第2話
「シャワー浴びて来いよ」
ホテルのベッドに腰掛け、髪をタオルでガシガシ拭きながら瑛士が言った。
いつもよりかすれてハスキーなその声に、ぞわっと鳥肌が立ってしまう真琴だった。
気持ち悪かったわけではない。その反対だ。
初めて見るバスローブ姿も想像以上にイケてて、真琴は直視できずに俯いている。
――な、なによ。瑛士のくせに。しょっちゅうフラれてるくせに。……っていうか、なんで頭まで洗ってんのよ。御休憩じゃないの? 泊まる気? マジか。そりゃ、明日は休みだけど……
「さっさと浴びて来いって!」
真琴がもじもじしていると、瑛士の怒声が飛んできた。さっきからずっとあたりがきつい瑛士だった。
ビクリと飛び上がった真琴は、居酒屋の店員のごとく「はい、喜んで!」と返事だけは威勢よく、シャワールームへと駆け込むのだった。
ため息をつきながら服を脱ぎ、シャワーキャップを被る。ロングヘアを乾かすのは時間がかかるのだ。
この後、気まずくてどうしようもなくなった場合、濡れ髪で帰るはめになるのは避けたい。
――ああ、これって成功なのかなあ? なんか違う気がする……
こういう展開になるためのプロジェクト・コウノトリだったわけだが、どうして今、瑛士と二人でホテルにいるのか不思議でならなかった。というか、もう逃げ出したくなっていた。
なぜなら、彼は明らかに怒っているのだから。
しかも、真琴にものすごく怒っていながら、やることはやるつもりのようなのだ。それが、なんか怖いのだ。
――わけわかんない……
シャワールームに湯気が立ち込めてきた頃、突然ドアが開いた。バスローブを脱ぎ、腰にタオルを巻いた瑛士が入ってきた。なかなかいい身体をしている。
驚き一瞬見惚れた後、真琴は後退って壁にぶつかり、しゃがみ込んで胸を隠した。初心を気取るつもりはないが、明るいところで裸を見られて平気でいられるほど擦れてもいなかった。
――何? 何? シャワーも待てずにがっつくタイプ?
仏頂面の瑛士の腕が伸びてきて、真琴は思わず目を瞑った。
固くなってシャワーヘッドを握っていると、キャップを剥ぎ取られヘッドも奪われ、頭からザーッとお湯を掛けられていた。
「ひゃ!? なんなの!」
思わず手を振り回して避けようとしたら、瑛士までビショビショになった。
「な、なんでよ?!」
「…………」
――嫌がらせ? 嫌がらせなの?
瑛士は何も言わずにシャワーヘッドを真琴に返した。そして濡れた頭をわしゃわしゃとかき回してから、不意に背中を向けそのまま出て行ってしまった。
頭からぼたぼたとお湯が落ちてくる。これで簡単に逃げだすことはできなくなった。
一体瑛士は何がしたかったのか分からず、真琴は呆然と見送るのみだ。
真琴のプロジェクトを聞いて、不快に思い、怒ってその場で帰るのなら理解できる。でも、怒りながらもホテルに真琴を連れ込んだ理由が分からないのだ。
――まさか、腹立ち紛れにひどい事しようと企んでる? やだやだ! 私は瑛士の子どもが欲しいだけなんだってば!
