第1話
「……ってことで一週間後の金曜日、私とシて下さい!」
遠野真琴、32歳。一生一度の大勝負に出た。
よっしゃ言い切ったぞ、と心の中でガッツポーズを決める。が、同時に冷や汗がドッと噴き出していた。鼓動はとっくに倍速で、そろそろどこかの血管がプチッと切れそうだ。
捨て身のプロジェクト始動の第一歩、同僚である速水瑛士へのプレゼンテーションをたった今終えたところだ。いつもの居酒屋で、ビールジョッキ片手に。
説明中は必死すぎて彼の反応を見る余裕は無かった。というか、反応を見るのが恐ろしくて、酒の力を借りながら怒涛のマシンガントークを繰り広げていたのだが。
キャリアウーマンを自認する遠野真琴は、仕事の傍ら数多の恋愛経験を積み、華やかな20代を過ごしてきたものの結婚までは至らず、未だ独身だった。
年齢と年収と役職が上がると共に男は遠ざかってゆき、代わりに一生独り身感が背後にひしひしと忍び寄ってきている。とはいえ、それがどうしたと真琴は胸を張っているのだが。
三十路直前で、親に勧められて渋々出向いた見合いの場で、「女性なのに、年収高いんですね。僕は結婚するなら家庭的な人のほうがいいかな……」と言われて以来、このまま独身でもいいんじゃないかなと思うようになっていた。
少なくとも、年収が高い=家庭的ではない、という謎ロジックを初対面の見合い相手にぶちかます無礼なバカと結婚するつもりはない。
自分より稼ぎが多いのが気に入らなくて、根拠無く家庭的ではないと決めつけ侮辱するなんて言語道断だ。とはいえ、自分は家庭的であると言い切る自信はないのだが。
ちなみに、見合いでは即座に言い返してやった。
「男性なのに、年収低いんですね。私はもっと自分に自信のある人がいいかな」と。
男は歯をむいて真っ赤になったが、真琴は笑いながら席を立ったものだった。
この一件は、真琴の男への幻滅を加速させた。
しかし、友人や後輩たちが次々と結婚し出産し始めると、真琴は急に焦りのようなものを感じ始めた。人並みに子どもが欲しくなったのだ。
新米ママの友人Aに、「早く結婚して子ども生みなよ。真琴、絶対いいママになるよ」などと余計なことを言われても、おっかなびっくり抱いた生まれたての赤ちゃんは無条件に可愛かった。
可愛くて可愛くてたまらなかった。柔らかくて温かくて壊れそうなのに、人差し指をぎゅっと握ってくるちっちゃな手は驚くほど力強くて、感動してしまったのだ。
いや、感動という言葉では足りないくらい、全身にビリビリと電流が走ったような、強烈な何かを感じてしまった。
目まいがして、胸がキュンキュンと締め付けられて、友人Aに体調が悪いのかと心配されたほどだった。
結婚はともかく、子どもは絶対に欲しいと思った。この腕に自分の赤ちゃんを抱きたいと思ってしまった。
二週間前、真琴の会社で、ある辞令が下りた。
同じ部署で働く同僚、速水瑛士の転勤だ。
この辞令のせいで、真琴の「子ども生みたい欲」が暴発してしまった。
心の底からどうしても子どもが欲しい。あの愛らしいものを、思う存分抱きしめたい。
もちろん、誰の子でもいいわけではない。真琴が生みたいのは、速水瑛士の子どもだった。
だが、真琴と瑛士は恋人関係ではない。
腐れ縁的な仲で、週一で飲みにいくが単なる同期入社の友だち止まりだ。少なくとも瑛士にとっては、それ以下でも以上でないだろう。
瑛士とは、十年来のかなり気心の知れた仲だ。
これまでに何度となく、仕事はもちろん恋愛の相談もしたりされたりしてきた。お互いの恋愛黒歴史を熟知しあっている。恋があまりうまくいかない者同士、「心の友よ」と呼び合い、酒を酌み交わしてきたのだ。
ただの友だちだから束縛することも無く気軽に会える、そんな関係が真琴には心地よかった。
たまに終電を逃して、なんとなく妖しい雰囲気になり「この後どうする?」なんてわざとらしい事を言ったりもしたが、店を出たら「じゃ、また明日」と別々のタクシーで帰宅するのが常だった。
