梅宮と稲葉
1
懐かしい人に出会ったとき、当時を思い出すかどうかで、その人との時間が楽しかったのかわかるのではないか。共に過ごした時間を懐かしいと思えるのか、嫌な思い出がフラッシュバックしてしまうのか。僅か一秒ほどの間に、無意識に計算してしまうに違いない。
だが、梅宮拓也がその人物と出会ったときは、そのどちらでもなかった。極めて特殊なパターンだったからだ。冬が終わり、世界に暖かさが広がり始めた頃。梅宮は、七年ぶりに中学時代の恩師と再会した。
この直前から、梅宮の生活は一変していた。知りたくもない現実を目の当たりにしながら、自分が狂ったのではないかと苦悩する日々が続いた。自分の身に何が起きたのかもわからず、疑いながらも生活していかなければならなかった。僅かに見えている手掛かりから、目を背けながら。
「あっちにいる背の高いのが娘だ」
稲葉正志の指差す方に目を向けると、梅宮も彼女を認識することができた。歩道で立ち止まり、窓ガラス越しに店内を覗いている二人の女性。屈みながら窓に食いついている方と、その女性を見守るような、背の高いもう一人の女性。後者が稲葉の娘のようだ。
「綺麗じゃないですか」
「そりゃ、俺の娘だからな」
どの顔が言うんだ、梅宮はその言葉をぐっと飲み込む。二重顎などという可愛らしいものではないレベルのふくよかな顎を持ち、腫れぼったいたれ目の存在が際立つ顔は、昔からたぬきにしか見えなかった。教師としての威厳などとは程遠いが、ある意味では親しみやすい存在だった。叱られても反抗する気にならない、反省できてしまう風貌なのだ。
「声掛けないんですか?」
「意味があると思うか?」
愚問だった。
梅宮は稲葉から視線を外し、楽しそうに盛り上がっている二人の女性を観察する。何がそれほどまでに楽しいのか、二人は店内のバッグに熱い視線を送り続けている。稲葉の娘の年齢は二十八歳だと聞いている。梅宮の六つ上ということになる。中高生時代に出会わなかったのも当然だ。
「で、俺にどうしろと?」
「娘の結婚式に出席して欲しい」
「赤の他人なのに?」
「なのに、だ」
無茶な要求に頷けるわけもなく、梅宮は一ミリもやる気のない視線を稲葉に送る。この恩師は自分に何を要求しているのか。その意味も、目的も、梅宮には全く理解できない。結婚式に自分が出席できないからといって、梅宮に出席させて何になると思っているのだろう。———そもそも、そんなことは不可能に決まっているのに。
「娘さんと仲が悪くなったのはいつからです?」
「四年くらい前、アイツが働き出してからのことだ。いまが2015年だとすると」
「先生はどこで働いてました?」
「M小だった」
四年前に娘との関係が険悪になり、結婚式にも出席できない。だから、偶然出会った昔の教え子に代わりを頼む。———全くもって理解できない。
「どうして仲が悪くなったんです? 娘さんも大人だったんでしょう?」
「まぁ、色々とな」
「答えになってませんけど」
「話したくないこともある」
「なのに、俺には手伝えって?」
「なのに、だ」
梅宮のため息がこぼれる。稲葉の眼力が思いのほか強く、何かしらの意図が隠れていることは容易に想像できる。だからといって納得できるものではないが。
「結婚式に出席したとして、何をすればいいんですか?」
「手伝ってくれるのか?」
「もしもの話です。何をするのかくらい教えてもらわないと、やりますとは言えないでしょう」
稲葉は迷うように口をつぐみ、僅かな間沈黙を纏った。
二人の視線の先にいた稲葉の娘とその友人は、店内を眺めることに飽きたのか、携帯電話を見せ合いながら歩き出す。春の風のように軽やかな足取りを梅宮が眺めていると、ようやく稲葉の言葉が耳に届いた。
「謝りたいんだ。それに、アイツの結婚をちゃんと祝いたい」
「謝るようなことしたんですか?」
「沈黙、だ」
「はい?」
「ノーコメントだ」
四十歳を越えたおっさんが何を言うのか。そんな梅宮の視線を避け、言い訳をするように稲葉が言う。
「このままじゃあ、アイツは家族ってもんを嫌いなままだ。良い母親にはなれない」
「説明になってませんってば」
「頼む。今回限りだ」
それはそうだろう、何度もあってたまるものか。
稲葉の表情を見れば、真剣に頼んでいることは伝わってくる。梅宮にだって、彼の想いに答えてやりたい気持ちはある。だが、説明もないまま了承する勇気は持ち合わせていない。それも、変えようのない事実なのだ。
「・・娘さんに謝れたら、ちゃんとイケますか?」
「あぁ、そんな気がする。イケる気がする」
根拠などないに決まっている。だが、娘を見守るように視線を送り続ける稲葉を見ていると、無下に断るのもためらわれてしまった。昔世話になった恩師を助ける、決して悪いことではない。それに———、彼をきちんと成仏させるためには、手伝うしかないようにも思えた。
2
「それで、引き受けちゃったの?」
「実際のところ、どこまでやるのかわからないけどな」
五十鈴さつきが、呆れたような視線を送ってくる。座椅子に体育座りをして、ストローでファンタオレンジを飲みながら。
「岬さんだっけ、面識ないんでしょう? どうやって結婚式に出席するのよー」
「まぁ、それは無理だわな。別の方法で先生の希望を叶えるつもり」
さして興味のなさそうな様子で、さつきがストローをついばむ。プラスチックの管を、黄色の液体が上昇していく。蚊を擬人化すれば、いまのさつきのように見えるだろうか。
梅宮がさつきと親しくなったのは高校生の頃で、中学の担任である稲葉について、彼女が知らないのは当然だった。そのおかげで、稲葉がすでに亡くなっており、幽霊である彼と出会ったことを伝えなくて済むのは、梅宮にとっては非常に大きなメリットだった。そんなことを話せば、さつきから人格を疑われるかもしれない。
「どうしてその稲葉先生はさ、娘さんとケンカしちゃったの?」
「ケンカってわけじゃないみたいでさ。一方的に嫌われてるというか、失望されてるみたいな」
本人も詳しいことは口にしなかったため、あやふやな説明しかできない。
「離婚でもしてるの? 結婚式にも出席させてもらえないってことは」
「法的なところは知らないけど、そんな感じっぽい」
実際、法的にどうなっているのか知らないのだ。嘘ではない。亡くなっていることには触れないのが吉だろう。
「よくわからないけど、先生の役に立てるといいね。梅ちゃんじゃ頼りないけど」
少女のような笑顔を見せ、さつきが勢いよくジュースを飲む。
ズズッという音を聞きながら、梅宮はさつきの姿を眺め続けていた。いつも着ている、お気に入りのタートルネックのセーター。いまは彼女の側に置かれているが、もう春だというのに、その上から真白なコートを羽織ることが多い。控えめな茶色に染まった髪は、ふんわりとしたボリュームで広がっている。冬の頃から、彼女の髪の長さに違いは見受けられなかった。それくらい、梅宮は女性の変化にニブい。
梅宮が稲葉と出会ったのは、一週間前の土曜日だった。仕事が土日休みである梅宮が、いつものように公園で煙草を吸っているときのことだ。
公園へ入ってくるしがない(・・・・)男性の姿が視界に入りながら、特に気にすることなく春の匂いを楽しんでいた。煙草の煙と相まって、鼻孔をくすぐるような、体の奥が温まる感覚が好きだった。
自分の側へ近づいてくる男がいる、それに気づきながらも、勘違いだろうと思い込んでいた。まさか知り合いだとは思わなかったし、それが亡くなっている人物であるなど、考えられるわけがない。実際、稲葉の姿を見ても、幽霊だとは思わなかった。亡くなっていることすら知らなかったのだから。
梅宮のこれまでの人生は、幽霊などという類のものとは無縁だった。なぜ、あの日、突然幽霊が見えるようになったのか。振り返って考えてみると、梅宮はその原因に心当たりがあった。が、気づかないふりをすることに決めた。その方が、自分の精神に優しいと判断したためだ。
目をつぶりながら、煙草の煙、その優しさを顔面で感じていたとき。突然、唇が寂しくなった。
梅宮が驚いて瞼を開くと、目の前に、先程の男が立っているのが見えた。無言で自分を見下ろしている男の顔を確認しながら、梅宮は必死に現状を理解しようと試みた。自分に何の用なのか。男はなぜ、自分の煙草をつまんでいるのか。
「いつからそんな不良になった!」
「・・はい?」
「俺の教えを忘れたのか!」
その後、五分もすると、梅宮の中に昔の記憶が戻っていた。奇妙な感覚を味わいながら。中学時代の恩師である稲葉と再会し、大人になったいまの様子を伝えていた。まさか、話している相手が亡くなっているなど、微塵も疑わないまま。
——ねぇ。
——ねぇってば!
