レイノウシラビョウシ カンゲンマイ
その女には全く仕事が来なかった。場所は関西、京都。京都の西に、まるで静御前の様に白拍子の格好をした若い女…。その名は、カンゲン マイ。彼女は、真の霊能者なのか。
―その女には全く仕事が来なかった…。場所は京都の西地区の竹街道を左に逸れていった鬱蒼と茂る仄暗い竹林道を登ったら、薄気味悪い住宅街が突如現れる。この住宅街を林道沿いに真っ直ぐ奥へ行った所に、彼女の家は建っている。が、古びた日本平屋で、家屋は結構錆び付いていた。女の名は管弦舞と言う。黒髪が長く、肌が色白である彼女は、年齢不詳であるが、二十代には見える。自称・占い兼・霊能者 と言う。しかし、外に出勤に出ている様子は無く、代わりに明け方五時頃、読経が彼女宅から度々聞かれている。近所からは女一人暮らしと噂が囁かれている。が、あまり良い評判は聞かれない。何やら、金烏帽子を被り、巫女の雅楽装束を着ていて、白拍子の様である。日常茶飯事、その成りで買い物にも出掛けていて、後ろ指を差し笑う者、興味深く注視する者 など他人の反応も様々であった。そして。時々、管弦舞の家から、年配女の怒鳴り声が轟いた。『今日と言う今日は家賃を払って貰いますからね!!良い年した女でも、身よりの無い娘だと思うから今まで待ってやってたのよ!』荒れた年配女の怒声が響く。続いて白拍子は静かに『わかっていますって…ですから、仕事のオファーがなかなか来なくって…。今月末迄に整えときますし、また改めて貰えませんか』こんなやりとりが近所に聞こえる事から、年配女は『大家』なのだろう。ある夕暮れ、彼女は夕食の下ごしらえに台所に立ち、白菜を切っていた。そこへドンドンと乱暴に玄関の引き戸を叩く者がいる。やって来たのは大家の年配婦人である。少々肥え気味。眼鏡をかけて、厚化粧で、逞しい外見の大家は『今日こそ払うもん、払うてもらいまひょか。アナタばかり特別って訳にはいかないのよ』と突っかかる。舞は、『すみません。仕事のオファーがあまり来なくて、低迷状態になっていまして。ですが、今月末迄には用意を何とか整えてみますので、何とか出直しては貰えませんか』大家はフン、と鼻で笑った。『仕事のオファーが来ないってどうゆう事?あんた、本当に霊能者なの?』管弦舞は黙って大家を見据えている。『霊能者だか何だか知らんけどね、仕事が来なければただの無職娘やないか?そんなんやから貰い手もおまへんねや!全くあんたを育てた親の顔が見たいわ!…あ、せやった。あんたには、両親居なかったねぇ。』くっくっと口を歪めて大家が笑った。管弦は両手を合わせ膝をついて黙って頭を下げている。『…ふん。まあ良いわ。今月末まで待ってあげる。インチキ臭い商売で、インチキ臭い格好して、いい年して、貰ってくれる男も無しのあんたが度々滞納してる家賃を、今月末迄どうやって準備してるか、見物よ!』大家の年配婦人は、意地悪に口を歪めて笑い、大きな音を立てて玄関の引き戸を閉めた。『……………』白拍子姿の管弦舞は、俯いて両手をついた姿勢のままで、固まっていた。勿論、大家の、かような言動に、傷つかない者は居ないだろう。しかし、若き白拍子の瞳には、別なるモノが映っていた……。其の壱:『赤子の背中』……時刻は夕方7時過ぎ。晩秋の風が冷たく、やはり陽がどっぷりと山に沈んだ。『全くあのインチキの、こすぷれ娘、仕事しない癖に、どーやって月末、滞納家賃払うんだろ!』舞が滞納始めたのは、3ヵ月程前である。以前も、やはり滞納時期が有ったが、仕事の羽振りが高じたのか全額家賃を納められた。が、大家は考えた。小娘の職業が本当なら、ふざけた職業だ。小娘のインチキ臭い『霊能者』なる仕事では、食いぶちも稼げるものか。