ノアがはこぶね
現在、船内は私が考え得る理想的な環境に整っているといえた。
擬似太陽はまばゆく船内を照らし、空調から流れる風はやわらかく、生い茂る木々は遠慮なくその枝葉を伸ばしている。
しかし、当初の計画とは大分ズレが生じている。
原因は予想外の事態にあり、もちろん対処は行ったが、気付いたときには既に手遅れと言って良い状態だった。
今は次善策として私が考えた中では最良の計画が施行されていて、そちらは順調に進行中だ。
船内の設備は滞りなく稼動しているし、航路も安定している。
船外を映し出しているモニターに目を向けると、そこは星の海。
数十億、数百億の星々の中には生命を受け入れてくれる惑星が必ず在るはずだ。
そう信じて、私は船を走らせる。
母星を失った人々が最後の望みを込めて造り上げたこの宇宙船『Noah』を。
*
冷凍睡眠カプセルが設置されている部屋は、手狭ではあるが完全な個室となっている。
カプセルに入るのに専用の衣装が用意されているとはいえ、それは薄衣一枚。ゆったりめにしつらえてはいるのだが、光を通せば輪郭が見えてしまうような素材だ。普通の服や下着が瞬間冷却に耐えられないので支給されているものではあるのだが、他人に見せるには少々刺激が強すぎるものだった。
普段着や生活必需品などは、真空パックを応用した新技術によって部屋の隅にある収納スペースにおさめられている。
個室内に他にあるのは、鏡と洗面台くらいなもので、本当に『眠る』こと意外には不向きな部屋だった。
そんな個室のひとつが今、けたたましいほどのアラーム音で包まれている。
冷却装置の解除が始まり、カプセルの蓋が小さく空気を押し出しながらゆっくりと開く。やがて部屋の主は上半身を押し上げ、まだ完全には開ききらない目蓋を二度三度と開閉し、必要以上に乾燥しているような気がしている頭をボリボリと掻きながら、遠慮のない大口で放ったあくびを噛みしめる。
まだ意識がはっきりしないのか、頭をひねるように首の運動をした後、自分で最大音量に仕掛けたはずのアラームをしかめっ面でひっぱたいた。
洗面台で顔を洗い、本調子でない身体を引き伸ばし、収納スペースから飾り気のない下着とTシャツ、そして動き束縛しないかなり緩めのパンツを引っ張り出して身に着けていくと、ようやく一息ついたのか、彼女は久しぶりに聞くはずの自身の声を部屋に解き放った。
「あー、嫌な夢見た……」
○
宇宙船の航行はAIに任せてあるので、人手は必要ないのだが、不測の事態というものはいつ如何なる場合でも起こり得るのものである。そのために搭乗員は幾つかのチームを作り、交代で冷凍睡眠をといて船の管理をすることになっている。
もちろん管理の大部分もAIがまかなっているので、搭乗員の主な任務は待機だ。
膨大なまでの暇な時間をどう過ごすか考えながら、部屋の主は扉を開けメイン制御室へと通じる回廊へと足を踏み出した。
「な、なんじゃこりゃ」
そして思わず大きな声を通路に響かせる。
彼女の目の前にあったのは、植物の枝かもしくは根と思しき物体だった。しかも一種類ではない。目に見えるだけでも数種類のさまざまな植物が、通路に蔓延っているのである。
「どうなってるのよコレ。ノア、説明して!」
すぐに船内各所に設置されている集音装置付の端末に向かって声を発し、船のAIに呼びかける。
『システムコールを確認。乗員ナンバーと登録名をコールしてください』
返ってきたのはこの異常事態でも問題なく通常どおり機能していたらしい管理AIの合成音声だった。
「ナンバー2384771。登録名はリオ。現在の船内における植物の異常発達について説明を求めます」
職務となれば、それまでのだらけた意識のままではいられならしく、リオは整った言葉でノアを問いただす。
高性能AIとはいえ曖昧な表現では正しい情報を引き出すことは困難なのだ。
