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12年に1度の大恋愛年

作者: 文屋カノン

 JUNON恋愛小説大賞で落選した小説です。ポップな文体がいいんだろうなあと思って、少し崩してあります。

 一生懸命恋愛した女の子の話で、私は割と気に入っています。でも恋って一生懸命、誠実にやれば報われるとは限らないんですよね……。

 川越に、レンタル着物店がいくつかあるらしいと夫が言い出した時、あたしは川越という地名にドキリとしながら、動揺を悟られないように「そうなんだ」と答えた。

「川越は古い町並みが残ってるから、レンタル着物を着て観光する人が多いらしいよ。リク、七五三も成人式も結婚式も着物を着れなかったから、一度着物を着てみたいんだよね」

 初めて出会ってからしばらく夫を陸川(りくかわ)さんと呼んでいたら、ある時

「リクちゃんと、呼んで欲しい」

 と頼まれた。乞われるままリクちゃんと呼んでいたのが、付き合い始めると同時に呼び名はリクに変わった。結婚してあたし自身が陸川になってからも、独身時代の癖でリクと呼び続けていたら、いつの間にか夫も自分をリクと称するようになった。

 つぶらな瞳に垂れ下がった眉が特徴の柔和な顔立ちの夫には、それが似合う。切れ長の目に、釣りあがった眉を持ったシャープなかんばせの若月(わかつき)が、自分をワカなどと形容したら、決して似合いはしなかっただろう。若月には俺という一人称が似合っていたし彼はいつも自分を俺と言っていた。

 そんな若月の故郷の話を、嬉々として語る夫に、あたしは居心地の悪い思いをしながらも

「へえ、いいねえ」

 と乗り気なふりをした。

 夏に一緒に出かけた花火大会で

「浴衣もいいんだけどさあ。ちゃんとした着物って、あたし大学の卒業式で着た袴以来なんだよね」

 とこぼしたことを、夫はおそらく記憶しているだろうと思ったから。

 けれど夫が

「でしょ? 行ってみない?」

 ともちかけてきた時、あたしは

「でも浅草にもレンタル着物店はあるらしいよ。浅草の方が近いじゃん。浅草だって着物が似合う所だし」

 と反対した。

 若月の故郷に行ってみたい気もしたけれど、何も知らない夫と、昔のカレシの故郷を訪ねるのは、何だか気がとがめた。

 夫は「ふうん」と返事をした後、ベッドサイドの時計を見て

「あ、こんな時間」

 とつぶやいた。あたしはこの話題から解放されたことにホッとしながら

「大変、寝なくちゃ」

 と照明を消した。

 寝室はたちまち暗闇に支配されたけれど、あたしは何だか寝つかれずに、闇の中で目を凝らしていた。ぼんやりと若月の顔が浮かび上がるのが見えた。きりっとした眉。鋭い眼光。高く通った鼻筋。十八歳のあたしが一目惚れをしたあの人。

 隣から夫の寝息が聞こえてきた。その健やかな音にあたしは何だか罪悪感に駆られ、慌ててまぶたを閉じた。夫婦の楽しい旅行を提案してくれた夫の傍らで、昔の男を回想するなんていけないことだ。そう思った。




「浅草にもレンタル着物店、あることはあるんだけどさあ」

 と言いながら、夫が弁当箱と水筒の入った会社用のリュックをあたしに手渡した。その手はオイルで黒く汚れている。夫の会社は一応、一流と呼ばれている所だけれど、夫の仕事は工場での作業だ。

 だからといって、あたしは夫の職業に不満を持っている訳ではない。夫自身はブルーカラーとはいえ、会社は一流だから福利厚生もしっかりしているし、安い家賃でこうして社宅に入ることもできた。けれど夫のセリフによってその次に出てくるであろう地名、川越があたしにまたもや若月を思い起こさせた。

 若月は県内の大手自動車メーカーに就職し、営業マンになった。ここ数年の近況は知らないけれど、あの男のことだから上手く立ち回って成績を上げているのだろうと思う。

 若月のそういう世渡りの上手さが、不器用なあたしとは合わなくて、そしてあたしたちは別れることになったのに、こんな時にふと、あたし同様、世渡りの下手な夫のことが疎ましくなる。別れの一因となった若月のずるさが不意に懐かしくなる。

 そんな思いを抱いてしまったことに、自己嫌悪を感じながら、あたしは「うん」と相槌を打った。夫の声色からどうやら浅草が却下になったらしいことを予想しながら。

「着物の種類が少ないし、二時間で五千円なんだよね」

「川越は、いくらなの」

「今日調べたんだけど、着付けヘアセット込みで、オープンからクローズまで着せてくれて、二千円の店があるんだよね」

 休憩時間にケイタイで調べたんだなと思いながら、あたしはリュックを、キッチンへ運んだ。夫は調べ物が好きで、自分が気になることはもとよりあたしが発したふとした疑問まですぐに調べる癖がある。夫のそうした傾向はとても好ましい。

 けれど若月は違った。若月と出会ったバイト先で、あたしがバイト仲間に物知りだと褒められた日の帰り道

「俺は雑学とか知ってることに意味があるとは、全然思わない」

 と否定的だった。その時はまだ付き合い始めてはいなかったけれど、バイト帰りに下宿まで送ってもらうことが、日常になり始めていた頃だった。

 若月のその言葉を聞いて、あたしは自分の人格が否定されたような気分になった。当時からあたしは好奇心旺盛なタチだった。けれどその性質によって、自分が博識になったことには気付いていなかった。だから知識をひけらかすつもりは全く無かった。あたしは同年代の人に比べて知識の引き出しが多かったから、会話の中で、自然に知識が口をついて出てくるだけだったのだ。

 だからバイト先で、短大に通う自分が、国立大の学生に物知りだと褒められた時は意外だったのだ。そしてつい先ほど知った自分の特徴を、二人きりになった途端、若月に否定され、あたしは一体どうしたらいいのか分からなくなった。

 あたしの中に、少しでも雑学を自慢したいという思いがあったなら、控えることはできたけれど、あたしはまだ、自分と自分を取り巻く同年代の人間の知識の差を理解していなかったから、これから若月の前で一体何を口にしていいのか分からなくなったのだ。

 今だったら、そんなことを言う馬鹿な男になど一気に冷めてしまうけれど、若かったあたしは、惚れた男の言うことは何でも正しいような気がした。だから若月の否定する物知りな自分を何とか変えたいと思ったけれど、自分の好奇心を、どう封じていいのか分からなかった。

 そんなことを思い返していたら、あたしははたと思い当たった。だからこそあたしは若月にあそこまで焦がれたのかも知れない。思い悩んだあたしは、結果的に自分の好奇心の全てを若月に向けたんじゃないだろうか。

 高校生の頃、二週間だけ付き合って別れてしまったカレシはいたけれど、本格的に付き合ったのは若月が初めてだった。だからあたしは、若月に首ったけだったのだと今まで思っていたけれど、もしかしたらあたしは、若月のあの一言によって若月以外の全てのことに興味を無くし、若月だけを見詰め始めたのかも知れない。

 そう、好奇心を否定する愚かな男に盲目的な恋心を抱くという、精神にとって有毒な行為をあたしが始めたのは、若月のあの一言が原因だったかも知れない。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、リュックから水筒と弁当箱を取り出していると、夫が

「しかも浅草の店は足袋を持参しなきゃいけないのに、川越のその店は、足袋もバッグも貸してくれるんだよ」

 と追い討ちをかけた。

 確かにそれは魅力的だと思ったけれど、あたしは

「でもヘアセット、あたし自分でできるから、ヘアセットなんかしてくれなくていいからもっと安くして欲しい」

 と気乗りしない返事をした。夫と共に若月の故郷へ行っていいものかどうか、あたしはまだ悩んでいた。

「たまには人にヘアセット、してもらってもいいじゃん」

「でも、上手にやってくれるか分かんないし」

「だったらヘアは自分でやってもいいか、電話して聞いとくよ」

 ここまで押し切られてしまったらこれ以上反発するのも変なので、あたしは

「じゃあ、聞いといて」

 と言うと水筒の蓋を開けた。

 朝入れた緑茶が三分の一ほど残っている。晩秋が迫るようになってから、夫はあまり水分をとらなくなった。残りの緑茶を流しにどぼどぼと捨てながら

「着物を着るなら、少しでも暖かい内に」

 と夫は言い出すんだろうなと思った。

 ということは、近い内にあたしは川越に行くことになるのかも知れない。十九の歳に別れたあの人の故郷の土を踏むことになるのかも知れない。そう思った。




 若月と付き合い始めたのは夏だったから、付き合い始めてからすぐに、若月は里帰りをした。あたしも実家に帰ったけれど若月よりずっと早く下宿に戻って来た。父親が男女交際にうるさい人だったから、実家では若月に電話ができなかったからだ。当時はまだケイタイどころかポケベルも普及していなかった。

下宿に戻ったはいいものの、あたしは一軒家の二階の一間を間借りしていて、自分の部屋に電話が無かったから、やっぱり自由に若月の実家に電話することができなかった。かかってきた電話は取り次いでもらえたけれど、こちらから電話をかけるには、近所の電話ボックスに行かなければならなかった。けれど電話をかけに外出している間に、若月から電話がくるんじゃないかと思うと、なかなか下宿から出る気になれなかった。

 あたしは若月のことが、好きでたまらなかったからこそ、自分から頻繁にカレに電話をすることが嫌だった。電話をかける回数で、自分の想いの強さを悟られてしまうのが恥ずかしかった。

 下宿に帰る日は若月に伝えてあったのに、その夜、若月からの電話は無かった。若月はあたしが夜、下宿に戻る可能性があると考えて、電話を控えたんだろうとあたしは思うことにした。でも翌日も若月からの電話は無かった。帰郷しているのだから友達と夕飯でも食べに行って帰宅が遅くなってしまったんだろうと、あたしは思うことにした。

 ところがその翌日も、若月からの電話は無かった。若月は電話もかけられないほど体調を崩しているんだろうとあたしは思うことにしたが、けれどもう自分を騙せなかった。若月はあたしのことなど、たいして好きではないのだと思った。

 あたしは初めて若月のアパートを訪れた一ヶ月前を思い起こした。あの日、若月とあたしは部屋の隅と隅に離れて座っていた。何かの会話を交わした後、不意に訪れた静寂がロフト付のワンルームの中を支配していた。

 ここの家賃は確か五万円だったっけと、あたしは考えていた。若月は

「仕送りを、月に十万もらっている」

 と言っていた。対するあたしは仕送り額が月に四万にも満たなかった。

 だからあたしは、若月と同じ家庭教師派遣センターで、テレフォンアポインターのバイトをする傍ら、マクドナルドでもバイトをし更に奨学金も受けていた。それでも月五万もするアパートになど住めるはずも無く、月二万五千円の下宿に間借りをしていた。

 両親が貧乏だったのは、別にあたしのせいではないけれど、あたしは自分の貧しい境遇が恥ずかしかった。キッチンもトイレも浴室も洗濯機も共用のあたしからすれば、キッチントイレバス付きの上、洗濯機まで所有する若月はまぶしい存在だった。

 それにあたしは、いつだったかバイト帰りに下宿まで送ってもらった時、おんぼろアパートの側を通り過ぎながら、若月が

「ああ、こんなアパートに住む羽目にならなくてよかった」

 とつぶやいたことを忘れていなかった。

 あたしはたまたま、大学が斡旋する下宿に入れたから、まあまあ小綺麗な住宅に住むことができたけれど、もしその下宿に入れなければ、劣悪なアパート住まいになったことは確実だった。けれど若月は、一歩間違えればそのような状況に陥っただろうあたしのことを無意識に馬鹿にしたのだ。

 若月の実家は中流だったけれど、彼は貧困を馬鹿にするタイプの人間だった。今だったら、そんな思い上がった男のことなど一気に冷めてしまうのだけど、当時のあたしは若月に気に入られたいために自分の貧しさを恥じていた。若月に誘われ、時折デートをしたりこうして部屋に招かれるようになっていても、心のどこかで、自分と若月では釣り合わないと思っていた。

 そんな高嶺の花の若月の部屋に招かれ、訪れた沈黙の中で、自分と若月の格差について思いをはせていると、若月が何の前触れも無く

「俺は、飯島(いいじま)さんのこと好きなんだよ」

とぼそりとつぶやいた。

 その突然の告白にあたしは、嬉しさよりも恥ずかしさが勝ってしまった。思わず部屋を飛び出してしまいたい衝動に駆られたけれど、何とかその場に踏みとどまった。あたしはクッションで顔を隠しながら

「あたしだって、若月さんのこと好きだよ」

 と消え入りそうな声で答えた。

 何だか夢を見ているような心地だった。幸せというよりも、リアリティーを感じなかった。面と向かって告られたのは初めての経験だったし、不釣合いだと思っていた相手からまさかの告白を受けて、あたしの脳は現実を受け止めきれていなかった。

 クッションに顔を埋めたまま放心しているあたしに、若月は「ホントに?」と尋ねた。あたしはオウム返しに「ホントに」と答えた。すると若月は

「でも俺は、飯島さんと付き合う訳にはいかないんだ」

 と意外な発言をした。

 あたしは顔を上げると「どうして」と聞いた。若月は

「それは、言えない」

 と顔を背けた。

 あたしはひどく不安定な気分になった。だったらいっそ、好きだなんて言われない方がよかったと思った。それ以降あたしは、バイトで若月と顔を合わせる度に若月の一挙一動に振り回された。自分の心をどうしていいのか分からなくて気が狂いそうだった。

 けれどその一週間後に、若月から「付き合おう」と言われた。あたしが

「でも、あたしと付き合う訳にはいかないんじゃなかったの」

 と尋ねると、若月は

「でも俺、飯島さんのこと好きだからやっぱ付き合いたいんだ」

 とあたしの目をじっと見詰めた。

 形良く釣りあがった若月の瞳に見詰められると、脳内から、快楽物質が放出されたような気分になって、あたしは「うん」と答えた。けれど好きだけど付き合えないと言った若月が、たった一週間で好きだから付き合いたいと言い直した事実は、あたしの心にしこりを残していた。

 若月は自分には理解できない違う人間なのだと感じた。だから付き合い始めてからも、あたしは不安だった。そして不安だからこそあたしの心は若月を求めていた。不安だから電話が欲しかった。けれど下宿に帰って三日経っても若月からの電話は来なかった。

 不安におののきながらあたしは、最初から分かっていたことじゃないかと思った。好きなのに付き合えないなどと言った若月が、たいして自分を好いていないことなど、分かっていたことじゃないかと。でもあたしは期待していたのだ。「やっぱ付き合いたい」と言い出した若月が、自分への好意を深めてくれたんじゃないかと。

 それなのに電話は、下宿に帰ってから三日も鳴らなかった。あたしは実家に二泊していたから、トータルで五日、若月と電話をしていないことになる。好きな相手と五日も音信不通でいられるなんて、やっぱり若月は、あたしのことなんかたいして好きじゃないんだと思った。あたしは毎日、若月の声を聞きたいのに。ううん、声だけじゃ物足りない。毎日、若月に会いたい。でも若月は違うんだ。若月は違うんだ。

 苦しみもだえていると翌日、下宿のおばさんから

「若月さんという方から、電話です」

 と声がかかった。あたしは階段を駆け下りると、一階の客間に据えられていた黒電話の受話器を取った。

 その時、何を話したのかはあまり覚えていない。若月は多分、三日も電話をしなかった言い訳をしたんだろうと思うけれど、内容は覚えていない。言い訳の内容なんてどうでもよかった。あたしは若月を信じたかったから、その言い訳が信用できるものかどうかなんていうことはどうでもよかった。

 ただ客間の窓から、さんさんと陽光が差し込んでいて、窓から見える庭の花が見事だったことをなぜか覚えている。あたしは窓の方に顔を向けて若月と通話していた。

 よく覚えていないけれど、あたしは三日も電話を寄越さなかった若月に対して、少しすねたのかも知れない。だから電話を切る直前、若月はああ言ったのかも知れない。「愛してるよ」と。

 そんな言葉を言われたのは生まれて初めてだったから、あたしはただ呆然としていた。窓から差し込む陽の光が、さっきよりも輝きを増したように感じた。

 あの頃あたしは知らなかったのだ。その言葉がどんなに人の心を縛り、そしていとも簡単に相手を裏切るものだということを。

 電話越しに、軽薄な心で「愛してるよ」と若月が言った川越の地にあたしは向かう。あたしの心をがんじ絡めに縛り付けた言葉を、若月が吐いた川越の地に、あれから十七年の歳月を経てあたしは向かう。




 夫が買って来た埼玉県の情報誌には、表紙の片隅に、橙色の着物を着た女の子が髪を横縛りにして佇んでいた。柄は格子縞で手には小さなトートバッグを持っている。これだけカジュアルな和服なら、そんなに気負わないで観光ができるかも知れない。

 そう思いながら川越のページを開くと、川越には蔵造りの町並みが今も残り、小江戸と称されていると記されていた。実際、誌面を飾る菓子屋横町や時の鐘や亀屋本店の写真からは、江戸情緒を感じさせるロマンの香りがした。

 あたしはそれらの記事にうっとりしながら、そういえば若月から、故郷の話を聞いたことが無かったなとふと思い当たった。

 あたしはとんでもない田舎の出身だから、故郷の話を聞かせると、皆がびっくりするので、その反応が面白くて、色々な人に故郷のエピソード、例えば最寄り駅が無人駅で線路が単線だとか、駅前には時計屋が一軒あっただけで、そこに客が入っていたことを一度も見たことが無いとか、駅から一分も歩かない場所に、「狩猟禁止地域」と書かれた看板が立っていたとかいう話を、あちこちで披露していたのだけれど、若月にそれらの話をしたのかどうかは覚えていない。

