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閻魔堂シリーズ

巣立鳥

作者: 皇 凪沙


 薄暗い閻魔堂の片隅で、彼は小さな膝を抱えて項垂れていた。

 外はすでに夕暮が迫っている。次第に闇に落ちてゆく閻魔堂は気味悪く、並ぶ像は木彫りの作り物と解ってはいても恐ろしい。一刻も早くここを出て家に帰りたかったが、今の彼にはそれもまた恐ろしかった。

 小さな胸を罪悪感と心細さで一杯にし、彼はそっと薄闇の中に浮かぶ閻魔の像を見上げる。

───わるいことをすると、じごくへおちるよ。

 そう云ったのは、母だったか、祖母だったか。

 それが本当ならば、じぶんは間違いなくじごくへおちるだろう───

 次第に闇の濃くなる閻魔堂の片隅で、かれは小さく身を縮めながらそう思った。

 彼の手には、駄菓子屋の店先から盗み取ってきたばかりの独楽がひとつ、握られている。隠しこんでしまいたいその気持ちとは裏腹に、さほど大きくもないその独楽は、小さな彼の手の中に納まりきってはくれない。投げ出すことも怖ろしく、彼は幼いその手で独楽をにぎりしめたまま、閻魔堂の隅で震えていた。

 罪の証の独楽を見るのが怖くて、彼は男の子にしてはぱっちりとした大きな目を、ぎゅっと閉じた。閉じた目から、なみだがこぼれる。

 彼は別に、その独楽が欲しかったわけではない。彼がその独楽を盗ったのは、近所では一番幼い彼が、遊びのなかまに入れてもらうための条件が、『盗みをすること』だったからだった───




 青い空に燕が高く飛んでいる。着物も単衣に変わり、身が軽い。子供心にも夏が近いことが感じられる、そんな日だった。

「いやだよ。」

 年かさの子等の後について遊びに出た彼は、なかまに入りたければ、何か盗ってこいと云われて、そう言った。

「なら、なかまに入れてやらない。あっちへいきな。」

 年かさの子等はそう云って、彼を追い払うしぐさをした。小さな子がいては、足手まといになり、遊びも面白くない。今思えばそれは、彼を追い払う口実だったのかもしれない。しかし、いつも置いて行かれてばかりの彼は、逡巡した。

「いけってば。」

 ぐずぐずしている彼を、ひとりが突き飛ばす。咄嗟に言葉が口をついて出た。

「───なにを盗ってくればいいの?」

 子ども達の目が、彼に集まる。その目は、彼が本気かどうかを探っていた。

 思わず出てしまった言葉に、彼自身も驚いていたが、ここでひるめば嘘つき呼ばわりされたあげく、当分は相手にしてもらえない。彼は覚悟を決めた。


 年かさの子等が彼を連れて行ったのは、少し離れた処にある駄菓子屋だった。彼がここまで来ることは、滅多にない。ごちゃごちゃとした店先には、彼が見ても大した値ではない玩具が幾つか並んでいた。

「あの、独楽がいい。」

 一番年かさの子供が、指を差す。

 白木に朱と黒の線が幾本か入っただけの、小ぶりの独楽。指差されたそれは、無造作に店先で日に焼けていた。

 皆と一緒に店に入り、他の子等が菓子や玩具をあれこれ物色している間に、指差された独楽を袂へ忍ばせ、そのままそっと表へ出る。それは、呆気ない程簡単だった。罪悪感も湧かぬまま、奇妙に高ぶった気持ちで、彼は店先を離れ走り出した。

 滅多に売れもせぬ独楽の、ひとつぐらい無くなったところで、そうそう気づかれることはない。それでも万一店番が追いかけて来た時の用心にと、子供等は作戦を練っていた。店を出たらそれぞれてんでに走り出す。誰も追いかけて来ないのを確かめてから、あらかじめ決めた場所に集まる───そういう約束だった。

 だから彼は、夢中で駆けた。そうして息が苦しくなるまで一頻り駆けて、それからそっと後ろを窺った。どうやら誰も、彼の後を追っては来ない。彼はようやく足を止め、大きく息を吸った。言われた事をやり遂げた誇らしさに、彼は手の中の独楽を目の前にかざして見る。店先に長く置かれ少しばかり日に焼けていても、まだ手垢のついていないそれは、白々と真新しく光って見えた。

 さて、約束の場所に急ごうと辺りを見回して───しかし彼は途方に暮れた。

 いつの間にやら、彼は見知らぬ場所にいた。人目を避けて闇雲に走るうちに、道を失っていたらしい。気がつけばそこは人気のない川沿いの細い小道で、町屋のざわめきが遠く川向うに聞こえていた。

 彼は急に心細くなった。周りには仲間の姿もない。手の中の独楽に目を遣っても、さっきまでの誇らしさは消えてしまっていた。そうして川沿いの小道をとぼとぼと歩いているうちに、彼は次第に自分のした事が怖くなった。約束した場所に行かなければと思いながらも、人声のする方へ行く気にはなれなくなって、彼は伸びかけた藪の中の小道を、町とは反対の方へと歩き出していた。

 小道を辿って行くと、やがて藪が途切れ、堂宇のような建物が目に入った。軒先には小さな燕の巣があって、子燕の喧しい声が響いている。

 その向こうにはなにやら竹矢来に囲まれた場所が、しんと静かに開けていた。

───なんだろうか。

 何気無く近づいて、彼は菱に組まれた矢来の隙間から中を覗き込んだ。そこは、ただがらんとした広場で、別段何があるわけでもない。なんだ、と興味を失いかけて、彼は急にここがなんであるかに思い至った。