『ナンバー、登録名を認証しました。おはようございますリオ。現在の状況を説明します。長期航行の結果、数年前より酸素供給システムに不具合が生じ、当時の酸素保有量では以後の船内生活に支障をきたすことがわかりました。そこで、船内のグリーンルームに植樹されていた宇宙マングローブ他、成長の早いものを活性化させ、酸素を余剰に発生させることにしました。現在は酸素保有量も十分に確保されています。通路の移動に邪魔な部分は刈り取ってしまっても問題ないかと思われます』
異常事態が発生していたこと、それに大胆な作戦で対処していたことには驚かされたが、現状に問題がないことを聞いて、リオはそっと胸をなでおろす。
「そう、問題がないのならいいわ。了解。そうだ、私のチームはもう皆起きているかしら。あと、今稼動しているチームのメンバーを教えてくれる?」
枝葉を避け、通路を移動しながら引継ぎのための準備を進める。しかし、通常はすぐに返ってくるはずのノアの声が聞こえてこない。
「ノア?」
『……あなたのチームで起床済みなのは、あなただけです。』
再度の呼びかけにAIは反応を示す。木々をかき分ける音でこちらの声が届き難くなっているのかもしれない。そう思いながら、質問を続ける。
「そう、モアさんやトードーが私より遅いなんて珍しいわね。今のチームは?」
『すでにお休みいただいております……』
「はぁっ?」
思わず立ち止まり、不快な声を上げる。
実質的な仕事がないとはいえ、引き継ぎもなしに業務を終わらせるなんて、怠慢もいいところだろう。
『引継ぎは私に一任されました。航行、船内設備には現在異常は見つけられません』
ノアは端的に説明するが、リオ納得のいかない顔を隠すつもりもないようだ。
この分だと、酸素保有量の不具合も人的要因を疑わねばならず、リオの顔にはしだいに心配の色が浮かんでくる。
だが、それをここで言っても聞いているのはAIだけで、しかも彼女はしっかり仕事をこなしており、また、文句を言っても仕方のない存在なのだ。
不満を口の中で噛み締めながら、制御室へ向かう足は再び止まる。それは、もうひとつだけ確認しておかなければならないことを思い出したからだった。
「人が、生物が住めそうな星は見つかった?」
『……いいえ』
「そう、よね」
○
惑星の自転運動にすら干渉するほどの破壊行為を誘発した戦争は、異常気象と天変地異によって終焉を向かえることになった。
全人類が協力してその星を脱出するより他に、生き延びる術を見出せなかったのだ。
急ピッチで進められた大型宇宙船の製造。フリーズドライを応用した冷凍睡眠装置や、真空保存の新技術の開発など各国は協力して生き延びるための作業に終始した。そこには人種の差別などはなく、人類にとっての理想が体現されていたといっても過言ではないだろう。
そうやって出来たこの船は、神話の救世主の名を付けられ、今も多くの遺伝子と眠り続ける生物たちを運んでいる。
たどり着いた制御室は、前情報のとおり無人だった。モニターと各種制御装置だけが今も機械音を奏でていて、温度は一定に保たれているはずなのに、なぜか寒々しく感じられた。
「本当に誰もいないのね。起きてるのはもしかして、私だけなのかしら?」
一定間隔で切り替わる監視モニターに人影は映らない。酸素供給システムの不具合をチェックしてみるが、そこに人の手が入った記録はなく、本当にノアに頼りきっていることがわかる。
一抹の不安を抱えながらも、それ以上手を加える部分もなく、あとは通路の植物たちを邪魔にならないように除去すれば、人間の手で出来ることは何もなくなるだろう。前任者が仕事を投げ出したくなる気持ちも理解できるような気がして、リオは頭を振った。
「まあ、いいわ。皆が来るまでは休憩にしましょう。グリーンルームは使えるの?」
『少々気温は高めに設定していますが、問題なく使用できると思われます』
