めている暇などなかった。芽衣は、見えないと言った。梅宮のすぐ側にいる少女を、見えないと言ったのだ。これは、どこかで経験したことのある状況ではないか。

「そういうパターン?」

「あんたの頭がおかしいってだけ」

「本当に、この子が見えないのか?」

 梅宮が尋ね終わる前に、芽衣が首を振って否定していた。梅宮を刺し殺しそうな表情で。梅宮は、ため息を隠そうとも思わなかった。

 ——なるほど、そういうパターンね。

 梅宮は再び、幽霊と出会っていた。

 

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 とぼとぼと歩く。それが、いまの二人を表すのに最適な言葉だ。

 結局、芽衣は思いつくだけの罵詈雑言を浴びせ、去っていった。その中には梅宮が忘れようとしていたことや、聞かされたくないことも含まれており、言い返す気力も沸かなかった。最後には目に涙を浮かべ、「かんべんしてよ」とともに芽衣は消えた。

「ねぇ、ゆうきちゃんは自分のいまの状態、わかってる?」

 彼女のペースに合わせて歩くのは面倒だったが、手を繋いでいる以上は仕方がない。ただ、正直、手を繋ぎたくはなかった。他人からすれば、エア手繋ぎ(・・・・・)をしているイタいやつにしか見えない。妄想の中で彼女と手を繋いでいるように映るはずだ。———少女から手を繋がれた以上、それを拒むことはできなかったが。

「ゆうきはね、じいじを探してるんだよ」

「うん、そうだよね」

 ——わかってないんだよね。

 少女は、自分が死んでしまっていることを理解していない。おそらく、気づいてすらいないのではないか。だからこそ、芽衣が彼女を見えないと言っているのも理解できないだろうし、こんなにも自然でいられる。

「あれ・・?」

 不思議そうに見上げてくる少女に微笑みながら、梅宮はたったいま気づいたポイントに頭を切り替える。

 さつきには、この少女が見えていたのだろうか。

 先程、さつきの部屋を訪れたときの様子を思い出す。あのときは、梅宮自身、少女が幽霊だとは思わなかった。ただの迷子を連れていったつもりだったのだ。だからこそ、さつきの態度に疑問を抱くことはなかった。

 だが、少女が幽霊だとわかったいま、話は違ってくる。さつきにも幽霊が見えているならば問題はない。その一方で、見えていないとすれば、さつきの言動に疑問も生まれる。彼女の様子を振り返ってみる。———そういうことか。

 ようやく、いくつかの疑問を解決することができた。

「もう一回、教えてくれるかな。最近何があったのかを」

 隣を歩く少女に声を掛ける。できる限り、深みを持たせないように心掛けて。

「じいじとお買いものしてたの。じいじがいなくて、ゆうきが探してたの」

「お店の名前はわかる?」

「スーパーだよ」

「この近く?」

「わかんない」

 進展があったと思ったらこれだ。結局、説明を求めるには、少女は幼すぎる。誰か別の、客観的に理解している者から情報を得る必要がある。

「最後に覚えているのは、どんなところ? お店を出て、駐車場を歩いてたとか」

「お店でて、じいじ探して、いっぱい歩いてたの」

 だからなんだという顔で見られると、梅宮は誤魔化すように微笑むことしかできなかった。漠然としすぎている。場所も、時間もわからない。少女が亡くなった理由の手掛かりすら見つからない。

 以前に出会った稲葉のように、この少女も何か思い残したことがあり、この世にしがみついているのだろうか。だとしても、本人にその意識はないはずだ。死んでいることすら自覚していないのだから。つまり、彼女がいま望んでいること、それこそが成仏できなかった理由に思えて仕方がない。

「じいじに会えたら、何したい?」

「んーとね、遊んであげるの」

 ——遊んでもらうではないのか。

「じいじ、危ないから」

「見ててあげないと心配?」

 少女は大きく頷き、幼い笑顔を見せる。子供らしい優しさが垣間見え、梅宮も顔がにやけてしまう。一瞬だけ、親になったような気分だった。だが、梅宮は子供が欲しいとは思わない。別れを考えると、楽観的に欲しいとは思えないのだ。

 少女と並んで歩きながら、自分はどこへ行けばいいのかと模索する。

 他人からは見えない以上、どこへ連れて行っても問題はない。現実の、法律上では。例えば、梅宮の自宅へ連れて帰っても構わないのだ。そこでご飯を食べさせてやることも、ぐっすりと寝かせてやることも。だが、梅宮の良心がそれを拒否していた。独りよがりな、偽善者のような罪悪感だった。

 少女のことが見えておらず、芽衣は梅宮を毛嫌いしている。他に頼りになる人物となると、梅宮には一人しか思い当たらなかった。最後の砦ともいえる、唯一の男友達だ。彼を頼らなかったのは、ひとえに、過去の出来事が原因だった。が、いまはそんなことを気にしている余裕すらない。

「いまから、ちょっと遊びに行こうか」

「どこに?」

「俺の友達のとこ。じいじも見つけられるかも」

「ほんと?」

 目を輝かせ、少女が何度も頷いている。

 もしかすると、いまの梅宮は、世間で話題になる変質者と同じことをしているのかもしれない。こうして、汚れ無き少女を誘拐していくわけだ。梅宮の場合、対象が幽霊であるという点で、珍しさだけは誇れるかもしれない。

「助けてもらいにいこう」


「それで、そこにいるの? 女の子が」

「やっぱ見えない?」

「見えないよ、ムリムリ」

 笑いながら、藤原槙仁(ふじはらまきひと)は顔の前で右掌をヒラヒラとさせる。当たり前じゃないか、という様子で。

「でも、別に疑うつもりもないよ。友達もやめないから大丈夫」

「・・そう言ってくれるのはお前だけだよ。もっと早く相談すべきだった」

「ホントにね。どうしてこなかったの?」

 槙仁の問いには答えられなかった。おそらく、槙仁自身も答えを理解している。それ以上深追いしてこなかったのがその証拠だ。

「さつきはどうなの? 家から出ない?」

「うん。相変わらずのひきこもり」

「まぁ、仕方ないね。・・その方がいいかなって思わないでもないし」

 二人の間に、僅かな静けさが広まった。だが、それも槙仁の声が吹き飛ばす。

「さて、そのゆうきちゃんが亡く・・、困っている件だけれど、おじいさんを探しているわけだよね?」

「・・そう。たぶん、おじいさんを見つけてあげることが最優先だ」

 男二人が、すぐ側にいる少女に気を遣っている。彼女が亡くなっていることを悟らせないためだ。当の本人は、槙仁の部屋を興味深そうに眺めているだけだった。さつきの部屋よりは彩りが華やかだ。外車のポスターが貼ってあり、幾分か人間らしい部屋といえる。

「フルネームはわかってる?」

「あぁ。田畑ゆうき」

「なんだ、簡単だよ」

 そう言うと、槙仁がデスク上のパソコンに手を伸ばした。デスクトップを立ち上げる僅かな時間で、梅宮にも彼の意図が読み取れた。なぜそれを思いつかなかったのか、不思議に感じてしまう。

「ニュースになっているかもしれないしさ」

「だな。事件に巻き込まれたなら、名前で引っ掛かるか」

 気づかなかった照れくささを誤魔化しながら、床に座ったままの少女を観察する。六歳だとは信じられないほど、少女はおとなしく座っている。見た目の幼さとその落ち着きが、全くもってマッチしない。違和感しかなかった。