 町外れの、川向こう。矢来に囲まれた───ここは、刑場だ。

 そう思って見れば、中央には土壇場らしき盛り上がり や、血溜め穴らしき四角く切られた窪みが見て取れる。此処はきっと、罪人のお仕置が行われる刑場だ。

 悪いことをした罪人が、ここでお仕置になるのだ───

 そう思った途端、彼はぞっと肌が粟立った。あわれな罪人が、命乞いをしながら引き据えられ、首を斬り落とされる様が頭に浮かぶ。がらんとした刑場に罪人の断末魔の声が響いたような気がして、彼は慌てて堂宇へ逃げ込んだ。何の堂かは判らないが、少なくとも神仏であれば、彼を怖いものから護ってくれるかもしれない。そう思って薄暗い堂内に潜り込み、須弥壇を見上げた彼は、息を飲んだ。

 薄暗い堂の中、須弥壇の上に納っていたのは、柔和な顔の如来でも、優しい笑みを浮かべた菩薩でもなく、恐ろしい顔で睨みつける閻魔の像だった。

 慌ててあとずさり逃げ出そうとして、彼は急に項垂れた。

 手の中の独楽が、目に入ったからだ。

 彼は須弥壇の上の閻魔王を見上げ、もう一度、握ったままの独楽に目を落とす。

 少なくとも目の前のえんま様には、彼の悪事は知れてしまっただろう。このまま此処から逃げ出しても、きっと彼は見られている。どれだけ逃げても、彼が盗みを働いた事実は、けして消えはしない───

 逃げ出す事も怖くなって、彼は閻魔堂の隅の暗がりに座り込んだ。

 外から漏れ入ってくる光で、須弥壇の上の像はぼんやりと照らされている。中央に閻魔王、その傍に具生神、左右には鉄棒を構えた赤と青の鬼───

 そこに現されているのは、地獄の裁きの場なのだろう。

 暗がりにいくら身を縮めても、須弥壇の上の像たちは、恐ろしい顔で彼をじっと睨んでいる。

───わるいことをすると、じごくへおちるよ。

 そう言ったのは、誰だったか。

 彼は俯いたまま膝に目を落とし、暮れてゆく堂の中でじっと蹲っていた。




 穏やかな光が、辺りをほの赤く染めている。夕暮れの空には、傾き掛けた陽を惜しむように、燕がついついと忙しげに飛び交っていた。もう、夏が近いのだろう。

 夕暮れ時の閻魔堂に、何とは無しに足が向いて、えんは藪の中の小道を歩いていた。暮方の陽の光に、閻魔堂もほんのりと赤く染まっている。この時分に来たところで、木彫りの像が埃を被っているだけと判ってはいても、足は閻魔堂へ向いた。

───呼ばれたかねえ。

 小さく呟いて、えんは閻魔堂の扉に手を掛ける。軒先の巣に、燕の子の囀りが喧しい。

 がらり、と戸を開けると、夕暮れの淡い光が斜めに差し込み、中央に据えられた閻魔の像が、薄い朱の色に染まって浮かび上がる。

 途端に、ごそり、と隅の暗がりで音がした。

 目を細め、えんは暗がりを覗き込む。そこには、まだ十にもならないような幼い男の子が、小さく身を縮め、怯えたような目で、えんを見上げていた。

「どうしたんだい?」

 ゆっくりと暗がりへ屈み込み、えんは子供に声を掛ける。

───悪いことをしたら、じごくへおちるって、本当かい……

 身を縮めたまま呟くような声でそう言って、子供は暗がりから縋るような目を向けた。その目を静かにのぞき込みながら、えんは頷く。

「ああ、本当さ。あたしはここで、幾度も見たからね。」

 子供の瞳が、怯えるように揺れた。

「どうしたい、何か地獄へ堕ちる様な事でも───」

 そう言いかけて、えんは子供の手にした独楽に目を止めた。

───ああ、それか。

 えんが云うと、子供は慌てたように手にした独楽を、背中に隠した。他の子から取り上げたか、それともどこぞの店先から盗んだか───いずれ後ろ暗い方法で手に入れた物なのだろう。

「それは、どうしたんだい?」

 えんが尋ねると、子供は慌てて首を振った。

───そうかい。

 えんは、少し意地の悪い顔で子供を見る。

「嘘つきは泥棒の始まりっていうけどね、嘘は泥棒より罪が重いんだよ。」

 子供が目を見張る。

「悪いことをしたら、地獄へ堕ちるというけれど、あれは本当は、悪いことをしてそれを悔い改めないと地獄へ堕ちるってのが、本当なのさ。嘘をつくっていうのは、自分のした事を誤魔化そうとしてるって事だろう?」