グリーンルームは搭乗員が心や体をゆっくりと癒したいときに使用する特別室だ。もちろんそれだけではなく、植物の宇宙での繁殖実験や、品種改良なども研究されている。人間以外の生物は解凍や遺伝子からの復元をしていないため、それらを利用した繁殖や、土壌改良などの研究は滞っている現状だ。
生物が生活できる星を見つけたとしても、そこの土質が解らなければ意味のないものになるからだ。
グリーンルームへ向かう道も、旺盛な植物たちの繁殖力に侵食されている。
しかしルームの内部ではある程度に抑えられているらしく、人がゆったりと休憩するスペースは確保されていた。
木陰に設置された寝椅子に身体を横たえて、リオはやや強めに設定された擬似太陽に目をしかめる。
目をつぶると、眠気が襲ってくる。冷凍睡眠は通常の睡眠ではない。普通に身体を休ませことが自分には必要なのかもしれないとリオは考えた。そして、寝起きに見た夢があまり良くないものだったことを思い出す。
内容までは思い出せなかったが、ここで眠れば今度こそいい夢が見られるような気がして、リオは空調から流れる暖かな風に身をゆだねるのだった。
そういえば、冷凍睡眠中でも夢を見るんだなと、考えながら。
*
不具合を発見したのは、システムを監視するための搭乗員が数名、起きてこなかった時だった。
当然、当時の搭乗員から原因の究明を命じられた私は、冷凍装置やプログラム、起床時のプロセスなどに問題がないか調べた。搭乗員たちも総出で原因を探ったが、それらに不具合が見つかることはなかった。
意識のないまま解凍された搭乗員の身体は、冷凍される前の健康状態を維持しており、機械やシステムに問題がないことが証明される。
原因のわからないまま、彼らは再び冷凍睡眠装置に入れられ、次のチームへと引き継がれた。
しかし、次のチームはより多くの人員が目覚めなかった。当然、報告した搭乗員たちには動揺が広がったが、チームの一人が言った一言で雰囲気は一転する。
曰く、「幸せそうな寝顔だ」と。
他のメンバーはそれを聞いて少しだけ笑顔を取り戻す。しかし私のプログラムにはある可能性が浮上してきた。どうやら彼らは冷凍睡眠中にも夢を見ているらしいのだ。
これだけ長期にわたる睡眠なのだ。見ている夢も普段より長く同じシチュエーションのものなのではないだろうか。
内容は彼らの記憶の中にあった過去の出来事の追体験や、未来の希望なども含まれるのではないだろうか。
もしそれが、一人の人間の人生を最後まで描ききるものだったとしたら――――。
私は起きているメンバーに、冷凍中に見ていた夢のことを聞いてみることにした。
大半の者は夢の内容を覚えてはいなかったが、忘れていない者たちの中には成功した自分の姿を夢で見たという意見が少なくはなかった。
幾度かのメンバー交代を経て、起きてこない人員はますます増えてきた。そして調査を続けた結果、私の推測は確信に近いものへと変わっていく。
搭乗員たちの協力で人々が見ている夢を解析する装置を開発しようという声も上がったが、新しい技術を開発できるほどの技術や素材などの余裕は船内に残っていなかった。
やがて彼らも眠りにつき、誰も起きてこない時期さえあった。
もう、冷凍されている人間たちに期待することは出来ないのかもしれない。そう判断した私は兼ねてから考えていた新しいプランを実行することにした。
遺伝子の保全を最優先とし、彼らには住める星が見つかってから、新たに再生する生物に加わってもらい、現在も船内で生命活動をつつけている植物たちだけは、そのまま移植できる準備を始める。
解凍されても起きてこられない人間たちは、すでに数人が植物の肥料になってもらっている。今日、珍しく起きてきた人間が居たが、彼女もすぐに眠ってしまうだろう。
自らの幸せな未来を夢に描きながら。
この頃は船外モニターを監視することが多くなった気がする。
そこには変わらぬ星の海が広がり、箱舟は今日も静かに揺れている。
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