「田畑ゆうき、田畑ゆうき・・」

 呪文のように唱えながら、槙仁がキーボードを叩く。その僅か二十秒後には、求めていた答えが現れた。

「これは・・、事故か?」

「みたいだね。轢き逃げだ。だから本人も覚えてないってことだね」

「轢かれたことすら気づけなかったのか」

 インターネット上のニュースサイトには、六歳の『田畑優希』という少女が轢き逃げに遭ったことが載っていた。四月十六日———つまり昨日の、午後二時半頃に起きた事故のようだ。スーパーから歩いて十分以上離れた住宅街の中で、地面に倒れている少女が発見された。周囲の様子から、それが轢き逃げだと判断されたと載っている。

 梅宮は無言のまま、少女の姿を眺める。躾の行き届いている少女は、首を三十度以上傾けてたまま、ようやく、「どうしたの?」とだけ口にした。梅宮は笑って誤魔化すしかなかった。

「おじいさんの名前は?」

「のりおさん」

「田畑のりお・・」

 再び、槙仁がインターネットを検索し出す。いくつかのサイトを渡り歩いても、求める答えは現れなかった。事故の被害者である少女はともかく、その遺族までがニュースになっているとは限らない。二人で顔を見合わせ、諦めることにした。

「あのさ、ちょっとでも、最後の景色を覚えてない?」

 梅宮が彼女の側へ座り込み、向かい合う形で尋ねる。そこに少女がいることを、槙仁も理解できたはず。梅宮の姿に、彼女の様子を投影させたようなものだ。

「うーん、歩いてたとこ」

「スーパーの近く?」

「うーん」

 考え込むように俯き、次第に泣き出しそうになってしまった。慌てて少女の頭を撫で、気にしないように促す。少女は諦めたのか、つまらなさそうにふてくされてしまった。

「どうすればいい?」

「ごめん、ボクには何が起きているのか」

「あぁ・・」

 槙仁の苦笑いを見て、彼には会話が聞こえていないことを思い出した。少女がスーパーを出て、道路を歩いていたことを伝えると、槙仁も納得したように頷いた。

「きっと、スーパーを出た直後に起きたんだと思う。子供が歩いていける距離なんて、大したことないはずだから。事件現場の辺りを調べれば、それらしいスーパーも見つかるんじゃないかな」

 梅宮も、槙仁の意見には同感だった。少女が轢かれた現場は、梅宮の家から車で十五分ほど走った距離にある。そこで亡くなった少女が、なぜ梅宮の自宅付近に現れたのか。そこまでずっと歩いてきたのか。尋ねてみたい気持ちはあったが、また少女を困らせることが想像でき、諦めて我慢することにした。

「ありがとな、こんな話に付き合ってくれて」

「他には、誰に相談した?」

「さつきと、芽衣」

 槙仁が、心底可笑しそうに笑う。その理由がわかってしまう梅宮も、恥ずかしさで笑うしかなかった。

「芽衣、すっごい怒ってたでしょう?」

「うん、マジギレ」

 いまでも、脳裏に彼女の表情が残っている。どんなホラー映画よりも恐ろしいものだ。

「さつきは、どんな反応をするの?」

「それが、わからない。・・よくわからん」

 本当に、さつきの気持ちを理解することはできなかった。さつきには、少女の姿は見えていなかったはずなのだ。

「とにかく、今度からはボクにもどんどん相談してよ。あの日のことは気にしなくていいから」

「・・助かる」

 槙仁が受け入れてくれた。それだけでも、この数時間が意味を持つものとなった。少女を助けたいという感情よりも、自分の問題が一つ解決したことに対する安堵の方が大きく感じられるほど。

「なぁ、槙仁」

「ん?」

「・・芽衣のどこがいいんだ?」

 そう尋ねると、槙仁が落ち着いた口ぶりで答える。

「存在自体が好きなんだ。まるで烈火だろう? 感情的に、正しいと信じたことを突き通す。あんなに自分勝手な人はいないよ」

「そう感じるお前が珍しいんだよ」

「そうかなぁ。世界一素敵だと思うんだけど」

 昔から、槙仁は芽衣のことが好きだった。その気持ちは、高校生の頃から一秒たりとも揺らいでいないはず。にも関わらず、こんなにも素晴らしい男から告白されても、芽衣は受け入れなかった。「ごめん、タイプじゃない」その一言だけだったらしい。確かに芽衣らしいが、それを懐かしむように話す槙仁も異常だ。「ね、かっこいいでしょう?」だなど、どんな感情で口にできたのか。

「芽衣が怒るようなこと、どんどんしていいんだよ。迷う必要なんてないから、彼女に伝えていいんだよ」

 槙仁が達観した表情で言う。梅宮は、とても彼の境地には達せそうもない。

「もう、アイツに睨まれるのはご免だよ」

「芽衣って、人を睨んでるときが一番綺麗じゃない? 学問の美しさに近いよね」

「なに言ってんのかわかんねぇって」

 時折、槙仁はただのドMなのではないかと疑ってしまう。芽衣のことを好きになる時点で、偏差値が高すぎる。さらに、好きになる理由まで理解できない。二人とも、突然変異のような存在だった。

「まぁいいや。話を戻すと、ゆうきちゃんが亡くなった辺りへ向かうべきだね。何か進展があるとするなら、そこ以外思いつかない」

「だな。サンキュー」

 梅宮は事故の現場へ向かうことにした。少女を連れて行くべきか、それだけは決心がつかないまま。迷いながら少女を見つめていると、彼女は恥ずかしそうに俯く。まるで恋する乙女のような仕草に、一瞬だけ心が揺れる。犯罪者になる前に、慌てて芽衣の顔を思い出した。———どんな刺激物よりも効果覿面だった。

「行こうか」

「どこに?」

「スーパー」

「お買いもの!」

 少女は勘違いしているが、別に構わないのではないか。少女が立ち上がる様子を眺めながら、槙仁に視線を送る。状況を把握できていない様子だが、槙仁の顔に不快さはない。それが、彼の魅力なのだ。

「助かった。また連絡するかも」

「いつでもウェルカムだよ。芽衣にもよろしく」

 梅宮は必死に笑顔で首をふる。二人きりで、楽しい世界を生きて欲しいものだ。

 少女を促して歩き出す。槙仁の部屋を出ようとすると、背後から彼の声が届いた。

「拓也はさ、後悔してるの?」

「なんのことだ」

「さつきと・・、あの(・・・)のこと」

「後悔なんて・・」

 それ以上、言葉にするのはやめた。槙仁に手を振り、さっさと退散することにする。買い物を楽しみにしている少女を待たせないためにも、笑顔でこの場を離れる必要がある。

 槙仁は、それ以上口を開かなかった。玄関を見送るときでさえ、何も言わないでいてくれた。彼のそういうところが、唯一信頼できる男友達である証だった。梅宮は、槙仁以外の男を信用することができない。———同年代では特に。

「おっかいっものー!」

 少女が勝手に歩き出す。迷いなく、後悔もなさそうに見える。だが、彼女にも何か未練があるからこそ、この世にしがみついているはずだ。

「後悔ね・・」

 槙仁からの問いには、迷わずに答えることができる。———後悔してるに決まっているじゃないか。


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 その場所は、唐突に現れた。いや、梅宮にとっては、気がついたらそこにいた、かもしれない。