 でもあたしは、昔からサービス精神が旺盛で、人を驚かせたり笑わせたりすることが好きだったから、多分、若月にも故郷の話はしたと思う。あたしは実家が貧乏なことは恥ずかしく思っていたけれど、出身が田舎であることは恥じていなかったから。

 あたしが若月に故郷の話をしたことを覚えていないのは、多分、若月がその話に対してパッとした反応をしなかったからだと思う。あたしは昔から、相手がこれといった反応を返してくれないと、その人にその話をしたことを忘れてしまう傾向がある。

 若月の故郷はこんなに素敵な所だったのに、若月はそれを教えてくれなかったのかと、あたしは何だか、悲しい気持ちになった。あたしは自分の全てを若月に知ってもらいたいと思い、若月の全てを知りたいと思っていたのに、若月は同じ思いをあたしに抱いてくれていなかったのだ。

 でもそれは当たり前だ。若月にはあたしの他にも女がいたのだから。けれどとっくに納得していたはずの事実に、川越のページを眺めることによって、改めて打ちのめされたような気分になった。全身全霊を傾けて惚れぬいていた男の不貞は、もしかしたらまだ古傷として、あたしの心のどこかに巣食っているのかも知れない。

 生まれて初めて、カレシの裏切りというものをあたしに教えた男の故郷に、あたしは向かう。未だ癒えない古傷を抱えながらあたしは向かう。




 あれは若月と知り合って、二年目の夏だった。あたしはすでに六月に若月に振られていた。若月に渡された別れの手紙の次の二文をあたしは記憶している。


 俺と瑠花(るか)は、話が合わない。

 多分、俺と瑠花は、磁石のS極とS極かN極とN極だったんだよ。


 この二つの文章を覚えているのは、矛盾しているからだ。この磁石の例えは似たもの同士がぶつかり合う場合に使われるものなのに、若月いわく似たもの同士のあたしたちが、どうして話が合わないという結論になるのか、あたしにはさっぱり分からなかった。だからあたしは、どうして自分たちが別れなければいけないのかちっとも分からなかった。

 でもあたしは、交際というものは片方がやめたいと思えば終わりだと思っていたので、若月がその手紙を渡しながら別れを申し出た日に、泣きながら承諾した。けれど別れの理由にちっとも納得できなかったので若月をふっきることができなかった。週の内、五日もバイト先で顔を合わせるという環境も、あたしの心に未練を残した。

 だからあたしと若月は、別れを決めた後も連絡を取り合い時にはセックスもしていた。

 ところがある日、あたしと若月は電話でケンカをした。ケンカの原因は覚えていないけれど、若月に対して

「学習能力、無いんじゃないの」

 と罵ったことを覚えている。

 あたしは付き合っていた時から、若月が中級家庭に生まれたこととか、一浪したとはいえ大学に進学したこととか、若月のかっこよさとかいうものを好ましく思っていた。そしてそんな人がどうして、自分なんかと付き合ってくれるんだろうと不安だった。でも若い頃のあたしは感情の起伏が激しかったから、一度怒ると、相手に対して言葉を選ばないという欠点があった。

 若月はその言葉を聞くと

「俺はお前の、そうゆう所が嫌なんだよ」

 と怒鳴り電話を切った。

 電話ボックスの中で受話器を握り締めたまま、あたしはしばらく呆然としていた。若月は別れた後

「やり直すことはできないけど、今でも瑠花を好きなことは変わらない」

 と言っていたからだ。若かったあたしはその言葉を無邪気に信じていた。ちょうど一年前に、好きだけど付き合う訳にはいかないというセリフを信じたのと同様に。

 そうか、若月はあたしのことを嫌いになったから別れを告げたのかと気付いた時、あたしは猛烈に腹が立った。何が磁石のS極とS極、N極とN極だと思った。きれいごとでごまかしやがって。だったらはっきりそう言え。

 あたしは若月に、はっきりと「嫌いだ」と言ってもらわなきゃ気が済まないと思い、若月のアパートへ向かった。若月の部屋のチャイムを鳴らすと、若月はすぐドアを開けたけれど、あたしの顔を見た途端ドアを閉めてしまった。

 あたしは再びチャイムを鳴らしたけれど、若月は出て来なかった。あたしはドアの外で若月を待つことにした。宵闇の中で若月の部屋の前に佇むあたしを、若月と同じアパートに住む若月の男友達が、気の毒そうに眺めながら部屋へ入って行った。けれどあたしは平気だった。

 だって若月は一年前に、あたしに「愛してる」と言ったのだ。付き合い始めてからは

「将来、結婚しよう」

 とまで言ったのだ。そしてそのセリフはいつの間にか

「今すぐ、学生結婚しよう」

 とまで飛躍した。

 そのプロポーズにあたしは、天国にいるような心地になったけれど、理性があたしを押し留めた。二人とも親の仕送りを受けている身なのに、学生結婚などという浮ついたことをするべきじゃないと思った。あたしはお互いが社会人になってから、するだろう結婚生活を夢見ていた。

 それなのに、こっちをその気にさせておきながら、きれいごとで関係を清算されるなんて納得できるはずが無かった。だからあたしは若月が出て来るのを待った。これは当然の権利であって、それを主張することは、世間の人々に対して何も恥じることは無いと思った。

 あたしがしばらく佇んでいると、バイト仲間の上野(うえの)さんの部屋から、同じくバイト仲間の玲奈(れな)ちゃんが出て来て、「どうしたの」と尋ねた。あたしと若月が付き合い始めてしばらくしてから、上野さんと玲奈ちゃんは付き合い始めた。あたしと若月は十ヶ月で別れちゃったけれど、上野さんと玲奈ちゃんはまだ仲良く付き合っていた。

 あたしは何となくバツの悪い思いをしながら

「若月さん、チャイム鳴らしても出て来ないの」

 と憎々しげに言い放った。

 玲奈ちゃんはお雛様みたいなちんまりした顔立ちに同情を浮かべながら

「よかったら上野さんの部屋で待つ? 上野さんも『来ていい』って言ってるけど」

 とあたしを誘った。けれどあたしは

「ありがとう。でも大丈夫。ここで待つから」

 と断った。

 玲奈ちゃんは心配そうな顔をしながら、上野さんの部屋に戻って行った。あたしはそれを見届けると再び若月の部屋のチャイムを鳴らした。何度も何度も続けざまに鳴らした。

 付き合い始めの頃

「彼女の証」

 と言って手渡された部屋の合鍵を使うことなく、結局、部屋に行く時は必ずアポイントメントを取っていたあたしが、この時ばかりは立て続けにチャイムを鳴らした。

 するとガチャリとドアが開き、観念した様子の若月が顔を出した。若月は面倒臭そうにドアを後ろ手に閉めると、「何?」と不機嫌な声で尋ねた。

「『何?』じゃないでしょ。勝手に電話たたき切っておきながら」

 あたしが冷ややかに言い放つと、若月は

「あのさあ、俺たちもう別れたよね?」

 とうんざりしたような声を出した。

「別れたから何? 若月さんの論理では、付き合ってない相手との電話は途中で勝手にガチャ切りしていいの? 若月さんと付き合う特権は、途中で電話をガチャ切りされないってことなの? 若月さんって随分お高いのね。あなた一体、何様のつもり?」

 抑揚の無い声で、あたしがそう尋ねた瞬間、若月は傍らにあったゴミ箱を思い切り蹴飛ばした。ガシャーンというけたたましい音がして、アパートのドアが二つばたんばたんと開いた。その内の一つは若月の部屋のドアだった。若月が「わりいーっス」と二人に言うとすぐに二つのドアは閉じた。

 あたしは若月の部屋に友達が来ていたとは知らなかったので、少し驚いた。その友達は一瞬しか姿を現さなかったので、あたしが知っている人かどうかよく分からず、あたしが記憶の糸をたぐっていると、若月が

「どうして欲しいの」

 と疲れたような声を出した。その弱り果てた顔を見ていたら、何だかあたしが若月をいじめているような妙な気分になった。

「きれいな別れなんて、あたしにはできない。あたしと別れたいんならあたしのこと大嫌いだって言ってよ。金輪際付き合うつもりは無いって言ってよ」

 挑むような調子でそう言うと、若月は

「もう付き合う気は、ありません」

 と投げやりに言った後、あたしから目をそらし、そして

「俺は、瑠花のことが、嫌いです」

 とかすれた声で言った。

 あたしはそれを聞くと

「ありがとう。その言葉を聞きたかったの」

 と笑って、アパートの隅にとめていた自転車にまたがった。もうこれで完全に終わりだと思った。少し前にバイトも辞めていたからこれで完全に若月とは縁が切れたと思った。晴れ晴れとした悲しみに、心が満たされていくのを感じた。

 ところが帰宅後に、玲奈ちゃんからかかってきた電話によって、あたしの気分は一変した。さっき若月の部屋にいたのは一年前にバイトを辞めた江川(えがわ)だというのだ。江川にはバイト先で一度会ったきりだったけれど、あたしはその名前を記憶していた。江川は若月の女友達だからだ。

「えっ、あれって男の人じゃなかったの」

 とあたしは電話口で叫んだ。その頃あたしは、すでに自分の部屋に電話をひいていたから、玲奈ちゃんとも気兼ねなく話すことができた。

「男じゃないよ。江川さんだよ。多分、髪短くしたから男みたいに見えたんだと思う。江川さんって何ていうか地味顔だし」

「江川さんが何で、あんな時間に若月さんの部屋にいたの」

「泊まりに来てたんだよ。江川さん今、東京に住んでるんだけど、夏休みの間こっちに帰って来てるから、ちょくちょく泊まりに来てるよ」

 その発言にあたしは絶句した。若月は自分を面食いだと言っていたから、まさかあたしが、男と見間違えるような女と寝るなんて思えなかったのだ。バイト先で一度、対面した時も、髪は長かったものの江川は決して可愛らしい女じゃなかった。だから江川を「友達だ」と言う若月をあたしは信じていたのだ。

「泊まりに来てるってことは、してるってこと?」

 とあたしはまだ半信半疑な気持ちで尋ねた。初めて若月の部屋に泊まった晩、若月は手を出してきたけれど、あたしが嫌がると無理強いはしなかった。だから江川が泊まりに来ていても、肉体関係は無い可能性があると若かったあたしは考えていた。

「そうだと思うよ。上野さん、若月さんの隣の部屋じゃん? 江川さんが泊まりに来ると声がすごいって言ってるもん」

「それは、あたしと別れてからなの?」

「違うよ。瑠花ちゃんには黙ってたけど若月さんて女癖が悪いんだよ。今、若月さんと関わってるのは、わたしの知る限り江川さんだけだけど、瑠花ちゃんと付き合ってる間に若月さんは少なくとも、江川さんの他に二人の女の人と関係あったよ」

 その言葉にあたしは愕然とした。なぜならあたしは、更にもう一人の女の存在を知っていたからだ。

 あれは若月と付き合い始めて、三ヶ月ほど経った頃だっただろうか。若月の部屋で二人でカレーを作り食べながらビールを飲んでいると、酔っ払った若月が

「実は俺、瑠花と付き合い始めた頃、他にもカノジョがいたんだよ」

 と突然、告白を始めた。

 あたしは驚き問い詰めたけれど、ぐてんぐてんに酔っ払った若月は

「ホントごめん。でも今、一番好きなのは瑠花だから」

 と繰り返すだけで話にならなかった。結局、翌日その話を持ち出すと、昨夜のことを覚えていない若月は、あからさまに不機嫌になった。どうやら若月はあたしがアルコールを使って若月を自白させたと誤解しているらしかった。

 自分で勝手に懺悔しておきながら、そのような疑惑まで持たれてあたしはたまったもんじゃなかった。けれどそれでも、二ヶ月前にその女とは完全に切れたということと、その女があまりにおとなし過ぎたから別れたということと、最初の頃、あたしのことを好きだけど付き合えないと言ったのは、その女の存在が理由だったことだけは、若月の口から聞き出すことができた。

 あたしはとても複雑な気持ちになった。もし現在進行形で、その女と二股をかけていると言われたのなら、あたしは若月ときっぱり別れたのだけど、

「二ヶ月も前に、その女とは終わった」

 と聞かされると、一体どうしていいのかよく分からなかった。

 ただ言えることは、もし付き合う前にカノジョがいると知っていたら、あたしは絶対に土俵を降りたということだ。あたしはライバルが現れると、途端にやる気を無くすタイプだから。

 結局、若月に

「今、一番好きなのは瑠花だから」

 と酔っていた時と同じセリフで押し切られ、あたしは心にわだかまりを残しながら、若月と付き合い続けた。

 そう、

「一番好きなのは瑠花」

 という言い回しを若月は頻繁に使っていた。それはつまり、若月にはいつも二番手三番手がいたということだ。

「俺は、二股とか嫌だから」

 この言葉も若月はよく用いた。二股が嫌だから四股をかけていた若月。ううん、若月には、四股という自覚は無かったのかも知れない。

 若月は最後まで江川をカノジョにしなかったということだし、玲奈ちゃんの言う、江川さんの他の二人の女の内の一人にも、若月は結局、付き合う約束をしなかったという話だ。そして唯一付き合う約束をした女には、一度寝た後であたしの存在がばれてしまい逃げられたということだ。だから若月には、四股どころか二股の自覚も無かったのかも知れない。

 多分、若月は唯一付き合う約束をした女とは本気で付き合うつもりだったんだと思う。若月はその女と付き合う約束をしてから、あたしに別れを、告げるつもりだったんだと思う。あたしと付き合う約束をしてから前の女を清算した時と同様に。だからもしその女にあたしの存在がばれなければ、あたしはもっと早く振られていたんだろう。

 若月がしつこく学生結婚を持ちかけてきたのは、ひょっとしたらその女に、逃げられた直後だったのかも知れない。その女は、若月と寝た翌日に若月と同じアパートに住む若月の友人である大内(おおうち)さんと付き合い始めたという話だから、若月はその女と大内さんを、見返してやりたかったのかも知れない。若月も若月だけど、その女と大内さんもたいしたタマだと思う。

 でもあたしだって、人のことは言えない。酔った若月にあたしと付き合い始めた時に前の女とかぶっていたと告白されたのに、その時に別れなかったんだから。

 若月はそういう節操の無い男だとあんなに早い段階で分かっていたのに、あたしは

「だって仕方ないじゃん。俺だってカノジョを裏切りたくなかったけど、瑠花のことどうしても好きになっちゃったんだから」

 という若月の言葉に酔って、その事実を無かったことにした。

 自分の今の幸せは、前のカノジョの涙の上に成立していると知りながら、あたしはそれを考えないようにした。だからあたしには傷付く権利なんか無い。カノジョがいながら他の女に目移りするような男は、そういう性質なんだから、自分が同じ目に遭ったって当たり前だ。だからあたしには傷付く権利なんか無い。

 でも当時のあたしはそれが分からなかったから、心が張り裂けそうになった。玲奈ちゃんに連絡先を教えてもらい、若月の浮気相手の一人に電話をして

「瑠花ちゃんとは、ジューンブライドの約束だったんでしょ。わたしとはクリスマスイブに式を挙げる約束だったの」

 と聞かされた時、世界がガラガラと音を立てて壊れていくような気分になった。

 あの頃あたしは、愛するということは信じるということだと思っていた。けれど玲奈ちゃんに話を聞き、玲奈ちゃん経由で若月の浮気相手に話を聞き、玲奈ちゃん経由で上野さんからも話を聞いて、ようやく若月のことを信じてはいけない男だと悟った。

 それなのに若月の留守電に

「あなたがあたしと付き合ってた間に関わった女の人のこと、皆に聞きました。あなたなんか大っ嫌い」

 と吹き込み、それを受けた若月が

「他の女は全部整理するから、やり直して」

 と連絡してきた時、あたしは一抹の希望を抱いてしまった。

 もちろんその場でOKはしなかったけれど、若月があたしに懇願した翌日に、江川がまた若月の部屋に泊まったことを玲奈ちゃんから聞き若月をとがめると、若月は

「だって『やり直して』って頼んだのに、瑠花は『うん』って言ってくれなかったでしょ? それなのに他の女切ったら俺一人になっちゃうじゃん?」

 とまるで小さな子に教え諭すように説明した。

 あたしはあなたに振られた時に、完全に一人になったのに、あなたはどうしてそんなに一人になることが怖いの。一人になることがそんなに怖いなら、あなたに振り回された数々の女たちの孤独を、どうして思いやれないの。

 そんな言葉が胸をよぎったけれど、それを口に出す気は起きなかった。あたしは関係を保ちたい相手とは、本気でケンカするけれど、関わる気の無い相手がどんなに変なことを言っても、「そうですねえ」とへらへら笑っているタイプだ。ケンカはものすごいエネルギーを使うから、関係を続けたい相手としかしたくない。

 あたしは「そう」と言って電話を切ると、ものすごい虚脱感に駆られた。その後、若月とは一切の関わりを断ったけれど、心が若月を忘れてくれなくて、今頃、若月は江川を抱いているんだろうかとしょっちゅう考えた。心が鎖で縛れるものならば縛り付けて、若月のことを二度と考えたりしないのにと思った。