───だから、罪が重いんだ。

 えんはそう言って、子供を見る。子供は強張った顔でえんを見た。

「もう一度訊くよ。それは、どうしたんだい?」

 えんが問うと、子供はわっと泣き出した。

「泣いてちゃ分からない。正直に云ってごらん───」

 えんはわざと厳しい声音を作ってそう言った。

 子供はしばらく泣いていたが、やがて啜り上げながら、

「───盗った」

と、小さな声でそう言った。

「そうかい───よく、云えた。」

 えんはそう言って、静かに子供の頭を抱いた。

「ごめん、なさい───」

 子供は、また小さな声で、そう言った。

「やっぱり、じごくへおちるんだろうか───」

 項垂れて呟く子供に、えんは言う。

「悪い事をしたと、そう思ってるんだろう」

 子供は肯いた。

「なら、正直に云って、謝るんだね。そして、二度としない事だ。罪を悔いる者を地獄へ堕とすほど、閻魔さまは不人情じゃあないよ。」

 ぽんと肩を叩いてやると、子供はほっとしたような顔でえんを見上げた。

「あやまって、返してくる───」

 そう言って、子供は急に不安げに顔を顰めた。

「どうしたんだい?」

 えんが尋ねると、子供は躊躇いながら、不安そうに言う。

「悪いことをして、あやまらないとどうなるの───?」

───そうだねえ。

 そう言って、えんは須弥壇の上の閻魔王を見上げた。いつの間にか陽は落ちて、木彫りの像は薄暮の色に染まっている。

 ごう───と、遠くで風の吹くような音がした。

「見てごらん。」

 えんが指差す。見ると、さっきまで木の板っぺらだった浄玻璃の鏡が、紅い炎を映して揺らめいている。

 子供は怯えた顔で後ずさった。

「心配ないから、よくご覧。閻魔さまが、盗みをして悔いない者がどうなるか、見せて下さるそうだ───」

 えんがそう云うと、子供は食い入るように浄玻璃の鏡の面を覗き込んだ。


 鏡の中では、紅蓮の炎が一面に渦巻いていた。燃え盛る炎の中央には、大きな湯釜が据えられている。渦巻く炎に炙られて、湯釜の湯は轟々と沸き返っていた。

───見えるかい。

 鏡の面に目を凝らすと、煮え滾る湯釜の中に、濛々と立ち込める湯気に遮られてはっきりとは見えないが、時折何かがぽつりぽつりと落ちて行く。

───落ちてゆくのが見えるだろう。あれは、罪人さ。

 えんが鏡を指差して言った。

 子供は息を飲む。

「渦巻く炎と湯釜の上には、黒鉄の鎖が一本渡してある。盗人は犯した罪の重さの代わりに、背に鉄の塊を背負わされて、真っ赤に焼けた黒鉄の鎖を渡らされるのさ。」

───熱いだろうねえ。

 子供は顔を強張らせ、鏡を見ている。

「熱さと重さに耐えかねて、罪人どもは湯釜の中か紅蓮の炎の中に落ちて行く。そうして、後は煮られるか焼かれるか───」

───どっちにしても熱いだろうねえ。と、えんはもう一度、そう言った。


 鏡の面がふっと暗くなる。気がつけば浄玻璃の鏡は、何時の間にやらただの板切れに戻っていた。

「これだけじゃあないけどね、どうせ碌な事にはならないのさ───」

───地獄だものねえ。

 えんがそう云うと、子供は泣きそうな顔で言った。

「じゃあ、吉っちゃんたちも、ああなるのかい?」

───友だちかい?

 尋ねると、子供は曖昧に肯いた。

「その子等も、盗みをしてるのかい?」

 子供は今度は悲しそうな顔で、はっきり肯いた。

「吉っちゃんたちが───」

───盗ってこいって云ったんだ。

 子供は項垂れてそう言った。

「ーー盗ってこなけりゃ、仲間に入れてくれないって」

 子供の言葉に、えんは眉を顰めた。

「吉っちゃんたちは、盗ってきたものをみんなに自慢するんだ。そして、仲間に入れて欲しかったら、何か盗って来てみろって───」

 えんは小さく溜息をつく。

 その吉っちゃんとやらは、放っておけば立派な悪党になるだろう。知った以上、その儘にはしておけまい───

「それは、地獄へ堕ちるだろうねえ。」

 えんはわざと冷たくそう言った。

「盗人が堕ちる地獄は黒縄地獄と云ってね、千年の間苦しむのさ。さっきのように大釜で煮られたり、大きな金槌で両手を叩き潰されたり、鋸で切り刻まれたりしてね。幾度死んでも生き返らされて、幾度も幾度も苦しい目に遭わされる───」

───それが、地獄の罰だよ。

 えんがそう云うと、子供は真っ青な顔をした。そして、

───助けてやって。

と、そう云った。

「嫌な奴じゃあないか、放っておけばいいだろう」

 えんがそう云うと、子供は涙を浮かべた。

「悪い奴でも、友だちかい?」

 子供が肯く。

「そうか、なら───あんたに免じて助けてあげようか」

 えんは子供にそう言った。

───明日の日暮れがた、その子らをここへ連れておいで。

 そう言って、えんは堂の扉を開けた。

 外はすでに陽が落ちて、軒先の子燕達の囀りも止んでいる。

 東の空には、白い半月がぼんやりと浮かんでいた。

「───早く、お帰り。真っ直ぐ行って橋を渡れば、道は判る筈だから。」

 えんがそう云うと、子供は頷いて真っ直ぐに細い小道を駆けて行った。

───今夜は、こっぴどく怒られるだろうね。

 それも仕方があるまい。悪い事をした時には、怒られ過ぎるぐらいで丁度いい。

 そう思いながら、えんは闇の中に沈んでゆく堂内に目を遣った。

───さて、明日はどうしようか。

 これから、少しばかり閻魔王と相談しなければなるまい。えんは、闇に染まって行く空を眺めながら、閻魔堂が闇に包まれ、そこに仄かな灯りが灯るのを待った。




 次の日の日暮れ方、えんは閻魔堂にいた。扉を閉めた堂内は、漏れ入る光がわずかに須弥壇の上の像を照らすばかりで、あとは薄闇に包まれている。外から時折、子燕の喧しい声が聞こえた。須弥壇脇の暗がりに立って、えんは静かに子供等を待つ。見上げると、僅かな光に、木彫りの像がいつになく厳めしく浮かんでいた。