慌てて現実に戻ると、目の前、十五センチほどの距離にさつきの顔が迫っていた。いつの間にか、夢の世界に入り込んでしまっていたことを知る。
「人の部屋で、勝手にぼーっとしないでよぉ」
わざとらしく頬を膨らませ、不満そうに梅宮を睨みつけている。
「稲葉先生のことで相談にきたんでしょう? だったらちゃんと教えてよ」
「あぁ・・、うん。何から説明すればいいんかな」
さっさと用を済ませろといわんばかりのさつきを見ながら、稲葉から伝えられたストーリーを、改めて構築することにした。
稲葉の身にその出来事が降り掛かったのは、彼が三十九歳の頃だったという。当時、稲葉は愛知県内のM小学校で、五年生の担任をしていた。梅宮のクラスの担任をしていたのは稲葉が三十六歳の頃であり、その三年後にあたる。
中学での稲葉の担当教科は数学だったが、小学校ではほとんどの教科を教えなければならない。いくつかは、誤魔化しながらしか教えられないものもあり、とりわけ、体育に関しては無理があった。昔から、運動だけは全くセンスがなかったのだ。そんな稲葉が体育を教えなければならないなど、日本の教育制度を見直さなければならないのかもしれない。
しかしながら、彼の身にそれが起きたのは、教科とは無関係だった。
稲葉が担任をしていた五年三組の生徒の中に、武藤と坂下という二人の男子生徒がいた。武藤はガキ大将のような、やや湾曲して表現すれば、クラスの中心人物だった。一方、坂下は体が小さく、控え目な少年だった。休み時間には、自分の席で読書をして過ごすようなタイプだ。
ある昼休み、給食を食べ終わった後のことだった。
教室の中にはおとなしい部類の生徒たちだけが残り、はしゃぎ回るような生徒たちはグラウンドで遊んでいた。それは普段と変わらぬ光景だった。だが、教室の中に武藤がいたことだけが特殊な状況だった。毎日、六年生に負けぬほど声を出し、グラウンドでサッカーを楽しんでいた武藤が、教室に残っている。それだけで、他の生徒たちは、何かあるのではないのかと推測できていたはずだ。稲葉は職員室で仕事をしており、教室の中に武藤がいるとは思いもしなかったが。
稲葉が何気なく教室の様子を確認しに行くと、そこは、僅かに非日常なものだった。珍しく、生徒同士が取っ組み合いのケンカをしていたからだ。それだけならば、さほど驚くことでもない。体力の有り余る生徒たちが、何かの弾みでケンカを始めてしまうことはあったし、幼い彼らであれば、決して不思議なことではない。
だが、稲葉が教室へ入り、最初に驚いたことは、ケンカをしていたのが武藤と坂下だったことだ。おとなしい坂下が、体の大きな武藤に肩を掴まれている。一瞬、一方的に襲われているのかと勘違いしてしまう状況だった。しかし、坂下の目にも、相手に対する敵意の色が浮かんでいた。実は、稲葉にはそれが嬉しかった。珍しく、坂下が感情的になってくれていたからだ。実際には、それを喜ぶ間もなく、稲葉は二人のケンカを仲裁しなければならなかった。大けがをされては困るし、他の生徒に被害が及んでもたまらない。
担任である稲葉が二人の間に割って入ると、我に返ったように、二人のケンカは収まった。坂下はケンカなど似合わないタイプであり、武藤も決して暴力的な少年ではない。稲葉が大声で叱ると、若干の気まずさを残しながら、その場を収めることには成功した。——そのまま、『子供特有の幼いケンカ』で終わればよかった。稲葉が教職を追われることもなかったはずだった。
「稲葉先生がケンカの原因だったの? それとも体罰とか?」
さつきがようやく興味を持ち始めたのか、先程までよりもイキイキとした顔で梅宮を見つめている。ようやく、これで彼女から助言をもらえるかもしれない。期待通りの状況に満足しながら、梅宮は話を続けることにした。
武藤と坂下、二人のケンカが再発したのは、同じ週の金曜日だった。放課後、彼ら二人しかいない教室の中で、流血事件が発生してしまった。
その時間、稲葉は職員室で事務作業を行っており、早く帰ることだけを考えていた。妻の誕生日が迫っており、プレゼントを買いに行かなければならなかった。
五年三組の教室へ忘れ物をした稲葉が職員室を出た頃、教室の中では二人の争いがすでに始まっていた。力の強い武藤が、坂下を床に押しつけていた。稲葉がそれを知ったのは、教室での事件を発見した後、病院で武藤が治療を受けている間のことだったが。
廊下を歩いていた稲葉の耳に、何かの割れる音が届いた。その直後にガラガラという、椅子や机が床を引っ掻くような音も聞こえ、ただ事ではない雰囲気をすぐに感じられた。
稲葉が慌てて音の発生源である五年三組の教室へ入った途端、床に倒れ込んでいる武藤の姿が目に入った。そして——、それを見下ろす坂下の手には、割れた花瓶の一部が握られていた。武藤の頭からは、新鮮な血液が流れ出ている状態で。
「話が長い」
「待って、もうちょいだから」
ようやく興味を持ってくれたさつきだが、梅宮の説明に飽き始めている様子だった。
「どうして稲葉先生が責められているのか、その原因を先に教えて」
「うん。その事件を隠蔽しようとしたからなんだ」
「隠蔽?」
「正確には、坂下くんが武藤くんを怪我させたという事実を、なかったことにしようとしたんだ」
「何のために?」
眉間に皺を寄せ、納得できないという顔でさつきが尋ねる。稲葉のしたことを責めているような表情でもあった。
「それを説明するのが、ちょっと面倒なんだよ」
その事件のせいで稲葉は成仏できず、幽霊として梅宮の前に現れている。事件から長い年月が経ったいま、なぜ幽霊として現れたのか。岬が結婚するタイミングだというのも関係しているかもしれない。そうだとすれば、梅宮が会いたいと思っている人々の姿も、いつか見えるときがくるのかもしれない。
稲葉の望みを叶えるために、まずは、彼の秘密に触れなくてはならない。そのために、梅宮は次のステージへ進むことにした。
3
このあたりで、梅宮とさつきの関係について語らなければならないだろう。
彼女は梅宮の同級生である二十二歳の女性で、二人が初めて出会ったのは高校生のときだった。親しくなった時期は、高校一年生のゴールデンウィークが明けた頃のはず。他の親しい友人を含む四人で共に過ごすことが多くなり、さつきと梅宮以外の二人とも、いまでも関係が続いている。
当時から、四人はさつきの家に集まることが多かった。その理由として挙げるならば、彼女の両親が他界していたことがある。さつきが小学生の頃に事故で亡くなったのだ。そのため、さつきは、祖母と二人きりで暮らしていた。祖父に関しては、さつきが生まれる前に亡くなっており、当然ながら、彼女の中に記憶はない。家の中に存在する遺影だけが、さつきにとって祖父という人物の全てだ。その写真の表情を見る限りでは、厳格な人物だったのではないかと想像している。
また、さつき以外の三人が彼女の家に集まるのは、さつきの身を心配していたというのもある。彼女が孤立しないように、配慮していたつもりだった。もっとも、さつき自身は両親がいないことをそれほど悲観的に考えず、学校でも明るく振る舞っていた。友人関係については心配する必要もなかったのだが。
さつきの祖母——トキという女性は、四人が家で集まることを喜んでいた。気を遣ってそう振る舞っていたのではなく、おそらく、本心から楽しみにしていたのだろう。家の中が賑やかになること、さつきの笑顔が見られることが、その大きな要因だったに違いない。トキ婆にとっても、若いエネルギーに刺激をもらえるのはよいことだった。
集まって何をするわけでもなく、たわいもない話で盛り上がるだけだった。ときには共にテスト勉強をし、些細なケンカもし、トキ婆の作った夕飯を食べてから解散する。そんな、餅米のように平和な時間だった。
梅宮とさつき、二人の交際が始まったのは、高校二年生の秋のことだ。単なる親友以上の異性としての意識が芽生えたのは、梅宮が先だった。若者らしいなんやかんやを経て、二人は交際を始め、そして、高校卒業直前でそれは終わった。センター試験を直前に迎えた、冬のことだ。原因は、価値観の違いとでもいうのだろうか。いつの間にか、愛が友情へと変換されていたのかもしれない。それは不可逆なものだった。梅宮は卒業とともに就職をし、さつきを含む他の三人は、県内の大学へ進んだ。
四人の高校生活が終わり、梅宮とさつきの交際も終わってからも、彼らの交友関係は続いている。梅宮はいまでもさつきの家を訪ねることは多く、さつきもそれを拒みはしない。補足するならば、トキ婆もだ。
いまでは親友へと戻った二人は、互いの悩み事なども相談するようになっている。今回の稲葉の件のように、梅宮がさつきに相談することの方が多いが。その際、さつきが興味を持てば真剣に頭脳を使ってくれ、そうでなければ一蹴され、話題は変わってしまう。梅宮にとって、さつきの興味を引けるかどうかが、重要な問題なのだ。昔から、彼女が探偵役だった。
そして、今回はそれに成功した。おそらく、稲葉の件も無事に解決できるのではないか。梅宮は、そんな淡い期待を抱くことができている。
携帯の画面を何度も確認しながら、梅宮は閑静な住宅街を歩いていた。七十メートルほど後方の公園の側に車を停め、目的地へと向かっているところだ。稲葉から伝えられた彼の実家———元だが、そこを訪ねるためだった。
稲葉の家族、とりわけ、娘の岬に会ったとして、梅宮は何を話せばよいのか。稲葉の希望は、娘の結婚式に出席すること。それだけならば容易ではないか、梅宮がそれを伝えると、稲葉は無言で首を振った。
——式場に入りたいわけじゃない。きちんと謝って、祝いたいんだ。
幽霊である稲葉は、誰にも見つかることなく、どこへでも忍び込むことができるはず。梅宮以外に、彼を見ることのできる人物がいるのかはわからない。いたとしても、稲葉のことを幽霊と思わないかもしれない。他の参加者と共に式場へ入ればよいのだ。だが、稲葉の希望はそういうことではないという。