 数日後、友達に花火大会に誘われて男の人を紹介された。かっこよかったけど若月のことがまだ忘れられなくて連絡先も交換しないで別れた。帰宅すると若月から

「戻って来たくなったら、いつでも戻っておいで」

 というメッセージが、留守電に吹き込まれていた。その優しい声に心が揺らぎそうになってあたしは肩を震わせて泣いた。

 でもあたしは、若月に連絡をしなかった。若月はあたしが自分に惚れているから振ることができたのであって、浮気の事実を知ったあたしが、若月から離れようとしているから追いかけたくなっただけなんだと分かっていたから。若月があたしを愛していないことも過去に愛したことがなかったことも、あたしは分かっていたから。

 それなのに付き合っていた頃の若月が、

「俺の生まれ故郷の川越は、こんな素敵な所なんだよ」

 とあたしに教えてくれなかったからといって、どうして十六年も経った今になって傷付いてしまうのか、あたしは疑問だった。

 若月と別れた後あたしはショックで五キロもやせた。あたしはあの時、充分傷付いた。それなのにどうして今になって更に傷付くのか、あたしには分からなかった。

 分かっているのは、人を疑うことを知らなかった十代のあたしを、これ以上無いほどにたたきのめした男の故郷に、あたしは向かうということだけだ。何も知らない夫に伴われて、あたしはあたしの心をズタズタにした男の故郷に向かう。




 夫が

「これ多分、瑠花が好きだと思うんだよ」

 と言いながら、「川越キリスト教会」「仙波東照宮」「喜多院東照宮」と走り書きされたメモを手渡してきた。夫は旅行の時にも日帰りのデートの際にも、入念な下調べをする癖があるだけじゃなく、あたしの好きそうな場所をピックアップするマメさがある。

 夫はあたしが喜ぶと嬉しいらしい。多分それが、愛されているということなんだろうと思う。あたしの笑顔を嬉しがる夫を愛おしいと思う。けれど若月は違った。若月はあたしの困った顔が一番好きだと言っていた。だから若月は、あたしを困らせてばかりいたんだろうかとふと思う。でも相手の困った顔が一番好きだなんて、やっぱり相手を愛していないということだと思う。

 夫が会社に行っている間に、夫のメモを見ながらネットで検索してみた。仙波東照宮と喜多院東照宮はどっちでもいい気がしたけれど、川越キリスト教会には惹かれた。大正十年の竣工で外国人が設計している辺りが、モダンな感じがした。番地とマップをプリントアウトしながら、そういえば若月とは一度、旅行したことがあったなと思い出した。

 でもそれは二人きりの旅行ではなかった。バイト先の事務所の所長が

「皆で、スキー旅行に行こう」

 と費用を全部もってくれたのだ。参加者は所長とあたしと若月と、玲奈ちゃんと上野さんと大学院生が二人だった。

 宿泊所はペンションで、あたしは玲奈ちゃんと二人の部屋に割り振られ、若月は上野さんと二人の部屋に割り当てられた。けれどその時、すでにカップルは二組成立していたから、夜になったらあたしが若月の部屋に泊まり、入れ替わりに上野さんがあたしたちの部屋に来る手筈になっていた。けれどあたしはその頃まだ若月に、完全に体を許していなかった。

 上野さんが部屋にやって来たのを合図に、あたしが若月の部屋を訪問すると、若月はあたしを抱きしめながら

「最後までするつもりは無いから、安心して」

 とささやいた。この間初めて、若月に服を脱がされたばかりだったあたしがホッとしていると、若月はあたしを抱き上げてベッドに運んだ。

 仰向けに寝かされたあたしの上にかがみ込む若月の鋭利な顔立ちに、胸を高鳴らせていると突然

「聞いちゃ、駄目」

 と若月があたしの耳をふさいだ。

「えっ、何?」

「玲奈ちゃん、声でかい」

 意味が分かってあたしは顔が熱くなった。若月は

「やばいな。所長さんたちまだ起きてるだろうしな」

 とつぶやくと、あたしの耳をふさいだままキスをした。

 耳をふさがれたあたしには、自分の心臓の音しか聞こえなかった。そのキスがあまりに長かったので、今回は周囲の耳もあることだし、やっぱりそういうことをするのはやめようということなのかなあと思った時、心臓の音がゆっくり小さくなっていった。あたしはそのまま、昼間のスキーの疲れが出て眠ってしまった。

 目覚めた時は明け方だった。あたしはまだ眠気の残る頭で、若月がいつの間にかあたしのパジャマのボタンを、外していることに気付いた。えっやっぱりするのとあたしは少し驚いたけれど、寝起きの肌に触れられる感触が心地好くて思わず若月にしがみついた。

「声、出しちゃ駄目だよ」

 とささやかれあたしはうなずくと、くっと奥歯に力を入れた。若月は

「瑠花の声、誰にも聞かせたくない」

 と言いながら、あたしの首筋に口づけた。その口づけがゆっくりと下に降りていった時あたしは、声を出しちゃいけないならどうしてそこまでするのと思った。

 カーテンのすき間から差し込む薄闇が白々と明けてくる頃、この間は雨戸も閉めて、完全な暗闇だったのにとあたしは恥ずかしくて全身が燃えるようだった。その時、不意に若月が

「もし今あそこのドアが開いて、所長さんたちが入って来たらどうする」

 とささやいた。

 その時あたしは、自分が生まれたままの姿になっているのに、若月は着衣したままだということに気付いた。もし今、誰かがあのドアを開けたら恥ずかしいのはあたし一人。あたしはたまらなくなって「嫌」とつぶやいた。若月はからかうように「嫌?」と尋ねた。

 あの時のあたしはさぞかし困った顔をしていたんだろうと思う。多分、若月は軽いサディストだったんだろう。あたしはベッドの上の男に、多少サドっ気があっても構わないけれど、ベッドを離れてもあたしを困らせるような男は嫌だと思う。四股だったなんて知った日には困った顔くらいじゃすまないからだ。あたしはあの時、両目が腫れるほど泣いた。

 あたしを困らせその様子にそそられていた男の故郷に、あたしはもうすぐ向かう。あたしの笑顔が大好きな夫と共に、あたしは向かう。




 キャリーケースを押入れから出そうとふすまを開けた時、爪先に変な感触が走った。あたしは手元を見詰めながら

「ああ、爪が欠けちゃった」

 とつぶやいた。爪専用クリームを毎晩すりこんでいるのに、薄くて弱いあたしの爪はしょっちゅう欠けてしまう。

 小さな声でつぶやいたつもりだったのに、夫が「大丈夫?」と心配そうに尋ねた。あたしはドレッサーの引き出しから爪やすりを取り出しながら

「大丈夫よ。先っちょがちょっと欠けただけだから」

 と答えた。

 スカルプチャーとかジェルネイルとかにすればいいのかも知れないけど、昔、付け爪を付けた時に車のドアすらスムーズに開けられなくて、地爪が一番という結論に達した。

 以前、友達の結婚式の受付をやった時に、付け爪のせいでバッグから自力でご祝儀も出せない人がいたけれど、そういうのってみっともないと思う。ある程度、長さがあった方がおしゃれだとは思うけど、爪のせいで動作がぎくしゃくしちゃったら、全然スマートじゃない。

 まあスカルプチャーとかジェルネイルとかでも、ある程度、短めにはできるのかも知れないけど、値段を考えると馬鹿らしくなる。地爪が短くたってフレンチネイルにして先端を長めに塗れば、目の錯覚で爪は長く見えるし、市販のネイルシールでも貼ればずっと安上がりだ。

 あたしも普通のマニキュアなら、二回ほどプロに塗ってもらったことがあるんだけど、正直言って、その人たちはあんまりセンスが無かったし、マニキュアもすぐ剥げてしまった。だからあたしは、ネイルは自分でやる派なんだけど最近はマニキュア自体さぼっていた。でもせっかく旅行に行くんなら、久し振りにお手軽ネイルアートをしてみようかなと思う。

 そんなのん気なことを考えていたら、夫が

「よかった。瑠花をせっかく川越に連れてくのに、瑠花が怪我しちゃったらどうしようかと思った」

 と安堵した声を出した。そういえば一昨年、熱海へ旅行に行く前の晩にあたしは爪を割ってしまって大騒ぎをしたのだ。

 旅行はキャンセルして、病院に行った方がいいんだろうかと、血のにじんだ爪先を見詰めながら悩み、結局痛みはたいしたことが無かったので、消毒してばんそうこうを貼って出かけたのだけど、幸い宿の温泉が傷にも効能があったので、あたしの怪我はすぐ治ってしまった。

 でも今回泊まる飯能プリンスホテルには温泉が無いので、心配した夫は

「キャリーケースなら、リクが出すよ」

 と押入れをがさごそやり出した。

 だったらマニキュアでも塗ろうかなと思い、あたしはキッチンに向かうと、冷凍庫を開けた。マニキュアは冷凍しておくと乾きが早い。どんな色の着物を着ることになるか分からないんだから、ベースカラーはベージュが無難だと思い塗り始めると、夫はキャリーケースに詰める着替えを取りに、二階へ上がって行った。

 あたしはベースを塗り終わると少しぼんやりした。普段なら乾くのを待つ間、テレビを観たりメールチェックをしたりするんだけれど、その時は、夫が先ほど言った「川越」と一昨年の怪我の記憶が、あたしの思い出の扉をノックした。

 扉が開くと、十九歳のあたしが二十歳の若月と一緒に病院の待合室に座っていた。若月と別れ若月の女関係が明るみになり、あたしが若月を罵り、若月が「やり直そう」と言った直後だ。

 そんな時に、どうして若月の診察に付き合って病院に行くことになったのかは、覚えていない。もしかしたらあたしは

「街で、チンピラに絡まれて怪我をした」

 と電話をかけてきた若月の姿を、肉体的に傷付いた姿を見たかったのかも知れない。

 診察を待つ間、若月はおびえたような顔で

「瑠花の指図じゃないよね?」

 と尋ねた。あたしは呆れながら

「あたし、そういう人脈無いんだけど」

 と冷ややかに答えた。

 帰宅して玲奈ちゃんに電話をかけ、その話をすると

「最近、若月さん災難続きらしいよ。アパートのポストもボコボコにされてるし」

 と何だかとっておきの情報を提供してくれるような調子で教えてくれた。

「マジで? 誰がやったの?」

「分かんない。わたしはバチが当たったんだと思うんだよね」

 真剣に言う玲奈ちゃんに、あたしは半信半疑な気持ちだった。それだったらずっと前から若月の女癖の悪さを知っていながら、あたしに教えてくれなかった玲奈ちゃんにも、バチが当たるはずだと思った。

現に上野さんは

「早く飯島ちゃんに教えてやれ」

 と何度も言っていたのに、玲奈ちゃんは

「あんなに若月さんのこと信じてる瑠花ちゃんに、そんなこと言えない」

 という訳の分からない理屈で、ずっと黙っていたんだから、玲奈ちゃんにも罪があると思った。

 もっともその後、玲奈ちゃんは、上野さんに振られた後、お金を貯めてイギリスに行ったものの体を壊して帰国し、その後またお金を貯めたものの、ホストに全額貢いでしまったので、玲奈ちゃんにもバチは当たったのかも知れない。

 ただその頃は、まだ玲奈ちゃんは上野さんと仲良く付き合っていたので、あたしはバチねえと思って聞き流した。けれど翌日、友達の車でドライブしていたら、たまたま若月のアパートの近くを通りかかった。あたしが若月のポストがボコボコにされたらしい話をすると、友達が「見たい」と張り切ったので、近くに車をとめて二人で見に行った。

 若月やその友達に見つかると具合が悪いので、あたしは夕暮れ時だというのに、友達に借りたサングラスをかけて、こそこそとアパートに近づいた。

 びくびくしているあたしとは対照的に、友達は

「せめて犬でもいれば、『犬の散歩で通りかかった』って言い訳できるのにねえ。うちの犬連れて来ればよかったねえ」

 などと軽口をたたいていた。

 若月のアパートは、入り口付近に住民のポストが集合しているタイプだったのだけど、若月の部屋のポストだけ、あからさまに形が変わっていた。ついでに若月の部屋のドアには、「馬鹿」とか「死ね」などの文句がスプレーで書かれていた。

 あたしと友達はダッシュで車に戻ると、それぞれ運転席と助手席に乗り込み

「ちょっとあれ、すごくない?」

 と口々に言い合った。

「瑠花ちゃん、ポストのことしか言ってなかったけど、ドアにもすごい落書きされてたね」

「いやー、あれは知らなかった。相当恨まれてるよね」

「アパートの人の仕業じゃない? 若月さんがやりたい放題しすぎて、反感買ってるんだよ」

 あたしも多分、その線が固いと思った。若月は女たちにも恨まれていたとは思うけど、女の力ではポストをあれだけ歪ませることはおそらく無理だと思う。それに若月の住んでいたアパートの住人は、若月の通っていた大学が斡旋でもしていたのか、皆が若月と同じ大学の二年生で交流があったから、若月の悪い噂は、住人全員が知っていた可能性が高かったから。

 でも若月は、面識の無い人に街で絡まれて病院通いするほどの怪我もしている。この事実はどう考えたらいいんだろうとあたしは首をひねった。ポストを壊したり、ドアに落書きしたりといった嫌がらせは、若月の留守を狙って行なうことができるし、そう考えるとやっぱり、若月の外出を察知しやすいアパートの住人たちが怪しい気がしたけれど、彼らがチンピラとつながりがあるとは考えにくかった。

 それはあたしの知る限り、皆、普通の大学生たちだったからだ。それに故郷を離れているのだから人脈も少ないはずだ。仮にチンピラとつながりができたところで、男を一人、病院送りにすることを依頼するには相応の報酬が必要なはずだった。

 けれど頭を巡らしたところで、そこまでの金持ちは思い当たらなかったし、もしそんな金があれば彼らは車を買うだろうという気がした。あたしたちが住んでいる地域では、公共交通機関が発達していないので、安アパートに住んでも車を所有する学生が多かった。

 あともう一つは、車を買うと女にモテるという利点があった。あの頃は都会でも車はモテる男の必需品だったけれど、地方では更にそうだった。何せ公共交通機関が発達していないので、車は見栄というよりも利便性という点で必要だった。もっとも女癖の悪い若月の当時の愛車は自転車だったけれど。

 つまり環境的に車が必要にも関わらず、せいぜい大学二年生レベルでは、バイト代もまだ貯まっていないので、車の所有率は低かった。だったら女癖の悪い若月を痛めつけるためにお金を払うくらいなら、中古車でも買った方がよっぽど建設的な気がした。ものすごく不細工だったり、めちゃくちゃ性格が悪かったりということでも無ければ、車さえあれば、カノジョは無理でも女友達くらいはつくれたはずだから。

つまり車を持てば、女友達がつくれる上に行動範囲も広がるんだから、アパートの住人たちは、女癖の悪い若月のことなんかどうでもよくなるんじゃないかという気がした。

 でも一方で、自分が女に不自由しているかどうかということは別にして、身近な男がやりたい放題していたら、こらしめてやりたくなるものなのかも知れないとも思った。実は若月に振られる何ヶ月か前に、あたしは知らない男から何度か

「君のカレシは、浮気してるよ」

 という密告電話を受けていたからだ。

 あの頃はまだ、電話番号が通知されるシステムが無かったから、相手がどこの誰か分からなくてとても怖い思いをした。若月に相談しても

「何でそんな電話、すぐ切らないの」

 と怒られるし、どうしていいか分からなかった。

 あの時あたしは若月を信じていたから、せっかく密告してもらったのに、若月のことを全く疑わなかったのだけど、密告電話のことを話すと、若月が不機嫌になるのが気がかりだった。名も知らぬ男から何度もそんな電話を受けて、おびえるあたしの気持ちを全然くんでくれない若月のことが不可解だった。

 それに相手の男が、どうしてあたしの電話番号を知っているのかが分からなくて、不気味だった。あたしは自分の電話番号を電話帳に載せていなかったから。

 今思えば、多分、電話の男は若月の友達か知り合いだったんだと思う。身近な人間だったから若月の女出入りの激しさも知っていたし、隙を見て若月のアドレス帳を盗み見ることもできたんだろう。

 ただ電話をかけるだけなら、電話代だけですむけれど、チンピラに若月をやっつけるように依頼するのはやっぱりそれなりのお金がかかると思うから、結局、今に至るまで若月がどうして街で突然絡まれたのかは分からない。

 友達は

「バチが、当たったんじゃないの」

 と言った。玲奈ちゃんと同じ意見だった。

 今あたしは、彼女たちの意見を半分信じて半分疑っている。もし神様がいるのなら若月にバチが当たるのも当然な気もするけど、もし神様がいなくても、若月が災難に見舞われるのは、やっぱり当然な気がするから。

 男と女が、振ったり振られたり、時には浮気をしたりといったことはよくあることだけれど、四股をかけたり複数の女にプロポーズしたりした若月は、明らかにやり過ぎだと思う。あたしだってただ振られただけだったらあそこまで傷付きはしなかった。つまり自分を理不尽に傷つける人間というものは、他の人のことも、傷つけたり怒らせたりしている可能性が高いということだ。

 だから誰かに深く痛めつけられたとしても、放っておけば、他の被害者が代わりに仇を取ってくれる可能性があるということだ。あたしは若月の裏切りを知った時、若月をぎゃふんと言わせてやりたくてたまらなかったけど、手をこまねいている内に、知らない誰かが若月をやっつけてくれたので、自分の手を汚さないですんだ。世の中ってこういう風にできているんだなあと思う。

 今にして思えば、いい勉強になったなあと思うけれど、あの時はその代償の心の傷がとても痛かった。あたしは好奇心旺盛だから世の中の色んなことを知りたいけど、でもそれを知る際に痛みを伴う時もある。