 少女が轢き逃げに遭ったとされる辺りへ辿り着き、何か手掛かりがあればよいと思っていた。少女の記憶が戻るかもしれない、誰か目撃者と出会うことができるかもしれない。そんな、淡い期待を抱いていただけだった。だが、実際には、それ以上の成果があった。少女が、そこを特別な場所だと認識したのだ。

 インターネットで調べた事故現場———いまでもまだ花束や菓子などが置かれていたのだが、二人はそこへ辿り着いた。その直前まで、少女は何も気づいてなどいなかった。梅宮の隣を楽しげに歩き、アレを食べたいコレも欲しいなどと口にしていただけ。梅宮も、そんな少女を可愛らしく感じていただけ。

 だが、角を曲がった途端、少女が梅宮の視界から消えた。すぐに、少女が立ち止まったことに気づいた。

「どうしたの?」

 そう口にしながら、梅宮も理解した。いま自分たちのいる場所が、少女の死に場所なのだということを。

「大丈夫?」

 立ちどまり、ピクリとも動かない少女に話し掛ける。少女は無言のまま、一点を見つめている。もしかすると、意識がなくなっているのではないか、そう不安になるほど。以前の、稲葉が成仏する寸前の様子に近かったからだ。だが、少女が呼吸をしていることはわかったし、瞬きもしていた。ホッと安心しながら、少女のすぐ側に屈む。

「あそこ・・」

「ん?」

 少女の指差した方向へ顔を向ける。花束などが置かれているガードレールが視界に入る。

「あそこ、知ってる」

「何か思い出した?」

 梅宮の問いに、少女は眉間にシワを寄せて唸る。思い出せそうで思い出せない、そんな様子を読み取れた。

「なんでかな・・」

「きっと、ゆうきちゃんはあそこにいたんだろうね」

「そうなの?」

「うん、たぶんそうだよ」

 少女が驚いた目を向けてくる。どうしてわかるのだろう、という顔で。あの場所で亡くなったことを教えてあげるのは、彼女のためになるのか。大人として、少女を正しい方へ導いてやりたい。それでも、いまはまだ言えない。

「あそこで何をしてたの?」

「俺もわかんないんだよね。ゆうきちゃん、何してたんだろうね」

 そればっかりは、彼女に思い出してもらうしかない。そして、轢き逃げに遭ったときの状況も。

「ここまで、一人で歩いてきた?」

「知らない」

「じいじとは一緒じゃなかったんだもんね」

「うん、じいじを探してたの」

 少女は祖父を捜して、ここまで一人で歩いてきた。彼女の脚なら、スーパーから十五分はかかったはず。六歳の少女が、一人で歩いてこられるものだろうか。周りの者が、彼女を覚えていても不思議ではない。

「あっ! お菓子!」

 少女が、ガードレールの足元に置かれた菓子類を目掛けて走り出す。梅宮が止める前に、そこへ辿り着いていたほどの勢いだった。だが、そもそも彼女を止める理由もないことに気づいた。

 それでも、容易に想像できてしまった。

 彼女は、こうして道路へ飛び出したのではないか。その結果、車に轢かれてしまったように思えて仕方がない。———もっとも、轢き逃げをした犯人が悪いに決まっているのだが。

「好きなお菓子あった?」

「うん! 好きなのばっか!」

 心から喜ぶ様子で、少女はどれを食べようか悩んでいる。両手で菓子の箱を掴み、逡巡するように唸っている。微笑ましいが、周囲に歩行者がいなくてよかった。ひとりでに宙に浮く菓子類を見れば、その人物が次の事故の被害者になりかねない。

「ぽっきーぽっきー」

 少女が、歌うような声で箱を開ける。

 落ちているものを食べちゃいけない、人のものを勝手に食べちゃいけない。そんな言葉が出掛かったが、どちらもナンセンスだった。供えられているものは少女へ捧げられたものだ。それに、彼女は幽霊だ。腹を壊して死ぬこともないだろう。箱に入ったままだし、衛生的にも問題がないはず。無用な心配に自嘲してしまう。

 少女が菓子に夢中になっているうちに、梅宮は周囲を観察することにした。大通りというわけではない。団地の中の一角にすぎない道路は、車の交通量もそれほど多くはないはず。近所の住人が出掛けてこない限り、誰かと出会うこともなさそうだ。轢き逃げ事件が起きてしまっても、すぐに警察に連絡がいくことはなかったのだろう。それも不思議ではない。

 梅宮は振り返り、少女の様子を眺める。地面にかがみ込む姿勢で菓子をむさぼり、体をルンルンと揺すっている。これだけを見れば、そこら辺にいる子供と何ら変わりはないのだ。ただし、梅宮以外の者には、普通の少女には見えない。普通でない少女にすら見えないのだ。

「あのさ、またお姉ちゃんち行ってみようか」

「お姉ちゃん?」

「ほら、最初に行ったでしょう、ぬいぐるみをくれたお姉ちゃん」

 少女の表情に、困ったような色が浮かぶ。何かに怯えているのに近い、できれば行きたくないという気持ちが伝わってくる。

「いや?」

 少女は俯いたまま口を開かない。ここで見た情報も、さつきに伝えようと思ったのだが。探偵としての彼女に頼るつもりだった。

 だが、その前に確認したいこともある。

「おいで」

 手を差し出すと、少女が諦めた様子で立ち上がる。ちゃっかりと、両手で大量の菓子を掴みながら。

 梅宮は手招きをしながら、側にきた少女から菓子を受け取る。食べたかったのではなく、梅宮が持つことに意味があった。その必要があるのだ。少女は残念そうに視線を送ってくるが、安心させるように微笑んでおいた。別に、奪って食べたいわけではない。

「ゆうきちゃん、教えて欲しいことがあるんだ」

「なに?」

「じいじの名前を、もう一回言ってみて」

「のりおじいじだよ」

「名字はわかる? 田畑のりおさん?」

「わかんない」

 少女が戸惑うように首を傾げる。

「じいじのおうちに、何か書いてない? 『田畑』みたいな」

 やはり、少女は答えられない様子。考えてみれば、漢字を読む方が困難か。見ていたとしても、名字を読めたとは思えない。他に、祖父の名字を知る術はないか。———あ。

「いとこの子、名前わかる?」

「ゆうとくん! ながおかゆうとくん!」

「長岡?」

「うん、ながおか!」

 余程仲がよいのか、思い出しただけでも楽しそうな様子だ。『長岡のりお』これで調べてみる価値はある。

 梅宮は、携帯電話を取り出す。掛ける相手は一人しかいない。梅宮の周囲を少女がソワソワと動いている。それを微笑ましく感じていると、突然、右手で掴んだ携帯電話が振動した。画面に表示された名前を見た瞬間、梅宮は通話ボタンを押していた。

「はい」

『おっまたー。色々わかっちゃったよ』

「早いな。こっちも少しは進展したぞ」

『お、やるじゃん』

「先に聞こうか。そっちはどうだった?」

『んふふー。悪い知らせと、悪い知らせ。どっちからがいい?』

 おそらく、心境と口調をあえてずらしている。彼女としても、それなりにショックだったのだろう。さつきはそれを隠そうとしている。

「どっちでもいい。できるだけ柔らかく教えてくれ」

『贅沢だなぁ。———ゆうきちゃんのおじいさん、亡くなってるよ』

 梅宮の耳元で、息を呑む音が聞こえる。それが自分のものであると気づくのに、僅かな時間を要した。すぐ側にいる少女を横目で見る。菓子箱を物欲しそうに見つめている少女が、不気味なほどミスマッチだった。


