夢想(パトリシア&ジャン)
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ
夢と知りせば 覚めざらましを
(古今集・恋二 小野小町)
心の内に思いながら寝たから、あの人が夢に現れたのだろうか。もしも夢だと知っていたならば、目を覚まさなかっただろうにーー。
* 〜 * 〜 * 〜 * 〜 *
「ジャーンっ!」
「ぅわっ!」
いきなり飛びついて来たパトリシアに、ジャンは驚いて本を取り落とした。バサリと絨毯に落ちたそれに、破れたりしていないといいけど、と思うあたり、彼女の奇行にも大分慣れてきたようだ。
パトリシアが崖の上から現れて、もうどのくらい経っただろう。数えるのも面倒になるほど、自分は彼女と共にいる。
やれやれと、口では仕方なしに許容している風に見せかけはしても、その内心は別の感情が占めている。
きっと、自分以外の誰一人として知らないだろう。聖女と崇め奉られる彼女があのような、立場ある淑女らしからぬ振る舞いをするのだなんて。
ジャンは彼女の奇行を、一種の信頼の示し方として捉えていた。なにせ、彼女がこの世界に降り立って始めて見えたのも、それからずっと彼女の傍で彼女を支え続けてきたのも、他ならない自分なのだ。これでよもや信頼など無いとは言えまい。それこそが、ジャンに密かな優越感を与えている。
「で、今日はどうしたの?」
「あら、『今日は』だなんて酷い言い草ね!」
失礼しちゃうわ、と芝居がかって言うパトリシアだが、ジャンの言葉は間違いではない。なにせ、彼女は事あるごとに、どころか事が無くともジャンに飛びかかることが常日頃からあるのだ。人目の無い時を狙っての犯行には、さすが見栄っぱりとある意味尊敬の念さえ抱いてしまう。
何も言わず苦笑いをしているジャンに、ふんとパトリシアは鼻をひとつ鳴らして、まぁいいわと話を戻した。
「ピクニックに行くわよ!」
なんとも唐突である。彼女の天真爛漫ぶりにはもう慣れたと自負していたジャンも、あまりの脈絡の無さにぽかんと呆けた。
「ピクニックって……なんで?」
ピクニックと、わざわざそう言うからこそ尋ねた。
国としての基盤ができてから、ジャンの生家カルヴァン家は貴族の地位を得て、それに伴い領地を与えられた。研究かぶれとはいえもともと富裕層に分類される生まれだから、この屋敷は十分に広く、庭園も手入れが行き届いて美しい。
だというのにわざわざピクニックと、遠出をしようと言うのだから、ジャンにはさっぱり理解できなかった。
「テラスや庭園じゃダメなの?僕、本読みたいんだけど……」
「ダーメ。近いところだと、あなた、本にばっかり噛付いてるじゃない」
そんなの絶対ダメよ、と言うパトリシアに、ジャンは何がダメなのかとまたわからない事柄が増えた。
それなりの時間をともに過ごしてきたけれど、彼女の思考回路は相変わらずジャンの理解の範疇を超えている。思いがけず、それを再認識してしまった。
「本を読むのは確かに良いことだけど、何事にも限度ってものがあるの!……あなた、最後に外に出たのは何時?」
「え?えー……と、」
いつだったっけ。そういえば、随分前のことだったような気がする。
なかなか思い出せず頭を悩ませていると、びしりと鼻先に人差し指を突き出して、パトリシアが答えを突きつけた。
「十日前よ、十日前!」
「あ、まだ十日?」
意外と最近だった、とケロリとして言うジャンに、パトリシアの熱はさらに上がる。
まったく、どうしてこの男はこうも自分のことに無頓着なのだろうか。これでは出不精の域なんてとうに通り越して、もはや引きこもりではないか。
疲れたように額に手を当てても、ジャンは変わらずほけほけとしている。それにまた頭痛が増した。
「もういいわ、あんたの意見を聞こうとした私が馬鹿だったのよ。もう知らない。あんたの意見なんて聞いてやらないんだから!」
「へ?っえ!?」
言うが早いか、パトリシアはジャンの腕を掴み、引っ張り走り出した。突然のことに驚いてもたつく足を、なんとか動かしてその背を追いかける。
「ちょっ、パトリシア!」
避難の声を上げるも、彼女は気にした様子は見受けられない。細い足をすばしっこく動かして、どんどんと速度を上げて走っている。
研究は体が資本と体力作りを怠らなかったジャンでさえ息を切らし始めていると言うのに、パトリシアは軽く息を弾ませる程度。
あまりにも身軽で、彼女はこのまま元の世界へ走り去ってしまうのではないかと、そんな不安に駆られた。
バン!と派手な音をさせて、パトリシアが玄関の扉を勢い良く押し開ける。
瞬間、光とも認識できない白が飛び込んできて、あまりの強さに手を眼前に翳した。
「ほら、早くこっちに来なさい!今日はこんなに良い天気なんだから」
また、腕を引かれる。しぱしぱする目をなんとか慣らして、それでも眩い外の世界に、彼女に言われるまま目を向けた。
外は、確かに良い天気だった。
青く透き通った空。時折風に流れる白雲。歌うように囀る鳥たち。青々と生い茂る草木。所々に咲く色とりどりの花々。
黒い髪と白い肌の、女性。
不意に、心臓が一際強く脈を打った。
「ね?綺麗でしょう?」
にっこりと目映く笑うパトリシアに、ジャンはぎこちなく頷いて答えた。
するとパトリシアはするりと腕を解いて、少し先まで走っていく。黒い髪が風に靡いて、日の光を受けて艶めいている。
綺麗だった。空も鳥も緑も。
なによりも、彼女が。
「ジャーンっ!」
よく通る声で、パトリシアが呼んでいる。
「綺麗、だなぁ……」
心から、ジャンは見惚れていた。
* 〜 * 〜 * 〜 * 〜 *
不意に、意識が浮上する。
身動ぎに従って上掛けのシーツが音を立てて波打った。
薄っすらと目を開けば、薄暗い部屋。灯りのひとつも灯っていないそこで、広すぎるベッドの上で、ジャンはひとり横たわっている。真っ白なシーツの海に沈んでいる。
「夢………」
ああ、そうか。夢だったのか。
たった一言の呟きが、響いては、突き刺さる。
なんて懐かしい夢だろう。忘れたことなどない、あの幸せな時間を。忘れられなど、しないのだ。幸せがどれほど辛く苦しいものかわかっていても。
だからだろうか、彼女の夢を見たのは。
ジャンは震える体を折って、幼子のように丸まった。
「パトリシア……」
今はもういない、どんなに願っても、もう二度と会えない、最愛の人。
もしもこのまま眠りに就いたなら、また同じ夢が見れるだろうか。
幸せが突きつける現実が辛い。幸せが齎す虚しさが苦しい。
幸せが、こんなにも自分を悲しくさせる。
でも、たとえ夢でもいいから。
「叶うなら、もう一度……」
夢でもいいから、君に会いたい。