 そんなことを考えていたら、ベースが乾いたようだったので、あたしはキッチンに向かって蛇口を捻ると、冷水を爪先にかけた。こうするとマニキュアがしっかり乾くのだと教えてくれたのは玲奈ちゃんだった。それを教えてくれたのはありがたかったけれど、それよりも何よりも、若月が複数の女を引っ張り込んでいたことを、もっと早く教えて欲しかったなあと思う。

 短大卒業後に玲奈ちゃんが実家に帰った後、何年か文通を続けていたけれど、ある時ふと返事を出すのが面倒臭くなって、そのまま放置している内に、あたしは夫と出会い付き合い始め、そしてあたしはケイタイの番号を変え結婚して引越しをしてしまった。

 玲奈ちゃんはもう、あたしと連絡を取る手段が無いけれど、あたしは玲奈ちゃんの実家の住所を知っているから、連絡をすることができる。だからたまに手紙を出してみようかなと思うのだけど、やっぱり気が乗らないままもう何年も経っている。

 玲奈ちゃんが実家に帰った後、一度、玲奈ちゃんの実家に泊まりに行ったこともあるし、何十通にも渡ってやり取りした手紙には、その後の恋バナを包み隠さず書いたのだけど、あたしは心のどこかで、玲奈ちゃんを許せていなかったのかも知れない。

 若月さえ浮気をしなければ、玲奈ちゃんとはずっと仲良くやれたのにと思ったり、ううん若月があんな男でも、玲奈ちゃんがもっと誠実にあたしと関わってくれれば、関係は保っていられたはずだと思ったり、そんなことなんかどっちでもいいことだと思ったり、あたしの心は定まらない。

 どっちにしろ、玲奈ちゃんのことも含めて、若月には色々と辛い勉強をさせられたなと思う。

 あたしに世の中の色んなこと、知りたくなかったことも含めて、色んなことを教えてくれた若月の故郷へあたしは向かう。何も知らない夫と共にあたしはそこへ向かう。




 爪先を白く塗って、プレーンなフレンチネイルに仕上げた後、あたしはネイルシールの中から小さな蝶の群れが描かれているものを選び、十本の指にそれを貼った。どんな柄の着物を着ることになるか分からないけれど、無地でなければ、花柄を着る可能性が高いから、むしろ花柄のネイルシールは敬遠した。

 着物の花柄が、ネイルの花柄と合っていなければちぐはぐになってしまから、だったらいっそ花の周りで飛び交う蝶の模様が、ふさわしい気がした。これなら無地の着物を着た時にもアクセントになるだろう。

 ネイルの仕上がりに満足していると、夫がキャリーケースに荷物を詰めながら

「土日に行く訳だし、金曜日は夕飯作らないで、マックとかで済ませた方がいいと思うんだけど」

 と言い出した。

 夫の言いたいことは分かっている。自炊をしてしまうと片付けに時間がかかるので、旅行に備えて、金曜の夜は片付けのいらないテイクアウトで済ませて、さっさと寝ようということなのだろう。けれど旅行に行くと外食続きになるため、どうしても野菜が不足してしまう。だからこそせめて旅行前夜くらいは、野菜たっぷりの料理を作っておきたいという思いがあるあたしは、「そうねえ」と相槌を打ちながらふと別のことを考えていた。

 初めて若月が、あたしのもう一つのバイト先、マックを訪れた日のことをあたしは覚えている。

 家庭教師派遣センターでのバイト時に、若月から、あたしのもう一つのバイト先であるマックに

「今度の土曜日に、友達と食べに行くね」

 と言われた時は、胸が弾んだ。その頃はまだバイト帰りに送ってもらうという関係でしか無かったのに、若月があたしの、もう一つのバイト先に顔を出してくれることが嬉しくてたまらなかった。

 当日あたしの担当するレジに並び、メニューをオーダーする若月の前で、あたしは緊張のあまりレジを押す手がぶるぶると震えた。こんなことでは、若月への想いを気付かれてしまうことは分かっていたのだけれど、あたしはとても平静でいられなかった。

 商品を揃えたトレーを手渡す時、若月は

「三時まででしょ? その後ボーリングでも行かない?」

 とあたしを誘った。あたしは飛び上がらんばかりに嬉しかったのだけど

「でも今日、あたしあんまりお金無いんだけど」

 と答えた。

 若月にバイト帰りに送ってもらう際、立ち寄るスーパーでの買出しを、若月はよく代わりに払ってくれていたから、そう言えば若月が、「おごるよ」と言ってくれるのは分かっていた。実際、若月はその時「おごるよ」と言った。

 だからといってあたしは、若月を金づるだと思っていた訳じゃない。あたしは苦学生だったから、異性と遊ぶ時にお金を使うことが、何だかいけないことのような気がしていたのだ。

 あたしは交換日記をしていた高校時代のカレシとは、二週間足らずで別れてしまっていたから、こんな風に直接会うことによって、関係が狭まっていく男というものに、時間だけじゃなくお金まで投げ打つことが、何だかとてもいけないことのような気がしていた。何だか自分が、不真面目な人間になってしまうような怖さがあった。

 けれどだったらなぜ、若月にお金を使わせることには抵抗を持たなかったのかは、よく分からない。

若月は仕送りも人並みにもらっていた上に、家庭教師派遣センターでは、アポインター以外に家庭教師もやっていたから、あたしより金回りのいい若月なら、少しくらいの出費があっても問題無いと思ったのかも知れない。またあの頃のあたしは、成就するかどうか分からない恋愛に、お金をかけるという無駄なことをする金銭的余裕が無かったから、自分の節約傾向をおびやかさない若月の言動が、居心地がよかったのかも知れない。

 結局あたしは、若月とその男友達との三人でボーリングに行った。あんなにボーリング時のポーズがかっこいい人を見たのは生まれて初めてだったし、若月と別れた後にも、見たことが無い。スコアは200の中盤くらいなのだけど、ボールを投げる時に体をくいと傾け右脚を斜めに伸ばす様が、実に決まっているのだ。

 あたしはそれまで、若月の整った顔立ちとか背の高さとか、漂うクールな雰囲気などに惹かれていたのだけれど、若月のその姿に殺されてしまった。こんなにかっこいい人にバイト先を訪ねられその後ボーリングに誘われるなんて、夢を見ているみたいだった。

 ボーリングが終わった後、自転車で若月に下宿まで送られた。もちろんあたしの足も自転車だったから、若月の誘導に従ってあたしを殺した後姿を眺めながら、あたしはペダルを踏んだ。

 その時あたしは幸せだった。生まれてこのかた、これほどの幸福を得たのは初めてだった。充分に満足したあたしはもう若月と付き合えなくてもいいと思った。

 初めてバイト先で江川を見た日、若月と江川が、二人並んで自転車で帰宅していくのを目にして、ああ二人は付き合っているんだと失望したものだったけれど、そしてその後

「江川とは、ただの友達だ」

 と言われて安心したものだったけれど、その日のあたしは、若月と過ごした時間がありがたすぎて、もう付き合えなくてもいいとまで思っていた。

 もしあの日以降、何の進展も無ければ、若月はあたしの中でいつまでも甘い記憶となって残っていたんだろうと思う。けれど現実は違った。若月に誘われ逢瀬を重ねる内に若月は、好きだけど付き合えないと言い出し、あたしをもがいても逃れられないくもの糸でがんじがらめに縛りつけた。

 もしあの日以降、若月があたしにモーションをかけなければ、若月は永遠に甘美な思い出として、あたしの心の引き出しにしまわれていたはずだった。けれどどれだけ傷付いたとしてもこれがあるべき形だったんだと思う。虚構を記憶に留めるよりは、どんな傷でも経験することが、人間と関わるということだと思うから。

 甘く苦いくもの糸を張り巡らした男の故郷へ、あたしは向かう。くもの糸のべたつきがまだ残る心で、あたしは夫に連れられて男の故郷へ向かう。




 旅行二日目は、入間のアウトレットに行く予定だったから、泊まりは入間周辺がいいだろうということで、飯能プリンスホテルに予約を入れた。そこでは宿泊者に、無料で駐車場を開放してくれるという。

それを受けて夫は

「土日、高速千円だし、ホテルまで車で行ってから電車で川越に行こう」

 と言い出した。その方が便利で安上がりだったので、あたしは承諾したのだけど、ふと「電車」と「川越」というワードに、心が反応するのを感じた。

 あたしの脳裏に、中央線の上りホームの情景が浮かび上がった。付き合っていた頃あたしは度々、若月をそのホームから見送っていた。

「高校時代の野球部の仲間と練習があるから、これから帰らなくちゃいけない」

 そう言って若月は、あたしとのデートをよく切り上げた。だったらもっと早く言ってくれればいいのにいつも突然言い出すものだから、あたしはその度にひどく悲しんだ。あたしが寂しがるので、若月はたいてい電車を一~二本遅らせてくれた。あたしは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、無理に笑顔を作って若月をホームで見送っていた。

 だから別れた後、若月が実は川越に帰っていなかったと知り、あたしは怒りにわなないた。若月は当時、東京に住んでいた江川に会いに行くために嘘をついていたのだ。

 結局、若月は江川の外見ゆえに、江川を最後までカノジョにはしなかったということだけど、それならどうして、カノジョであるあたしを置いて東京の江川の元へ通っていたのかはよく分からない。

 若月はいつも女に

「俺は、フリーだよ」

 と言って近づいていたらしいけれど、江川だけは、全てを承知の上で若月と関わっていたという話だから、自分の全てを受け入れてくれる江川の側が、居心地がよかったのかも知れないし、もしかしたら若月は江川を一番好きだったのかも知れない。

 江川やその他の女の存在が明るみになった時、あたしは若月に尋ねたことがある。

「もしあたしと江川さんが溺れていて、若月さんの乗っているボートに、一人しか乗せられないとしたら、どっちを助ける?」

 若月は

「どうして、そんなこと聞くの」

 と不機嫌になった。

 他の女は全て切るからやり直してと言った若月が、どうして

「瑠花を、助ける」

 と答えなかったのかは今でも不思議だ。あんなに嘘ばかりついていた若月が、その時は嘘がつけなかったことが不思議だ。

 若月はあの時どちらも選べなかったのか、それとも

「江川を、助ける」

 と言えなかっただけなのかは、今でも分からない。そして寂しがるあたしに嘘をついて東京へ向かった時の若月の心境が、どんなものだったのかも分からない。

 少しは良心が痛んでいただろうか。それとも江川に会える喜びで、頭がいっぱいだっただろうか。あるいは若月の言葉を信じ、がまんしなくちゃいけないと思いつつも寂しがっていたあたしを、うっとうしく感じていただろうか。

 いずれにしろ若月が浮気の口実に使っていた川越の地に、あたしはこれから向かう。恋する人が再三に渡って帰省していたと信じていた川越の地に、何も知らない夫と一緒に、これから向かう。




 旅行初日、ホテルの駐車場に車を入れるとあたしたちは電車に乗って川越を目指した。小春日和のうららかな日で電車は空いていた。ぽかぽかとした陽気の中、電車に揺られていたら何だか眠くなってきて、あたしは夫の肩に頭を乗せて少しまどろんだ。

「次、降りるよ」

 と夫に声をかけられて目覚めた時、あたしは眠ってしまった事実に唖然とした。この電車は、昔、若月が利用していた沿線である可能性が高いのに、今でも帰省の度に利用しているかも知れないのに、そんなことを考えもせず眠り込んでいたことが意外だった。

 黒の革に、いぶし金のスタッズの付いた斜めがけバッグから切符を取り出すと、あたしは、車で出発したことが原因かも知れないと考えた。

 旅行の当日は、どんなにか若月のことが頭をよぎるかも知れないと思っていたのに、いざ助手席に乗り込むと、あたしは窓の外の晩秋の風景に感嘆し、マイケルジャクソンの歌声に耳を傾けながら、マイケルがいかに偉大な、エンターテイナーであったかという夫の講釈を聞き、トイレ休憩で立ち寄ったサービスエリアで、昼食を買うように言う夫に

「談合坂のサービスエリアじゃなきゃ、やだ」

 と駄々をこね、談合坂でパンを買い、運転する夫の横で

「やっぱり、談合坂にしてよかった」

 と満足しながらパンをかじり、そんなことをしていたら、若月のことを思い出している暇が無かった。

 車にしてよかったのだと思う。あたしたちは裕福じゃないから、旅行なんて年に一度くらいしかしないし、年に一度の夫婦の楽しい旅行の時に、昔の男のことなんか思い出すべきじゃないと思う。

 若月と付き合っていた頃、カレはまだ車を持っていなかったから、本当の帰省も嘘の帰省もいつも電車を利用していた。それをあたしは度々ホームで見送っていたので、もしこの旅行をそのホームから出発させてしまったら、あたしはその瞬間から、若月の記憶に襲われたかも知れないから、やっぱり車で出発したことは正解だったと思った。

 けれど本川越駅のホームに降り立った時、あたしは若月を思い出す時が、ただ遅れただけだったことを知った。出発点が違っても向かうルートが違っても、この駅に若月が何度も降り立った可能性は充分にあるのだから。

 初めての土地に足を踏み入れた時、あたしはいつも気分が高揚するのだけど、その時は切なさが胸を占めた。それはその土地が昔恋した男の故郷だからなのか、それとも昔あたしを裏切った男の故郷だからなのかは分からなかった。




 本川越駅の改札を抜けると、イトーヨーカドーや川越プリンスホテルなどが立ち並び、一見すると、ごく普通の地方都市といった雰囲気だったけれど、蔵造りの町並みと呼ばれる一番街の辺りに近づくと、観光客がごったがえしていた。

 ドラマの舞台になった影響で観光客が増えているらしい。時折、着物姿の女性を見かけるけれど、ほとんどの人は洋服姿だった。せっかく川越には着物のレンタル店がいくつかあるというのに、皆は着物で観光しようと思わないんだろうか。

 疑問に思いながら、予約したレンタル店に入ると、派手な着物を着た四十代くらいの女性と、地味な着物を着た三十代くらいの女性が迎えてくれた。

 地味な女性の方は気にならなかったけれど、派手な女性が何だか気になった。身に着けている着物も、橙色の布地に、ちょっと多すぎじゃないかというくらい縦横の線が無造作に走っていたし、締められた帯も自己主張が強すぎて、お互いを引き立て合うどころかお互いを殺し合っているように見えた。

 でもあたしは素人だから、多分あたしが間違っているんだろう、この店のホームページには、日頃、仕事で着物を着ている着物のプロが、着物を着付けてくれると書いてあったしと思ったけれど、あたしとはセンスが、合わないということなんだろうなということは感じた。

 奥の荷物置き場に通されると、あまりの生活感に唖然とした。何だか小さな子供のいる町営住宅の居間に通された気分だった。この辺が安さの理由なんだなと納得したけれど、それでももう少し、見栄えを工夫することができないものかなあと思った。

 示されたカゴにバッグを入れると、再び入り口からのぞく部屋へ招かれた。地味な女性が男物の着物をいくつか手に取ってあたしたちに見せ、隣で派手な女性が

「どれにします? カップルで雰囲気を似せる方もいますし、そんなの関係無く選ぶ方もいますけど」

 と尋ねた。

 あたしはそんなの関係無く選ぼうと思った。洋服姿の観光客が九割がたの現状なら、着物にした時点で、二人の装いは似通うのだから、これ以上の類似性を追求する必要は無いと思ったし、そもそも着物を着慣れていないあたしと夫が、自分に似合っている上にお互いが調和する物を選ぶのは、至難の業だからだ。

 あたしは地味な女性の手元から、黒と灰色と藍色の三点を選び出すと

「この中から、好きなの選びなよ」

 と夫に告げた。

 夫が

「じゃあ、これ」

 と藍色の着物を指すと、その即断に、派手な女性と地味な女性が異口同音に「早い」と驚きの声をあげた。

 後で夫に聞いたところによると、夫は縞模様などの、柄入りを着たかったらしいのだけど、あたしが夫に勧めた物が全て無地だったため、だったら時間をかけても仕方ないと思い直感で藍色を選んだらしい。柄入りが着たかった夫には申し訳なかったけれど、少なくともその店には、夫に似合う着物は無地しか無かった。夫は顔立ちがほわんとしているので衣装が派手だと負けてしまうのだ。

 次はあたしの着物を選ぶ番だ。さすがに女物は充実していて、棚にはぎっしりと和服が詰まっていた。その棚から地味な女性がいくつか取り出そうとすると、派手な女性が

「それは季節柄、もう寒いと思うからこっちを」

 と指示した。

 ホームページによると、ここで働いている人は皆、着物を普段から着ている着物のプロのはずなのに、どうして季節外れの物を出そうとしたんだろうと疑問に思ったけれど、そんなことを質問するのは時間がもったいなかったので、代わりにあたしは

「どれが、似合いますかねえ」

 と尋ねた。

 けれど派手な女性は、あたしの質問に答えずに

「どうぞ、お好きな物を選んでください」

 とにこやかに微笑んだ。

 洋服なら着慣れているから、自分にどんな物が似合うかはある程度分かるけれど、着物はそういう訳にいかない。現にあたしは二十七歳の頃、大人っぽい黒地の浴衣が欲しいと思って買いに行ったのだけど、当ててみたら全く似合わず、結局、白地の浴衣にした過去がある。