 やがて、がたがたと音がして、閻魔堂の扉が開いた。橙色の光が閻魔堂の中にさっと入り、えんのいる場所を闇に落す。

 戸口には夕暮れの光を背にして、子供が三人立っていた。先頭に気の強そうな子供が、あとの二人を従えるように立っている。吉というのはこの子供かと、えんは当りをつけた。

「よく来たね」

 闇の中からえんは子供等に声をかける。

「なんの用だい」

 気の強そうな声が堂の中に響いた。

「───なに、おまえ達に教えてやろうと思ってね」

 そう云ってえんは一歩、前へ出る。えんのまわりの闇が僅かに薄くなる。

「悪い事をすると───地獄へ堕ちる、ってね」

 ふん、と子供等が鼻で嗤う。

「地獄なんぞ、あるもんか」

 気の強い声が 、嘲るようにそう言った。

「本当に、そう思うのかい」

 えんは暗がりから、そう言った。

「そうさ」

 子供の声が響く。

「地獄なんか、嘘じゃあないか。閻魔も鬼も、みんな作りものだ。そんなもの、怖かないよ」

「本当に、そうかい」

───よく見てご覧よ。

 えんは静かに云った。

「なにを見るのさ」

 子供等が堂の中に入る。

「なにって───」

 堂の扉がばたりと閉まる。

 蝋燭の灯りが須弥壇を照らし、隅の暗がりを闇にした。

 姦しかった子燕の声がぴたりと止み、堂内はしんと静まりかえる。

 きい、と何かの軋む音がした。

 きらり、と何かが光を映す。

 そうして、やがてそこにあるすべてが精彩を帯びた───

 ぎろりと閻魔王が子供等を睨みつける。

 具生神が鉄札を手に眉を顰める。

 子供等は、唖然とした顔で立ち尽くした。


「おまえ等は、盗人であろう!」

 閻魔王の大音声が響いた。

 子供等が慌てて首を横に振る。

「ほう───盗みをしていないと云うか」

 閻魔王がちらりと具生神を見る。

 具生神が呆れたように首を振った。

「鉄札には盗みの罪有りとあるが、盗んではいないというのだな」

 子供等が頷く。

「よかろう、ならば確かめてやる。ただし───」

 そう言って、閻魔王は赤青の獄卒鬼に目を遣った。

 がちん。

 赤青の獄卒鬼が、何時の間にか手にした釘抜きを鳴らす。

「───ただし、それが嘘であれば、すぐさまその舌を引き抜いてくれるがいいか!」

 がちん、がちん、と釘抜きが鳴る。

 恐怖に負け、あとについたふたりが、半べそをかきながら、

「───盗りました」

と、そう言った。

「盗ったと認めるのだな」

───ごめんなさい、ごめんなさい。

 ふたりが肯く。

「盗ったがどうしたい」

 吉が云った。

「大したものじゃ、ないじゃないか」

 閻魔王が、吉を睨む。

「お前は、おのれの罪を悔いぬというか!」

───閻魔王様。

 倶生神が言う。

「この者は、罪を罪とも思わぬばかりでなく、罪を誇り、他の子供等を唆して盗みをさせた悪人に御座います。子供とは雖も、地獄行きを免れることは出来ますまい。なれば、疾く───」

───地獄へと。



 ごおっ、と音がした。

 気がつくと吉はひとり、見慣れぬ場所にいた。

 遠くに焔を纏った岩山が、ごつごつと屏風のように連なっている。空は灰色で薄闇に包まれ、山際は焔の色を映して夕暮れのように紅い。足元には鋭く尖った岩の地面が続いていた。

「歩け!」

 そう怒鳴られて、やっと吉は、自分の手足が鎖に繋がれていることに気がついた。後ろを振り返ると、赤青の獄卒鬼が鉄の鞭を振り上げて睨んでいる。その背後に、大きな黒い門が見えた。

「お前はすでに地獄の門を入ったのだ」

 赤の獄卒鬼が言う。

「盗人の堕ちるのは、黒縄地獄。この地獄へ堕ちたからには、千年の間死んでは生きを繰り返し、責め苛まれると覚悟せよ!」

 青の獄卒鬼が言う。

「さあ、行け!」

 足元で鞭が鳴った。

 仕方なく、吉は歩き始めた。

 吉の踏む地面は熱かった。

 時折白煙が上がり、足の裏が焼け焦げる。

 鞭で追われるまでもなく、吉はなるべく足を地面に着けないように、足早に歩くしかなかった。両足を繋いだ鎖が歩みを妨げ、鋭い岩角が足を裂く。それをただ、他人事のように感じながら、吉は進んだ。

 やがて、丘のような盛り上がりの先に、平らな窪地が見えた。

「見ろ、罪人どもだ」

───お前も彼処へ行くのだ。

 そう云って、獄卒鬼が嗤った。

 見下ろすと、幾人かの罪人達蹲って呻いている。窪地から吹き上げる風は生臭く、濃い血の匂いがした。

 吉は、急に目が覚めたように、怖くなった。絵空事の様なこの景色は本当のことで、あるはずがないと思っていた地獄に、自分は今立っているのだ。足下を焼く熱さも、肌を切り裂く岩角の鋭さも、今はもう他人事ではない。燃え上がる山も、恐ろしい顔で追い立てる獄卒も、呻く罪人達もみな本当のことなのだ。

「どうした、行け。」

 立ち竦んだ吉の肩を、赤の獄卒鬼が鉄の鞭で無情に突く。

「今更、青くなった処で遅いわ。」

 強がりがすっかりなりを潜め、青ざめた吉の顔を見て、獄卒鬼等が再び嗤った。

 追い立てられ、吉は恐る恐る窪地へと降りて行った。焼かれ、裂かれた足が、堪えきれない程に痛かった。ようよう降りて行くと、罪人達が蹲る窪地の底は、息もつけないほどに、 熱く澱んでいた。

「来い」

 青の獄卒鬼が吉の襟首を掴まえて、窪地の底の中程に、引き摺る様に連れて行く。

「よく見ていろ。」

 赤の獄卒鬼が静かだが、凄味のある声で言った。

 見ると、目の前に長四角い、黒鉄の台が据えられていた。その台の前には、ひとりの男が引き据えられている。男の背後に黒の獄卒鬼、台を挟んで前側には白の獄卒鬼が立っていた。男はすでに覚悟が出来ているようだったが、その顔には隠し切れない恐怖の色が浮かんでいる。