だんだん真琴の唇がむっと尖ってきた。瑛士のことなら大概のことが分ると思っていたのは、大きな間違いだったようだ。
真琴は懸命に髪を拭き、少し悩んでから下着を身に付ける。念のため用意していた、新品の可愛くてちょっとエッチなピンクの上下セットだ。今夜身に付けることになるとは思いもしなかった。
でもなんとなく、瑛士に披露することはないような気がした。なんだかんだとぶつくさ言うだけで、んじゃ帰ろうか、となりそうな気もするのだ。
――だって、お湯かけていじめるし、全然甘い雰囲気じゃないし……
バスローブに腕を通し、ひもをぎゅっときつく結ぶ。
そして、恐る恐るシャワールームを出た真琴の耳に聞こえて来たのは、あはんうふんと悩ましい声だった。
テレビ画面の真ん前を陣取っている瑛士の姿に、思わず目が糸のようになってしまう。
――エロビデオ見てやがるとは……。コイツ、完全にやる気だな……
再びバスローブを着て、瑛士はベッドの上で胡坐をかいていた。
真琴に気付くとちらりとふり返り、なんでもない顔をしてテレビを消した。少々気まずいのか咳ばらいをしながら、ベッドの端の方へとリモコンを放るのだった。
そして隣に座れとベッドをポンポンと叩く。
「遠野、まずさっきの言葉を撤回しろ」
「さっきのって?」
プロジェクト・コウノトリについては、弾丸トークであーだこーだとしゃべりまくったので、瑛士の言うさっきの言葉がどのあたりを指しているのか分からず、真琴は首をひねった。ひねりはしたが、プロジェクトの根幹に関わる部分だろうなと予測してはいる。
内心冷や汗かいて苦笑しながら突っ立っていると、再び座れと瑛士はベッドをポンポンした。
さっきまでの仏頂面よりは、少し表情が柔らかいのが救いだ。エロビデオで少し心が和んだのかもしれない。
真琴は少し間をあけて隣に座った。
「……相手は誰でもいいとか、子種だけ欲しいとか、言っただろう」
「……」
やっぱりかと、さらに苦笑した。
真琴の事情と瑛士の転勤、互いに利がある取引なのだと強調してというか誇張して説明したつもりだったが、普通に聞いてとんでもない話をしたのだから。
「あ……でも、ビジネス的に、ウィンウィンな取引なんじゃないかなぁなんて……あはは……」
「お前さあ。滅茶苦茶なこと言った自覚あんの?」
「……一応、あります……」
「一応かよ!」
真琴はがっくり肩を落として俯いた。これは一晩中お説教コースかもしれない。くどくど説教するために、逃がさないように髪を濡したのかとため息をついた。
ホテルに入るとき瑛士に肩を抱かれて、ちょっと舞い上がってときめいたけど、やはりピンクの大人可愛い下着をお披露目することはなさそうだ。バスローブなんか着ないで、ちゃんと着替えれば良かったとシュンとする真琴だった。
「とにかく撤回しろ。子ども欲しいってのはいいとしても、誰でもいいから子種だけくれってのは我慢できない。バカにしてんのか。あんな話されて、誰がするか」
「じゃあ、なんでホテルに来たの。やる気満々じゃん。エロビデオ見てたじゃん」
「ごちゃごちゃ、うるせーわ! いいから撤回しろ!」
「あ、う……ご、ごめんなさい。私が悪かったです。すみません。この話は全部無かったことに……」
「違う! そこじゃない!」
瑛士の拳がドスっとベッドにめり込んだ。目が吊り上がっている。
真琴はひゃあと声をあげて瑛士から離れた。確かに不躾で失礼なことを言った自覚はあるので、謝るしかない状況だと思った。
そして謝ったのに、どうしてさらに怒るのか全く分からない。謝罪が足りないと言うなら、何度でも頭を下げるつもりの真琴なのだが、瑛士のお怒りポイントが全然理解できていなかった。
瑛士はムッとした顔でにじり寄ってくる。
「あああああ、もう! なにか? 俺って精子バンクなわけ? 結構長い付き合いだし、色々理解し合える仲だと思ってたけど、もしかして俺、人間扱いされてなかったってこと? まじでただの精子なのかよ?」
「ち、違う! そうじゃない……そうじゃなくて……」
「誰でもいいんだろう! お前、クソ男にばっか引っかかって、痛い目見てきたもんな。男なんかいらねえんだろ?! だけど、なんか知らんが急に子どもだけ欲しくなっちまって、適当に手近なヤツに声かけて! それが俺ってわけだ!」
「違う! 違うったら!」
「じゃあ、誰でもいいって言ったのを撤回しろって!」
瑛士の顔が真っ赤になっていた。目じりを少し赤くして、険しい顔のまま真琴をじっと見つめていた。
「撤回、してくれよ……」
小さな声でそう言った後、瑛士は俯いてしまった。
真琴は、全身にビリビリと電流が走ったような気がした。指の先まで震えて、切なさにきゅんと胸が締め付けられる。
自分の望みを叶えることばかりに躍起になって、瑛士の気持ちを考えていなかったことにやっと気づいた。
いや、考えていなかったというより、決めつけていたのだ。彼が自分を友達以上に思うことは絶対にないのだと。