現実へ戻り、梅宮は諦めてチャイムを指で押し込む。
「はい」
「あ、すみません。昔、稲葉正志先生にお世話になった者です」
ここで正直に伝えるべきかどうか、それが難解な問題だった。おそらく、彼の家族にとって、『稲葉正志』の名は歓迎できるものではないはずだからだ。
案の定、数秒間の沈黙があり、ようやく女性の声が届いた。
「開けます」
梅宮は玄関のドアから一歩下がり、扉が開かれるのを待った。小さな金属音の後、ゆっくりと扉が動き、中から若い女性が現れた。先日、稲葉と二人で見た岬の姿だった。
「あの人に、何の用でしょうか」
『あの人』という言葉に、この家の複雑な状況が表れているようだった。
「突然すみません。お伺いしたいことがあるんです。先生の起こした事件につい———」
梅宮が言い終える前に、岬が右掌を突き出した。
「・・中へ入ってください」
有無を言わさぬ様子で、岬が建物の中へ姿を消そうとする。梅宮は慌てて、閉まりかけた扉に手を掛け、彼女に続いた。
玄関には、女性物の靴が五足とサンダルが一足だけ。男物の靴はない。岬の夫となる人物はいないようだ。僅かな罪悪感を感じながら、梅宮は玄関で心を落ち着けた。
「お名前を伺ってませんでしたね」
「あ、すみません。梅宮拓也と申します。先生には、中学三年生のときにお世話になりました」
梅宮の言葉を信じたのか、岬が無言で頷く。『先生』という言葉を話したとき、彼女の頬に力が入るのが見えた。申し訳ないが、稲葉のことは『先生』以外の呼びようがない。『幽霊さん』では警察を呼ばれかねない。
岬はサンダルを脱ぎ、リビングを指差した。どうやら、招き入れることくらいは許してくれるようだ。
梅宮がリビングの食卓に着くと、キッチンを歩く岬が言った。
「どうして、あの人のことを知りたいのでしょうか。事件についてはご存知のようですけど」
「先生が退職されたことは噂で聞いていたんです。何か問題を起こしたって。でも、亡くなっていることを知ったのは最近で」
「どこで?」
「え?」
「あの人が亡くなったことを、どこで知ったんですか?」
——なるほど。梅宮との会話に脳を使ってくれていることがありがたかった。ただ、その質問に対して正直に答えることはできない。
「最近、同窓会がありまして。それで、事件のことを知りたくなったんです」
「知って、どうするんですか?」
岬が湯飲みに入ったお茶を運んできて、梅宮の正面の席に腰掛けた。
「昔お世話になったので、きちんとお墓参りしたくて。すごく迷惑なことだとは思ったんですけど・・」
言い訳にしては苦しい。梅宮はそれを自覚しながら、他にふさわしい言葉が思い浮かばなかった。
「どこまでご存知なんですか?」
「生徒同士のケンカを隠そうとした、というところだけです。事実なのかもわかりませんが」
岬は湯飲みを両手で包み、液面の一点を見つめるようにして動かない。彼女が口を開くまで、梅宮も黙ることにした。
「———そのまんまなんです。あの人は、自分のクラスで起きた事件を隠そうとしたんです」
「その事件の内容っていうのは?」
「男の子同士のケンカでした。当時、私は家を出て働いていたし、詳しいことはわかりませんでしたけど」
「後々、別のところから聞いたってことでしょうか」
無言———すなわち肯定だろう。
「一人の男の子が頭から流血して、それはもう一人に殴られたからなんです。教室にあった花瓶で」
「一方的ないじめだったわけですか?」
幼い悪意だとしても、それはやり過ぎに感じた。
「いえ。むしろ、逆です。事件の加害者は、普段いじめられていた子の方だったそうです」
「つまり・・、我慢の限界で、爆発してしまったということですか?」
「たぶん。すごくおとなしい子だったと聞きましたし」
岬はお茶に口をつけ、静かにため息をついた。
「その事件の被害者、つまり普段はいじめる側だった少年は、どうしてそんないじめを?」
「さぁ。たぶん、特別な悪意なんてなかったんじゃないですか? 子供ってそうでしょう?」
確かに、梅宮にも身に覚えがある。何も考えず、とんでもなく酷いことをしてしまうものかもしれない。虫の脚をひきちぎり、解体しようとした覚えが無数にある。誰にでも共通しているに違いない。
「ただ、二人の家庭環境が関係していたそうです。事件の加害者の少年は、母子家庭でした」
「それをネタにされて・・ってことでしょうか」
「おそらく。詳しいことは知りません。知りたくもないですし」
上目遣いで睨まれ、梅宮の背筋が伸びる。彼女に迷惑をかけていることを思い出した。
「殴ってしまった動機に同情して、先生は隠そうとしたんですか? でも、隠しようがないですよね」
「あの人の考えなんて理解したくありませんけど、たぶんそれだけじゃないと思います」
岬がハッキリと、強い口調で言い切った。何かしら、思い当たることでもあるようだ。
「加害者の男の子、坂下くんっていうんですけど。その人のお母さんは水商売をされていたんです。スナックっていうんでしょうか。で、あとになって、あの人がそこに通っていたことがわかったんです」
「それで・・裏で何かあったんじゃないかと?」
「はい。噂ですけど、あの人と坂下くんのお母さんの間に関係があって、彼女の息子である坂下さんを庇ったのではないかって」
「でも、あくまでも噂じゃないんですか? お店に通っていたとしても、ただお酒を飲んでいただけかもしれない」
「まぁ、そうですね。否定できません。・・でも、私たちにとっては、重要なのは真実じゃないんです」
湯飲みをテーブルに置き、これまでの憎しみをぶつけるような視線を送ってくる。
「噂が立ってあの人が責められれば、私と母にも敵意が向くんです。真実がどうであれ、もう関係ないところまで進んでしまう」
「先生は、弁解しなかったんですか?」
「特になかったみたいですよ。母にも、すまないって謝るだけで。そもそも、隠せるはずがないことはわかっていたはずですし」
「隠すというのは、なかったことにしようとしたわけではありませんよね? 転んで怪我をしたってことに変えたのでしょうか」
「じゃれ合っていたら花瓶が落ちてきた、ってことにしたかったみたいです」
岬が深いため息をつく。稲葉を非難するように。確かに、彼女にはその権利がある。
「殴られた男の子は? 黙ってませんよね?」
「えぇ。ですから、事実がそのまま明らかになったんです。まったく、バカな人ですよ、ホントに」
稲葉は、何のためにそんな嘘をついたのか。そこまでして隠したいこととも思えない。大けがをさせてしまったことは問題だが、子供同士のケンカが大きくなり過ぎただけではないか。そう考えるのは、梅宮が赤の他人だからだろうか。
「その事件は、どうやって終息したんですか?」
「それが不思議なんですけど、当事者同士はそこまで大きく騒がなかったみたいです。もちろん、武藤くんのご両親は怒ったはずだし、坂下くんのお母さんも謝罪したんでしょう。ただ、それだけで解決してしまった」
「裁判沙汰にはならなかったんですね」
「まぁ、子供同士ですし。むしろ、本当の被害者は私と母です」
これで終わりだというように、岬が壁の時計に視線を送る。午前十一時半、確かに、そろそろ退席すべきだろう。
「お母さんは、先生が亡くなるまで、離婚されなかったんですね」
「えぇ。戸籍上は家族でした。家の中でもほとんど関わらなかったし、実質は全くの他人でしたけど」
稲葉は亡くなっている。梅宮は、同級生に連絡をとったときにそれを初めて知った。あのときの驚きは、尋常ではなかった。先程まで会話をしていた稲葉が、この世にいるはずのない人物だと認識した瞬間なのだから。自分の頭がいかれてしまったと錯覚したほど。
また、稲葉は自殺したのだと説明され、全く理解できない状況に陥った。運転していた車ごと転落し、助からなかったという。それが事件の後であり、退職した稲葉が自殺を図ったと判断されたようだ。
「私とお母さんを捨てて、あの人は勝手に死にました。もう・・、全てを忘れたいんです」
「嫌な話をさせて、申し訳ございませんでした。ありがとうございました」
頭を下げ、慎重に立ち上がる。梅宮が歩き出すのを確認してから岬も動き出し、その後、互いに言葉を発することはなかった。
玄関の扉が閉ざされるのを見ながら、梅宮は稲葉の気持ちになろうと試みた。だが、それは容易ではなく、むしろ疑問が浮かんでくるだけだった。稲葉は、何を守ろうとしたのだろう。おそらく、本人は口を割らないに違いない。
まずは、さつきに話してみることにした。
4
幽霊となった稲葉と出会い、頼み事をされて以降、梅宮が彼と再会することはなかった。稲葉がどこにいるのか、どうすれば会うことができるのかもわからず、梅宮にはなす術がなかった。もしかすると、幽霊を見たということ自体が幻なのではないか、そう疑ってしまうほど。
仕方なく、梅宮は当時の事件を起こした人物を訪ねることにした。つまり、坂下少年を。
恩師とはいえ、すでに亡くなっている稲葉のために、ここまでする必要があるのか。そんな心の声に耳を塞ぎ、彼の力になることを選んだ。おそらく、幽霊となった彼を見掛けるようになった時点で、こうするしか選択肢はなかった。自分の身に何が起きているのかを考えると、罪悪感から、幽霊の言葉を無視することはできなかったのだ。
坂下少年の母親の経営するスナックは、同じ市内の駅付近に存在していた。どうやら、現在も商売は続いているらしい。その情報を与えてくれたのはさつきだった。
——この住所のとこに行ってみなよぉ。
まったく、さつきには敵わない。いつの間に、坂下少年の母親の居場所まで調べていたのか。稲葉と出会った梅宮よりも、彼女の方が大きな貢献をしているではないか。彼女がどのようにしてその住所を突き止めたのか、それに関しては尋ねられずにいた。調査の方法まで教えてもらうのは、探偵に対して踏み込み過ぎというものだろう。それに、想像できないわけでもない。