「腕を延べよ。」

 白の獄卒鬼が男に命じる。

 男が身を固くして、逡巡していると、黒の獄卒鬼が男の背後から腕を取り、黒鉄の台の上に力ずくで延べさせる。

 白の獄卒鬼が、傍に立て掛けられた大金槌を取った。

「覚悟はよいか。」

黒の獄卒鬼の声が、意地悪く響く。

 男は一層身を竦め、ぎゅっと目を閉じ、俯いた。

 ひゅっ、と大金槌が風を切る音がした。続いて、ぐしゃりという嫌な音と、鉄と鉄が打ち合うキンという鋭い音がいちどきに響き、男がぎゃあっと叫び声を上げる。

 白の獄卒鬼の身体に点々と血飛沫が散るのを見て、吉は思わず顔を背けた。

「どうした」

 青の獄卒鬼が、嘲るように云う。

「責苦は始まったばかりだぞ」

 再び、大金槌が振り上げられる気配がした。

───やめてくれ。

 男が悲鳴を上げるのと同時に、槌が腕と鉄台を打つ音がした。

 吉は足下に目を落とし、震えながらそれを聞いた。

「───又候盗だ」

 赤の獄卒鬼が厳しい声で云う。

「あの男は掏摸を生業とし、二度の敲刑を受けながら、行ないを改めず、さらに幾度も罪を重ね、ついには首を打ち落とされて、此処へ堕ちてきたのだ」

 三度、大金槌が振り上げられる。

「見ろ」

 赤の獄卒鬼が静かに云って、吉の顔を強い力で上げさせる。

「いずれお前もああなるのだ」

───許して、

 男の懇願が終わらない内に、大金槌が風を切って振り下ろされる。

 ぐしゃり、カン───

 男が悲鳴を上げた。

 もがく男の両腕を掴んで、黒の獄卒鬼が鉄台の上に押さえつけている。

 白の獄卒鬼の身体がまだらに染まり、男の腕は肘の下三寸ばかりから先が打ち潰されてなくなっている。断ち切れた腕の先から血が鉄台を真赤に染めて流れ出していた。


───嫌だ!

 吉が叫んだ。

 たかが駄菓子屋の店先の、つまらぬ玩具を盗ったぐらいで、お仕置になった掏摸などと、同じ様な目に会わされては堪らない。

 自分はそんな大それた事をした覚えはない。ほんの遊びだったのだ。

「なんでこんな目に会わされなけりゃならないのさ。大した物は、盗っちゃいないじゃないか」

 そう言い放った吉を、獄卒鬼達が一斉に睨みつける。

───くくくっ、と場違いな笑い声が響いた。

 獄卒鬼達は皆、恐ろしげな顔で吉を睨みつけている。見回すと、鉄台に引き据えられた男が、声を上げて笑っていた。

「何がおかしいのさ」

 吉がそう云うと、男は血と脂汗に塗れた顔を上げた。

「───此処へ来る奴は、皆同じ事を云う」

 男はそう云って、もう一度笑った。

「何奴も自分が大した罪を犯しているとは思っちゃあいない。俺も、そうだった。」

───だがな、と、男は苦痛を堪える様に顔を顰めた。

「そう思っている奴は、必ず此処へ来るんだ。いや、此処へ来るまで、自分が何を仕出かしたのか分からないのさ」

「お仕置になった掏摸なんかと、一緒にしないでおくれ!」

 男の言葉を打ち消そうと、吉は必死に叫ぶ。

 その様子を見て、男は低く笑った。

「俺も、産まれた時から掏摸だったわけじゃあない。おまえと同じ時分には、おまえと同じようにつまらない物を掠めては、面白がっていたものさ。」

───だから、と男は云った。

「俺には、分かる。おまえはいずれ、此処へ来る。」

 男の言葉を待っていた様に、白の獄卒鬼が大金槌を振り上げる。

 男の目が、振り上げられた大金槌を見据える。

「さあ、なんなら今すぐに───」

───代わってやる。

 そう、男が言い切らない内に、ひゅう、と風を切って大金槌が一際勢いよく振り下ろされた。

 ぎゃあああっ───

 吉はぎゅっと目を閉じた。暗闇の中で男の悲鳴が消え、辺りが静かになる。それでも、吉は目を開ける事が出来ない。目を開ければ、きっと獄卒鬼達が吉を睨みつけている。そうして、両腕をすっかり打ち潰された男の代わりに、今度は吉があの鉄台の前に据えられるのだ。