 けれどこう突き放されてしまったら、自力で何とかするしかなくなってしまい、あたしはかねてからの憧れの、黒地の着物に手を伸ばした。でも鏡の前で当ててみるとそれはあたしに全く似合わなかった。あれから八年の歳月が流れたというのに、自分が全く大人っぽくなっていなかったことは、少しショックだった。

 それでもめげずに、いくつか渋めの着物にもトライした。中にはいけるかな? と思う物もあったけれど、結局、淡黄がかった白地に桃色や山吹色の花が散らされ薄いうぐいす色の茎や葉が描かれた若々しい着物が、一番似合うことが判明した。

 夫にも

「そういうのは歳とったら着れなくなるから、今の内に着ときなよ」

 と後押しされ、あたしは手持ちの唯一の和服である浴衣とかぶる着物を、また身にまとうことになった。

 若月と付き合っていた十八~十九歳の時は、三十五歳という年齢は、成熟しているものだと思い込んでいたけれど、実際その歳になってみれば何のことはない。あたしは未だに子供だった。選んだ着物を着付けてもらう間にもあたしは地味な女性から

「ご夫婦だったんですね。てっきりご結婚前だと思ってました」

 などと言われて、着付けてもらっている最中だというのに腰を抜かしそうになった。

 あたしは三十五歳だけれど、夫はもう四十一歳だ。そんな年齢のカップルが店にやって来たら、夫婦と見なすのが普通だと思うのだけど、そんな風に言われてしまうのはあたしと夫が童顔だからだろうか。あたしは二十代と間違えられることが多いし、夫もせいぜい三十なかばに見られることが多い。

 けれど見た目三十なかばの男と、二十代の女がやって来たら、やっぱり夫婦だと認識するのがオーソドックスな考え方だと思う。それなのに結婚前だと思われるのは、あたしがよく独身と間違えられるからだろうか。

 子供はまだいないけれど、あたしは二十七歳の時に既婚者になったというのに、実生活であたしを「奥さん」と呼んでくれるのは、こちらの家族構成を知った、保険の外交員やカーディーラーの社員といった限られた人たちくらいだ。そういう事実を考えると、あたしは結婚ができなそうな女に見えるのかなあと、何だか嫌な気持ちになる。

 それでも、一人で外出した時に独身と間違えられるのは慣れていたけど、結婚して八年目の夫と共に訪れたこの店で、結婚前だと思われたことはちょっとショックだった。自分では仲のよい夫婦のつもりだったけれど、傍目には夫に馴染んで見えないんだろうか。

 そんなことを考えていたら、着付けが終わり、ドレッサー代わりに据えられた化粧棚の前に腰かけるように促された。その後ろに、地味な女性に代わって派手な女性が膝を折って座り

「どういう風にしましょうか。とは言ってもそんなに色々できないんですけど」

 と言いながらヘアブラシを手に取った。

 それを聞いてあたしは、なんだ、ヘアアレンジのレパートリー少ないんなら、やっぱり自分で頭作ってから来ればよかったと後悔したけれど、安いんだから仕方ないと思い直して

「丸顔が、カバーできる感じにお願いします」

 とリクエストした。

 すると派手な女性が

「えっ、丸顔ですか?」

 と驚いたような顔をした。鏡越しに派手な女性の顔をよく見ると、彼女は丸々としたふっくら顔で、しかもそれをカバーしようなどということは思いつきもしなかった証に、ボブに切りそろえた髪の両サイドを耳にかけ、顔を丸出しにしていた。

 あたしはたちまち、バツの悪い思いに駆られた。自分より丸顔な人に対して丸顔をカバーしてくれなどと要望してしまった上に、この人は、丸顔をカバーしなければなどという発想は、微塵も抱いていないことが分かったからだ。

 仕方なくあたしは

「ええ、最近、周囲に『丸顔になった』って言われるもので」

 と言った後

「それにしてもこちらは安いですねえ。小物も足袋も貸して頂けて、ヘアセットまでして頂いて二千円ですもんね」

 と話題を転じた。

 すると派手な女性は

「ええ、まだ始めて二年なんですけどね。お客様のクチコミで、利用して頂いてるんです」

 と店が繁盛していることを匂わせた。

 小さな店だったし、土曜日だというのにあたしたちの他に客はいなかったけれど、始めて二年ということは、川越に着物のレンタル店ができたこと自体が、最近のことなのかも知れないなと思った。ということはひょっとしたら若月も、川越に着物のレンタル店ができたことを知らないかも知れないと思った。昔の男の故郷の現状を、男本人が知らないかも知れないのに自分が知ってしまったことが、何だか奇妙な気分だった。

 すると派手な女性が

「着物は沢山ある訳ですから、こうしてお安く着て頂いて、それで川越の町にお金を落として頂ければと思って」

 と続けたので、あたしは随分ハッキリ言うなとびっくりした。

「着物に憧れてる女性は多いけれど、なかなか袖を通す機会が無いでしょう? だからこうやってリーズナブルなお値段で着物を体験して頂いて、それを入り口にして、川越の町を楽しんで頂けたらと思って始めたんです。川越は古い町並みが残っていて、風情がありますから、是非その魅力を知って頂きたくて」

 などと言うなら分かるけれど、こうハッキリと、川越の町に金を落とせと言われてしまったのであたしは白けた気分になった。

 そういえば若月も、やたら嘘をつく割にはハッキリとものを言う傾向があった。付き合っていた頃、バイトの帰りに若月に送ってもらっていた帰り道

「瑠花の成約率が俺より高いから、気分が悪いんだよね」

 と言われたことがある。

 家庭教師派遣センターのアポインターとは、要するに

「家庭教師は、いかがですか」

 と電話をかける仕事だったのだけど、あたしはその事務所で、いつもトップの成績だった。若月も決して成績は悪くなかったのだけどたいてい二番か三番だった。

 嘘つきな若月より、嘘が嫌いで実直なあたしの方が成績がよかったのは、不思議な気もするけれど、あたしは好奇心旺盛な性格によって、多くのボギャブラリーを持っていたからトップになったんだと思う。

 たとえばセールストークの一つに、塾と家庭教師を比較するものがあるのだけど、たいていの人が

「塾とか行っても、授業中に友達とおしゃべりしちゃったりとかありますけど、家庭教師ならそういう心配も無いんですよお」

 と言うところをあたしは

「成績アップのためには、もちろん塾通いも選択肢の一つではあるんですけど、残念ながらお子さまによっては、ついお友達との雑談に夢中になってしまって、結果的に塾本来の目的を見失ってしまう場合があるんですよね。その点、家庭教師ならマンツーマンですから、時間を無駄にすることなく学力向上のために使えるというメリットがあります」

 などと小難しいことを言っていたので、何となく相手が、説得されてしまうというケースが多かった。

 でもその頃あたしは、自分がどうしてトップの成績を取れるのか分かっていなかった。大体、他の人が電話をかけている時にはあたしも電話をかけていたので、他の人のセールストークは、はしばしが耳に入ってくるだけだったから。

 だからあたしは、トップの成績を取りながら常におびえていた。理由も分からずトップを取っているということは、その内、理由も分からないままトップから転落する可能性があると思ったから。ううん、トップから転落するだけならいい。あっという間に最下位になってしまったら、いつ所長にクビにされるか分からないと思った。その事務所はバイト代がいい上に下宿の近所にあったから、あたしはそこを辞めたくなかった。

 そんな風にあたしは、自分のクビが心配でそのことに気をとられていたから、若月が自分より成績が悪いことなど、気にしていなかったのだけど、カレは大いにプライドが傷付いていたらしいのだ。

 けれどあたしの方が成約率が高いから、気分が悪いなどと言われても、どうしたらいいか分からず、あたしは

「こういうのって、運だから」

 などと慰めたのだけど、若月は

「最低だよね。俺。瑠花のこと好きなんだから瑠花が成績いいこと喜べばいいのにそれができなくて」

 とうなだれていた。

 今だったら、ホントに最低な男だな、あんたは結局、自分のことが一番好きなんだよと思うところだけど、あたしは成績のよいあたしのことを喜んでくれるどころか、その件で不快になっている若月の機嫌をこれ以上損ねることが怖くて、びくびくしていた。

 今となっても、若月がどうしてあんなことを口走ったのか不思議だ。どれほど愛しいと思う相手がいても、時には自己愛に走ってしまうのが人間だし、若月はそもそもあたしに本気じゃなかったから、あたしをねたんだのだろう。だけどそんな思いは、胸にしまっておくのが相手への思いやりであると同時に人のプライドなのに、若月はどうして、そんなことを口にしたんだろうか。

 ひょっとしたら、思いついたことを率直に口にするのが、川越の人間性なのかなあと思いつつ、いや若月とこの派手な女性の言葉だけで、そう決め付けてはいけないという思いがよぎった。けれど地味な女性に結婚前だと思ったと言われたことも思い出した。もしかしたそういう土地柄なんだろうかとぼんやり思った。けれどではなぜ若月が、あんなにも嘘をついたのかは分からないけれど。




 川越キリスト教会が店から近いということだったので、あたしと夫は、連れ立って歩き始めた。着付けは苦しくなかったけれど大またで歩くことができなくて、あたしはちょこちょこと夫の隣を歩いた。

 着物を着ると背筋がぴんと伸びることは、発見の一つだった。姿勢はよくなるんだろうけど、昔の人はこんな物を着て生活していたんだから大変だっただろうなと思う。でも着ているのは大変だけどやっぱり雅やかな気分になる。着物を白地にした代わりに、帯とバッグを黒地に灰色の模様入りにしたのも、甘さを上手く抑えられて成功だったと思うし、三箇所をねじって留めて付け毛を被せた髪型も、まあ気に入った。

 手持ちの浴衣とちょっとかぶるとはいえ、夫に和服姿を見せることができたのも嬉しかった。夫は口下手だから、自分から「似合うね」とか「可愛いね」などと言ってくれるタイプではない。けれどこの白地の着物を後押ししたのは夫自身なのだから、夫がこれを気に入っているのは分かっていた。

 そういえば若月も、あたしの白い服を気に入っていた。首周りのゆったりとした白いモコモコとしたタートルネックだ。

 あれもまだ付き合っていた頃のことだ。あの時あたしたちは、とある由緒正しい公園にいた。若月は苛立った様子で

「どうしてわざわざ、俺が気に入ってる服着て来るの」

 と言った。その日あたしは合コンに行く予定があったのだ。

 合コン行きのきっかけは、若月の発言だった。あたしが若月にぞっこんであることにあぐらをかき

「たまには、俺以外の男にも目を向けたら?」

 と言い出したのだ。

「結婚しよう」

 とまで言っておきながら、どうして他の男に、目を向けさせる必要があるんだろうと思ったあたしは、若月が余裕しゃくしゃくであることに気付いて、むかっ腹が立った。

 そっちがそう言うのなら、あたしは本当に他の男に目を向けてやろうと思い、友達に合コンのセッティングをお願いした。そしてそれを若月に報告すると、カレは突然慌てふためき

「参加するなよ」

 と言い出したのだ。

 あたしはさっぱり訳が分からず

「だって俺以外の男に目を向けろって言ったの、若月さんじゃん」

 と反論したのだけれど、若月は

「ごめん。それは謝るから」

 と訳の分からない謝罪をした。

「別に謝ってもらわなくてもいいよ。若月さんはあたしが、若月さん以外の男にも目を向けるべきって思ったから、そう言ったんでしょ? だからあたしは言われた通り合コンに行くことにしたの」

「俺以外の男になんて目向けなくていいよ。合コンなんか行くなよ」

「何で? 俺以外の男に目を向けろって言っといて、あたしがその通りにしようとしたら何で止めるの?あたしは友達に『行く』って約束しちゃったから行くよ。じゃないと嘘つきになっちゃうもん。若月さんもいったん、俺以外の男にも目を向けろって言ったんだから撤回しないでよ。それじゃ嘘つきになっちゃうじゃん」

 こうしてあたしは、若月の反対を押し切って合コンに行くことにしたのだけど、

「合コン前に、どうしても会いたい」

と言う若月が、指定した由緒正しい公園で、あたしは若月の気に入りの服を着ていたことを責められたのだ。けれどあたしがその服を着ていたのはたまたまだった。あたしには合コンにカレシの気に入りの服を着て行ってはいけないという、感覚が無かった。

 というかあたしにはそもそも、カレシがいるのに合コンに行くという感覚は無かった。けれど当のカレシに、他の男にも目を向けるよう勧められてしまったら、行かない訳にはいかない気がした。けれど待ち合わせ場所に行った途端、服装にケチをつけられて、あたしは何て面倒臭いんだろうと思った。

 その気が無かったのに、他の男に目を向けるよう言われ、言われるがまま合コン行きを計画するとなぜか反対された。そして挙句の果てには着て行く服にまで文句をつけられるなんて、どうしてあたしは、こんな思いをしなくちゃいけないんだと思った。

 けれどあたしは結局、若月を嫌いになれなかった。合コンメンバーの中に若月よりもかっこいい人がいなかったからだ。それでもあの頃あたしは、自分は若月の全てを愛していると思い込んでいた。今はあの頃よりは、愛の何たるかを分かっているつもりではある。けれどあの頃と変わらずに白が似合うあたしがここにいる。

 あたしは傍らに目をやった。藍色の着物を、黒地に白い横線の入った帯できりりと着付けた夫の姿があった。夫は藍色とか黒とかグレーとかモスグリーンなどの、落ち着いた色が似合う。ふと夫の色に染まってみたいと思う。十八歳の頃から相変わらず白が似合う自分は、まるで成長していないような感じがする。

 でも白こそが、あたしのカラーなのかも知れないという気もする。他の色に染まりやすい頼りない白い色。いずれ染まって別の色になることがあるんだろうか。それはそれで興味深いし純白を守れるならそれもいいとも思う。それならきっと死に装束が似合うから。

 けれどあたしはあの頃、信じていたのだ。あたしはいずれ白いウェディングドレスに身を包んで、若月の隣に立つのだと。

 二枚舌どころか、四枚舌を使って、あたしに甘く白い夢を見せた男の故郷にあたしは今いる。夫の隣で白地の着物をまとった姿であたしは今いる。




 教会に行くのは何年か前に、夫と一緒に、蛍を見に行くついでに通りかかった日本基督教団市川教会の前で、写真を撮って以来だった。テレビで国の登録有形文化財に指定されているという紹介を見て、何かのついでにぜひ行ってみたいと思っていたのだ。

 明治三十年に竣工されたその教会は、茅葺屋根の木造平屋建てで、白と黒のコントラストが見事な、和の雰囲気をかもしだす建物だった。欧米に信者の多い宗教施設が日本風の建築であることが、何だかエキゾチックな感じがした。

 あたしはエキゾチックなものが好きだ。それも欲張りだから、行ったことのある国名で言うならシンガポールがツボだ。イスラムだのチャイナだの西洋だのの異文化が、決して溶け合うことなく交差している様を見ていると、東京よりほんの少し大きいだけの、こんな小さなたった一つの国で、これだけ多くのエキゾチシズムを、味わっていいんだろうかとわくわくする。

 そういえば若月の顔立ちも、エキゾチックだったかも知れない。短大の研修旅行で長崎を訪れた時、 ―長崎もまた、異人館などがあってエキゾチックな土地なのだけど― どこかの壁に、魔法のじゅうたんに乗ったアラビアっぽい男の絵が描いてあって、若月にそっくりだと思い写真に収めた記憶がある。

 若月はベースはさっぱりとしているのだけれど、目に力があった。その辺りが若月に少しアラビアっぽい風情を与えていたのかも知れない。そして若月のアラビアっぽさは、男の色気として、たいていの女に認識されていたと思う。

 昔のあたしは、本当に男の外見にうるさかった。ただかっこいいだけでは駄目で自分好みの顔で雰囲気があって背が高くなければいけなかった。それがその内、かっこよければ好みじゃなくても大丈夫になり、その内、好みならかっこよくなくても大丈夫になり、そして最終的に、生理的嫌悪感を抱かずに済むなら不細工でもよくなって、そして夫と結婚した。

 実はあたしは、自分が男に求める外見のレベルが、どんどん下がっていったことを喜んでいる。いくらかっこいい人と付き合っても、付き合っている内に慣れてしまって、本当にこの人はかっこいいのかどうか、分からなくなってしまうのと同様に、不細工にも慣れてしまうからだ。

 それにかっこいい人と付き合った場合と、あんまりかっこよくない人と付き合った場合では、カレシの友達の反応が違う。かっこよくないカレシの友達の方が、明らかにちやほやしてくれるのだ。多分この子は、男を中身で選ぶ性格のいい子と思ってもらえているんだろう。

 あとは逆向上心も魅力の一つだ。どんどん自分の男選びの際の、外見レベルが下がってくると、自分はどこまでレベルを下げられるんだろうと興味が湧いてくる。夫は不細工ではあるけれど、インパクトのある不細工ではない。しかもとても優しそうな不細工だ。

 なので、これでインパクトのある不細工さえ克服できれば、完璧なんだけどなと思うのだけど、もう結婚してしまったので、死別か離別でもしない限りインパクトのある不細工にチャレンジする機会は無い。まあ夫のことは好きなので、死別も離別もしたくないけれど。

 ただ元々のあたしは、エキゾチックな雰囲気のある男が好みだということは、言えると思う。残念ながら夫は純和風の顔立ちでエキゾチックのエの字も無いのだけれど、だからこそ、歴代のカレシの中で最も好みの外見だった若月のことを、こうも思い出すのかも知れない。