そんな胡散臭い小娘に、ウチの家賃(1ヶ月・七万五千円)も払えるのか?『…あぁ!やっぱり、あんなインチキ霊能娘に、家貸すべきじゃ無かったわ!』大家は歯軋りをして、暗い竹道を下がって、自宅への道を歩いた。大家が自宅にたどり着くと、夫が『遅かったのう。早く飯、作ってくれや。子供も泣いとおるわ』と妻に文句を言った。『解ってるわ!私には家事があるさかい、あんたが管弦の所に滞納家賃の請求に行ってくれんと!あぁ忙し!可愛い息子にも乳やらんと…』大家婦人は四十五歳、夫は四十七歳だった。実は四十歳で高齢結婚した夫妻である。その上、子宝にも恵まれ無かったのだが、昨年妊娠が発覚し、無事に半年前に、四十五歳と言う高齢出産を果たした。だから、大家の喜びは例え用のないものだった。『よしよし、今、オッパイ飲ませてやるからね』大家は、化粧浮きした顔を弛ませて、にんまりと笑い、赤ん坊に近寄った。『んふふふふふふふふ…』赤ん坊を抱き上げ、自分の乳房にグイッと押し付けた。『ば…ぶぶぶぷぷ…』……暫くして《…せ…は…らね》と、微かに話し声が聞こえた。大家婦人は『?何か言うた?』と、隣の居間でテレビ見ながらくつろいでる夫に聞いた。夫は『あぁ?ワシは何も言うてへんど…』とのんびり答えた。〈何や、空耳か〉と大家は、赤ん坊に向き直った。『!ぅわぁぁっ!』と大家は、一瞬、目を見開いて、短い叫び声を上げてしまった。何と、赤ん坊の背中に、一瞬、人の顔の様な物が見えた。様な気がしたので、慌てて子供の全身をくまなく点検した。赤ん坊の背中は、ベビーウェアのローブが捲れて背中が少し出てたので、着直してやった。どうも母乳を飲もうとしない。訝しながら、仕方なくベビーベッドに寝かしつけた。しかし、大家は気味が悪いものを感じた。空耳に違い無いだろうが、こう聞こえた。『婆臭ぇ乳は要らねえ。』――さて。時刻は、午前零時頃。管弦宅では、舞は遅い入浴をしていた。11月半ばの夜は寒い。舞は、寒さが苦手だった。が、風呂の旧湯沸かし機は壊れていた。実はほんの二年前に、この借家に越して来たのだった。その頃で、取付け後、十年は越している…との事だった。しかしガスは勿論通しているので水道から湯を溜める。舞は湯船に浸かった。『…ぅぅ…なな何て寒いんじゃ…』ブルブル震えながら、髪を軽くパラパラっと水気を切った。烏帽子を被らない被髪の方が彼女は大分若く見えた。無論、白拍子の格好している普段でも若くは見えるが。濡れた前髪から光る雫が仄かに火照る色白い顔を伝い、鼻先へと流れ落ちた。洗い立ての長い髪を指で弄っていると、風呂場の外から〈ニャーオー〉と猫の鳴き声が聞こえた。『金太郎?』と、舞は窓を開けた。(金太郎)と呼ばれた猫は、金茶色の雄の虎猫だった。(インチキ霊能娘)と罵倒されている舞だが、彼女に霊能力が有るのは事実だ。一つは、人ならざる者の声を聞ける(超力 の耳を持っていた。)《―これは失礼。出直す方が良いかにゃ?》金太郎は腰を低くしている。『待って。今、風呂出るわ』舞は窓を一度閉めて、サッサと身体を拭いて、薄い桃色の長襦袢を着た。戸を開けてやると、猫は静かに入って来た。《―姫の仕事はどうかな?うまく行ってるかにゃ?何やら、家賃の事で、どやされたと、仲間が言ってたが》金太郎は、室内では本当にお喋りである。舞は、金太郎に餌を入れてやった。金太郎は勢い良く(はぐはぐっ)と食べ始めた。どうやら腹を空かせていた様である。 『そぉなんじゃ…。あぁ~…この様な所だと知ってれば、この家を借りようなんぞとは思わなかったのに。妾ってほんっと~~にお馬鹿じゃ…』舞は、嗚呼、と力無く顔を落とした。すると金太郎が言った。