 きつく閉じた目蓋から、ぽつりと涙がこぼれた。心の底から怖ろしかった。今にも、獄卒の手が肩に掛かるかと、吉は身を固くして震えていた。

「どうだい。地獄は、無いかい───」

 声が聞こえた。

 肩に手が掛かる。

 その手が存外に優しいことに驚いて、吉はそっと目を開けた。

 目の前に木彫りの閻魔が、吉をじっと見下ろしている。暮れ方の淡い光が、閻魔の顔を憂いを帯びた表情に浮かび上がらせていた。

 傍には仲間の二人が竦み上がって立ち尽くしている。

「地獄は、あるのさ」

 吉の肩に手を掛けたまま、えんが云う。

「怖い処だよ」

───けどね、

 とそう云って、えんは吉の肩から手を離し、須弥壇の前に立つ。背後には、閻魔王を中心に、具生神、赤青の獄卒鬼等が、彼らを睨み下ろしている。

「本当に怖いのは、地獄があることじゃあない。お前達に、地獄へ堕ちる、罪があることさ」

 ぞくり、と二の腕が粟立つのを感じて、吉は両腕で己れの肩を抱いた。他の二人も項垂れて、じっと足元を見つめている。

「どうすれば、いいのさ」

 ぽつりと吉が云う。

「さてね、家へ帰って、二親にでも聞いてみるんだね」

 わざと冷たくそう云うと、子供のひとりが「───そんな」と小さく呟いた。

「好きにするがいいさ、けど、罪を償う気が無いなら、一生背負う覚悟をするんだね」

 子供らが不安げな目を向ける。

「───いずれ、行き着く先は、地獄だろうさ」

 青ざめて項垂れる子供らを、えんはしばらく黙って眺めていた。夕闇がゆっくりと辺りを包んでいく。

「───分かったよ」

 やがてぽつりと吉が云った。

 子等のひとりが、わっと泣き出す。

 吉がその子の手をとって、扉へ向かって歩き出す。もうひとりが後に続く。吉は戸口に手を掛けて、 思い出したように立ち止まった。

「───あの掏摸に伝えておくれ」

 そう云って、吉はえんを見上げる。

「地獄へなんか、行くものか!」

 と、そう云い置いて、吉は勢いよく閻魔堂の戸口を出る。後には、足音に驚いた親燕の羽ばたきと子燕達の囀りが、堂内に一頻り響いた。

 外へ出てみると陽はすでに落ち、次第に濃くなる薄闇が辺りを覆っていた。薄闇の中にぼんやりと溶けていく子供らの背を見送って、えんは小さく息を吐いた───


 闇が次第に濃くなり、辺りを染めていく。

 子等を見送って、えんはそのまま閻魔堂の戸口にもたれ、暮れてゆく空を眺めていた。

 中空にぼんやりと白く浮かぶ月が、次第にその姿をくっきりとさせ、空が赤灰色から濃い群青へと変わっていく。やがて、濃紺の空に星が瞬き始める頃、背後でぽつりと灯がともった。

 仄かな明かりにほんのりと包まれた閻魔堂を背に、えんはしばらくじっと立ち尽くしていた。辺りに、まだ盛りには早い蛙の声がちらほらと聞こえ始めた頃、えんはそっと扉に手を掛けた。

 僅かばかり開けた戸の隙間から、淡い光が闇の中にこぼれる。えんはそこからそっと堂の中を覗き込む───

 ゆらりと蝋燭の炎が揺れた。

 閻魔王が錦の衣を翻し、具生神がその傍で筆を執る。赤青の獄卒鬼は今日は須弥壇の下に居て、ひとりの男を閻魔王の前に引き据えていた。

 浄玻璃の鏡が炎を映してきらきらと輝くのに目を細めながら、えんはゆっくりと扉を開けて、堂内へ滑り込む。

「えん、見るがいい」

 入るなり、閻魔王がそう云って男を指す。

 男はさっぱりとした顔で、両手を膝頭に添えて座っている。褌一本の裸だが、縄は掛けられていなかった。

「言づけがあるんだが、いいかい」

 えんが問うと閻魔王が頷いた。

 えんは、男の側による。男には、濃い血の臭いが染み付いていた。

「三年ぶりだねえ」

 えんが声を掛けると、男は深く頭を下げた。

「さっき、子供から伝言を頼まれたのさ」

 男が、えんの顔を見上げる。

「───地獄へなんぞ、行くものか───そう伝えてくれってさ」

 男は安堵した様に、自分の手に目を落とす。えんは口元に笑みを浮かべる。

「随分と、脅かした様じゃないか」

「盗みなんぞ、面白半分にするもんじゃ、ない」

 男は苦い顔をしてそう言うと、えんを見上げた。

「あの子に伝えてやっておくんなさい。あの子に言った事はうそだ。あの子の年頃には、おれはもう、掏摸の親方について仕事を手伝ってましたよ───」

───だから、と男は再び自分の手に目を落とす。

「だからきっと、あの子は地獄に堕ちることはないでしょうよ」

 そう言うと男は、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。

「───そうだね」

 えんは少し考え、

「そのほうがいいようだったら、伝えておくよ。」

 と、男にそう言った。


───さて。まずはご苦労であった。

 堂内に厳めしい閻魔王の声が響いた。

「しかし子等の事は兎も角、此の度お前を呼び出したのは、他でも無い。三年前に言い渡した裁きを、忘れてはおるまいな」

 男は「はい」と頷くと、やや不安気な顔を上げた。

「具生神。三年前に言い渡した裁きを、もう一度この者に聞かせてやれ」

 はい、と畏まり、具生神が鉄札を取り上げる。

「申し上げまする。この者は幼い頃から掏摸を生業とし、己れの悪行を知りながら、罪を重ねた罪人にございます。しかし、妻子の嘆願もあり、僅かばかりの善行も見られましたため、三年間黒縄地獄にて責め苛んだ後、再びこの場で裁きを行ない、十分に改心したと認められれば地獄を出すとの約定にございます。」

 うむ、と閻魔王が頷く。

「さてそれで、この者は十分に己れの罪を反省し、改心したか」

───さて、どうでございましょう。

 具生神が目を細めて鉄札の面を見る。

「己れの罪を悔いてはいるようですが、罪人どもは地獄で辛く苦しい目に逢えば、皆自分の犯した悪行を悔いるもの。しかしそれは、己れが苦しい目に逢いたくない一心でのことで、十分に改心したとは言えませぬ。」

 男が項垂れる。

「心当たりがあるようだな、本気で己れの罪を悔いてはいなかったか」

 男は身を竦めて、一層項垂れた。

 えんは、そんな男を見下ろす。たとえ本当に心の底から、悪行を悔いて三年を過ごしたとしても、そう言われてしまえば、自分でも本当のところは分からない。それが本当だろう。

「ならば、どうする」

 閻魔王の問いに、具生神は再び目を細めて、鉄札の面を子細に検分して言った。

「この者の反省は、苦し紛れ半分、真実が半分といったところ。さて、如何いたしましょうか───」

 暫し、閻魔王が黙考する。

 反省が足りぬと断じられれば、再び地獄へ突き返されて、今度こそ千年の間辛く苦しい日々を過ごさねばならない。

 その恐ろしさに震えながら、男はじっと己れに裁きが下るのを待っていた。

「───よかろう」

 暫しの後、閻魔王の声が響いた。

「半分は苦し紛れといえども、後の半分が真実であるならば、地獄へ差し戻すのも、酷というもの───しかし」

 ほっと安堵の色を浮かべかけた男の顔が、不安げに閻魔王を見上げる。

「しかし、一足飛びに人として生まれさせるわけにもいかぬ」

 閻魔王が傍の具生神に目を遣る。

 具生神がごもっともとばかりに畏る。

「人となすには、まだ足りぬものが多くありますれば───」

 閻魔王が頷いた。

「さて、まずは何が足りぬ」

───まずは、と具生神が鉄札から目を上げる。

「───理法、にございましょうか」

「法、か」

 具生神が頷く。

「生まれてより仏法に触れることなく、仏の慈悲を知らぬままに過ごして参ったので御座いましょう。此の儘人と生まれても、法を知らずばまた再び悪行に手を染めることになり兼ねませぬ」