 けれど日本聖公会川越キリスト教会の姿を見つけた途端、あたしの心は若月を忘れ、純粋に弾んだ。ウィリアム・ウィルソンという外国人が設計しただけあって、搭屋付きのレンガ造りという洋風のたたずまいだったのだ。内部も公開されていたので、あたしと夫は教会の外と中で、思い思いに撮影を楽しんだ。

 市川教会は、教会自体に和洋折衷のムードがあったので気に入ったのだけど、今回はあたしたちが和服だったので、川越キリスト教会が洋風だったことが嬉しかった。あたしたちがそこに存在することで、異文化が発生するからだ。

 着物姿で洋風建築の洋風な宗教施設を訪れると、何だか明治時代のヤソ教の、ハイカラな信徒になったような気分になる。写真のチェックが楽しみになる。

 でもあたしは別に、ずっと浮かれた気分でいた訳じゃない。本棚に収められている聖書の数々とか、教壇の上の十字架とか、多分アドベントで使うんだろう燭台とかが設置されているのを見ているとやっぱり厳かな気分になる。あたしは神様は多分いると思うから。

 幼稚園がミッション系だったから、子供の頃に神様っているんだなあと思ったし、大人になってからは、科学者の多くが神の存在を信じているらしいと何かで読んだから、やっぱり神様はいるんじゃないかなあと思う。科学とか天文学とかを研究している人は、研究すればするほど、世の中に偶然ではない法則がたくさんあることが分かって、何らかの意思がこの世界を創って、動かしているんだろうなあという境地に至るらしい。

 だからあたしも多分、神様はいるんだろうなあと思う。それがキリスト様なのか仏様なのか、それとも違う神様なのかは分からないけれど。

 そういえばあたしは、まだ若月と付き合い始めたばかりで幸福の絶頂だった頃に、あたしは若月と別れることになるだろうと、確信したことがある。何かきっかけがあった訳じゃない。一人で下宿の部屋で掃除をしていた時に唐突に思ったのだ。もし神様がいるんなら、恋焦がれた相手と別れるという体験をあたしに必ずさせるはずだと。

 世の中には初恋の相手と結婚する人もいるから、あたしのその確信は、単なる思い込みだと言う人もいるかも知れない。でもあたしは昔から、神様がどうもあたしに、様々な経験をさせたがっているらしいことを感じていた。

 たとえばあたしは、生まれた瞬間、死産になりかかったという話を母親に聞いたことがある。へその緒が首に三重に巻き付いていて真っ青な顔をして生まれてきて、お尻を何度も引っぱたかれてようやく産声をあげたらしい。大変な難産で、たまたまベテランの医師が当直だったから事なきを得たのだけど、もしその医師がいなければ、死産か助かっても何らかの後遺症が残っただろうという話だ。

 あとあたしは一歳の頃、階段のてっぺんから落ちたことがあるらしい。けれど色々な偶然が重なって、レントゲンを撮っても異常が無く、かすり傷一つ負わなかったということだ。

 それに小学生の時にせん妄状態に陥って、無音の場所で、音楽と歌声を聴いたことがある。医者が言うには

「多感な子供はたまにそういう体験をします。心配はありません」

 ということだけれど、珍しい経験には違いない。

 それ以外にもあたしは様々な珍奇な体験をしてきたので、あたしはいつの頃からか、どうも神様は、何かの思惑があって、あたしに色々な体験をさせたがっているようだと感じるようになっていた。

 だからあの日、突然別れの予感が胸をよぎったのだ。あたしは震えながら

「神様お願いします。そんな経験をさせないで」

 と心の中で叫んだ。

 でももしかしたら、あたしがそう願っていたその瞬間にも、若月は誰か他の女と一緒にいたのかも知れない。もしその時は女と一緒じゃなかったとしても、交際期間中、あたしが若月のことを想い、一人、胸を高鳴らせていた時に、若月が他の女と一緒にいたことは事実だろう。あの頃あたしは寝ても覚めても若月のことばかり考えていたのだから。そしてあの頃、若月の傍らには入れ代わり立ち代わり女が存在していたのだから。

 そんな若月の生まれ故郷にあたしは今いる。何も知らない夫と一緒にあたしは今いる。




 レンタル店でもらったパンフレットによると、川越キリスト教会のほど近くに、大正浪漫夢通りという通りがあるということだったので、夫と二人そこを目指して歩き始めた。

 レンタル店から川越キリスト教会に向かうには、一番街から一本、奥に入った普通の道を通ったので、モダンな建築の埼玉りそな銀行川越支店や法善寺などは、それなりに一見に値するとはいえ人通りも少なかったのに、大正浪漫夢通りは観光客が大勢いた。

 あたしと夫は、和風な建物を見つける度に観光客にカメラを渡して撮影を頼んだ。洋風建築をバックに、和服で写真を撮るのもエキゾチックでいいけれど、こうして古めかしい日本の建物をバックに写真を撮るのも、また完璧に和風な感じでいい。

 こんな時つくづく、日本人でよかったと思う。観光客の中には着物姿の欧米人もいたけれど、あたしはやっぱり着物は黄色人種に一番似合うと思う。エキゾチック好きなあたしではあるけれど、欧米人の着物姿は、間違った和洋折衷の例を見せられているようで少し心が痛む。

 でもそんなことを言ったら

「日本人が、洋服を着るのはおかしい」

 と言われてしまいそうだけど、洋服は機能的なので言い訳が立つ。だから多分、ゴシックロリータとかが一部の人にしか認知されないのは、機能的じゃないからなんだろうなあと思う。

 だけど機能的じゃない物を着るのは、何て楽しいんだろう。しかも成人式とかお正月とかのハレの日でも何でもない、こんな普通の土曜日に、和服でおめかしして通りを歩けるなんてすごく贅沢な気分になる。草履の鼻緒が当たる部分が、そろそろ痛くなってきたけれど、でもこうして機能的じゃない物を着られる時というのは働かなくていい時だ。

 洗濯をしたり料理を作ったり、職場で資料探しに走り回ったり、給湯室の茶碗を洗ったりといったことをしなくていいという証が、この着物なのだ。ちょうど十九世紀のイギリスで、上流階級の女性が、家事をしなくていい身分であることを表すために白い手袋をはめたように。

 けれど大正浪漫夢通りは、古い建物はいくつかあったものの、思ったほど大正浪漫も夢も感じられない内に終わってしまった。何だか物足りなかったので、あたしはその先の熊野神社に夫を誘った。

 神社に向かう途中に石畳を見つけたあたしは、前日ネットで見た占いを思い出し

「あっ今日のかに座の開運おまじないは、『石畳を見たら写真を撮って、今日一日ケイタイの待ち受けにする』だよ。撮りなよ」

 と夫を促した。

「えー、神社で写真撮るなんてやだ。霊とか写りそう」

「霊が写るのはお墓でしょ。神社はパワースポットなんだよ」

「そうなんだ」

 夫はいそいそと石畳を撮影すると、待ち受けに設定していた。夫は結構、迷信深いところがあるなあとは思っていたけれど、神社で写真を撮るのが嫌いだとは知らなかった。結婚八年目でも案外、発見というものはある。

 たとえば夫は星占いに興味が無いにも関わらず、あたしが先月から、今日のかに座の開運おまじないを、メールで送るようになったところ、「やってみたよ」などのレスが来るので送り始めの頃は驚いた。

てっきりそんなことをメールで送るのも面倒がって、帰宅してから

「開運おまじないなんてやるの、面倒臭い」

 と言われるとばかり思っていたのに意外にも素直に実行している。もっともあたしも、夫が嫌がりそうな、手のかかるおまじないの日はメールしていないのだけど。

 そういえば若月は、もっとずっと占いの話が嫌いだった。理由は単純で若月が乙女座だったからだ。男なのに乙女座だなんて恥ずかしいという訳だ。

 それにしても乙女座の性質は、たいてい潔癖症と書いてあるのに、若月があんなに浮気をしていたのは不思議だ。複数の異性と関わるなんて、不潔だとは思わなかったんだろうか。

 ただ若月は、身なりは小綺麗にしていたし部屋もいつもきちんと掃除されていたから、若月の潔癖さはそっちに発揮されたのかも知れない。でも乙女座は土の星座なので、やっぱり腑に落ちない。土の星座の人は、地に足の着いた生き方を好むと言われているからだ。

 そして水の星座である魚座のあたしとは、相性はいい方であるはずだった。水は土にしみこむからだ。あたしは自分の全部を若月に注ぎ込んだ。けれどもしかしたら若月には、まだ吸収力が残っていたのかも知れない。だから若月は、あれだけ何人も女をつくったのかも知れない。

 それとも本当はもう、吸収力なんか無くなっていて、若月は水を吸いすぎたぬかるみになっていたんだろうか。だからあたしはぬかるみに足を取られたみたいになって、若月に別れを告げられても離れられず、若月の浮気を知って連絡を絶っても、若月を忘れられずに眠れない夜を過ごしていたんだろうか。

 そういえばあたしが若月に恋をしたのは、星占いでいうところの、十二年に一度の大恋愛年だった。

 当時あたしは、そんなものがあることも知らなくて、それどころか若月に出会うまでずっと、あたしはこのまま激しい恋なんてできないんじゃないかと思っていた。中学生の頃までは好きになったらとことん相手にはまっていたのに、中学を卒業した途端、誰にも本気になれなくなってしまったからだ。

 高校に入学してすぐの頃、クラスメイトの男子をいいなと思って、そしたらその男子と中学が一緒だった女子から

「あいつが瑠花ちゃんと、交換日記したいって言ってるんだけど」

 と言われて速攻でOKした。これからバラ色の高校生活が始まる予感がした。

 OKしたその日、その男子から

「付き合ってくれるの?」

 と電話がきて、あたしはドキドキしながら「うん」と答えた。

 それなのに翌日、学校でカレの顔を見たら、何だか分からないけれど急に気持ちが冷めてしまった。それでも昨日の今日で断る訳にもいかなくて、二週間くらい嫌々交換日記をしてから、

「中学の時、好きだった人を忘れられない」

 と嘘を書いて関係を解消した。

 それ以来、色んな男子を好きになったけれど、小中学生の頃に抱いていた燃えるような感情は全然芽生えなかった。好きな男子にカノジョができても、ちっともショックに思えなかった。だからあたしは恋愛にクールになっちゃったのかなあと思っていた。

 それなのに若月に出会った瞬間、心臓が爆発しそうな衝撃を受けた。それまでは好きな人に自分からアプローチするなんて、絶対にありえないと思っていたのに、若月にはどうしても近づきたかった。友達でいいから仲良くなりたくて、バイト中にしょっちゅう若月にあれやこれやと話しかけた。

 乙女座の性質とか、乙女座と魚座の相性とかはよく分からないけれど、でもあの年があたしにとって、十二年に一度の大恋愛年だったというのは、今振り返っても当たっていた気がする。その後にも付き合った人は何人もいるし、結婚した夫のことは今でも大好きだけど、でもあんな風に男の人に恋したことは無かったから。

 十二年に一度の大恋愛年に出会い、恋に落ち、そして付き合い始めた人の故郷にあたしは今いる。同じ水の星座で星占いの相性が最高の夫と共に、あたしは今いる。




 神社で何枚か写真を撮り、手水で手を洗っていると、斜め前の辺りから青い視線を感じた。ブルーの瞳で興味深そうにあたしの姿を見詰める欧米人に、傍らの知人らしい日本人が、「ジャパニーズスタイル」と説明した。あたしは嬉しいような困ったような気持ちになって神社を後にした。日本の民族衣装に興味を持って頂けるのは光栄だけど、その対象があたしでいいんだろうかという気がした。

 着物を着慣れている人ならしぐさもきれいなんだろうけど、着慣れないあたしは、真っ白だった足袋の親指の部分をすでに汚していた。多分歩き方がよくないんだろうと思う。でもどう歩いたらいいか分からない。

 神社を出ると、足ツボを刺激できる道が歩道の端にあった。あたしは足ツボマッサージが大好きなので、たまにこういう道を見つけるとすぐに靴を脱いでデコボコ道を歩く。痛気持ちいい刺激がたまらないのだ。

 けれど今日は借り物の足袋をはいているので、足ツボ道を堪能することができない。だから神社に入る時は諦めたのだけど、神社を出る段になって急に未練を覚えたあたしは

「どうせ足袋汚れちゃってるし、草履脱いで歩いちゃおうかなあ」

 とつぶやいた。でも夫に「駄目だよ」とたしなめられた。夫はモラリストなのだ。

 そういう所が、若月と夫の一番の違いだと思う。若月はモラルもへったくれもない人だったから、ばんばん女に手を出しまくっていた。一方の夫は、自分がするされるの問題以前に、浮気という行為自体を憎んでいる。アカの他人の浮気にまで腹を立てるようなタイプだ。

 実はあたしは、若月と別れた後に色んな男と付き合いすぎてすれてしまって、夫と出会った頃には、すっかり浮気容認派になっていた。

 あたしにばれないように細心の注意を払い、浮気相手に金を使わず

「お前とは、遊びだ」

 と最初から宣言して、関わりを二~三度で解消してくれるなら、半年に一回くらいのペースでなら、相手が浮気してもいいと考えていた。

 それなのにモラリストの夫と付き合い始めてしまったので、あたしは何だかもったいないなあという気がしていた。世の中には、浮気は絶対嫌という女も多いのだから、どうせならそういう人と付き合えばよかったのにとか、あたしは浮気は構わないんだから、浮気していいからその代わりに、もう少し顔がいいとか学歴があるとかお金があるとか、そういう人だったらよかったのにと思った。

 けれどある時、何気なく

「リクはどうして、浮気しないの」

 と尋ねた時、夫に

「だって浮気したら瑠花、泣くんじゃない?」

 と言われてハッとした。

 あたしが浮気の条件に、あたしにばれないように、細心の注意を払って欲しいと願っているということは、相手の浮気を知りたくないからだ。それは相手が浮気をしたら悲しいからだ。夫は自分が浮気をしたらあたしが悲しむからしないと言う。その言葉に、目からウロコが落ちたような気分だった。これが人を愛するということなのかも知れないと思った。相手を悲しませないということが、愛するということなのかも知れないと思った。

 だからそれ以降、あたしは夫に浮気をして欲しくないと思うようになったし、あたし自身も決してするまいと思った。それでも人は弱い生き物だから、愛する人がいても何かの弾みで、一線を越えてしまうこともあるかも知れない。それでも愛する人を悲しませないために、貞操を守るというベースを持つことが、もしかしたら人を愛するということなのかも知れない。

 けれどそうすると若月は、あたしをまるっきり愛していなかったということになる。そもそも若月が手を出した女の中には、あたしから乗り換えようとした女もいたのだ。その女にあたしの存在を悟られ逃げられたから、若月はあたしと付き合い続けた。

 十六年も前に悟ったその事実に、今更、打ちのめされるのは一体どうした訳だろう。ここが何度も「愛してる」と言いながら、あたしを全く愛していなかった若月の故郷だからか。それともあたしの傍らに初めて愛の意味を教えてくれた夫がいるからか。




 神社を後にしたあたしたちは、今度は一番街をゆっくり歩くことにした。先ほど通った時は、レンタル店の予約時刻が迫っていたので駆け足だったからだ。

 けれど一番街に出るには、大正浪漫夢通りを折り返さなければならなかったので、あたしは

「通りの途中にあったシマノコーヒー大正館で、お茶を飲もう」

 と夫を誘った。慣れない着物で疲れていたから休憩したかったし、先ほど通り過ぎた時に、レトロな外観が気になっていたのだ。

 元々、夫とは

「借りた着物を汚したくないから、着物でご飯は食べたくないけど、お茶くらいはしたいね」

 と話していたのだけど、シマノコーヒー大正館の扉を開けた途端、ああここに来て正解だったと思った。

 映画で観た、大正時代のカフェのようなミルクホールのような空間が、そこには広がっていた。店内にはジャズが流れ、時代を感じさせる振り子時計を真ん中に、何だか懐かしい雰囲気の皿が、壁にズラリと展示され、扉や窓に貼り付けられた色とりどりのひし形の模様が、陽の光を浴びてステンドグラスのような効果を出していた。

 カウンターなら座れると言うので、あたしと夫は横並びに止まり木に腰かけた。ボックス席に座れなかったのがちょっと残念だったけれど、あたしたちが滞在している間、二組ほど入店を断られていたので、入れただけラッキーだったのかも知れない。

 あたしはいつも、初めての喫茶店では、ブレンドコーヒーを飲むことにしているのだけど、メニューを眺めていたらどうしてもココアが飲みたくなった。それを告げると夫は

「キリマンジャロいいなー。でももったいないかなあ」

 と悩み始めた。

 ココアも結構なお値段だったので、あたしは自分一人が、高い飲み物を飲むことが引け目で

「たまには、いいんじゃない?」

 と言ったのだけど、結局夫はココアとブレンドをオーダーした。

 夫は本当はブルーマウンテンが一番好きなのだけど、ブルーマウンテンは高いので、いつもキリマンジャロでがまんしている。それが今日は珍しく、一番安いブレンドでがまんしたようだ。夫は二人でブレンドを頼むのは恥ずかしいけれど、片方が最安値のブレンドよりも高い飲み物を注文すれば、もう一人は、ブレンドにしても恥ずかしくないという考えの持ち主なので、今日はブレンドにしたらしい。

 一方あたしはマンデリンが一番好きなのだけど、節約のために、たいていブレンドでがまんしている。こういう感覚が夫と似ているからあたしは居心地がいい。好きなコーヒーを飲み分ける舌を持ちながら、節約の観念も持っているという辺りの価値観が、同等なところが安らげる。でもあたしは二人でブレンドを注文しても別に恥ずかしくない。けれど夫のそういうバランス感覚も、理解できるから別にいい。