ずっと友だちなのだと思っていた。
半年ほど前、仲のいい後輩から「よく飲みに行ってるそうですけど、速水さんと付き合ってるんですよね? すっごくお似合いです」と言われた。
息が止まるかと思った。
大笑いして否定したが、その夜は全く眠れなかった。
瑛士のことが頭から離れず、目を瞑っても彼の笑顔しか浮かばなかった。胸が苦しくて切なかった。
自分はずっと前から瑛士のことが好きだったのだと、やっと自覚した。
誰と付き合っても長続きしなかったのは、いつも瑛士と比較していたせいだし、この数年出会いが全く訪れなかったのは、瑛士ばかり見ていたからだったのだ。
何を今更と、涙が出た。
彼の人生観や結婚観には共感していたし、気も合う。それなのに、目の前の優良物件をずっとスルーしていたのだ。自分は何やってたんだと地団太踏みたくなる。
でも、やっぱり告白はできない。
真琴は彼の好みのタイプでないのだ。
瑛士の歴代彼女といえば、愛嬌のある可愛い女の子ばかりだった。
真琴とはといえば、なぜかその可愛い女の子たちにモテてしまう、男勝りなタイプなのだ。後輩の面倒見がいいからか、お姉さまなどと呼ばれたりもしている。
もしも告白すれば、これまでの関係がきっと壊れてしまうだろう。
ギクシャクするのは間違いない。
だから真琴は、瑛士とはずっと飲み友だちでいられればいいや、なんて思い、何も言わずにこれまでどおりの付き合いを続けたのだった。
だが、転機が来てしまった。それが二週間前の辞令だ。
瑛士が転勤してしまう。本社栄転なのだから喜ぶべきなのに、正直めちゃくちゃショックだった。
――もう速水と、……瑛士と会えなくなるんだ。
真琴が守ろうとした二人の関係は、距離によって壊される。遠く離れ離れになってなお、真琴と会う理由は瑛士にはないだろうから。
辛い未来がありありと見えてしまった。
瑛士の転勤、いや別れを突きつけられて、真琴はついに決心した。
告白しよう、と。
しかしそれは「好きです、付き合って下さい」ではなく「子どもを生ませて下さい」とだ。
――ヤバ、狂ってるわ。
どうせ飲み友関係も彼の転勤と共に終わるのだから、当たって砕ければいいじゃないかと思う。が、砕けるだけでは辛過ぎる。
だから、子どもなのだ。
恋人になれなくていいから、子どもだけ生ませて欲しいと思ったのだ。
それを口実に繋がりを保とうというのではない。瑛士がいなくても、瑛士の子どもがいれば、これからも元気に生きていける気がしたのだ。
子種さえくれたら、もうそれ以上は何も望まないからと。
――何この思考? マジでヤバいわ……私。
年下ヒモ彼氏と破局したとき、「別れる前に、最後の一回ヤらせてくれ」と懇願されたのだが、それに似ている気がする。当然、拒否した。こいつバカじゃないかと、尻を蹴っ飛ばして追い出した。
瑛士も、あのときの真琴のように拒否する気がする。
それでも勝負にでた。
あくまでもドライに、この先独身で生きていくつもりだが子どもは持ちたい、高齢出産になる前に生みたいから協力してくれと頼むのだ。妊娠さえさせてくれればいいと。
子どもに関する責任は全て真琴が負う。出産費用も養育費も一切要求しない。認知も求めない。
真琴は「お一人様老後資金」を蓄えてきた。元々倹約家であるし、給料も良いので結構な額の貯金があるのだ。
恋情は決してにじませず、取引を持ち掛ける。
ほかにも子種候補は何人かいるけど、あんたが一番頼みやすいからって顔をして。
それが、断られたときの、真琴なりの予防線だった。
見返りに、瑛士に新規の上客を紹介することを約束した。大口の契約が取れれば彼の成績が上がるのだから、これは良い話であるはずだ。もちろんサポートもするし、なんならほかの客も回してもいい。
とにかく、決して瑛士に迷惑はかけないし、営業成績アップに協力するから、と真琴は頭を下げた。