 閻魔王が「そうか」と頷く。

「違いない───なれば、この者を食法と成すがよかろう」

「じきほう───?」

 男が恐る恐る声を上げた。

「食法とは餓鬼だ」

 閻魔王が威しつけるように云う。

「今のお前の有様では、地獄よりも幾らか増しな餓鬼道辺りがよいところ。地獄程の苦しみは無いとはいえ、飢えと渇きに身を焼かれる苦しみを受けるのが、餓鬼。餓鬼には様々あるが、食法と呼ぶ餓鬼は一片の食物一滴の水さえ口にすることを許されず、僅かに社寺にて僧等が衆生に説く法を糧に生きながらえるものを云う。」

 男を睨み下ろす閻魔王を見上げて、えんは、ふん、と鼻を鳴らす。

「随分と、厳しいじゃないか」

 そう云うえんの口元には、僅かばかりの笑みが浮かんでいる。

「その者は、前の世では他人の懐で糊口を凌いでおった不届き者。相応の報いであろう」

 閻魔王が冷たく言い放つ。

 男は自分に下された判決を、じっと項垂れて聞いていた。

 ふっ、とえんは小さく溜め息を吐く。

「───仕方が無いね。精々みっちり坊主の説教でも聴いて、反省するがいいさ」

 そう言うと、男は不安気な、けれども何処かさっぱりした顔で、へい、と頷いた。

「さて、獄卒ども。」

 閻魔王の声が厳しく響き、赤青の獄卒鬼が揃って膝を着く。

「この者を、連れて行け」

 はっ、と畏まり、獄卒達が男を引き立てて行く。引き立てられる男にえんは言う。

「行き先に困ったら、町はずれの古寺へおいで。破れ寺だが、坊主はちゃんとしてるからね」

 最後にひとつえんに頭を下げて、男は引き立てられて行った。

 閻魔王がえんを見下ろす。

 それをわざとにらみ上げておいて、えんは皮肉そうな笑みを浮かべる。

「───掛り遭いついでに、施餓鬼会でも頼もうか」

「施餓鬼会など催したところで、あの者の口には何も入らぬわ」

 閻魔王が意地の悪げな笑みを浮かべてそう云った。



「───施餓鬼会を頼みたいんだけどね」

 昼下がりの寺は陽の光を浴びて、ほっこりと温んでいる。された縁側からは古い木の匂いがした。

「それはご奇特なことで」

 老いた住持が皺顏を綻ばせる。

「まあ、縁も所縁もない者なんだが、掛り遭いでね」

 えんがとぼけた顔でそう言うと、住持はわけ知り顏で頷いた。

「───おあしも無いことだし、かたちばかりで構わない」

 そうだね、とえんは辺りを見回す。

 庭先に七つ八つばかりの小僧が、小さな手には大き過ぎる竹ぼうきを懸命に動かしている。

「腕飯ひとつとそこの小僧の経で十分さ」

 小僧が驚いた様子で顔を上げた。

「お前さんだって、経のひとつぐらいは読めるだろう?」

 えんが尋ねると、小僧は困ったように住持の顔を見た。住持が頷いて見せると、はにかみながら頷く。

「それで十分さ、不出来でもいいんだ一生懸命やってくれさえすりゃあね。」

 そう云って、えんは住持を見る。

 住持は微笑みながら頷いた。

「ああ、それから」

 えんは、自分の背よりも丈のある箒を抱えたままの小僧に云う。

「経が読めるなら、その意味も少しは解るんだろう?」

 小僧は曖昧な顔で、住持とえんを交互に見た。

「───なに、今度供養してもらいたい者はね、生きてる時には寺へなぞ、足も向けたことがないような奴でね」

───経など読んで聞かされた処で、なにがなんだか分からなかろうと思ってね。

 えんがそう言うと、おそらくは自分もまだよく解ってはいないのだろう、小僧は赤くなって俯いた。

「───しばらく時をいただけますかな」

 住持が柔和な顔でえんに云う。

「なに、そう長い事ではありません。十日程も戴ければ十分で御座いましょう。その子も、知らないわけではない。ただ、もう一度さらい直さねばなりませんので」

 俯いていた小僧が、嬉し気な笑みを浮かべた顔を上げた。

「───それでいいさ」

 えんはにっこり笑って小僧を見る。

「けど、其れ迄にみっちり教わって、よく供養してやっておくれ。何しろ相手は───」

───お仕置になった罪人だからね。

 小僧がびくりとしてえんを見る。

 えんはそれには構わず、住持にひとつ会釈して、黙って立ち上がった。住持は相変わらず柔和な顔で会釈を返し、えんを見送るために立ち上がる。

「そのままでいいよ、送らないでおくれ」

 そう言い置いて、えんは縁側から庭先へ下りた。庭先では小僧が箒を握り締めたまま立ち尽くしている。

「よろしく頼むよ。」

 えんがそう言うと、小僧は黙って小さな頭を下げた。


「───そういうわけでね。」

えんはそう云って、須弥壇を見上げる。

日に日に太ってゆく月が、外を明るく照らしていた。

「───あの分じゃあ、施餓鬼会まで小僧はみっちり説法の練習さ。いくら食法餓鬼だって聞き過ぎて、飢えるどころか胸焼けがするだろうよ」

閻魔王が、堂々とした腹を揺らして笑っている。

「胸焼けなど致しますまい」

倶生神が微笑みながら云う。

「わが子の説法ならば、どれほどたどたどしかろうと、素直に胸に落ちましょう。しかしさて、一杯になるのは、腹やら胸やら。それにしても、三年で人の子とは随分と成長するもので御座います。」