 あたしは隣に夫が座っていることに安心感を覚えながら、ココアが来るまでの間、ぼんやりと店内を見渡した。マスターの他に手伝いの女の子が一人、いわゆるメイド服を着てテーブルを片付けたり、レジを打ったりしていた。アキバでメイド喫茶が流行るずっと前から、多分ここではこのメイド服が制服だったんだろうなあと思うと、何だかリアリティーが感じられて嬉しくなった。

 あたしと夫が今身に着けている着物はただの借り物で、その意味では、アキバのコスプレと変わりないような気がするけれど、本物を感じさせるこの空間にいると、自分が本当に、大正時代に喫茶店にやってきたご婦人のような気分だった。

 その内ココアが、メイド服の女の子の手によって運ばれてきた。口をつけるとそのあまりの美味しさにあたしは、ああココアにしてよかった、ここに来てよかったと心から思った。とろけるような上品な味わいが脳をつらぬくようなそんな味だった。

 あたしは熱いココアをすすりながらふと、若月はこの店に、来たことがあるんだろうかと考えた。

 付き合っていた十ヶ月の間、若月と何度か喫茶店に行った記憶はあるけれど、誘うのはいつもあたしだった。若月が飲み物に関するこだわりを口にした記憶も、店のムードに対する思い入れを語った記憶もまるで無いから、若月は喫茶店を、好きな訳ではなかったんだろう。

 そう考えると若月がここに来店した可能性はかなり低い。高校生の頃、カノジョはいたという話だったけど、この店は雰囲気が大人なので高校生には利用しにくいだろう。川越を離れ大人になり帰省した折にも、若月は喫茶店に足を運ぶタイプではないから、もしかしたら若月は、この店を知らないかも知れない。

 途端にあたしは何だか自分が勝利したような気分になった。この店が存在するだけで、この通りを、大正浪漫夢通りと呼んでも差し支えないと思えるほどのこの店を、川越出身の若月が、知らない可能性があるなんて。若月は何てもったいない人生を送っているんだろうと思う。まあ知識を馬鹿にしているような若月のことだから、こんなことは驚くには当たらないけれど。

 あたしはこの時つくづく、川越に来てよかったと思った。

 行く前は、昔の男の故郷を夫と共に訪れることに罪悪感を覚えた。でももし川越が昔の男の故郷だと打ち明けてしまったら、夫は「行かない」と言い出しただろう。加えて

「どうしてそんなこと、わざわざ言ったの」

 ととがめられただろうと思ったから、口には出さなかった。

 それは夫が大の旅行好きだからだ。それなのに興味を示した川越の地が、あたしの昔の男の故郷だと知ってしまったら、行きたいのに行けない旅行地が夫に発生してしまい、もどかしい思いをさせることになる。だから黙ってここに来たのだけれど、ここに来たことは、夫にとってもあたしにとってもよいことだったと思った。

 夫は着物を着られただけで、すっかりご機嫌だし、あたしも着物を着られたり素敵な建物をバックに写真を撮れたりおいしいココアが飲めてとても嬉しい。川越に来るまでは、川越という地は、あたしを裏切った男の故郷でしかなかったけれど、こうして訪れてみると様々な魅力があることが分かった。それらの発見によって、あたしの川越への思いはよいものに上書きされる気がする。

 あたしはすっかり満足して、夫と共にシマノコーヒー大正館を後にした。

 大正浪漫夢通りをてくてく歩く。突き当たりを西に曲がって仲町の交差点を右折し、一番街に入る。そこにはかつお節の店や創作漬物の店などもあったけれど、和菓子屋が圧倒的な数を誇っていた。

 お世話になっている人たちへの、お土産にどうだろうと、いくつかの和菓子屋をのぞいていると、夫が

「川越は、さつま芋が名物なんだね」

 とつぶやいた。

「そう?」

「うん。あっちこっちで芋菓子が売ってる」

 商品の値段と数量と賞味期限しか見ていなかったあたしは、へえ、そうなんだあと思った。そしてそんなこと知らなかったとショックを受けた。若月は自分の故郷の話をあたしに全然してくれなかったから、あたしが川越の名産品を知らないのは、当たり前のことだ。でも何だか今更にしてショックだった。あたしは自分の故郷の名産品を、聞かれもしないのに、若月に自分の知る限り全部、教えてあったからだ。

 そういえば若月は、里帰りをしても、一度もあたしにお土産を買って来てくれたことが無かった。あたしは帰省する度に、栗鹿の子だのりんごのお菓子だのを渡していたというのに、若月は一度も何も買って来てくれたことが無かった。

 でも若月は決してケチではなかった。デート代は全部持ってくれていたし、誕生日には当時流行していた十九歳のシルバーリングを買ってくれた。あたしが若月とのウィンドーショッピングデートの最中に、「いいな」と言ったぬいぐるみとスカートを、クリスマスプレゼントにしてくれた。

 けれど考えてみたら、若月はあたしへの出費にまるで頭を使っていない。デートの行き先は、たいていあたしが提案していたから、若月はそれにかかった費用を機械的に出していただけだし、十九歳のシルバーリングは、当時、十九歳の誕生日にシルバーリングをプレゼントされた女の子は、幸せになれるというジンクスが流行っていたから、あたしがねだって一緒に買いに行ったのだ。

 欲しがっていたスカートとぬいぐるみを、クリスマスにプレゼントされた時は、あたしの欲しがっていたものを、覚えていてくれていたんだと嬉しかった。けれど若月はただ単に、クリスマスだからカノジョであるあたしにプレゼントをしなければならないと考え、だったらこの間欲しがっていたあれでいいやと思って、買っただけなのかも知れない。

 それにそのクリスマス自体も、今となっては嫌な思い出だ。あたしはイブを若月のアパートで過ごしたのだけど、まだ処女だったあたしが夕飯を食べ終えた後に帰ると、若月はあたしを送り届けた後、すぐに江川を呼び出して、イブの夜から二十五日までを一緒に過ごしたらしいのだ。

 付き合って半年くらい、若月はあたしに手を出さなかった。あたしは自分が大切にされているとおめでたい勘違いをしていた。でも若月はただ単に、よそで性欲を処理しまくっていたので、あたしの前で紳士を装えただけなのだ。若月と出会うまでは男とデートをしたこともなかったあたしには、時間をかけた方がいいと考えていたんだろう。

 若月は江川にどんなクリスマスプレゼントを渡したんだろうと、ふと思った。それは江川が、「欲しい」と口に出した物だったのだろうか。それとも若月が自分で考えてセレクトした物だったのだろうか。

 どんなに安くてもいいから、常日頃のあたしの言動から、あたしが好みそうな物を一生懸命考えて選んだ何かを、何か一つでいいから若月から贈られたかったと思った。今、目の前にずらりと並ぶ、芋せんべいとか芋まんじゅうとかこういう物でも何でもいいから、どれがあたしに喜ばれるかと、頭を悩ませて欲しかった。その時間をあたしのためにさいて欲しかった。

 あたしは若月と付き合っていた頃、若月が目の前にいなくても、いつも心の片隅で若月のことを想っていた。けれど若月は、あたしと会っていない時はたいてい別の女と一緒にいた。だから付き合っていた十ヶ月という期間に、若月が一人あたしのことを想った時間は、本当にわずかだった訳だ。だから若月は、あたしのために頭をひねって何かを贈ろうなんて、思ってもみなかったんだろう。

 お金やプレゼントや、「愛してる」の言葉は出してくれても、心をくれなかった男の故郷にあたしは今いる。その証のような芋菓子の数々を何も知らずに眺める夫と共に、あたしは今いる。




 実はあたしは、若月と別れた二年後の誕生日にも若月からプレゼントをもらっている。その頃あたしには新たなカレシがいたのだけど、カレシが東京在住で遠恋だったため、誕生日の夜に自宅にいたのだ。その時あたしはすでに短大を卒業して就職していて、会社が借り上げてくれた、学生向けの女性専門マンションに住んでいた。

 短大時代の下宿から引っ越した訳だから、電話番号は変わっていた。だけどあたしは、若月に新しい番号を教えていた。若月と切れてから一年以上経ったある日、不意に若月に電話をかけたくなったのだ。その時すでに、東京在住のカレシと付き合い始めていたのだけど、遠恋だったので寂しかったのかも知れない。

 電話をかけると若月は

「久し振りに、会わない?」

 と言った。あたしは少し迷ってそしてOKした。

 その一年数ヶ月前、若月が複数の女と関係を持っていたことを知り、あたしが若月を責めて、話を聞いた江川が

「瑠花ちゃんにも、若月さんの気持ちがいずれ分かる日が来るよ」

 と言ったと若月から聞かされた時には、何言ってんの? 若月も若月だけど、若月が複数の女を、かけもちしていること知っていて、しかもセフレ以上の立場にしてもらえないのに若月と関わり続けてる江川も江川だよ。何で若月の肩持つ訳? ブスだから? と思ったあたしが、その一年数ヵ月後にはカレシに内緒で前カレと会う約束をした。

 当時、あたしはカレシにしょっちゅう

「てめえ、浮気してねえだろうな」

 とすごまれていたので、浮気をしてもいないのに、ひっきりなしに浮気を疑われることにうんざりしていた。そして浮気してもしなくても疑われるんなら、浮気した方が得なんじゃないかという考えが、頭をよぎるようになっていた。そこで若月と会うことにしたのかも知れない。

 とはいえあたしは別に、若月とセックスをするつもりは無かった。ただ前カレと久し振りに会うという行為を、やってみたかっただけだった。そして始終、浮気を疑うカレシを許したいだけだった。

 けれど待ち合わせ場所に現れた若月を見て、あたしはすごく気落ちした。若月はたった一年数ヶ月で、太ってかっこ悪くなっていたからだ。そうはいっても激太りという訳ではなかったし、かっこいい人が普通の人になったというレベルだったけれど、あたしは今付き合っているカレの方が断然かっこいいじゃんと思った。かっこいいカレシがいるのに、わざわざかっこ悪い男とデートの約束をした自分が、何だか分からなくなった。

 昼食時だったので若月は

「食事に行こう」

 と言ったのだけど、あたしは

「ほか弁でも買って、若月さんの部屋で食べようよ」

 と提案した。

 あの頃あたしは、かっこよくない男と二人でいるところを人に見られるのが嫌だった。だからさっさとランチをテイクアウトして、若月のアパートに身を隠したかった。それくらい当時のあたしは面食いだった。

 付き合っていた時は、若月の全てを愛していると思い込んでいたのに、別れてからはショックのあまり二ヶ月で五キロもやせたというのに、あたしが焦がれていたのは、若月自身ではなく若月の入れ物だった。入れ物が不恰好になった途端、あたしの心は本当の意味で冷めた。

 そしてあたしは冷静に、今のカレシのことも、やっぱりカレの顔が好きなんだろうなと考えた。けれど若月によって男を疑うことを教えられたあたしの目から見ても、その時のカレシには浮気の気配が無かった。だからあたしは別にいいやと思った。若月と別れて、顔だけで選んじゃ駄目なんだって、あたしだけを好きでいてくれる人を、選ばなきゃ駄目なんだって分かってそういう人を選んだんだから、別にこれでいいやと思った。

 あたしと若月は持ち帰り弁当を買うと、若月のアパートで、食事をしながら近況を報告し合った。

 若月は

「江川とは、終わった」

 と言った。理由を聞くと

「何か急に、会いに行くのが面倒になったんだよね」

 と答えた。

 その頃も江川は東京在住だったのだけど、はるばる電車に乗って会いに行くのが、不意に面倒臭くなったと言う。あたしはその答えを聞いてびっくりした。あたしがその頃住んでいたマンションは男子禁制だったので、遠恋中のカレシと会う時には、毎回あたしがカレのアパートを訪ねていたのだけど、正直言ってあたしだって、会いに行くのはいつも面倒だったからだ。

 けれど面倒なのは、遠恋なんだから当たり前じゃないかとあたしは思った。面倒臭いけれど恋心が距離に勝つから会いに行くのだ。というかそれまで若月が、江川に会いに行くことを面倒だと思っていなかったことに驚いた。いやそもそも、若月がいっぺんに複数の女に手を出すことを、面倒に思わないタイプなことが不思議だった。

 若月には、新しくカノジョができたという話だった。相変わらず浮気もしているのかどうかは聞かなかったけれど、何となくしていないような気がした。ロフトに通じる階段に何も置かれていなかったからだ。

 付き合っていた頃、若月は

「ロフトは、暑いから」

 という理由で、ロフトを寝室として使わず、ロフト下のワンルームに万年床を敷いていた。そしてロフトに向かう階段は荷物でふさがれていた。

 後で上野さんに聞いたところによると、若月は他の女たちの荷物を、ロフトに運んでいて、女が来訪した時にロフトに行かないように階段に荷物を置いていたらしい。

 今考えてみれば、暑いからロフトを寝室にしない若月が、冬になってもロフト下のワンルームで寝起きしていたのは、確かにおかしな話だと思う。だけど若月は、部屋を訪れる女たちに合わせて、写真立ての写真まで取り替えていたということだった。そこまで念入りに女の気配を消されていたら、おぼこいあたしが、若月の女癖の悪さに気付けなかったのは、仕方の無いことのようにも思う。

 だってその頃あたしは、浮気というものは特別な悪人がするものだと思っていたのだ。だからある冬の日、合鍵を使って一人で若月の部屋に入った時も、あたしは家捜しをしなかった。そもそもあたしは渡された合鍵を勝手に使うつもりが全く無かった。

 それなのになぜその日は合鍵を使ったかというと、帰省した若月から

「こたつの電源を入れっぱなしで出かけちゃったから、消して来て」

 と電話がかかってきたからだ。あたしは面倒臭いなあと思いながら、自転車で若月のアパートに向かい部屋に入ってこたつを見た。果たして電源は入りっぱなしになっていた。

 外が寒かったので、あたしは暖を取るために、電源を切らずにしばらくこたつに入っていたのだけど、あたしが来ることを想定していなかった部屋の中では、エロ本が堂々と本棚の中に入っていた。あたしは行きがけの駄賃とばかりにエロ本に手を伸ばした。普通の女だったら、チャンスとばかりに浮気の痕跡を探すだろうシーンで、あたしはエロ本を熱心に読みふけり、満足してこたつの電源を切ると部屋を後にした。

「四股までかけてた人が、頼まれもしないのによく合鍵渡してきたね」

 と友達は驚いていたけれど、あたしが若月を信じきっていたことを、若月は分かっていたんだと思う。もしあたしが普通の女だったら、あの日あたしは女の影を探し見つけたのかも知れない。

 けれど若月と再会したあの日、ロフトへ通じる階段には何も置かれていなかった。それを見てあたしは不愉快になった。この男と一緒にいるところを、人に見られたくないとまで思った若月の部屋のロフト下の階段に、何も置かれていないのを見た時、あたしは不愉快な気分になった。

「今すぐ、学生結婚しよう」

 と乞われていた日々がふと頭をよぎった。あの時あたしがほだされていたら、あたしは若月と本当に結婚していたのかも知れないと、今でも思う。もちろんしなくてよかったけれど。したら絶対に後悔していたけれど。

 帰り際に、新しい電話番号を聞かれ、あたしはカレシと若月のカノジョに悪いと思いつつも番号を教えた。こうして部屋にまで上がりこんでおきながら、教えないのは変な気がしたからだ。

 その日以降、時たま若月から電話がかかってきた。若月は電話越しに

「この前会った時に、瑠花はますます可愛くなったなと思ったけど、性欲は感じなかった」

 と聞いてもいないことを言った。

 あたしも若月と寝る気は無かったから、性欲を持ってもらわなくて結構だった。だけどあえてそんなことを言われると、何だか女としてのプライドを傷付けられた気がした。あたしは「どうして?」と尋ねた。

「瑠花は女って感じがしないんだよね。女の子って感じで」

 今思うと若月は策略家だなと思う。普通、男に

「女を、感じない」

 などと言われたらその男のことは諦めるものだと思うけど、二十歳の女に

「女の子って感じで」

 などという言葉を付け足したら、時間が経てば、あたしのことを女として見てくれる日が来るってことなのかなあと思ってしまう。

 けれど若月は、あたしが十八歳の時にあたしを抱いたのだ。ずっと若かった頃のあたしに発情した若月が、大人になったあたしを、女の子って感じで女を感じないなどと表現するのはおかしい。若月は多分、あたしに欲情して欲しいとあたしに思わせるために、そんなことを言ったんだろう。あたしが遠恋中だったので欲求不満なんじゃないかと、浮気相手としてあたりをつけられていたのかも知れない。

 ところがその頃あたしは、欲求不満どころかセックスにげんなりしていた。カレシと会うのは二週に一度のペースだったけれど、二泊三日の滞在期間中に、七~八回は求められていたからだ。正直言ってあたしはそんなにしたくなかったのだけど、その頃あたしはカレシと若月の他に男を知らなかったから、他にはけ口が無ければ、若い男の肉欲っていうのはこういうものなのかなと思って、渋々応じていた。

 だからあたしは、遠恋中ではあったけれど、肉体的には不満を感じていなかった。それにそのカレシと付き合い始めたことによって、若月のインサートからフィニッシュまでの時間が、あまりにも素早いものだったということを知ってしまったので、下手に若月と寝たりしたら、かえって欲求不満になりそうな気がした。