『普通に店で、(あるばいと)なるもの、して支払う訳にはいかぬのか?』舞はふっと笑った。『…それは皆、簡単に言うてくれる。簡単に(バイト)につけるなれば、かような程苦労してませんよ』暗い目で舞は呟いた。『姫は、色々な事に臆病になりがちですぞ。』舞は、金太郎を見て、ふふ、と暗い笑いを漏らした。心無しか舞の顔色が青い様だ。『…姫?湯冷めでもされましたかニャ?』舞は、しばし黙っていたが、口を開いた。『…おぉ。嫌だ。やはり、こんな借家なんぞ借りなければ良かった…』金太郎は呆れた声で『何をしみじみと…』と応えると、舞は続けた。『…かれとおるのじゃ…』金太郎は、『えぇ?』と耳をピンッと立てた。『…霊に憑かれとるんじゃ。大家殿は…』金太郎は瞳孔を開けて舞を見た。(ヒュゥウゥゥゥゥゥ~ゥォオォォォォォォォ)もう来る冬の夜風が急に激しく吹き荒れた。――さて。大家宅では暫く、よく眠れない夜が約、一週間続いていた。ある朝。 ゴミ出しに出た大家は、寒いのに外で井戸端談議する近所の年配主婦三人に会釈した。『あらまぁ、お早うさん!』主婦達は『あら、奥さんお早うございま…』と言いかけて全員 固まった妙な顔をした。大家は『?どうかしまして?』と問うと、主婦達は『…お…奥さん…今日は鏡、見ましたの?』『は?』『…目の回りに、ひどいクマが出来てますよ。』『クマ…?あ、あらやだ~ ま、最近ちょっと睡眠不足なんだわ~』と大家は、おどけて見せた。主婦達との会話も程々にして直ぐに自宅に戻り、鏡を見た。『……やだ…。目の回り真っ黒…。化粧しなくちゃ…』慌てて、メイクポーチを取り、ファンデーションを塗りたくる大家の背後で、男の声が聞こえた。『またやっとるんか…婆さんが厚化粧しても何も変わりゃしねぇよ』大家は夫に『ああ?何やて?もう一回言うてごらん!』と、ガラガラ声で怒鳴った。そこで、はっとした。(夫は、今日は仕事で、朝方から家を出て居ない筈。…そ…それじゃ今喋ったのは…)脇を見ると赤ん坊がすやすや寝ていた。(今、この家には私と坊や以外、だ…誰も居ない筈…)急に恐怖心が強くなり、大家は悲鳴を上げた。『う…うぎゃあぁあああぁあああああああぁっ』赤ん坊は叫び声に驚き、激しく泣き始めた。『おぎゃあ…おぎゃあ』―――実は不眠の原因は、これである。何だか最近、空耳がひどくなった。そのうえ毎晩、怖い夢もよく見るので、自分でも不眠症を疑った。(病院で見てもらおうか?)大家は、気を取り直して化粧し、茶色のコートを羽織った。赤ん坊を何故か連れて行く気になれず『坊や、すぐ戻るわね』と声かけて、大家は家を出た。西竹林町南に車道隔てた『京都快生病院』で受診を受けた大家に、三十代位の鋭敏な目つきをした医師はこう伝えた。『…まぁ、こう言うご相談は、一応心療内科の分野になると思いますが、うちで見させて頂いた限りでは脳波や、耳鼻科の聴力にも全く異常は有りません。要するには、体調を崩す病になる病因は全く異常が有りません。』大家は、異常が無いと聞き、内心安堵した。が、直ぐに気になり医師に伝えた。『特に原因も無く、こんな不眠症になるんですか…?幻聴も…?』医師は『体に異常が無いとすれば、心療内科でカウンセリングの上、薬事療法と言う事になります。』『……心療内科…』―――それではまるで私が鬱病みたいじゃないか。言葉には出さないが、俯いた大家の表情に表れたのだろう。医師は、こう言った。『お子様を、その位の年齢で出産された方々の中には、あなたの様に相談に訪れる患者さんも多いです。お産は母子が命懸けなだけにその緊張感に、これからの不安が来ているのでしょうね。決して精神の病と言う訳では有りません。良い心療内科の案内状をお渡ししておきます。』