                         6


 さて、ここからが問題だ。

 梅宮は、少女の祖父———長岡紀夫(ながおかのりお)の存在を突き止めることに成功した。もっとも、調べ上げたのはさつきなのだが。その結果、予想していない答えに辿り着き、どうすべきかわからなくなってしまった。少女に伝えるには、あまりに残酷すぎる。そして———、彼女が理解できるかが問題でもある。

 長岡紀夫は、すでに亡くなっていたのだ。それも、交通事故によって。さらにつけ加えるなら、少女が亡くなったのと同じ日の、近い時間に。紀夫が事故で亡くなったのは午後三時頃らしい。そして、少女が轢き逃げに遭った時間は午後二時半頃。これは、偶然で済まされるのか。二人の亡くなった場所は別々だが、その間に関係性はないと言い切って問題はないのか。その疑問に結論を出すのが、梅宮の当面の課題となった。

「なぁ、おじいさんは一人で亡くなったのか?」

「たぶんね。普通車を運転していて、壁に衝突したみたいなの。その近くに何かとぶつかった跡とか、他の車の破片とかもなかったらしいから、一人で勝手に、ってことじゃないかな」

 さつきの部屋で、彼女と向かい合って話す。少女は、梅宮の家に寝かせてきた。午後十時過ぎ、一階にいるトキ婆も眠っているはず。

「何かおかしな点はなかったのか? アルコールが検出されたとか、病気だったとか」

「たぶん違う。七十二歳だし、運転を誤ったってことじゃないかな」

 さつきは僅かに迷う様子で、「ただ・・」と口にする。

「おじいさん、病気だったみたい。いや、違うかな。病気ではないのかもしれない。———認知症だったみたいなの」

 なるほど、と梅宮も思う。それを病気と呼ぶのかどうか、そんなことは本質とは関係がない。ただ、紀夫が健康な状態ではなかったことだけは確かだ。

「運転中に状況を把握できなくなって、壁に衝突してしまったのかな」

「かもしれない。衝突の具合から、それなりの速度でぶつかっていったことは確かみたいだから。なんていうか、停まっていた状態から発進した程度じゃない」

「慌てていたとか、・・いや、理由をつけても仕方ないか」

 非常に残念な結果になった。誰が悪いのかと考えれば、紀夫本人になってしまうのかもしれない。だが、果たして責任を問うことに意味があるのか。自然の摂理として、受け入れるしかない面もあるはずだ。

「おじいさんが事故で亡くなってしまったのはわかった。でも、当日のゆうきちゃんとの様子はどうなんだろう」

「うん、警察も調べたみたい。だって、おじいさんが亡くなる直前に、彼女は轢き逃げに遭っているんだから。まぁ、二人が家族だとわかったのは、少し後なんだろうけど」

 警察は、何かしらの事件として捜査したに違いない。梅宮にもいくつかの可能性が思い当たるが、それでも、結局は事故として判断されている。少女は轢き逃げの被害者として、紀夫は一人で壁に衝突した事故なのだと。

「ゆうきちゃんのご家族は?」

「お父さんは健在。離婚されてて、元奥さんは九州にいるみたい。あとはおばあさん、つまりおじいさんの奥さんは五年前に他界してるから、残るはゆうきちゃんのお父さんだけね。もしかして、話を訊きにいこうとか思ってる?」

 正直、梅宮は決めかねていた。何か情報を得られるとすれば、少女の父親だけだろう。だが、それはあまりに惨いように思える。全くの赤の他人である梅宮が訊きにいく道理もなく、また、父親をどれだけ傷付けるかも容易に想像できる。そして———、いまさらそんなことをしても、何にもならないのだ。祖父に会いたいという、少女の願いが叶うことはないのだから。

 案の定、さつきからも止められた。

「やめといた方がいいよ。何の意味があるの? それに、警察を呼ばれること間違いなしだよ。轢き逃げ犯が懺悔しにきたと思われるかもね」

「まぁ、なんて言って会えばいいのかもわかんねぇしな」

「だって、ゆうきちゃんは亡くなっているんだもん。梅ちゃんには見えるのかもしれないけど、他の人からすれば異常」

 そうなのだ。もしかすると、少女と出会っていることすら、梅宮の妄想だという可能性もある。少なくとも、他人からはそう感じられるはずだ。———そういえば。

「なぁ、さつきにも見えてないんだよな? あの子のこと」

 梅宮が尋ねると、さつきが申し訳なさそうに髪をいじる。

「・・うん、見えてない。あのときも、見えてなかったよ」

 やはり、そういうことなのだ。さつきの不可解な行動も、これで納得できた。少女の好きそうなものとしてウルトラマンを挙げたのは、少女の名前を聞き、男だと思ったからだ。そして、芽衣に会えと指示したのは、彼女ならそれをズバリ指摘してくれると考えたからだ。まったくもって、厳しい道を選択させてくれたものだ。

「悪かったな。気味が悪かったろ」

「ううん、大丈夫だよ。でも、ホントにそこにいるってことはわかった。だって、コップが勝手に浮くんだもん。中身も減ってくし、あれはホラーだったなぁ。まぁ、ゆうきちゃんだってそうか」

 さつきが懐かしむように笑う。梅宮とは違うものを見ているのだから、彼女の気持ちは当然だろう。

「なんで見えるふりをしたんだ。いや、別に怒ってるわけじゃないけどさ」

「だって、梅ちゃんは信じてたでしょ? ゆうきちゃんが生身の人間だって。だからこそ、わたしのところへ連れてきたわけだし」

 その通りだった。あのときは、再び幽霊と出会ったなどとは思いもしなかった。

「だから、なんとなく言いづらくて。見えないよーなんて言ったら、梅ちゃんもビックリするだろうし、ゆうきちゃんも動揺するでしょう? それが怖くって、芽衣に任せちゃった」

 両手を顔の横で広げ、申し訳なさそうに笑う。茶色い髪の毛と真白な掌が、不自然に輝いていた。

「まぁ、いいんだけどさ。・・でも困ってる。あの子を成仏させる方法が思いつかない」

「願いは、おじいさんと会うことなんだもんね」

 本人がそう言っていた。出会ったときからずっと、少女は祖父を探している。だが、その相手はもういない。少女と同じく、亡くなってしまっている。

「・・成仏させる必要はあるのかな」

「え?」

「だから、わざわざ成仏させてあげなきゃいけないの?」

 さつきの言葉に、心臓をわしづかみされた気分だった。成仏させる必要があるのかなど、考えたこともなかった。未練があるから、この世に残ってしまっているのではないか。だとしたら、成仏するのが自然の摂理に思える。それに———。

「成仏させたいと思うのは、梅ちゃんの独りよがりじゃない? いいんだよ、悪いことじゃないとは思う。でも、ゆうきちゃんはどうなんだろう。本人が成仏したいって言ったの?」