 けれどあたしは、体は寂しくなかったけれど心が寂しかった。カレシと二週に一度しか会えないことが寂しかった。東京は日帰りも可能な距離だけれど、あたしたちにはお金が無かった。あたしは社会人一年目の上に実家を出ていたし、カレも一人暮らしの上に学生だった。

 だから若月から時折かかってくる思わせぶりな電話に、あたしの胸は騒いだ。かっこ悪くなってしまったけれど、一年数ヶ月前まで付き合っていた男の家には、自転車で行ける距離なのだ。しかもあたしは引越しによって、以前より若月のアパートの近くで暮らしていた。

 そんな中で迎えた二十一歳の誕生日の夜、あたしは友達と食事をした後、早目に帰宅していた。翌日も会社だったしカレシが電話をかけてくるだろうと思ったからだ。

 部屋で一人あたしはご機嫌だった。会社の同僚たちがくれた花束が気に入ったからだ。あたしは記念に花束を抱えてセルフタイマーで写真を撮り、その後、花束だけで写真を撮ったのだけど、そんなことをしている内に乗ってしまって、花束の下にお気に入りの絵本を広げてみたりぬいぐるみを添えてみたりと、工夫を凝らし始めた。

 そうこうしている内に、部屋に取り付けられていた電話が鳴った。相変わらずまだ番号通知のシステムは無かったのだけど、あたしはカレシだと思って手を伸ばした。けれど受話器の向こうから流れてきたのは若月の声だった。若月は

「今から迎えに行って、誕生日プレゼントを買ってあげるよ」

 と言った。

 その途端あたしは、それまで自分がしていた写真撮影がすごく虚しい行為に思えた。二十一歳のバースデーに、女が部屋で一人遊びをしているなんて、すごく寂しいことに思えた。

 でもあたしは断るべきだった。それなのにその時のあたしはこう思った。若月に今のカノジョを裏切らせたいと。体も唇も許さずに今のカノジョを裏切らせたいと。

 自分を裏切った男が、今のカノジョだけは裏切らないなんて許せないと思った。けれど体や唇を許すことによって、自分が浮気というものを実践して、汚れてしまうのが嫌だった。だからあたしと会ってあたしに金を使わせるというやり方で、あたしは若月の裏切りを後押ししたくなった。

 若月に金を使わせたかったのは、遠恋中のカレシが、二十一歳のプラチナリングを買ってくれないという背景もあった。若月にもらった十九歳のシルバーリングというジンクスには、二十歳のゴールドリング、二十一歳のプラチナリングという続きがあった。カレシは、二十歳のゴールドリングは買ってくれたのだけど、あたしの二十一歳の誕生日を目前にしてパチンコですってしまい、あたしはおあずけを食わされていた。

 今思えば、ジュエリー業界の宣伝文句に、どうしてそんなに振り回されていたのか不思議だけど、当時あたしはそのことで頭にきていて、カレシがプラチナリングを買ってくれないなら、前カレに誕プレを買ってもらっても構わないように思った。

 二年前に江川に

「瑠花ちゃんにも、若月さんの気持ちがいずれ分かる時が来るよ」

 と言われた時、あれだけ江川を軽蔑していたあたしが、二年後にはこうして若月の裏切りに加担した。

 その夜、プレゼントを買いに行った店は覚えているけれど、何を買ってもらったのかは忘れてしまった。多分何かアクセサリーを買ってもらったように思うけれど、その形状も色も思い出せない。今そのアクセサリーが手元に無いのは、無くしてしまったからなのかそれとも捨ててしまったのかも分からない。若月と別れた日に、下宿の窓からシルバーリングを投げ捨てた時のことは、今でも鮮明によみがえるというのに。

 再会した若月は、数ヶ月でやせてまたかっこよくなっていたけれど、そんなことはもうどうでもいいことだった。あたしにとっては、若月がカノジョのいる身で、昔の女であるあたしに誕プレを買ってくれるということが重要だったから。あたしの誕生日、そう三月十四日のホワイトデーに、カノジョを裏切らせることに意味があったから。

 イブの晩、あたしが下宿に帰った後で江川を呼び出した若月を、あたしはずっと恨んでいたんだと思う。だからホワイトデーの晩、おそらくさっきまでカノジョと過ごしていたと思われる若月の誘いに応じたんだろう。

 若月はもしかしたら、女を裏切ることを楽しんでいたのかも知れない。しかもその裏切りを共犯者と行なうことが好きだったのかも知れない。だから面食いのくせに、全然可愛くない江川と一番長く深く関わっていたのかも知れない。江川をお払い箱にした若月に、あたしはあの晩、江川の身代わりをさせられたのかも知れない。

 ひどい男だと思うけれど、あたしに責める資格があるんだろうかとも思う。あたしはあの晩、若月のカノジョと自分のカレシを裏切った訳だから。ううん、それだけじゃない。あたしはその行為によって、若月と付き合っていた十ヶ月と、別れた後で若月の不貞を知った時の純粋だったからこそ許された悲しみを、あの時の自分を裏切った。

 悪いことをするということは、誰かを傷つけるだけじゃなく、自分自身も傷つけることになると思う。あの夜あたしは若月に唇も体も許さなかったけれど、体の代わりに心を汚した。恋をするということは、恋愛関係が終わっても自分を裏切ってしまう危険をはらんでいる。

 けれどその後、あたしはカレシと別れて別の人と付き合い始めた。あたしは新しい恋にすっかり夢中で、若月と関わっている場合ではなくなって、あたしたちの縁は切れたから、最終的にはよかったのかも知れないけど。

 ただ今思うことは、若月は最後の最後まで、あたしへの贈り物に知恵を使ってくれなかったんだなということだ。

 若月のカノジョと、自分のカレシと、自分自身を裏切って、誕生日の夜に二人で行った雑貨屋で、若月は

「どれでも好きなの、選んでいいよ」

 と言った。あたしは自分で選んで若月に買ってもらった。若月はとうとう最後まで自分で考えた贈り物をあたしにくれなかった。

 あの時はやましさに気を取られていて、そこまで思い当たらなかったけれど、川越の芋菓子が、あたしにその事実を教えてくれた。お前は全く若月に愛されてなどいなかったのだと。

 あたしに残酷な真実を教えてくれる若月の故郷に、あたしは今いる。何も知らずにあたしとペアのマリッジリングを左手の薬指にはめた夫と共に、あたしはいる。




 客待ちをしている人力車や瓦屋根の元町郵便局を、撮影しながら通り過ぎると、辻の札の交差点に差しかかった。ここを西に折れると菓子屋横町は目前だ。

 一番街では、賞味期限があわただしい菓子か高額な菓子しか見つからなかったので、菓子屋横町でお土産を探すつもりだったのだけど、この通りは、道幅が狭い割に観光客が多く、ひしめく菓子屋は駄菓子屋のような店ばかりで雑然としていた。

 カルメ焼きや芋餡のたい焼きや団子などが、食べ歩きの誘惑を仕掛けてきた。けれどあたしも夫も、混み合う店を見るといっぺんで入る気力が無くなってしまうタチだ。いつの間にかあたしと夫は、店に入ることもせず人を避けながらぼんやりと歩いていた。

 あまりにも混み過ぎていて写真すら撮れる状況ではなかったけど、喧騒の中、色とりどりの菓子や飾りつけで目を楽しませてくれる通りを流すのは、面白いものだった。ここはひょっとしたら川越で一番、観光客が集まる場所かも知れない。そう思った時あたしはふと確信した。若月と江川はこの菓子屋横町を二人で歩いたことがあると。

 若月と付き合っていた頃、季節は忘れたけれど、若月が何泊かで里帰りをしたことがある。その時、川越からかかってきた電話で若月は

「江川も『川越に用がある』って言うから、一緒に来てるんだ」

 とまるで当たり前のことのようにあたしに告げた。あたしは「そうなんだ」と答えた。

 若月は

「ヤキモチ、焼いちゃう?」

 と心配そうに尋ねた。あたしは

「ううん、信じてるから」

 と答えた。

 あの頃あたしは、愛するということは信じるということだと思っていた。本当は若月のことなんてまるで愛していなくて、ただ彼の端正な顔立ちとか、キレのある雰囲気とか、カラオケの上手さとかに惹かれていただけなのに、自分は若月を愛していると思い込んでいた。だからあたしは、何の疑いも無く若月を信じていた。あんな風に何の根拠も無くまっすぐに誰かを信じたことは若月と別れて以来無かったし、これからもきっと無いだろう。

 それでいいのだと思う。根拠も無く人を信じたりしたらひどい目に遭う。あたしは若月にだまされていたと知った夜、初めて煙草を吸いリストカットをしてしまった。だから人を見る目を持つのは大事なことだ。けれど、まるで見る目の無かった無邪気なあの頃の自分を、あたしは懐かしく思い出すのだけど。

 それにしても、あの時、若月はどういうつもりであんな電話をかけてきたんだろうと思う。今にして思えば江川が川越に用があるというのは明らかに嘘だっただろう。若月は江川を伴って自分の故郷を訪れただけだ。男というものは、好きな相手に自分の故郷を見せたがるものだから。

 若月は見栄っ張りだったから、江川がブスだというただそれだけの理由で、彼女をセフレ扱いしていた。けれど本当は、江川のことが一番好きだったのかも知れない。だから自分の生まれ育った町に、江川を連れて行ったのかも知れない。

 その最中に、あたしにあんな電話をかけてきたのは、どういう心境なのかあたしにはまだつかめない。あたしをだまして、江川と故郷の観光をしていることの後ろめたさからだったのか、それとも後ろめたいことをしていたからこそ、あたしが疑惑を抱いていないか確かめたかったのか。

 もしかしたら若月は江川に

「ちょっと、瑠花に電話入れるから」

 と言うことによって、江川のヤキモチをあおって楽しんでいたのかも知れない。それか逆に、そう言うことによって江川にお前は本命じゃないと伝えたかったのかも知れない。あるいはあたしに電話をかけることを、江川に許してもらうことで、江川の愛を感じたかったのかも知れない。

 もしくは若月は、あたしに電話をかけると江川に告げることによって、江川と共犯者であることを確認し合って面白がっていたのかも知れない。若月は江川を伴いながら、カノジョであるあたしに電話をかけるその行為に、快楽を感じていたのかも知れない。

 若月は、自分を信じきっていたあたしのことが、おかしくてたまらなかったのかも知れない。あたしの言った「信じてるから」という言葉を、若月は江川に笑いながら伝えたのかも知れない。

 店先で、組飴や金平糖などの朱色や橙色や紫の飴を、ポットに詰め込もうと飴バイキングをしている観光客が、色の洪水を巻き起こしている様を見ながら、あたしは若月と江川が、十数年前、笑いながらこの通りを歩いただろうことを確信した。それはとても悲しいことのはずなのに、それは鮮やかな色彩となってあたしの脳裏をとらえた。

 何度も嘘の帰省を重ねた若月だけど、あの帰省は本当だったんだろうと思う。聞いてもいないのに、わざわざ江川が同伴していることを告げてきたくらいだから、あの帰省は本当だったんだろうと思う。

 扱う商品が千点以上の江戸屋に、たこせんが名物の純喫茶和楽花音。これらの店に二人が入ったかどうかは分からない。けれど二人が、この通りを歩いたことは事実だと思う。二人は手の指を絡ませながらあるいは腕を組みながら、このカラフルでにぎやかな横町を、きっと歩いた。

 それは十数年前の出来事のはずなのに、あたしは何だかその辺に、笑いさざめきながら歩く二人の姿があるような気がした。川越に着物のレンタル店ができ始めたのは、ここ数年のことらしいから、二人は多分、普通の外出着だったと思う。けれどあの時、若月が自分の故郷へ連れて行ったのは他ならぬ江川だった。

 もし若月の裏切りを知った直後にここを訪れていたら、あたしは人前でも構わず、泣き叫んでいたかも知れない。けれど十数年の時を経た今、あたしの心にあるのは、うっすらとした切なさとある種のノスタルジーと、そして今ここにある現実だった。

 浮気相手と共に若月が訪れた故郷に、あたしは今いる。夫の故郷へもまだ行っていないというのに、あたしは今ここにいる。




 レンタル着物店は、午後六時までの営業とのことだったけれど、肌寒さを感じたあたしと夫は五時前には戻って行った。途中、着物の上に羽織を着た二人組の女性を見た。あれなら寒くないんだろうなあと思う。一度、羽織をまとってみたいけれど、そんな機会があるかどうか。それ以前にまた着物に袖を通すチャンスがあるかどうか。何だか日本人なのに悲しいなあと思う。

 着物を脱ぐ時は名残惜しかったけれど、洋服に着替えたらやっぱり歩きやすくて、あたしと夫は早足で本川越の駅に向かった。まだお土産を買っていなかったので、本川越駅の駅ビルがラストチャンスだったからだ。

 駅ビルで土産物屋を探しながらも、あたしは頭の片隅で、ここに若月は来たことがあるのかも知れないと思いながら、靴屋だの小物屋だのを眺めた。若月が見たかも知れない光景を今、自分が見ていることが何だか不思議な気がした。あたしが今、川越の光景を見ていることを若月が全く知らないのだということも、何だか妙な心地だった。

 くらづくり本舗という店で、芋そばと芋うどんを見つけたあたしと夫は、それをお世話になっている人たちへのお土産に決めた。本当は芋菓子にしようと思っていたのだけど、どれも賞味期限がせわしないので、日持ちするそばとうどんが安心だったし、川越名物のさつま芋が練りこんであるそばとうどんなら、川越土産にふさわしい気がした。

 夫はバウムクーヘンが好物なので、さつま芋入りのバウムクーヘンも自宅用に買った。これはそばやうどんに比べれば賞味期限が早いけれど、どうせ自宅用なのだから、すぐに食べることができるし問題は無い。

 お土産を買うと、あたしと夫は再び電車に揺られ川越を後にした。飯能市に着いた時には辺りは宵闇に満ちていて、あたしは一日が終わろうとしていることを知った。

 チェックインを済ませホテルの部屋に入った時、あたしはホッと息を吐いた。やれやれこれでやっと川越から解放されたと思った。川越は古風で素敵な観光地だったけれど、行く先々で若月の思い出が頭をよぎって、純粋に旅を満喫できなかった。夫婦の旅行にそんな心根でいたらやっぱり罪の意識にさいなまれる。けれどもうそれも終わりだ。ここはもう川越じゃない。

 その時、夫がカーテンを開けて

「あっ、月が出てるよ」

 と嬉しそうな声を出した。月なんて別に珍しくも何ともないと思ったけれど、夫の弾んだ口調から、何となくあたしも窓辺に行かなければいけない気がした。あたしは靴を脱いでスリッパにはきかえると、夫の肩越しに夜空を見上げた。

 闇の中、半月が少しふくらんだ赤い月が浮かんでいるのが目に入った。それを見た瞬間、あたしはロストバージンの出血を思い起こして愕然とした。

 あたしの最初の男、若月。もうここは川越じゃないのにやっと若月の記憶から解放されたと思ったのに。あたしは目の前の赤い月に目が釘付けになった。

 初めて若月の部屋に泊まることになった晩、二人で買出しに出かけた商店の日めくりカレンダーに、「魚心あれば水心」と書いてあって、どきりとしたこと。そのことわざが変に気になって、寝床で求めてきた若月を拒んだこと。けれど日を置かずに若月から愛撫を受けたこと。その時こんな気持ちいい体験は生まれて初めてと思ったこと。

 インサートはまだ怖かったから、何度か愛撫だけを受けていたものの、その愛撫が日増しにきわどいものになる中で、自分が処女なのか、処女じゃないのかがあいまいで、微妙な日々を過ごしたこと。

 そんな中、ある日最後までいったこと。若月が入って来た時、痛かったこと。若月が離れた後ゴムが血まみれだったこと。シーツの上に敷いたタオルにも鮮血がこぼれていたこと。トイレでふき取ったペーパーも薔薇色に染まったこと。

 インサート自体には思ったほど感動が無くて、むしろ血にまみれたゴムを見て、ああとうとう生娘じゃなくなってしまったんだとショックを受けたこと。その時の赤い色。それを連想させるような赤い月が、黒々とした夜空に存在していた。

 ふと若月と初めて出会った時、苗字に「月」の文字が入っているなんて、きれいと思ったことを思い出した。しかも若い月なんてきれい。この人は苗字も素敵と思ったことを思い出した。

 目の前の赤い月が、何だか若月自身みたいに思えた。見る度に形を変えて満月になった時すら裏側は見せてくれないつかみどころの無い月。手を伸ばしても届かないし、別に手に入れたいとも思わない。新月の夜や真昼には姿を消して、こちらも存在を忘れてしまうけれど、でも確かにそこに存在する月。そんな月みたいにとらえどころの無い男の体に付着したあたしの血潮。

 カーテンを閉じると、あたしはキャリーケースに近寄り荷解きを始めた。バスルームで使うボディースポンジや入浴剤を取り出していると、心が少し静まってきた。荷解きを終えて夫と共に夕飯を食べに出かける頃には、先ほど月を見た時の衝撃も若月のことも、忘れてしまうことは分かっていた。

 けれど仮にもしあたしが、若月のことを完全に忘れてしまっても、若月と過ごした時間や交わした言葉やどんな行為をしたかという事実が、消える訳ではないのだと思った。

 あたしが存在を意識しようとしまいと、天上に月が存在していることが、事実であるのと同様に。


 旅行に出かける度に、本当の作家だったら旅行体験を題材に小説が書けるんだろうなあと夢想していたのですが、川越に行った時に初めて、あ、今回の旅行をきっかけに小説を書けるかもと思ったのです。そして書いたのがこの作品です。

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