「そうだね。」

と、えんも微笑みながら頷く。

「それにしても、ずいぶんと脅かしたもんじゃあないか」

「さて、そうであったか」

 えんが睨むと、閻魔王がとぼけた顔で具生神を見る。

「はて、子等を随分脅かしたようであるから、今度は少し脅かしてやれと仰せられたのは、閻魔王様に御座いますが。」

「───よく云うよ」

 えんは呆れた顔で、閻魔王を見上げる。

「彼奴が脅かしたのは、吉とか云う餓鬼大将ひとりで、他の子等を脅したのは、自分じゃあないか」

 閻魔王が「そうか」と笑った。

「それで、あの悪餓鬼共はどうした」

 ふっと息をついて、えんは、

「さて、どうしたろうね」

と、そう云った。

 それぞれに十分恐ろしい思いをしたはずであるから、当分は大人しくしてはいるだろう。しかし、彼等が正直に親に打ち明けたものかどうか、また打ち明けたとしても、親が彼等をどうしたものかは分からない。

 けれど、閻魔堂を出る時の、吉の言葉は信じて遣りたいと、えんはそう思った───



 随分と夏らしくなってきた風に、朝露がきらめいて揺れている。あれから、数日が経っていた。

 小さな足音に目を覚まし、えんは閻魔堂に向かう道を歩いていた。えんのたどる道には、小さな足跡が朝露を散らして続いている。やがて藪が途切れると、朝の光の中に閻魔堂が見えた。

 朝の光を浴びて、露を置いた閻魔堂は薄っすらと輝いている。足跡はまっすぐに閻魔堂に向かい、扉の中へと続いていた。

 えんは扉に手をかけ、そっと開ける。

 見覚えのある、小さな子供が須弥壇の前に屈みこんでいた。

「───どうしたんだい」

 えんが声を掛けると子供は、はっと顔を上げた。

「驚かしたかい、ごめんよ」

 えんの顔を思い出したのか、子供はほっとした顔でかぶりを振った。

「で、どうしたんだい、こんなに早く───」

 えんが尋ねると、子供は少し躊躇いながら、

「───えんま様に、あやまりに」

と、そう云った。

「そうかい」

 そう云って、えんは子供の手に目をやった。子供の両手の甲には、灸の痕が、痛々しく残っている。

「その分じゃ、こっぴどく叱られたようだね」

 えんの言葉に子供はばつが悪そうに頷いた。

「あの独楽はどうしたんだい?」

 そう尋ねると、子供はさらにばつが悪そうに小さくなって、つぶやくような声で

「返しに行った」

と、そう言った。

「そうかい。」

 えんは頷いて、閻魔王の像を見上げる。像の前の花入れには、まだ露を含んだ野の花が、たどたどしく生けられていた。

「なら───」

と、子供の顔に笑いかけ、えんは云う。

「えんま様には、謝るんじゃなく、お礼を言うんだね。その方が、えんま様も嬉しかろうさ」

 子供は驚いたようにえんの顔を見た。それから、もう一度閻魔王の像を見上げる。そして、あわてたように両手を合わせて頭を下げた。

 やがて子供は顔を上げ、えんを見上げると、心のつかえが取れた顔で笑った。


「吉ちゃんとやらはどうしたんだい?」

 帰り際、えんは子供にそう尋ねてみた。

「吉ちゃんたちは、当分家から出しちゃもらえないよ。それに───」

と、子供は寂しそうな顔をした。

「三人とも、もうすぐ徒弟奉公に行くんだ。」

───ああ。

 えんは頷いた。

 みな、職人町の子等なのだろう。あの年頃ならば、それぞれに親方に付いて、下働きを始めてもいい頃だった。

「こんどのことがあるから、他所へ出す前にみっちり仕込んでやるって吉ちゃんとこのお父っちゃんが云ってたよ」

「そうかい」

 えんは去り際の吉の顔を思い出す。良くも悪くも芯の強そうな顔だった。

「あの子等も、あやまりに行ったんだろうね?」

 尋ねると、子供は頷いた。

「吉っちゃんがね、他の子らといっしょに、自分が盗らせたと言って謝ってまわったんだ。」

 自分も一緒に行ってもらったと、子供は少し項垂れてそう言った。

 聞けば、吉という餓鬼大将は他の子等の家にも、そう言って謝りに行ったと云う。やはり、芯の強い子だったらしいと、えんは心の内でにこりと笑った。

「───またおいで、今度は悪いことをしない時にね。」

 そう揶揄ってやると、子供は口もとに笑みを浮かべたまま、ちょっとだけえんをにらんで見せた。そうして、この間よりも少しだけ大人びた顔で手を振ると、「また、来るよ。」とそう言って、小道を駆けて行った。

 その背を見送って、えんは口もとに笑みを浮かべる。

「───子どもってのは、勿体無いほどすぐに大人になるもんだ。」

 そう呟いて、えんは閻魔堂の扉を開け放つ。朝の光が堂内に差した。

 見上げると軒の燕の巣の縁に、他の子よりも巣立ちの早い燕の子が一羽、しっかりと指を掛けてとまっていた。ふわふわとした綿毛が艶やかな羽根へと変わりかけている。鳥の子等も間もなく大人になるのだろう。

 えんは須弥壇の像を見る。埃を被った木彫りの像は、知らぬ気に白い光を浴びている。唇の端に少しだけ皮肉気な笑みを浮かべて、えんは閻魔堂に背を向けた。見上げる空は雲ひとつなく、抜けるように青い。

 ひと足早く、夏らしく香る風を正面に受けて、えんはまだ朝露の乾ききらない藪の小道を帰って行った。

 


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