大家は、失礼な気恥ずかしい様な、納得行かない気分で帰宅した。――しかし。その夜から空耳は益々ひどくなり始めた。ハッキリとした男の声で『殺す…殺してやる…』と、物騒な言葉が、昼夜問わず、アチコチから聞こえて来る様になった。家の中で『誰よっ?いい加減にしなさいよおぉっ!!』大家は、洗濯物を畳む時も、食事を作っている最中も、両手を振り上げて暴れ回る様になった。まるでそこに誰か人が立っているかの様に。大家の夫は『お前…頼むよ。しっかりしてくれよぉぉう…』と妻に情けなく懇願するしか無かった。赤ん坊は激しく泣いている。夫は『うるさいっ!いい加減に泣きやまんかぁっ!』と、赤ん坊に八つ当たりした。状況は泥沼化していた。そのうち大家は、『もう家から一歩も出たくない』と外出拒否をする様になってしまった。『何をしている!?今日こそ病院に行くんじゃ!』『嫌!私は命狙われてるんやで?あんたは鬼やわ!』こんな状態で、妻を病院に連れて行けない夫も次第にやつれて行った…。ある朝、妻に代わってゴミ出しをしている夫の耳に、外で井戸端談義する主婦達の話し声が聞こえた。『管弦さんの所に、何か一昨日、誰か来てたみたいね。』『彼氏?』『いゃぁ…そんな感じには見えなかったですよ。何か、背広姿のサラリーマン風のオジサンだって…。管弦さんはまだお若いでしょう?そのお客はもう四十代か五十代位の方だったし。』『…援助交際とか』『…う~ん…そんな感じにも見えなかったなぁ。何か〔ありがとうございます〕とかお礼していたし。管弦さんってお祓い屋さんでしょう?心霊か何かの相談者やないかしら』大家の夫は、そう言えば、妻が異常になったのは、管弦宅に家賃の請求に行ってからだと思った。―否。一概にも言えない。妻は性格欠点が多く、人の話を聞かない。物事が滞ると八つ当たりする、怒鳴りつけるなどのトラブルメーカーだった。管弦舞の姿は二年間で一度も見た事が無い。その胡散臭い娘が、何か呪詛でもかけているのだろうか。大家の夫はそう思うと、その胡散臭い娘を問い詰めてやろうか、と思ったが、先ずは話を聞く必要が有るだろう…。夫はゴミ出し終えてから、家の借り主の管弦宅に向かう事にした。……さて。借り主の管弦宅の玄関前に来た大家の夫は考えていた。(…さぁインチキ娘め。どう締め上げてやろうか…)もしも、ここの管弦が、自分の家庭に呪詛でもかけているのか?と思うと、底から腹立たしさがこみ上げて来た。夫は、想像だけの憎しみで 震える手で呼び鈴を押した。リーン……ドンドンッ!ドンドンッ!戸を乱暴に叩く。――…『はーい…今開けます…』中から、うら若い女の声が応えた。―カチャッ…カラカラ…。『?…何か御用ですか…?』夫は口を開けたまま目を見開いて間抜けに驚いた。噂通り白拍子の格好をして居り、まるで時代劇に出演する、聡明そうな切れ長の目をした和服美人だったからだ。 『…お宅が…管弦はんか?』夫は間抜けた目つきでじろじろと管弦舞を見上げる。『はぁ…如何にも。私が管弦です。』女は、静かな声で応えた。『……大家さんですよね?どうぞ…寒いので。中へ。』?夫は、又驚いた。自分と面識無いのに、何故この女はワシを知ってるのだろうか?と。玄関の上がり蒲池に上がったら、もう茶の間である。特にリフォーム等手入れはしていない様子だが、玄関と茶の間を区切る硝子障子戸の硝子部分だけは、桜模様の透け帽子のステッカーを丁寧に貼ってあった。そして茶の間の正方形のこたつ机に和柄の赤いこたつ布団がかけられて、机にセブンイレブンの袋が置いてあった。肉まんの良い匂いがしている。昼食を取ろうとしていたのだろうか。女は、熱い茶を出してくれた。『前に、買い物先で、大家様と歩いてらっしゃるのを見ましたんで。