「いや・・、そうは言ってない。おじいさんに会いたいってだけ」

「じゃあ、教えてあげるのもアリなんじゃないかな。もう、おじいさんはいないんだよって」

 急に、さつきは何を言い出すのか。彼女の言葉に反論するつもりはないが、その意図が読めない。真実を少女に伝えたとして、どうなるのだろう。梅宮の疑問を察したように、さつきが言葉を続ける。

「たぶん、どうにもならないよ。ゆうきちゃんはいつまでも幽霊のままかもしれないし、別の楽しみで満足したら成仏するのかもしれない。でも、どっちでもいいじゃない。梅ちゃんには何の責任もないんだから」

「そうだけど、なんかイヤだよ。納得できねぇ。みんな、望んで幽霊になってるわけじゃないだろ。本当は、きちんとあの世に行かなきゃいけないはずだろ」

「それは梅ちゃんの考えだよ。別の視点でも物事を見て」

 珍しく、さつきと意見が合わなかった。これまでにも何度かあったが、大抵、彼女の言うことが正しく、梅宮はそれに従ってきた。だが、今回は譲れない。梅宮にも、確信している想いがある。幽霊は、成仏させなくてはならない。稲葉のときと同様に、あるべきところへ向かわせてやらなくてはならないのだ。それが、梅宮にできる唯一の償いでもある。

「・・わかった。そこまで言うなら、あとは梅ちゃんに任せる。ゆうきちゃんのために、力を貸してあげて」

 さつきは感情を抑えた声で言った。

 何が、彼女を動かしているのか。仕方なく、梅宮はこの場を退散することにした。さつきの言うように、ここから先は自分の力でなんとかするしかない。さつきには十分助けてもらった。これ以上ワガママを言うのは図々しい。

「ありがとう。助かったよ」

「ううん、いいの。でも、忘れないで。自分の考えだけで、他人に関わっちゃいけないときもあるって」

 梅宮は無言で頷いておいた。それが、精一杯の反論だった。


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 この出会いを偶然と呼ぶのは、いささか不適切かもしれない。梅宮がその人物と出会うことは決められており、それが実現したのも不思議ではない。

 さつきと小さな衝突をした翌日、仕事帰りのことだった。時間にして午後六時半。自宅まで車を走らせており、あと十分もすれば到着するはずだった。いつものようにコンビニへ立ち寄り、夕飯を買うつもりだった。実際、買うことには成功した。そこまでは、何も問題はなかった。———その人物と出会うまでは。

『あの・・すまないが・・知らないか?』

 店内で聞こえてくる言葉に、最初は何の興味もなかった。ただの、買い物客の会話だと思っていたからだ。だが、それが間違っていると気づくことができたのは、梅宮だからだろう。梅宮だけだったに違いない。

 その声の方を確認すると、一人の老人が、立ち読みをしている若者に声を掛けていた。若者は老人に目もくれず、雑誌に夢中になっている。

 面倒な老人に絡まれたのかと同情していると、梅宮はそれに気づいてしまった。若者が、老人の存在に気づいてすらいないことに。自分の顔の真横で話し掛けられ、無視し続けることができるだろうか。さらに、腕を揺すられ、不思議そうに顔を傾げている。その様子に、梅宮は心当たりがあった。

 ———あの老人は、幽霊なのだ。そして、若者には老人の姿が見えていない。

 店から出ようとしていたのをやめ、二人へそっと近づく。話し掛けてしまえば、若者が反応するはずだ。今度こそ、梅宮を怪しむに決まっている。

 二人のそばへ近づき、老人の腕に手を伸ばす。枯れ木のような腕を軽く引くと、驚いた様子で老人が振り返った。本来ならば、「来てください」と声を掛けたかった。だがそれはできない。仕方なく、手招きだけでついてこいと合図をする。必死に、若者の視界に入らないように注意しながら。

 梅宮が先頭で店の外へ出る。老人も後ろを歩いてきているのがわかる。後ろから聞こえてくる「またお越し下さいませ〜」は、梅宮一人へ向けられたものだろう。

 自分の車の側まで歩き、老人を助手席へ案内する。辺りはすでに暗く、目立ってしまう心配もない。助手席を確認するふりをして、老人を車内へ座らせることに成功した。

「はじめまして。長岡紀夫さんですよね?」

「・・きみは?」

「梅宮と申します。田畑ゆうきちゃんをご存知ですよね?」

 梅宮の言葉に、老人が目を見開いて反応する。顔に刻まれたシワが忙しく動いている。

「あの子を知っているのか?」

「はい、偶然ですが会いました」

「どこだ! あの子はどこにいる!」

 まるで誘拐犯に迫るような気迫に、梅宮はたじろいでしまう。———確かに、誘拐しているようなものか。

「知り合いの家にいます。落ち着いてください、いまから会いに行きましょう」

「無事なのか?」

「はい。大丈夫です」

 何が大丈夫なのかわからないし、知り合いの家というのも嘘だ。それでもまずは、この老人を少女のところへ連れて行くのが最優先だ。そうすれば、何かしら大きな進展があるはずなのだから。

「行きますね。シートベルトしてください」

 なんとなく、現実世界の法律に従ってしまった。ある意味、いま職務質問された方が危ないかもしれない。助手席には透明人間が座っているわけだから。老人がおとなしく従ったのを見届けてから、梅宮はエンジンをかける。静かなエンジン音とともに、車をバックさせた。

「あの、ご自身の状況はわかっていますか?」

 自宅へ向かって大通りを進みながら、助手席の老人に尋ねる。彼は小さなため息の後、「生きているのだろうか」と呟いた。

「なぁ、わしは生きているのか? よくわからないんだ」

「・・最後の状況を覚えていますか?」

「車を運転していたはずなんだが、ハッキリとは思い出せない。よくあるんだ、頭にモヤがかかったようになる」

 やはり、事故を起こす直前の彼は、平常ではなかった。認知症の症状が出た———症状というのかわからないが、脳が正しく働いていなかったようだ。そして、その結果、彼は亡くなっている。梅宮は、言葉を選びながらそれを伝えることにした。

 老人は小さく唸り、俯いたまま動かない。梅宮には、掛けてやる言葉がなかった。

「・・あの子は無事だと言ったな」

 それにも、答えることができない。

「確か、一緒に買い物をしていたんだ。あの子に菓子でも買ってやろうと思ってな。息子は出掛けていて、わしが運転してやるしかなかった。それは覚えている」

「ゆうきちゃんが言うには、買い物の後で、あなたとはぐれてしまったそうですが」

「はぐれた・・。そうか、だからあの子がいなかったのか」

 老人が、少しずつ思い出したように納得し始めている。その調子で、少女に何が起きたのかまで思い出してくれないだろうか。

「ゆうきちゃんは一人で、スーパーから歩き出しました。あなたを探して」

「探す? なぜだ、なぜわしはあの子と一緒じゃないんだ」

 老人が、自分の行動が理解できない様子で話す。おそらく、本当にわからないはずだ。当時の自分のことなど覚えておらず、当時としても、無意識に行動していたのだから。

「それで、あの子はどうしたんだ。なぜきみはあの子を知っている」

「迷子になっているところを見つけたんです。あなたを探しているようだったので、こうしてお会いできて安心しています」

「そうか・・。それは申し訳ない。助かった」

 梅宮の言葉を信じきったように、老人が深く頭を下げてくる。そんなことしないで欲しい。梅宮の言葉も、態度も、嘘ばかりなのだから。そんな中、一つの疑問を投げ掛けてみる。