駅前の大通りから一本裏へ入ったところに、その店はあった。似たような形の店舗が三軒隣り合って立ち並び、坂下の母親の店は、その右端に位置している。『Kyoko』と書かれた看板が掛かっており、おそらく、母親自身の名に違いない。
梅宮は、こういった店に入るのが初めてだった。友人と居酒屋へ行くことはあっても、スナックやキャバクラなどという類の店は敬遠してきた。酒の強い者しか入ってはならないという先入観によるものだろう。
時間は午後五時前、まだ開店すらしていない様子だった。開店と同時に訪ねるべきか、それとも、プライベートの用として入るべきか。僅かに難しい問題だった。
梅宮が店の入り口で迷っていると、何の前触れもなく、目の前の扉が横にスライドした。チリンチリンというどこかで聞いたことのあるような音とともに、中から一人の女性が現れた。
「あら、お客さん?」
派手な化粧をした四十代と思われる女性に尋ねられる。二秒間計算した後、梅宮は頷くことにした。
「ちょっと待ってね、まさか待っててくれる人がいるなんて思わなくて」
女性は慌てたように店の看板を『OPEN』にひっくり返し、営業スマイルで「中に入って」と声を掛けてきた。梅宮はどうすべきか迷いながらも、おとなしく指示に従うことにした。
店内はそれほど広くなく、カウンター席が六つと、四人がけのテーブル席が二つ。椅子の数は十四個となる。梅宮は戸惑いながら、カウンター席の手前から二番目に腰掛け、店内の様子を見渡す。壁には昭和を感じさせるポスターや、ざっくりとした字で書かれたメニューが貼ってある。この店のママである彼女の字かもしれない。酒類の名前も書かれているが、梅宮には、そのほとんどがイメージできないものばかりだった。
「ごめんなさいね、お待たせしちゃって」
「いえ、こちらこそです」
女性が店内へ戻ってきて、後ろ手でドアを閉める。再び、チリンチリンと懐かしい音が響いた。
「初めての方よね。学生さん?」
カウンターの向こう側へ入りながら、女性が声を掛けてくる。正直に話すことでもないが、梅宮は笑顔を作って「社会人です」と返事をしておいた。
「若い人が一人ってのは珍しいのよねぇ。酔っぱらってお友達と一緒に来てくれることはあるんだけど。私のこと、ママって呼んでね。みんなそう呼ぶのよ」
笑って話しながら、ママはおしぼりとお冷やを出した。
「何にする?」
メニューのことを言っているのだろう。カウンターに貼られたメニュー表を確認し、当たり障りのない生ビールを注文する。梅宮の経験上、一・二杯程度なら、頭が働いたままでいられる。
「どんなお仕事をされてるの?」
「普通の会社員ですよ。休みなんで、たまには外に出ようかと」
ママは無言のまま笑顔で頷き、背にしている棚のジョッキに手を伸ばす。
「もうすぐ、他にも何人かみえると思うわ。いっつも来てくれる人たちがいるから。ホントにありがたいの」
ママの様子を眺めながら、梅宮は彼女に対する印象が間違っていたことを知った。水商売をしているシングルマザーという情報だけを聞き、勝手に大阪のおばちゃんのような女性を想像していた。仕事用の振る舞いなのかもしれないが、目の前の女性から、想像以上の品位を感じられた。男にだらしなく、子供の世話もロクにしないようなタイプではなさそうだ。心の中で密かに謝罪しておいた。
「お兄さん、何か悩み事でもあるような顔ね」
梅宮が夢の世界へ旅立っているうちに、目の前にママの顔が迫ってきていた。カウンターに被さるように、梅宮の顔を覗き込んでいる。
「悩み事———。そうですね、たくさんあって困ります」
「話してみてよ。誰かに話すだけでも、案外楽になるものよ」
ママは自分の胸を拳でドンと叩き、年長者らしい振る舞いをみせた。
「稲葉先生をご存知ですか?」
それまで笑っていたママの顔に、一瞬で真剣な色が浮かんだ。表情を崩さないままだが、不安や憎しみとは違う感情が浮かんでいて、驚きが全面に表れていた。
「お兄さん、どなた?」
必死に営業スマイルを維持しているのだろう。ママの表情に、ぎこちなさが生まれている。
「黙っていてすみません。稲葉先生に担任をしてもらっていた者です。特別親しかったわけでもないんですけど」
「でも、ウチへ来たってことは、・・色々知っているんでしょう?」
「はい。教えて欲しいことがあります」
出されたジョッキに手を掛け、勢いよく飲み込む。酒の力を借りたいときもある。
「息子さんと武藤くんのケンカのことで、稲葉先生は不思議な行動をとっていますよね。その理由を知りたいんです」
「知ってどうするつもり? 稲葉先生が亡くなっていることは?」
「知っています」
ママと視線がぶつかる。互いに、譲れない思いを持っていた。
「・・いまさら、こんなことを訊かれるなんてねぇ。どこまで知ってるの? ホントにただの教え子?」
「それは本当です。先生について知る機会があって、詳しいことを知りたくなっただけで。亡くなっていることも、つい最近知りました」
梅宮の言葉を信じたのかわからないが、ママは警戒心を解いたようだった。カウンターの向こうで椅子に腰掛け、胸ポケットから煙草を取り出す。
「いい?」
梅宮が頷くと同時にライターで火を点け、深く息を吸った。梅宮も煙草を取り出すと、ママが無言で微笑んだ。二人で煙を吐き、ゆるやかな時間が過ぎる。
「ウチの息子が武藤くんに大けがをさせちゃってね。それはもう大変だったの。親としては責任とらなくちゃって思ったし、しかもほら、あたしってばこんな仕事だし、片親だし。普通よりもしっかりしてなきゃ、息子まで低く見られちゃいそうでね」
改めてママの横顔を眺めると、年相応以上のシワが確認できた。化粧や服装で若作りをしていても、彼女からにじみ出る本質は隠せていなかった。
「ママさんは、事件のことをいつ知ったんですか?」
「夕方のことだったから、店の準備していたのよ。そしたら家に稲葉先生から電話が掛かってきて、あの子が病院にいるから来て欲しいって。ビックリしてすぐに飛んでいったら、もっとビックリしたわ。あの子が怪我をしたんじゃなくて、武藤くんの方が治療を受けてて。てっきり虐められたものだとばかり思ってたから」
「そこには、誰が?」
「武藤くんは病室にいて、稲葉先生とあの子が廊下にいたわ。先生が付き添ってる感じで」
「息子さんは、もうおとなしかったんですか?」
「うん、あたしの顔も見ずに俯いてて。先生に事情を訊いたら、教室で遊んでたらこうなったって言われたの。だから、正直ホッとしたのよ。あの子が怪我をしなくてよかったって。・・母親はそんなものなの」
ママが申し訳なさそうに言う。別に謝ることではないだろう。当時の稲葉の言葉を信じれば、我が子の無事に安心するのはもっともなのだから。
「その後で、武藤くんの御両親もいらしてね。先生は同じ説明をしたの。だからその時は、うちの子が責められることはなかった。武藤さんも、子供の無事を祈るだけっていうか」
「でも、実際は違ったわけですよね。武藤くんが目覚めて、真実が明らかになった」
「そう。武藤くんが話したの。うちの子に殴られたって。それまでは事故だと思ってたから想像もしなかったけど、あの子が自分で認めたわ・・。落としてバラバラになってたみたいだけど、花瓶を調べたらうちの子の指紋も出てきたんでしょうね」
「大変な騒ぎにはならなかったんですか?」
岬からは、そこまで大事にはならなかったと聞いている。梅宮には、それが理解できなかった。一般的には、梅宮の想像では、大変な騒ぎになるはずだからだ。だが、実際には、別の問題が発生しただけだった。
「武藤くんの御両親からは、しっかりとお叱りを受けたわ。ま、当然だけど」
煙草の煙を頭上へ吐き出し、ママが辛い過去に耐えるように唇を噛んだ。
「先生は、武藤くんのご両親には何と説明したんでしょうか」
「わからない。勘違いだったとか、そういう言い方したのかしら」
「納得するわけがないですよね?」
「でしょうね。でも、どうしてかしら。いま思うと、不思議なほどアッサリ終わったのよ」
「先生は、どうしてケンカのことを隠そうとしたんでしょう・・」
「たぶん、あたしたちに同情したんじゃないかしら。ほら、片親だし、あたしはこんなだし。それで暴力事件なんて起こしちゃったら、余計に孤立しちゃうから」
「でも、先生はそれだけで事件を隠すような人じゃないと思うんです」
少なくとも、梅宮の知る稲葉は、そんなことをする人物ではなかった。嘘がバレることを予想できないほど愚かではないし、それをするリスクだって計算できたはずだ。にも関わらず、彼は嘘をつかなければならなかった。梅宮には、その理由が見えてこなかった。
「あたしも不思議だった。真面目で、問題を起こすような軽い人でもないと思ってたから。なのに、稲葉先生は一言も言い訳せずに処分を受けたの。退職されたわ」
「どうして・・」
梅宮が疑問に感じていると、店の入り口からあの音が聞こえてきた。
ようやくここがスナックであることを思い出し、梅宮は一人の客を振る舞うことにした。ママはさすがにプロだ。梅宮よりも早く、一瞬のうちに営業スマイルを見せ、二人組の客の対応をしている。初めて見る梅宮が気になる様子のまま、二人組はカウンターに腰掛けた。
その後はただの客を装い、時折ママと世間話をし、男性二人組と親しくなりかけたところで店を出た。梅宮が振り返って『Kyoko』の看板を見つめていると、再び店の扉が開かれた。せっかく、七秒前に閉めたというのに。
「どうしたんですか?」
「・・最後に、言っておこうかなって」
ママは乱れた呼吸を落ち着けながら、ためらいを取り払うかのように深呼吸をした。彼女の口から出る言葉を待ちながら、梅宮も覚悟を決める。稲葉の心を覗く覚悟を。