月末のお家賃なら、大家さんの講座に振り込みましたよ…。』管弦は、自分も入れた茶をすすりながら話した。目だけは警戒する目つきで大家の夫を見た。『今日は、何の御用でした…?』 『…管弦さん。藪から某だが…。あんたがもしかして、ワシの所に呪詛か何かかけていますのか?』『…呪詛?』管弦舞は目を細めながら聞き返す。『ワシの妻が、ノイローゼみたいになって、毎日毎日、変な声が聞こえると言うんじゃっ!病院では精神科に行けと!あんた、霊能者なら、何か解らんか?』夫は、やや興奮気味に問い出した。管弦舞は『お…落ち着いて下さい。落ち着かねば話も出来ません。確かに。奥さんが、お家賃の話をしに来られた時、私には視えました。』大家の夫は、ゴクリと唾を飲み込んだ。『…やっぱり憑き物が…?』『…。奥さんに。と言うよりは、お子様、授かったんですよね。お子様を一度連れて来て頂けますか?』管弦は静かに言う。夫は『つ…妻には、あんたの所来る話をしていない!祈祷して貰っても、料金の方は…』と顔を歪めて困っている。すると管弦舞は、クスッと白い歯を少し見せて笑った。『料金は取れませんよ。度々、お家賃滞納している身ですので』夫はその後、帰宅した。寝込んでいる妻は、『あんたぁ、何処行ってたのさ!私は体調悪くて、ご飯も作れんのやから、あんたが作ってくれんと…』大家妻は、当然と言う様に怒鳴った。『わ…わかったから。そうキーキー怒鳴るなって。』とは言え、夫に作れる料理等、大して何もない。仕方無く白飯に卵をといて、粥を作ってやった。妻はじゅるっと下品な音を立てて粥を食べ始めた。音は、妻が食事をしている間に赤子を連れ出した。(子供に取り憑いた憑き物を管弦に祓って貰えば、何もかも元通りになるさ…)夫は、赤子をおぶって、管弦宅に急いだ。さて。街道沿いの竹林道を歩いている途中――。『お祓いなぞに行かせるものかぁ…』ふいに低い男の声が背後でした。瞬間、もの凄い力で夫の首を絞めつけられた。『ぐあぁぁっ…ぐ…わっ…』夫は白目を向き、手を必死にかきむしった。が、首を絞めつける手は、一層力を込めて首を絞めつけて来る。『ぐ…ぁあ…ぁ…』(―苦しい。死ぬ――)助けてくれと言った所で、誰も来てはくれまい。『――そこな者!その人を離しなさい!』闇を切り裂く様な若い女の声が響いた。瞬間、絞めつけていた手が不意に離れた。『がはっげほげほげほげほっ』大家の主人は激しく咳込み、倒れた。そこへ素早く走って来た誰かが、背中にバン!と、お札を貼った。『御利益ある神社のお札です。これで、あの物の怪は、あなたに近付けないでしょう。』管弦舞の声だった。管弦舞は、キッと前に向き直った。物の怪に取り憑かれた赤ん坊が、宙にフワフワと浮かんでいる。《…なる程…。良い女だ。お前が霊能者か?お前の様な、か弱い女に、俺様を祓えるのか?誰から見ても可愛い赤ん坊の俺様を…》管弦舞は、ふっと小さく笑った。『…えぇ。そう。そなたは、ただの赤ん坊…。でも、オジンの声で、物申す赤ん坊は、素人の目から見ても化け物じゃ!』管弦舞は赤ん坊に、金襴の御守り袋を取り出して、粉を撒いた。《き…貴様っ!何をしやがった?》『ふふふ…高野山の、ある由緒ある御神木の葉の擦り粉よ。そなたは、木に封じ込められたのじゃ。』赤ん坊の顔が般若の様な形相に変化した。《ちくしょおぉ…出しやがれぇえ!女…貴様を絶対に許さんぞ…》管弦舞は『おゃまぁ…怖い顔をして、どうすると言うのです?今の妾にはそなたを木にするか、浄化するかは、容易い事。浄化したいとあれば、妾に従うのじゃ。因みに嘘をついても妾には、お見通しじゃ。嘘は無駄な事だと思われるが正しい。さぁ!お前は一体どうしたいのじゃ』《………》悪霊は黙り込んだ。