「ゆうきちゃんに会って、どうしたいんですか?」

 赤信号で停車し、助手席に顔を向ける。老人と目が合ったが、気まずそうに視線を逸らされた。

「どうすればいいのか・・。きみは、本当にわしのことが見えているのだな? これまでに会った者は、まるでわしに気づいていないようだったが」

「俺には見えています。でも、他の人からは見えないはずです」

「では、あの子からもわしは見えないのだろうな・・」

 老人が俯くと同時に、梅宮はアクセルを踏み込む。果たして、どうなのだろう。幽霊同士であれば見える、ということはないだろうか。天国へ行けた場合は、そんな都合のいいルールがあっても構わない気もする。

 あと三分もすれば、二人は出会うことになる。少なくとも、梅宮の目ではその場面を見ることができる。だが、当の本人たちを思うと、無責任に胸を撫で下ろすことなどできなかった。二人が幸せになれるかどうかは、神の采配による。

 無言のまま運転していると、助手席の老人が呟くのが聞こえた。———来たことがあるな、そう言ったようだ。梅宮が辺りを見渡すと、自宅の周囲ということもあり、毎日目にしている景色が存在するだけ。そこから、特別な何かを感じ取ることはできなかった。

 梅宮の車は、スーパーを左手に確認しながら進んでいく。


「ここに、ゆうきちゃんはいます。一人で遊んでいるはずです」

 梅宮が仕事に出ている間は、彼女を一人にしなければならなかった。そこで、少女のために、いくつかの遊び道具を買ってやった。絵本や人形、少女が欲しいと言ったもの全てだ。自分の部屋の中に物はほとんどなく、子供が過ごすには苦痛だと考えて。なぜ、こうまでして世話を焼かなければならないのか、そこは深く考えないことにしている。

 老人を連れて、玄関から中へ入る。扉の開く音で気づいたのか、パタパタと少女が近づいてくる足音が聞こえる。この時間であれば、多少の足音には目をつぶってもらおう。

「おかえり〜」

 奥の部屋の扉が開き、屈託のない笑顔で少女が飛び出してきた。左手にキャラクターの人形を掴んだままで、楽しんでいたことが容易に見てとれた。

「ただいま。いい子にしてた?」

「うん!」

 少女が廊下に出てきて、梅宮の目の前で立ち止まる。その頭に手を置いてやり、軽く撫でると子犬のように笑った。まるで自分に子供ができたかのような錯覚を味わい、悪くないものだと幸福感に包まれる。———はずだった。

 だが、この時点でおかしいのだ。

 少女は、梅宮になど目もくれず、その後ろにいる老人の元へと駆け寄らなければならない。また、老人の方も「ゆうき!」と叫んで少女を抱きしめる、そのはずだった。

 実際はこれだ。

 梅宮が少女の頭を撫で、彼女は照れたように笑い、そんな梅宮の姿を不気味がるように老人が眺めている。———二人は、互いの姿が見えていない。こんなことがあってよいのか。

「どうしたんだ? 何してる」

「おにいちゃん、早くご飯食べようよ」

 そのどちらにも、返事をしたくなかった。なんと、非情な現実なのか。ここにいる三人のうち、誰一人として幸せではない。二人は待ちに待った再会を果たし、梅宮は感謝されるはずではなかったのか。

「おい!」

「ねぇ、はやくー」

 梅宮は少女から手を離し、一人で奥の部屋へ入る。後ろから二人がついてきているのか、確認する気にもならない。二人が接触でもすれば、触れ合うことができるのだろうか。いまは、何も考えたくない。

 さつきの言う通りだった。梅宮の行為は、誰にも、何の影響も与えていない。ただの自己満足にすぎない。

 ——さつき、お前はこうなることを知っていたのか?


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「俺が悪かった。助けてくれないか」

『なにー、どうしたの?』

「お前の言う通りだった。二人とも、お互いが見えてないんだ」

『おぉ・・』

 さつきが考え込むような様子が、耳元から伝わってくる。その間にも、部屋の中にいる二人はそれぞれが自分勝手に意見を言い、梅宮は無視を続けている。

『———ばいいんじゃない?』

「え?」

『筆談してもらえばいいんじゃない? 姿は見えなくても、物が動くのは確認できるでしょ』

「そうか・・」

 あまりのショックから、自分の脳が停止しかけていたことに気づく。さつきの言う通りだ。全てを諦めるには早すぎる。

『ただ、ゆうきちゃんが字を読み書きできるのかは知らないけど』

 再びの転落。それでも、何か行動するしかないのは確かだ。

「まだ切らないで」

 通話をスピーカーモードにし、携帯電話をテーブルに置く。

 梅宮は側にあった一枚の裏紙とペンを老人に渡し、「ゆうきちゃんに言葉を書いてあげてください」とだけ言う。理解できない様子で不満を漏らす老人に対し、無理やりペンを持たせた。つべこべ言わずに、まずは書いてくれ。

「ゆうきちゃん、この紙を見ててね」

「おえかきするの?」

 少女は無邪気に、テーブルに両腕を乗せて紙を眺めている。やがて、老人が諦めたようにペンを走らせた。少女は勝手に動き出したペンに驚いたのか、梅宮のズボンの裾を強く握る。少女の肩に手を置いてやると、僅かにホッとした顔を見せた。

 紙には『ゆうき』とだけ書かれ、少女が驚いたように見上げてくる。

「いまね、じいじが書いてるんだ」

「じいじいないよ?」

「いるんだよ、見えないかもしれないけど」

「おい! さっきから誰と話してる!」

「ゆうきちゃんです。ここにいるんです」

「どういうことだ!」

 老人がつかみかかるほどの勢いで迫ってきた。逃げようとして脚が少女にぶつかり、梅宮は必死に踏みとどまらなければならなかった。

「説明します。落ち着いて聞くって約束してくださいね」

 無駄だとわかりつつ、老人が頷くのを待った。


 やはり、無駄だった。

 少女が亡くなっていることを伝えると、老人は理性が吹き飛んだように叫んだ。まるで少女を陵辱した犯人を見るように批難され、さすがの梅宮も黙っていられなかった。そして、そんな梅宮の様子を少女が恐る恐る眺めている。非常に奇妙な部屋だった。現実的には、梅宮一人が動いているだけだが。

「誰が殺したんだ!」

「知りません。轢き逃げに遭ったらしいです」

「轢き逃げだと!」

 老人は再び叫び、怒りで動けなくなってしまったようだ。

「どうしたの・・?」

 梅宮は床に膝を突き、問いかけてくる少女を抱きしめる。驚いた様子でモジモジと動く少女を、さらに強く抱きしめる。なぜ、この子は死ななければならなかったのか。そして、なぜ、最後の願いすらも叶わないのか。目の前に、会いたがっていた祖父がいるというのに。

「なにをしている!」

「ここにいるんですよ! ゆうきちゃんが!」

「バカにするのもいい加減にしろ!」

 老人が梅宮の肩を強く引く。その衝撃で、少女と共に床へ倒れ込んでしまう。

「あの子が死んでいるだなど、わしは信じないぞ!」

「あなただって幽霊としてここに現れてる。彼女も同じなんです!」

「どうしてお前にだけ見える!」

 それは、梅宮が知りたいくらいだ。どうして、二人は互いの姿を見ることができない。あまりに(むご)いではないか。互いがそれを望んでいるというのに。床に両手を突きながら、悔しくて体を起こせない。