「たぶん、あの子が施設で育てられたことを気に掛けてくれていたんだと思うの」
「施設、ですか」
「そう。児童養護施設。あたしたち、血がつながってないのよ」
悲しみなのか寂しさなのか、ママの表情からは感情を読み取れなかった。それでも、嘘や冗談ではないことは伝わってくる。梅宮が、都合良く解釈しているだけかもしれないが。
「あとね、稲葉先生とあたしの間には何もなかった。それだけは信じて欲しいの」
補足された内容に、僅かに驚いた。やはり、当時からそういった噂が広がっていたのだろう。
「先生がママさんのお店を訪れていたのは、単なる客としてってことですよね?」
「そう。男女の関係とか、そういう噂は間違ってるから。信じないで欲しい。・・いい年したおばさんが何言ってんだろうね」
気恥ずかしさを誤魔化すように、ママがドレスの裾を払う。梅宮がしっかりと頷くと、ママも頭を下げて店の中に消えた。
梅宮も深く息を吐く。煙草とは違う煙が、視界を遮る。
冬はまだ、終わってなどいない。
5
「いいこと教えてあげようか」
さつきがニヤリとした表情を見せ、梅宮を挑発している。
昨晩、坂下少年の母親との会話を終え、自宅で稲葉の気持ちをトレースしようと試みた。暴力を振るった坂下少年を庇った理由。何も言わず、責任を問われて辞職した理由。そして、娘への後悔から、幽霊として梅宮の前に現れた理由。結局、そのどれにも納得できる答えは見つかっていない。また、あれ以降、梅宮は稲葉と再会できていない。
「重要なのはね、坂下くんの家族と、稲葉先生の家族の問題だよ」
「まさか、もう調べたの?」
「ふふん、せやせや」
さつきが胸を張って、したり顔をしている。どうやって二組の家族について調べあげたのか。その方法に目処がつかないわけではないが、追求しないでおく。
「坂下くんとお母さん、血がつながっていないの」
「あぁ。それはお母さんが言ってたな」
「あ、そこは知ってるんだ。じゃあこれは? 稲葉先生と娘さんはね・・」
そこまで話し、梅宮の反応を愉しむようにさつきがにやつく(・・・・)。まるで弄ばれているような気分だった。もしかすると、実際にそうなのかもしれない。
「さっさと教えてさ」
梅宮が先を促そうとしたとき、
「さつきちゃーん、いるのー?」
部屋の外から女性の声が届いた。正確には、階段の下にいるトキ婆の声だ。
「いるよー!」
さつきが首を捻って振り返り、扉越しに大声で返事をする。
「さつきちゃーん」
一階にいるトキ婆には聞こえていない。仕方なく、梅宮が動くことにした。
「部屋にいますよー。どうかしました?」
さつきの部屋のドアを開け、階段の下へ向かって声を出す。
「あぁ、拓也くんもいるんだったねぇ。すまないけれど、ちょっと助けてほしくて」
「はーい、すぐ行きまーす!」
一度部屋の中へ振り返り、さつきに視線を送る。勝手に行ってきて、とでもいわんばかりの表情で彼女が笑う。———まったく、面倒ごとは全て押し付ける気か。
さつきの部屋を出て、リビングにいると思われるトキ婆を探した。案の定、彼女はリビングのキッチンにおり、頭上にある棚を見上げていた。
「鍋を取りたいんだけどねぇ、婆ちゃんにはしんどくて」
「大丈夫ですよ、俺がやります」
リビングの中を進み、トキ婆の隣まで移動する。これだけ近い位置にいると、トキ婆の身長が低いことに改めて気づかされる。おそらく、百五十センチもないだろう。頭上の棚から重い鍋を取り出すなど、危険すぎてやらせるわけにはいかない。本来ならさつきがやるべき作業なのだが。そもそも、なぜこんな高いところに鍋があるのか。普段は使っていないはずなのに。
「よぃっしょっと」
「すまないねぇ。本当に助かるよ」
まるで仏を拝むように両手を合わせるトキ婆を見ると、苦笑いがこぼれてしまった。拝む相手が違うのではないか。
「さつきちゃんは相変わらずかい?」
「うん、部屋の中から出る気はないみたい」
「たまには太陽の光をたくさん浴びてほしいんだけれど・・」
「俺から言っておきます」
「お願いするよ。さつきちゃんには、婆ちゃんの言葉は響かないみたいでねぇ」
困ったようにため息をつきながら、それでもトキ婆はどこか喜んでいるようでもある。孫に関する話ができるのが嬉しいのかもしれない。
「最近、いつの間にか出掛けていたこともあったみたいですし、心配しなくても大丈夫ですよ」
「そうなのかい? わたしゃ全く気がつかなかったよ。まったく、このオンボロの耳じゃぁね・・」
両耳をポンポンと叩き、しわくちゃの顔で笑う。彼女の人生や経験が、柔らかな表情として表れるのが好きだった。
「それじゃあ、行くね」
「夕飯は食べてくだろう?」
「うん、お願いしようかな」
「任せといてくれ」
右手を硬く握り、トキ婆がガッツポーズのような姿勢を作る。昔から、梅宮はこの人が好きだった。優しくて、強いのだ。
さつきの部屋へ戻ると、彼女はベッドにうつ伏せの状態でだらけていた。左手を持ち上げるだけで挨拶をし、梅宮の方へ顔を向けようともしない。
「さっきの続き、話してよ」
「・・なんだっけ」
「稲葉先生の家族に関すること。坂下くんとお母さんの血がつながっていないってのは聞いたよ」
「あぁ・・。育ての母ってことになるね。坂下くん、児童擁護施設にいたみたいだから」
「稲葉先生の方は?」
「坂下くんを引き取ってすぐに、お父さんが亡くなったみたい。『お義父さん』がね」
梅宮の質問をはぐらかすかのように、さつきがズレた答えを返してくる。彼女の意図がわからなかった。
「それと稲葉先生が関係してるってことはさ。つまり、そういうこと?」
「さぁ。自分で考えたら?」
「なんで機嫌悪いんだよ」
それすらも答えず、さつきは枕に顔を埋める。トキ婆の手伝いをしたことが、それほどまでに不満だったのか。彼女の代わりに働いたのだから、文句を言われる筋合いはないように感じられるのだが。
「・・ばあちゃん、どうだった?」
「大丈夫、普通だった。さつきが太陽の光を浴びてるのかって、心配してたぞ」
「ふん。皮肉かもね」
枕に顔を埋めたまま、さつきが両手で敷き布団を叩く。溺れかけている人がもがくような動きに近かった。
トキ婆にそのつもりがなくとも、さつきが皮肉と受け止めてしまうのも仕方がない。彼女はひきこもりで、ほとんど家からでない。というよりも、部屋から出ようとしないのだから。食事に関しては、こっそりと冷蔵庫を漁り、適当に食べているのだと思う。
彼女がこうなってしまった理由は、梅宮にも関係している。梅宮自身、責任を感じているほどに。だからこそ、部屋にひきこもるようになったさつきを責めたことはなかったし、無理やり連れ出そうともしなかった。それでも、最近は家の外にも出ているはず。稲葉や坂下少年に関する情報を入手しているのだから、そうでなくてはおかしい。
「それで、稲葉先生と坂下くんの間に、何か関係があるってこと?」
「・・違うと思うよ」
やれやれ、という態度でさつきが体を起こす。ベッドの上で女の子座りをし、見上げるような形で梅宮に視線を送る。
「稲葉先生んちの問題っていうのはね、坂下くんちと同じなんだ」
彼女の言葉を頭の中で反芻する。坂下少年の家の問題と同じ。彼の家の問題とは、何だったか。
「わかった?」
「・・本当に? 証拠はあるの?」
「うん。こう言えばわかるかな。『稲葉先生は、子供を作れない』」
思わず言葉が出なかった。呼吸をしていることにも気づかぬほど、さつきの言葉を受け止めるのにエネルギーを使ってしまう。
「それじゃあ、稲葉先生の娘さんも、施設で育てられた子だったの?」
「そこがなぁ、問題なんだよねぇ」
ようやく機嫌を直したのか、さつきが渇いた声で笑う。何かに困った様子で。
「娘の———、岬さんだっけ。彼女は正真正銘、稲葉先生の奥さんと血が繋がってるみたいなの」
「・・うわ、想像以上にヘヴィーだった」
「だよねぇ。でも、これでわかったでしょ? 稲葉先生の気持ちが」
『わからなければバカだよ』という顔で見られると、否が応でも頷いてしまった。本当は、まだ全てを理解できているわけではない。理解するための情報が集まったにすぎない。ひとつ確かなのは、稲葉に失望しなくて済んだ、ということだけだ。
「必死に考えてるとこ悪いんだけどさぁ」
「ん?」
「どこで、稲葉先生と出会ったの?」
さつきが挑発するように言う。そう、さつきは稲葉の家族や、彼自身について調べ上げたのだ。稲葉が亡くなっていることまで知っていて当然だった。
「えっとね・・。同級生からそういう話を聞いただけでさ。会ったなんて言ったっけ?」
「ヘタクソ」
全力の笑顔で、さつきが心を抉ってくる。梅宮は何も言い返せなかった。それでも、さほど嫌な気はしない。さつきが少しでも楽しんでくれているなら構わない。
「それじゃ、あとは梅ちゃんに任せるよ。稲葉先生の頼みを叶えてあげて。死んじゃってる人から、どうやって頼まれたのか知らないけどさ」
首を左右に振りながら、悪戯っ子のようにケラケラと笑う。
さつきの楽しそうな姿を見ただけで、稲葉に関する相談をしてよかったと思える。幽霊から頼み事をされたなどと話す、頭のおかしいやつだと思われても構わない。彼女のためなら、その程度の汚名を被ることくらい何の苦でもない。それに、亡くなった者を助けるのは自分の役目だ。
「色々ありがとう」
さつきの返事を期待せずに立ち上がる。彼女がひらひらと手を振るのが視界に入った。梅宮は歩き出し、無言で彼女の部屋をあとにする。
さて、ここからが問題だ。どうやって、稲葉と再会すればよいのか。その方法は、何一つ思いついていない。
「あれ、帰っちゃうのかい?」
玄関で靴を履こうとしていると、リビングから顔だけを出してトキ婆が声を掛けてきた。そういえば、夕飯を御馳走してもらうことになっていた気がする。
「ごめん、ちょっと用ができて。もしかしたら、また来るかも」