そのまま五分ほど悪霊と睨み合った状態が続いた。『…何故黙る?黙ると言う事は、浄化したくない。極楽へ行きとうない。そう言う事じゃなぁ?』管弦舞は、青く光る水晶の数珠を取り出した。《ま…待ってくれ…。お…俺が間違っていた。俺は、極楽へ行きたいと思っている》『…それをお願いする前に聞いときましょうか。何故、大家夫妻の赤ん坊に憑かれたのかを』《…俺は、竹林町南側にある、ここの大家の貸し出していたアパートに住んでいた。二十年勤めた会社をリストラされて、四十と言う年齢で再就職になかなか有りつけず、その内に体を壊した。鬱病と診断された俺は、寝込んで暮らす様になり、妻子に逃げられた。生活保護申請中で収入が無く、家賃を請求に度々やって来た大家に、俺は散々頭を下げ続けた。そんな俺に大家は、こう言い放ったのだ。 ″あぁ。四十にもなった中年男が、情けない。そんな情けない中年男だから、鬱病にもなって奥さんや子供にも逃げられますのや!』……血が頭に登ってそのまま俺は脳溢血になりそのままポックリさ。》白拍子・管弦舞は、目を閉じて黙って聞いていた。後ろで震えていた大家の主人は『な…なんまいだ…南無阿弥陀…』と懸命に手を合わせている。管弦舞は静かに言った。『貴方の言い分、世間は情けないと笑ったとしても、私にはよく解ります…。私も、大家婦人に毎月怒鳴られている。霊能者なんぞ、胡散臭い。インチキ商売だ。仕事のオファーが無ければ只の無職だとも…。全くもってその通り。でも人間ですもの。言われたら傷付く言葉の刃って有りますよ。私も幾度と泣いた事か。私には霊能力以外に何の取り柄も無い。こんな私に出来る事は、貴方を極楽へ送り出して下さる神様にお祈りするだけ…。』舞は小さな声で般若心経を唱えた。すると…水晶の数珠が、淡い桃色の光を発した。《我ハ…天界ノ使者ナリ…。神様ノ元ヘ、御案内致シマス》光り輝く聖霊が、悪霊を、包み込み、悪霊は尊い御魂になり《あぁ…有難う。俺は神様にお会いし、生まれ変わる事を学んで来ます。憎かったとは言え、貴方の家族に迷惑をかけた。済まなかった…》御霊は、大家の主人に一礼し、光の聖霊と旅立って行った。―さて。あれから1週間後の事。管弦舞は、コンビニで肉まんを買って、自宅に帰って来ると、玄関前の郵便受けに分厚い封筒が入っていた。中を開けてみると、約、10万円のお札と手紙が同封されていた。〔拝啓・管弦舞様。数日前は、除霊をして頂き有難うございます。御陰様で我が子は前の様に、変わった事は全く無くなりました。今の所は ですが…。お祓いをして頂き、私は、管弦様の職業と霊と言う者を心底信じました。妻も、あれから帰宅すると、誠憑き物が落ちた様に、元通り元気になりました。自分でも、あの症状は何だったのかと、頭を捻って考えとります。ただ、事実憑き物祓いを管弦様にして頂いた事は、妻には話して居りません。ご存知かと思いますが妻は、霊だの化け物だのと、そういった話は全く信用しません。よって同封した札は、私個人のあの時のお礼の料金です。うちの家賃の七万五千円を毎月支払い頂くお客様の事を考えますと、足元にも足りぬ不足料金ですが…。恐れながら霊能者たる職業で有られると経済的に変化が上下すると察し致します…。あの男の霊も言っていたように、妻の言動が借り主の方々を傷つけている事も察して居ます。ですが、ああ見えて実は情に厚い人間です。手荒な事はする奴では有りません。どうか、気に病まれず。また札は、あくまでも私個人の今回のお礼です。では今後のお仕事の検討を祈りまして失礼します〕手紙を読み終えた管弦舞は、次に来る師走の冬晴れの空を仰いだ―――――――――。 〈霊能白拍子管弦舞 ・完〉