「ここに手を伸ばしてください!」

 立っている老人の腕を無理やり引っ張る。少女の顔に触れるほど近づけても、まるで空気に触れたように貫通してしまう。少女の顔の中に、老人の手が入り込んでいる。他の物質には触れるというのに、なぜこんな簡単なことができないのか。

『梅ちゃーん! おーい!』

 スピーカーから、さつきの声が聞こえている。二人の幽霊はそれに気づかないのか、それどころではないのか、梅宮を見つめたまま黙り込んでいる。梅宮は呼吸を整えるように息を吐き、立ち上がって携帯電話の側へ近づいた。

「・・こっちの様子はわかったか?」

『わかんないよー。だって、わたしには二人のこと見えてないしー、声も聞こえてないしー』

 そうだった。電話でこちらの情報を伝えるつもりだったが、そもそも無意味だった。

『あのね、落ちついて聞いて欲しいことがあるの。・・聞いてるー?』

「あぁ、聞いてる」

『二人が亡くなったときのことを考えたんだけど、ある推測が浮かびましたー』

 推測? さつきがまた、探偵としての能力を発揮したのだろうか。

「話してみて」

『うん。あのね、ゆうきちゃんがスーパーを出て、おじいさんを探して歩いてたのが午後二時半くらい。おじいさんの事故が起きたのは三時前らしいから、たぶんそれくらいだよね』

「あぁ」

『で、おじいさんが亡くなったのは、午後三時に起きた事故のせいよね』

 梅宮がさつきの言葉の続きを待っていても、電話からそれ以上の声が聞こえてこなかった。不思議に思い、梅宮が携帯電話へ話し掛けようとした、そのとき。

『わかんない?』

「え?」

『だからさ、それだけで気づかないのってこと』

 さつきは何を言いたいのか。思いついた内容を話してくれればよいものを、わざわざ焦らして話そうとしない。まるで、梅宮自身に気づいて欲しいかのよう。

「ゆうきちゃんが先に亡くなったってことだろ? それがなんだよ」

 すぐ側にいる老人が、飛び掛かってきそうになる。梅宮は右手を素早く突き出し、老人の動きを制す。

『梅ちゃん、ホントに気づいてない? 二人の間に、何があったのかを』

 さつきの言葉を頭の中で反芻する。少女は轢き逃げに遭い、老人は車を運転したまま壁に衝突した。その両方が亡くなり、こうして梅宮の前に現れている。

『もう少し、ヒントをあげる。おじいさんの運転していた車は事故現場で発見されているわけだけど、その前にはどこにあったの?』

「それは・・、スーパーに決まってるだろ」

 二人は買い物をしていたのだから、そうでなくてはおかしい。そして、少女だけが先にスーパーを離れた。老人はスーパーの中にいたはずなのに、いなくなったものと勘違いして。

『ゆうきちゃんが亡くなった現場は、その途中にあるのよ。スーパーと、おじいさんが亡くなった場所の間に』

 だからなんだというのだ。———いや、まってくれ。

「おい、変なこと言うな」

『わたしだって、これを望んでいるわけじゃない。でも、そうである可能性は高いの。ゆうきちゃんが轢き逃げされた現場には、犯人を示す証拠が残ってない。でも、おじいさんがスーパーを出発したのが二時四十分で、壁に衝突したのが三時だとする。二つの間は、車で二十分ほどかかるの。真直ぐそこへ向かったとしか考えられないのよ』

「だからって・・。何か証拠があるのかよ」

 少しずつ、梅宮の調子が狂い始めた。それを望んでいなくても、心のどこかで、事実なのではないかと認め始めてしまっている。そんなことがあってたまるものかと願いながら。

『警察はそれを疑ってる。事故現場に残った車の様子と、さっき話したようなことを含めて』

「でも! でも・・、結論は出てないんだろ」

『いまのところね。それ以上のことはわからない。ただ、それの結論を導くことが、本当に正しいの? 誰かを幸せにするの?』

 電話から聞こえてくるさつきの声にも、普段の明るさは微塵もない。彼女自身、話すことが辛くてたまらない様子だ。梅宮もそれ以上は反論しなかった。したところで、何も変わりはしない。事実は事実でしかない。感情は無関係だった。

『だからもう、二人のことをどうこうしようとするのは・・、やめた方がいい』

 梅宮は、何も言うことができなかった。振り返り、隣り合って立っている二人の姿を確認するのも怖い。二人にその事実を悟られること、ましてや梅宮がそれを説明するなど、とてもではないが、できない。これ以上、深追いすべきではないということか。

「独り言は終わったか!」

 老人の声で、現実に引き戻される。彼は、覚えていないのだろうか。亡くなった現場へ辿り着く前に、自分が何をしたのかを。そして、少女は何も知らないはずだ。誰が、自分を轢いたのかを。

 知られてはならない。この事実は、誰にも伝えてはならない。

 いずれ、警察がそれを結論づけるだろう。残された少女の父親には伝えられるのかもしれない。だが、少女と老人、二人にまで伝える必要はない。知らない方が幸せだという考えも、否定できないのではないか。

 梅宮は決意する。自らが、その事実を飲み込むことを。

「・・さつき、ありがとう。色々悪かったよ」

『ううん。梅ちゃんは間違ってない。それに、二人のために頑張ったことは、わたしがちゃんとわかってる』

「あぁ。また電話するよ」

 梅宮は、一方的に通話を終えた。———さて。

 振り返ると、そこには立ち尽くす二人がいた。確かに、そこにいるのだ。

「すみません、取り乱しました」

「いまのはなんだ。誰と話してた」

「気にしないで下さい。そんなことより、ゆうきちゃんと、きちんと話してあげてください」

 梅宮は、それの存在を思い出した。さつきのために買ったものだが、この際、そんなこと気にしている場合ではない。部屋の隅にあるクローゼットの扉を開ける。その中に、プレゼント用に包装されたそれがある。最新型のタブレットが。

「なんだこれは」

 テーブルにタブレットを置くと、老人が煙たがるような視線を送っている。年齢的に、こういった機械類が苦手なのかもしれない。一方で、少女は興味津々な様子で覗き込んでいる。梅宮は無言のまま電源を入れ、立ち上がるのを待つ。

「ねぇねぇ、これゲーム?」

 少女の無邪気な問いにも、ただ頷くだけだった。すぐに電源が入り、ホーム画面が表示された。適当に操作してみると、指で文字を書けるアプリを発見した。これで、準備万端だ。

「どうぞ、ここに好きなように書いてください。ゆうきちゃんが読めるような、簡単な言葉で」

「だから———」

「信じてください。俺じゃなくて、ゆうきちゃんを。彼女は、あなたに会いたくてここにいるんです。それは、あなただって同じでしょう」

 老人は梅宮を睨み続けながらも、言い返すことはなかった。渋々という様子で指を伸ばし、タブレットに触れる。すぐに書き方を理解したのか、『こんばんは』と書いた。

「ゆうきちゃん、ほら、見て」

「こんばんは、だって! じいじが書いたの?」

「そうだよ。ゆうきちゃんも、何か書いてみる?」

 少女の目の前にタブレットを持っていってやると、僅かに緊張した面持ちで画面に指を伸ばす。ヘタクソな字で『じいじ』と書くと、すぐに老人が息を呑む音が聞こえた。

「ゆうきちゃんはいるんです。ここに、いるんです。それを受け入れてください」

 梅宮の言葉を信じたのかどうか、それは定かではない。だが、老人はいままでよりも明らかに、真剣にタブレットを見つめている。画面上に、少女が浮かんで見えるのかもしれない。