「残念だねぇ。また婆ちゃん一人の食事か」
再度謝り、梅宮はさつきの家を出た。確かに、トキ婆を一人きりで食事させるのは気が引ける。さっさと稲葉と再会し、ここへ戻ってきたい。そうすれば、さつきと顔を合わせることもできるのだから。
6
そのときは、唐突に訪れた。梅宮が自宅へ戻り、部屋着に着替えていたときのこと。チャイムの音とともに訪問者がやってきて、梅宮には、それが何かの合図にも感じられた。
「よくここがわかりましたね」
「密かにストーキングしていたからな」
玄関で、男二人が向かい合う。年上の男から言われるとは思わなかったが、特に批難せずに招き入れることにした。稲葉もどうすればよいのか困った様子で、梅宮と視線を合わさぬようにして部屋へ上がってきた。幽霊になっても、きちんと靴を脱いでいる。脱いだ靴も、他の者からは見えないのだろうか。非常に興味があったが、それよりも先に解決すべき問題が山積みだった。
「何か飲みますか? というか飲めるんですか?」
「飲めるが、必要ない。気を遣わないでくれ」
二部屋あるうちの、フローリングの部屋へ入る。もう一方は和室だ。梅宮は普段から使っているデスクチェアーに腰掛け、稲葉に余りの椅子を勧める。彼がおとなしく腰を下ろしたところで、本題に入ることにした。
「娘さんの結婚をお祝いしたいということですが、どうする気ですか?」
「考えたんだが、やはりお前の力を借りることにした」
「具体的には?」
梅宮は何も聞かされていない。稲葉と顔を合わせた時間が短いのだから当然だ。
「俺が手紙でも書いて、お前から渡してもらう」
「手紙書けるんですか? 飲み物も飲めるって言ってましたけど」
「できる。証明してやろうか? 悪いが、何かもらえないか」
稲葉が、周囲を捜索するようにキョロキョロと顔を動かす。結局か、という文句を飲み込み、キッチンからお茶を取ってくることにした。
稲葉の前にコップを差し出すと、彼が躊躇することなく手を伸ばした。生きている人間と変わらぬ様子で、コップの中の液体は減っていく。ものの十秒もしないうちに、用意したお茶は稲葉の体内へ消えた。それは、この世から消えたということになるのだろうか。
「どうだ」
「理解できません」
「だろうな。味もわかるんだぞ」
「トイレは?」
「その気になれば、できる気がする」
これ以上は、理屈で考えても仕方がないように思えた。なんにせよ、稲葉は物を手に取ることができるし、食事もできる。きっと、自分以外の人間が見れば、コップがひとりでに宙に浮いたように見えるはずだ。———あまり、真剣に考えない方がいいかもしれない。
「手紙を渡したって、先生からのものだとは思わないでしょう」
「そこは工夫するさ」
「先生の自己満足で終わりませんか? 娘さんに謝って、祝福する気持ちを伝えたんだって、そう思いたいだけにも見えますけど」
「痛いとこを突くんだな・・」
おそらくは自覚があるのだろう。稲葉はため息をつき、それ以上の案を持ち合わせていないことを伺わせた。
「先生、一つ訊きたいことがあって。坂下くんを庇ったのは、娘さんと重なったからですか?」
「なんのことだ」
「今更隠さないでください。こっちは先生のために色々調べたんですよ」
——さつきが、だけど。
「坂下くんは施設で育てられて、いまの御両親に引き取られた。離婚されて、いまはお母さん一人ですが。そして、先生と娘さんは血が繋がっていない。似たような境遇から、彼を放っておけなかったのではありませんか?」
「坂下の家庭の事情は関係がない。それに、俺と娘の血が繋がっていない証拠はあるのか」
「病院で調べたんです」
——さつきが。
「先生は、子供を作れない体なんでしょう? 岬さんと先生の血が繋がっているはずがない。男は無力ですね」
「調べたって・・、どうやったんだ」
「そんなことは問題じゃないんですよ、残念ながら。でも、岬さんと重なったからといって、坂下くんを庇った理由がわからない。話してください、きちんと」
しばらくの間、稲葉は口を開こうとはしなかった。コップの一点を見つめたまま、当時を思い出しているのか、話すべきか迷っているのか。それでも、決意したように顔を上げると、ハッキリとした口調で話し出した。
「家庭に恵まれた生徒と、そうでない生徒。どちらを守るべきだと思う」
「それは・・、恵まれてない生徒でしょうか」
「違う。どちらにも差をつけてはならないんだ。教師という立場であれば」
ひっかけ問題かと不満に思いながら、梅宮は次の言葉を待った。
「それでも、どうしても私情を挟んでしまうことがある。あのときの俺は、教師としては失格だった。家族から憎まれてもしかたない」
「それでも、坂下くんはいま、きちんと学校に行っているようです。結果的にはよかったんじゃないですか?」
「結果論だろう。武藤だってバリバリ勉強をしている。あいつの場合は、そもそも頭がよかったからな。心配すらしていなかったが」
現在の武藤のことも知っているようだ。どこかで出会っていたのかもしれない。
「ただ、どうしても坂下には知って欲しかった。自らの境遇だけが、人生のベースになるのではないことを。・・梅宮お前、これも知ってるか? あの日、武藤が坂下を呼び出してちょっかいを出していたわけじゃないんだ。むしろ逆だった」
「坂下くんが呼び出した側って意味ですか?」
そんなことは誰の口からも聞かされていない。それこそが、隠された真実に思えて仕方がなかった。
「普段、武藤が坂下をからかっていたのは事実だ。『からかっていた』だなんて、いじめを黙認してきた学校側が使いそうなセリフだな。———まぁいい。あの日、坂下は復讐をしようとしたんだ。最初から、武藤を殴る気だった」
「本人がそう言っていたんですか?」
稲葉が無言で視線を送ってくる。わざわざ口にするまでもないということか。
「その結果どうなるのか、考えていなかったそうだ。怒りに我を忘れるっていうのは、子供らしくて好きだけどな。ただ、あいつはやりすぎた。あそこまで怪我をさせる必要はなかったんだ。本人もビックリしていたくらいだが」
「先生は、それを隠そうとしたんですか? 坂下くんに悪意があったということを」
「いや、そうじゃない。それだけじゃないと言うべきか。考えてもみろ、その事実は隠しようがないだろう? 殴っちまった以上、坂下が責められるのはしかたない。それでも、あいつをひとりぼっちにするわけにはいかなかったんだ」
「ひとりぼっち?」
稲葉は頷き、強い眼差しで口を開く。
「あいつにも、味方がいることを教えてやりたかった。どんなに不幸に思えたって、家族や友人もいるし、俺たち教師もいる。そこに血の繋がりはなくたって、信頼し合うことはできるはずだろ」
「そのために、坂下くんを庇ったんですね?」
「武藤から、母親のことをからかわれていたからな。飲み屋と風俗の違いもわからんのだろうから、しかたない部分もある。ただ、あいつの母親はちゃんとした人だ。外見や職業で判断するのは間違っている。まぁ、子供に言ってもしかたないが」
確かに、梅宮が会ってきた坂下の母親は、まともな人物だった。『まともな』と思ってしまった時点で、梅宮が偏見を持っていた証拠になってしまうかもしれない。
「先生は、坂下くんのお母さんのお店へ通っていたんですよね。それは、単なる客としてですか?」
「微妙なところだ。客としてでもあるが、坂下のことが気掛かりで、話を訊きにいっていたというのもある。飲み屋であれば、やっかいな保護者と出くわすことも少ないだろうとタカをくくっていたんだ。・・特に、女親とは」
「お母さんは、坂下くんがいじめられていることを知っていましたか?」
「あぁ。だから、俺から様子を伝える意味もあった。おとなしく過ごしているが、いまの段階ではそこまで深刻な問題ではないということを。・・ある意味、俺自身が、無力な自分を認めたくなかったというのもあるな」
当時を振り返るように、稲葉が天井を見上げる。唸るような声が漏れ、彼の無念さが部屋に響く。当時の事件については、梅宮にも概ね理解できた。稲葉の目的も、それを実行した動機も。だが、まだ謎は残っている。
「先生、質問を変えます。どうして、ご家族にそれを説明しなかったんですか? 教師としては許されることではないかもしれませんが、話せば理解してもらえる面もあるはずです。ここまでの関係になることは避けられたかもしれない」
梅宮の質問に、稲葉が大きく首を振って否定する。
「説明なんてできると思うか? 『坂下は親と血がつながっていなくて不幸だから、俺が助けてやるんだ』って。俺にそんなことを言えと?」
稲葉からの視線に、心を抉られそうになる。彼の切実な思いが、苦痛が、梅宮の体内にも浸透してくる。彼がどのような気持ちで、家族と過ごしてきたのかを考えれば、それが容易でないことを容易に理解できた。
「でも、それじゃあご家族はどうなるんですか? 大黒柱の父親が問題を起こして、残されたお二人はつらい思いをされている。せめて、言い訳だけでもしてあげていれば・・」
「俺だって、なんとかしたかった。だが、その前にこうなっちまったんだよ」
「先生は、自殺したわけじゃないんですね?」
「当たり前だろう。どうして俺が自殺しなきゃならん。そんなことをして、家族にも坂下にも合わせる顔がない」
「実際、もう会えないしな・・」という言葉は、稲葉を直視しながら聞けるものではなかった。彼は、もう二度と家族と再会することができないのだから。
「せめて、それだけでも伝えてあげていれば・・」
稲葉の家族が、本当に不憫でならなかった。残された二人は、稲葉に裏切られたと思い続け、憎みながら生きている。誰も幸せになれていない。娘の岬は近いうちに結婚するというが、相手の家族に、父親について何と話しているのだろう。誤魔化しながら、事故で亡くなったとだけ言うのか。せめて、稲葉が彼女たちを愛していたことだけは伝えてやりたい。それだけでも、意味はあるはずなのだから。伝えなくてはならない。
