現代文学の独立性
1970年代前半において、日本文学は
三島由紀夫、川端康成を失った。
以降、急速に『日本文学』は光彩を失う。
一方で、『大衆娯楽』が勃興し、1980年代からは『サブカルチャー』が目立つようになった。
どうやら、現代文学が過去と断絶したのは、このあたりらしい。
「大江健三郎までが日本文学で、後は文学では無い」
という評論がある。
それを大真面目に信じると、
三島由紀夫
川端康成
この両名の自殺をもって、日本文学史は時が止まった。
ないし、継承者がいなくなった。
大江健三郎までが、光の残照を受けたということだろう。
何をもって『日本文学』とするのか。
『日本的文学による作品』であり、噛み砕いて言えば、
見識と感受性が、日本的ないし、日本人に合う作品になる。
この『日本的』というものは何か。
これを失ったのが、現代であろう。
文学的な日本のものは、
『もののあはれ』
が、代表格である。
現代が、過去と断絶している根拠は、
『もののあはれ』が、感受性を刺激しないという要素からきている。
原子力発電所の安全神話、違法住宅、食品の不正表示などの、どう考えても『生活の欺瞞』を示すものがあっても、現代人はそれを『人間的感受性』として捉えない。
東日本震災があって、やや『人間的なもの』を取り戻したように見える。
震災後に、『遠野物語』に目を向けようという動きがあったのは、これと無関係ではない。
断絶した過去と、結びつこう。
そういうことだろう。
あるいは、『現代人でいることに疲れてきている』ということになりはしないか。
生活はしやすい一方で、『異常なまでに生き難い』。
生きるということは、心臓が動き続けることではない。ところが、現代社会は、『人権尊重』を大義名分として、『人間』を排除していく。
現代文学が、そうした『人権尊重』を土台にしているならば、確かに過去と断絶はしている。
『日本人として生きること』
というものに、かつての文学は密接であった。
現代は、
『とにかく生きること』
というものの、作用と反作用のどちらかに属する。
これらを踏まえると、ネット小説で、
『無職』、『転生』、『異世界』などが流行するのは理に適っている。
現代で生きる価値があるのか?
この問いを出しているのではなかろうか。
現代の独立性は、プロテスタントの分派に状況が似ている。
解釈を巡り、多様を認めることで勢力が弱まった。
現代だと、かえってカトリックの方が受け入れやすくはなっている。原理原則が明確な分、布教もしやすいのがあるかもしれない。
日本だと、プロテスタントの話をしてもピンとこないか。
余談ながら、日本のキリスト教徒の割合は目立って低い。全体の2割くらい。
理由は定かではないが、
『長崎に原爆を落とした宗教を信仰する気にならない』
という心情は、あるだろう。
自国の民を救うなら、異国の同信徒を殺してもいい。
いくら戦争でも、これを認める気にはならない。
『人権尊重』の危険性は、国家の急時にどういうところで現れるか分かったものじゃない。
どうも、私は思考の飛躍が多くなる。
現代社会が『戦後』である以上、過去と連綿と続いているわけですな。理論上は。
ただ、心情的にはどうなのか。
戦後70年目を迎えるから、様々なものを振り返る機会となっているのかもしれない。
なんとか、過去を受け入れられる現代であって欲しいものであります。