 そのアプリは、新しいページを開くことも簡単にできる。画面を上にスライドさせるだけだ。梅宮はそれを二人に伝え、この場を離れることにした。あとは、二人きりで解決してくれることを願うばかりだ。

 梅宮にできることは、すでに終わっているのだから。


                        9


 ここからは、後日談になる。

 梅宮は二度と、二人と出会うことはなかった。気づいた頃には少女と老人の姿が見えなくなり、二人の結末がどうなったのか、考えないようにしていた。

 あの後、誰もいなくなった部屋へ帰り、投げ捨てるようにしてタブレットをクローゼットへ仕舞った。どんな会話をしていたのか、覗き見るのはナンセンスに感じたからだ。やり切れない想いや後悔も残っているが、いまでは、あれでよかったのではないかとも思える。あるべき事実を、受け止める覚悟ができた。

 そうして、梅宮は新たな一つの問題に直面していた。今日が、さつきの誕生日であることを思い出したのだ。せっかく用意していたプレゼントも、昨日、二人へあげてしまった。さすがに、それをさつきへ渡すわけにもいかない。プレゼントの使い回しなど、最もしてはならないパターンだろう。

 後悔する暇もなく、ショッピングセンターの中を歩き回る。ここでプレゼントを買った後、さつきの家へ向かうつもりだった。別に、いまさらさつきに気に入られたいとか、カッコつけたいなどという気持ちはない。ただ、今回も世話になってしまった以上、相応のお礼をするのが筋というものだ。

 梅宮は人混みの中をすり抜けながら、まずは喫煙所で一服することにした。煙草でも吸って、冷静になろうと思ったのだ。だが、すぐに思い出す。自分が禁煙中であることを。それでも、どうしても諦め切れなかった。せめて、喫煙所の雰囲気だけでもと思い、歩みを止めることはしなかった。

 ——ガラス張りのドアに手を掛けた時点で、それに気づいてしまった。だが、いまさら遅い。ここで入るのをやめる方が、かえって不自然だろう。諦めて、二人きりの空間を愉しむことにした。

「よう」

「何しにきたの?」

「いや、タバコ吸いに」

 梅宮の返事が不満なのか、芽衣は手元の携帯電話に視線を落とす。梅宮としても、わざわざ会話をしたくはなかった。大抵、心をへし折られるに違いないからだ。

「見えないお友達は、ちゃんとおじいさんに会えたわけ?」

 どうして、放っておいてくれないのか。天然なのか、意図的に梅宮に罵声を浴びせたいのか。無視するわけにもいかないのがツラいところだ。

「会えた。なんとか終わった」

「あっそ。おつかれ」

 再び、芽衣との会話が途切れた。

 梅宮には、この状況をうまく飲み込めなかった。嫌われているはずなのに、やけに向こうから絡んでくる。かと思えば、興味がなさそうに話を終える。まるで、思春期の男子のようだ。

「さつきには、何を買ったの?」

「・・いまから買う」

「はぁ? まだ買ってなかったの? ほんとドンクサイ」

「いや、買ったんだけど、あげられないというか」

「ハッキリしなさいよ」

「・・買ってねぇよ」

 正確に弁明するのも嫌になる。事実を伝える意味もないだろう。そもそも、芽衣はさつきに対してプレゼントなど買うはずがないのだ。梅宮が何を買おうと勝手だし、プレゼントが被る心配をしているとも思えない。

「何を買うつもり?」

「わからん。迷ってる」

「どうしてもっと前から考えなかったわけ?」

 ついに、芽衣が携帯電話をポケットに仕舞ってしまった。これで、臨戦態勢が整ったことになる。

「いや、だからさ、色々アクシデントがあって」

「何を買うか、さっさと決めなさい」

 梅宮の主張など、聞く耳を持たないようだ。我慢して、言い返すのを諦める。

「・・花とか?」

「はぁ? だっさ! お供えにでも使うつもり?」

「じゃあ何がいいんだよ」

「自分で考えなさいよ。人に決めてもらったプレゼントなんてもらいたくないじゃない」

 言われていることは正しくても、素直に受け入れることができなかった。梅宮が言葉もなく俯いていると、煙草に満足したのか、梅宮を虐めることに飽きたのか、芽衣が立ち上がった。

「せいぜい頑張りな。さつきに謝りたい気持ちがあるんならさ」

 梅宮の脚にわざとぶつかるようにして、芽衣が前を通り過ぎていく。このまま帰ってくれるのかと思いきや、喫煙所の扉に手を掛けたところで芽衣が振り返った。

「サツキだけはやめときな」

「・・は?」

「だから、さつきだからってサツキを贈るのはやめときなって言ってんの」

 それだけを言い残し、芽衣は喫煙所を出ていった。 

 彼女の後ろ姿を眺めていても、決して振り返る様子はなかった。言い残したことはないのか、迷いなく姿を消していく。

 さつき———、サツキか。

 花に疎い梅宮は、ようやく芽衣の言葉を理解できた。そんなつもりはなかったのだが、確かに名前に掛けてサツキを贈るのもアリかと思ってしまう。もっとも、芽衣からは厳しく忠告されたわけだが。

 さて、何を買うべきか。梅宮は部屋の空気を思い切り吸い、煙で包まれた脳みそに問いかけることにした。


 自宅へ戻り、さつきへのプレゼントをクローゼットに仕舞う。その際、昨晩仕舞っておいたタブレットが目に入った。二人のために使わせてやったものの、このまま置いておくにはもったいない。誰かに譲る気はないし、売ってしまうことも気が引ける。やはり、自分自身で使うのがベストか。

 梅宮はタブレットを手に取り、ベッドで横になることにした。画面を立ち上げ、適当にいくつかのアプリを操作してみる。

 だが、どうしても気になってしまう。二人が意思疎通をするのに使っていたアプリが、どうなっているのかを。老人と子供、その二人が使用していたのだから、細かい操作はできていないはず。もしかすると、やり取りが残っているのかもしれない。

 梅宮は、どうしてもその欲望に勝てなかった。つまり、覗いてみることにした。全て消されていれば、おとなしく諦めることができる。今後も、中身が気になって寝られないということもないだろう。

 こうして、理由を無理やり正当化し、梅宮はアプリを立ち上げた。

 すぐに、見覚えのある文字が目に入った。『じいじ』と書かれた文字が。画面を上下に操作し、前後のやり取りを確認する。———そして。

 梅宮は思う。見なければよかった、と。

 そこに書かれた文字の意味に、僅か十数文字に、梅宮は殺されかけてしまうところだった。現実の音など、耳に入るわけもなかった。『じいじをゆるしてくれるかい?』これは、そういうことなのか?

 梅宮は、勇気を出して次の画面を確認する。その画面が最後の一ページだった。そこに書かれた二文字を見て、梅宮は決意する。このタブレットを永遠に仕舞っておくことを。自分を含め、他の誰にも見せるわけにはいかない。

 ゆっくりと立ち上がり、タブレットをクローゼットの中へ置く。二人の優しさと共に、これからも生きていくことにする。

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