「先生、伝えましょう」
「なんだ急に」
「だから、娘さんたちに、先生の本当の想いを伝えましょう」
「手紙でか? 書くつもりだぞ」
稲葉は、梅宮の意図を全く理解できていない。隠し続けてきた秘密を明らかにしながら、自分一人でけじめをつけようとしている。
「娘さんの結婚式はいつですか?」
「・・三日後の水曜だ。なんだ、出席する気になったのか」
「いや、それは無理です。ただ、別の方法はあると思います」
稲葉は首を傾げながら、理解できない様子で考え込んでいる。
「人の気持ちなんて物質的に伝えるものじゃありません。確固たる想いは、どうやったって伝わるものです」
梅宮は立ち上がり、最後の大仕事に取り掛かることにした。
7
高部岬は、三日後に控えた結婚式の準備に追われていた。式場の手配や引き出物などの用意をようやく終え、残るは自分たち二人の支度だけ。夫となる啓介は、今日の仕事を早めに切り上げて帰ってくるようで、夕飯までに美容院や買い物を済ませておかなければならなかった。数ヶ月前から準備を始めていたというのに、自分たちの手際の悪さにため息が出る。ひょっとすると、これが噂のマリッジブルーというものなのか。
それでも、どんな困難でも乗り越えたいと思えるほど、啓介は素敵な人物だった。どうして自分を選んでくれたのかと疑問に思うほど、結婚相手として素晴らしすぎる相手だ。こんな、外見も学歴も目立たず、さほど若いわけでもなく、片親の自分が、彼のような素敵な男性と結婚できるとは思ってもみなかった。これまでの人生が不幸だった分、溜め込んでいた幸せが訪れているのかもしれない。そうであれば、この不安定な幸せが、いつ崩れてしまってもおかしくない。早いうちから、覚悟しておくべきだろうか。
独身最後となる一人での外食を終え、美容院までの時間をどこかで潰すことにした。昔から懐かしんできた公園が近くにあることはわかっている。幼い頃は、そこで両親や友人と遊んでいた。だが、いまとなっては、歪んだ思い出と共にある。これまで、なかなか足を踏み入れることができなかった。
それでも、なぜだろう。自分の過去を乗り越えるつもりになったのか。不思議とそこへ向かう気が起きた。暖かくなり始めたこの時期に、ベンチで休憩するのも悪くないとでも思ったのか。岬は、僅かな高揚感とともに歩き出した。
これまでは柵の外から眺めているだけだった公園も、いざ入ってしまえば、恐れる必要のないものだったとわかる。遊具でおじいさんと遊ぶ少女がいて、彼女のケラケラと笑う声が響いている。いつか、自分にもあんな可愛らしい娘が欲しい。啓介なら、立派な父親になってくれるに違いない。———あの人とは違って。
岬がベンチに近づき、ハンドバッグを置いた瞬間だった。突然、ベンチに置いたはずのハンドバッグが宙に浮き、目の前を移動し始めた。まるで、それだけが無重力状態であるかのように。
あまりの驚きから、岬は声を出すこともできず、ただ両目を開き続けていた。その間にもハンドバッグは宙に浮いた状態で、岬の腰と同程度の高さを移動していく。テレビ番組のドッキリ企画で、何かしらのトリックが仕込まれているのかもしれない。そのように冷静に考えることはできなかった。
岬は慌てて駆け出し、バッグのあとを追った。不気味に感じる気持ちが強すぎて、走れば追いつける距離にも関わらず、数メートル後ろをついていくことしかできなかった。そして、バッグは公園の倉庫の裏へ消えた。
岬は息を止めて、向こう側へ顔を覗かせる覚悟を決める。そこに、何か恐ろしい魔物がいてもおかしくはない。それほど、超常現象とも呼べる状況に出くわしているのだから。
だが、そこにいたのは魔物でもテレビ番組のスタッフでもなく、ただ一人の少年だった。岬より年下の、まだ中学生のような少年だ。予想外の状況に、岬の心に不安が浮かんでくる。
「すいません、驚かないでください」
「あの・・、私のバッグが・・」
「どうぞ」
ようやく、岬は少年が自分のハンドバッグを持っていることに気づいた。先程まで宙を浮いていたバッグは、おとなしく少年の両手に支えられている。
「どうも・・」
「高部岬さんですよね・・?」
なぜ自分の名前を知っているのだろう。それも、先日入籍したばかりの名字まで。岬は警戒心を強めて右足を後ろへ引き、つま先に重心を置きながら頷いた。
「オレ、稲葉先生のクラスだったんです。坂下って言います」
——まただ。最近になって、自分の周りにあの人の名を口にする人物がよく現れる。まるで、自分の結婚を阻止するように。
「アナタに伝えたいことがあって。ちょっといいですか?」
「えぇ・・、まぁ」
「稲葉先生から助けてもらったことがあるんです。恥ずかしいけどオレ、前に友達を怪我させちゃったことがあって。そのとき、先生から死ぬほど叱られたんです。・・急に何の話だよって感じですよね、すいません」
少年が困ったように苦笑いをする。
岬は、彼が話し出した内容に戸惑いを隠し切れなかった。目の前にいるのが、自分の父親であるあの男の起こした事件に関わっていた『坂下』であること、その人物が、突然自分の前に現れたこと。これは偶然なのか?
「それで、たぶんなんですけど、先生があんなことした理由もわかったんです。最近になって。あのとき先生が庇ってくれて、叱ってくれなきゃ、オレはグレてたと思うんですよ。たぶん、周りからも避けられたと思うし。だから、先生には感謝してもしきれないっていうか」
「どうして、それを私に話すんですか? もう終わったことですよね」
「まぁ、そうなんですけど・・。先生はもう亡くなっちゃったし、何も変えられないんですけど。ただ一つ、知っておいて欲しいことがあって。———稲葉先生と、アナタのお父さんとウチの母さん、別にそういう関係じゃないんで。ウチの店に来てくれてたみたいですけど、噂みたいなことにはなってませんから」
「もうその話はやめて! ・・忘れたいの」
思わず感情が高ぶってしまい、抑えようにも間に合わなかった。いますぐに耳を塞ぎたい。この場から逃げ去ってしまいたい。それなのに、なぜだろう。体の後ろに壁があるかのように、少年に背を向けることに抵抗を感じてしまう。
「先生は、最後までオレの味方でした。何も言わずに学校を辞めちゃったけど、たまに手紙のやり取りをしてたんです」
少年はショルダーバッグに手を掛け、中から何かを取り出している。それを目の当たりにしながら、岬は、父親を庇うような目の前の少年に対し、敵意を丸出しにすることしかできなかった。自分の人生をメチャクチャにしたあの男を恨み続けることしか、復讐する方法がないからだ。
「先生、何度も言ってくれました。『味方は近くにいる、ひとりぼっちの人間はいない』って」
少年が恐る恐る差し出した数枚の手紙を、岬は数秒間考えた後で受け取ることにした。あの男が書いた手紙になど、触れることすら不快に思えたが。
「でも、謝りたくって。オレのせいであんなことになったし、先生はオレ以上にツラい思いをしてたはずだし。・・でも、申し訳ないけど、オレは嬉しかったんです。本気で叱ってもらったことが。まぁ、あのときはふてくされたけど」
後悔のなさそうな、クリアな声が聞こえる。
それでも、岬は何も吹っ切れてなどいない。どうして、あの男は自分の家族よりも、学校の生徒を優先したのか。自分と母親を見捨てて勝手に自殺をし、何が『ひとりぼっちじゃない』なのか。
「最後の日、先生が亡くなった日ですけど。先生、ウチに来てくれることになってたんです。オレに会いに来てくれるはずだった」
——会いに来てくれる? あの人は、運転していた車ごと自殺を図ったと聞かされているのだが。
「その途中で運転をミスって、あんなことになっちゃって・・。警察の人も言ってましたよね。何もない所なのに、どうて事故なんかって。オレたちがそれを知ったのは次の日でした。驚いたし、泣いたし、何かしなきゃって思った。でも、オレも母さんも、会うはずだったことを言えなかった。そんなことを口にしたら、また先生と母さんの間を疑われちゃうから。それに、ソチラに余計ツラい思いをさせるから。・・でも、ちゃんと言うべきだった。先生が自殺したなんて、勝手な判断をされちゃうとは思わなかったんです・・」
次第に、少年の声に力がなくなる。後悔に押しつぶされるように頭を垂れて、そのまま地面に倒れ込みそうになるほど。
「だから・・。本当に、すいませんでした」
少年が、深く頭を下げている。不器用な体さばきで、本人なりに必死に謝罪をしている。言葉以上に、彼の態度から、それが真剣であることが伝わってくる。
岬は、言葉を発することができなかった。あの男への恨みは、いつになっても消えない。これまでの四年間もそうだったように、恨み続けることが、生きるエネルギーへと変換されるはずだ。この手に掴んだ数枚の手紙も、いますぐに握りつぶして捨ててしまいたい。
——それなのに、どうしてこれほどまでに苦しいのだろう。重要な何かに気づかされたように、体の底を揺さぶられる感覚の正体は何だ。
「すいません、伝えたかったのはそれだけです。できたら、先生のことだけは許してあげて下さい。稲葉先生は、アナタとお母さんのことを大切に思ったはずなんです。それだけは絶対です」
少年が岬の左手に視線を送っている。おそらくは、手に持った手紙に。その中に、稲葉の真実が込められているとでもいうように。
「失礼します」
少年が再び頭を下げ、岬に背を向けて歩き出す。だが、すぐに立ちどまり、振り返って口を開く。
「さっきの、アナタの仕業ですか?」
「何がですか・・」
「そのカバン、どうやって操ってたんですか?」
理解できず、奇妙なものを見るような目で少年が言う。だが、それを訊きたいのは岬の方だった。ハンドバッグを宙に浮かせたのは、この少年ではないのか?