「…………て、撤回します。瑛士がいいです。瑛士じゃなきゃだめなの……」
「本当に? 俺が怒鳴ったから、そう言ってるだけじゃないのか」
「本当です。……だって、転勤しちゃうから。会えなくなるから……」
俯いた真琴の目から涙がこぼれた。
もうこれ以上、誤魔化したり突っ張ったりできっこなかった。
「私、瑛士のこと好きなんだって、やっと気づいて、でも、今更すぎて言えなくて、友達関係を壊すくらいなら黙ってようって思ったんだけど、もう会えなくなるって思ったら……せめて赤ちゃんが欲しいって思っちゃって……瑛士の赤ちゃん生みたいって……だって好きだから。瑛士がいなくても、瑛士の赤ちゃんがいたら、元気に生きていけるんじゃないかって思ったんだもん……」
何度もしゃくり上げながら、真琴は何とか思いを口にした。
いつの間にか横に座っていた瑛士に肩を抱き寄せられた。瑛士の指が頬をなでた後、顔をそっと上に向かせると、真琴の心臓は全力疾走を始める。
顔といわず、全身が赤くなっているような気がする。目の前に瑛士の顔が迫っていた。
「お前、やっぱりバカだったんだな」
「は?」
キスされるのかと、目を瞑りかけた真琴の顔面に、はぁぁと酒臭いため息が思い切りかけられた。
なんなんだコイツはと、真琴が離れようとすると、瑛士はぐっと腕に力を込めて逃がさなかった。
「まあ、今更っていうのは分かるけど……子ども生ませる契約してくれっていう発想になるのだけは理解できねえわ」
「ああ、それは、なんというか、切羽詰まって……」
「そういうのバカって言うんだよ。素直じゃねえし」
「じゃ、じゃあ瑛士はどうなのよ! 私のことどう思ってんのよ!」
瑛士は何も言わなかった。
でも、その手はゴソゴソとバスローブのポケットを探っている。
そして小さな箱を真琴に差し出した。その大きさとパッケージを見ただけで、何が入っているか察しがついてしまう小箱だ。
手の平の上にちょこんと箱を乗せられて、真琴は幻覚が見えだしたのかと、目をパチパチと瞬き、キョロキョロと部屋を見回し、瑛士と小箱を何度も見返した。
「……え? え? はぁ?」
「アホな反応してんじゃねえよ。俺は今日、これを渡そうと思ってたんだよ。一大決心して。……それなのに……子種だの、契約だの言われて……どんだけショックだったと思ってんだよ! 誰でもいいとか……言われてよぉ。ったく。……お前に振られるんじゃないかって、こっちはビクビクしてたってのに」
真っ赤な顔で目を逸らしながら、瑛士は続けた。
「俺のこと、好きなら好きって顔に書いとけよ。全然、分かんねぇんだよ。どんだけ長いことモヤモヤしたか……」
「……その台詞、そっくりお返ししたいんだけど」
「うるせぇわ」
自分たちはずっと友達だと思っていた。男と女であっても、恋の駆け引きとは無縁なただの飲み友だと思っていた。思っていただけだった。
本当はずっと、気持ちを探り合い、試し合い、求めあっていたんだなと真琴は小さく微笑んだ。
瑛士に抱きしめられ、そっと抱きしめ返す。
「お前が考えたアホな契約はしないからな。どうしても子どもが欲しいなら、それを指にはめろよ」
瑛士は、真琴を真っ直ぐ見つめていた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
契約なら、傷つかずに合理的で安全な方法だなんて、本当にバカなことを考えてしまった。
真琴は、包み紙を丁寧に外し、箱を開いた。キラリと指輪が光る。
また、涙が零れてきた。
「ごめんね、瑛士。私、ひどいこと言っちゃった。プロジェクトなんて、いらなかったってことだよね?」
「そうだよ」
「……プロジェクト・コウノトリは失敗、か」
「大失敗だな」
苦笑しながら、真琴の手を取る。
「じゃあ、俺も言うわ。……真琴、お前がいい。お前じゃなきゃだめだ」
指輪を真琴の薬指にはめた。そして、二人は初めてのキスをした。
真琴の胸がじんわり熱くなる。
これは、ビジネスライクな契約じゃない。
お互いの真心をこめた約束なのだ。
この人となら、きっと、うまくいく。
もう絶対に意地張ったりしない。素直な心で、瑛士と一緒に生きていきたい、そう思った。
「なあ、真琴。排卵日、一週間後だったよな」
「……ん? 多分、ズレなければ……」
瑛士は腕時計を見た。
そして、仕事中みたいな顔で言った。
「今、金曜の23時58分」
「……?」
「あと2分で土曜だ」
「……だから?」
「少し早いけど、いいだろう」
瑛士は立ち上がった。
そしてカーテンをシャッと開けた。
綺麗な夜景が広がる。
その前で腕を組み、宣言した。
「第2期プロジェクト・コウノトリ、前倒しで開始する」
「ちょっと待ってええええ!!」
真琴の嬉し恥ずかしな悲鳴がホテルの部屋に響いた。
遠野真琴、32歳。
人生最大の暴走プロジェクトは、予定より一週間早く、強制スタートした。
了