「透明人間の仕業かな」
それが、少年の最後の言葉だった。二度と振り返ることなく、彼は大通りへと消えた。
岬は渡された手紙を握りしめたまま、動くことができなかった。少年の言葉を信じたわけではない。自分の父親を許したわけでもない。ただ、溢れる涙を抑える気もなかった。この気持ちを、どこへぶつければいい。あの人のしたことを、どう受け止めればよいのか。あの人は、自分と母親を不幸にした。それなのに、なぜ、あの人に救われたなどという人物がいるのか。どうせなら、最後まで嫌いなままでいさせてくれればよいものを。
深く息を吐き、岬はゆっくりと顔を上げた。
歪んだ視界の中でも、空に浮かぶ雲を確認できる。雨が降ってきそうな、重く暗い雲。いまの自分がそこにあるようで、目を背けてしまいたくなる。それでも、気づいてしまう。たとえ今日がどれほど暗い日でも、いつかは必ず光が射すことに。涙を流す日があっても、いつか笑える日が訪れることも知っている。過去にとらわれることは、何よりも無意味なのだ。
開き直り、岬は歩き出すことにした。本当にバカバカしい。誰かを恨んでいる自分も、たったこれだけの出来事で、心を揺さぶられている自分も。岬は誰もいなくなった公園を歩く。左手には、少年から渡された手紙を掴んだまま。表に書かれた『岬へ』の文字は、零れ落ちた涙で滲んでいる。
8
「少しは役に立てたんですかね」
「はい。岬さんは、どんな感じでしたか?」
「うーん、なんか、思い詰めた感じっていうか。戸惑ってました」
坂下が思い返すように瞼を閉じて言う。何の根拠もないが、梅宮は、岬にとってよい方向へ進んだのではないかと思えた。無責任な、自己満足に近い感情かもしれない。
「ありがとうございました。わざわざ時間まで作ってもらっちゃって」
「いや、大丈夫です。稲葉先生のためになるんなら、何だってするつもりだし」
そう話す坂下の目には、柔らかな、強い光が灯っている。その光を消さなかったのは、稲葉の力だ。
「あの手紙は一緒にしてもらいましたか?」
「あぁ、はい。他のと一緒にしておきました。あれって何が書いてあるんですか?」
「すみません、そこだけは・・」
頼んでおいて申し訳ないと思いつつ、梅宮は答えることができなかった。実際、坂下に渡してもらった中の一つに関して、どのような内容が書いてあるのか全く知らないからだ。
坂下は特に不満を漏らすわけでもなく、明るい様子で掌を振った。
「いいです。先生のことだから、大事な何かだと思うし」
「ありがとうございます」
「これでやることも終わったんですよね。帰ってもいいですかね」
離れた位置にあるベンチに座っている少年を見て、坂下は小さく右手を上げた。
「本当に助かりました。お友達を待たせしちゃって、すみません」
「いや、大丈夫です。アイツも慣れっこだろうし」
歯を見せるほどの笑顔で言うと、坂下はベンチにいる男を指差した。
「あれが武藤です。いまでも、けっこう会ってるんです」
「それは・・、いいと思います。すごく」
「稲葉先生のおかげだと思う。ちゃんとお礼を言わなきゃいけなかったんだけど・・」
坂下は稲葉の死を悼むように目を伏せ、深く息を吸ってから顔を上げた。
「じゃあ、これで」
「はい。ありがとうございました」
坂下が歩き出すのを見てから頭を下げる。本当に、彼には助けられた。僅かでも、岬の心を癒すことができたと信じたい。
「あ、そうだ」
坂下の声で顔を上げると、思い出したように彼が口を開くのが見えた。
「あのバッグ、ホントはどうやったんですか? お姉さんもわからないみたいだったけど」
「あぁ・・。不思議でしたね、アレ」
梅宮は誤魔化すように笑う。僅かな間の後、坂下も呆れたように表情を崩した。それ以上の追求はなく、今度こそ、坂下はベンチの側まで歩いていった。
「・・変な感じになっちゃいましたね」
「そりゃそうだろう。お前以外からは見えてないんだから」
梅宮の背後にいた稲葉が、ようやく自由になったことを喜ぶように声を発した。実際には、稲葉は最初から自由なのだが。大きく伸びをし、ベンチの側で話す二人を見つめている。おそらく、一目見たときから気づいていたはずだ。二人がいまでも親しいことを最も喜んでいるのは、稲葉に違いないのだから。
「岬さんも、気味が悪いと感じたままかな」
「そうだろうが、まぁいい。あの子に謝る機会を作ってくれたんだから、感謝するよ」
「手紙には、なんて?」
「別に。こっちの世界のことを書いてやったさ」
稲葉が照れを隠すように足元の小石を蹴る。それが梅宮の足元に転がってきているように、稲葉は間違いなく、物質に触れることができる。それにも関わらず、梅宮以外からは見えない。それがどのような理屈なのか、梅宮はもう考えないことにした。
「ねぇ、先生」
「あ?」
「先生は本当に、子供を作れないんですか?」
「なんだよ急に。———まぁ、そうだが」
平然としながら、稲葉は目を合わせてくれようとはしない。自分が彼の立場だったら、こうまで強くいられる自信はなかった。
「岬さんって、先生がいくつのときに生まれたんでしたっけ?」
「三十六だ。お前らの担任をしていた年だからな。・・だけどまぁ、関係ねぇんだよな」
開き直ったように笑う稲葉を見ると、梅宮は勝手に責任を感じてしまった。全くの無関係であるにも関わらず。
「岬さんが生まれたとき、どうでしたか? 喜べました?」
「あぁ、嬉しかったぞ。どうせ信じてもらえねぇだろうがな」
横目で稲葉を覗く。強がりではないのか、普段のどっしりとした彼がいた。
「そりゃ、かみさんが妊娠したって聞いたときは、自分の耳を疑ったけどな。確かにそういう機会はあったが、そもそも俺は命中率が悪い。悪いなんてもんじゃねぇか」
「冗談になってません」
「すまんすまん」
稲葉が、自分の皮肉がツボに入ったように笑う。
「ただ、岬がかみさんの腹ん中にいるってわかって、生んでもらうことを決意してさ。その時点で、あいつを愛そうって決めたんだ。生まれてみたら、とんでもなく可愛かったしな」
「そういうものですかね・・」
梅宮には、とても信じられなかった。まだそういった経験はないはずだが、自分のパートナーが、別の男の子供を妊娠していると知れば。いまの稲葉のように振る舞うことはできない。その自信がある。
「いや、正直に言うとな。かみさんを殺してやりたいと思ったことはある。一度や二度じゃない。———ただ、考えてみろ。何もわからねぇんだ、男ってのは。だったら、知らなかったことにすればいいだろ? 自分が出来損ないだってことも、向こうに何かがあったとしても」
「心当たりはないんですか?」
「あったとしても、それを考えるのはやめることにした。・・へんに探りを入れるのはやめてくれ」
梅宮は何も言わず、正面を見たまま頷く。おそらく、稲葉には何かしらの心当たりがあるのだろう。それでも、その心当たりに蓋をすることにした。実際には、必死な思いで蓋をしているのかもしれない。それだけでも、十分に困難なはずだ。
ただ、それでも、梅宮にはわかってしまう。稲葉が、娘の岬を愛しているということを。梅宮の前に幽霊となって現れただけで、十分な証拠なのだ。この世にしがみつくほど、伝えたい想いがあったのだから。娘の結婚式が近づき、天国で昼寝をしている場合ではなかったに違いない。
誰でも、稲葉のようにこの世に戻ってくることはできるのだろうか。梅宮には、再会したい人が何人もいる。妄想ともいえるこの想いを、梅宮は口にするつもりはなかった。表に出してしまえば、我慢できる自信がなかった。
「もう満足なんですか?」
「あぁ。世話になったな」
「成仏できるんですか?」
「そんなこと知らん。俺が訊きたいくらいだ」
男が二人で、隣り合って歩いている。周囲の者からすれば、梅宮一人しかいないように見えるはずだ。独り言を話す、奇妙な男に。人通りの少ない道でよかった。
「逆に、俺から質問がある」
「なんでしょうか」
——ようやくか。
「どうして、俺が見えているんだ?」
——ですよね。
「ボクも不思議だったんです。この世に先生以外の幽霊がいるとしても見えないし、なんでだろうって。幽霊になった人と面識があると、見えるのかな」
「だとしても、そもそもどうして見える? 霊感が強いのか?」
「全然。これまでは見えなかったですし」
「何があったんだ?」
稲葉が、やけに食いついてくる。単なる興味なのか、成仏を目前に疑問を取り払っておきたいのか。
「特にないですよ。先生こそ、へんに疑わないでください」
——嘘だろう? 本当は、何があったんだ?
自分の心の声を無視しながら、作り笑顔を稲葉に向ける。もしかすると、稲葉には見抜かれているのかもしれない。それでも、何も言わないでおいてくれた。
「一つだけ、忠告しといてやる」
「はい」
「俺みたいになるな。死んでから、無様に戻ってくるような人間になるな。間違ったことをしなきゃならないときでも、後悔のない方を選べ」
稲葉が、先程までとは明らかに違う雰囲気を醸し出している。これが、最後の授業ということか。
「心掛けます」
「まさか、お前が最後の生徒になるとはな」
「嫌がってます?」
からかうように視線を送ると、意外なことに、稲葉の表情は固まっていた。それを見て、終わりが近づいていることを悟る。
「またいつか、会いましょうね」
稲葉から顔を逸らし、梅宮は一人で歩き出すことにした。
「こっちに来るには早いからな」
「わかってますって」
振り返ることができない。稲葉の顔を見るのが怖い。心が痛むに決まっている。
「俺は、ダメな父親だったよな」
「でも、父親がいるだけマシなんだと思いますよ」
「あの子のウェディングドレス姿、見たかったな・・」
こらえ切れず、梅宮は振り返った。
だが、視界に入るのは公園だけ。あの狸のような風貌で、いつまでも教師面で叱ってくる男はいない。どこにも、いないのだ。
「・・お元気で」
梅宮は、歩き出すことにした。
どうやら、稲葉は成仏してくれた。しっかりと、丁寧に殺してあげることができたと思いたい。
今回の件が解決できたことを、いますぐに、さつきに報告すべきかもしれない。それでも、しばらくは一人でいたかった。稲葉が見えるようになり、そして見えなくなった。その間、梅宮の中に変化はない。稲葉の問題が解決しただけのことだ。となれば、梅宮はまだ、呪縛からは解き放たれていない。自分の犯した罪を、消し去ってしまえる日は訪れるのだろうか。
稲葉の言葉が頭をよぎる。梅宮は、禁煙することを決意した。