これが真琴の「プロジェクト・コウノトリ」だった。
真琴は、恐る恐る瑛士の様子を伺う。
「……い、いかがでしょう速水さま。よいご契約内容となっておりますので、前向きにご検討頂けますでしょうか?」
「ほーーん」
鼻をほじっていた。
毎年、新人女子社員の目をハートにさせるイケメン氏は、思い切り鼻に指を突っ込んでいる。ついでとばかりに、反対の穴にももう一本突っ込んだ。
思わず真琴の目が吊り上がる。
「真面目に聞く気あるんかい!」
テーブルをペシッと叩いた。
いつもの居酒屋のいつもの席だった。そしていつものように店は賑やかで、ちょっと大きな声を出したって誰も気にしない。
お酒を飲みながら、瑛士がふざけるのもいつもと同じだった。だから真琴は少しホッとするのだった。
瑛士の反応は、いくつかシミュレーションしてきている。
すんなり契約成立するとは思っていない。呆れられてバカかと罵られたり、説教されたり、または無視して立ち去ることも考えられた。それから笑って相手にされないというものあるだろう。鼻ほじはこれに近そうだ。
相手にしないということは、契約内容に興味を惹かれないということだと真琴は考え、早速対応策をくり出すのだった。契約の魅力をもっとアピールするのだ。
「速水に紹介しようと思ってるのは、東京で急成長中のA社の女社長さんなのよ。最近テレビにも出てるし、ちょっとした有名人よね。私、ちゃんと、速水に繋ぐから安心して」
新規契約を取る話から攻めていこうと、真琴はガンガン話し続ける。
だが、瑛士は聞いてるのかいないのか無言でビールを飲むばかりだ。
真琴もググっと飲み干すと、ジョッキをドンとテーブルに置く。
「そりゃさ、私としては子どもが生めさえすればタネは誰でもいいんだけど、やっぱA社の仕事はでかいから、ぜひ速水にって思うのよね。速水になら安心して任せられるし……それに、もうすぐ東京でしょ……。転勤直後に一発大きい仕事取れたら一目置かれること間違いなしだよ。さすがは元支店のエースって!」
真琴をチラリとだけ見た瑛士は、頭をガリガリと掻いた。
「なあ遠野、言いたいこと全部言ったか? 気は済んだ?」
「え、あ、まあ……」
「そう、じゃあ出ようか」
瑛士は伝票を掴むと、さっさとレジに向かっていった。
「待ってよ。話、聞いてた?」
「あのなぁ。そんなバカ話、聞く価値ねえだろうが」
ドンと胸に鉛玉が当たった気がする。
真琴は瑛士のスーツを掴みかけていた手を引っ込めた。目がぐるぐる回るのは酔いのせいだけではないだろう。背筋も冷たくなってきた。
撃沈だ。
そりゃそうだなと、頬が歪んだ。成功するとはあまり思ってなかったけど、やはり辛い。もう瑛士と飲むのもこれが最後かと、じんわり目が熱くなってきた。
でも、ここで泣くわけにはいかない。別に好きとかじゃないからねと突っ張った意味が無くなってしまう。
真琴が頬をペシペシ叩いていると、会計を済ませた瑛士が戻ってきた。
そして「奢りは嫌。割り勘して。なんなら私が払う」という真琴の呟きは無視され、腕を掴まれて強引に店の外に連れ出された。
足が重くてたまらず、よろめく真琴だった。
「ほら行くぞ、ちゃきちゃき歩けよ。さっきまでの勢いはどうしたんだよ」
「……どこ行くのよ」
真琴は逃げ出したくてならないのだが、瑛士が腕を掴んで離してくれない。
その瑛士がニッと笑って耳元で囁いた。
「ラブホ」
「は?」
「さっき、やらせてくれるって言っただろう。だから早速、遠慮なく」
「そ、そ、それはっ!! け、契約成立ってことですか、お客様! だったら、一週間後が排卵日で!」
起死回生かと思わず叫び出すと、ガバっと大きな手で口を塞がれてしまった。
瑛士が目を吊り上げて、怖い顔で笑っていた。
「酔っぱらいは黙ってようか」
「ふみまふぇん……」
「大声で排卵日とか言うなよ。ったく……それに俺は客じゃねえ」
口を塞いでいた手を離すと、瑛士は犯人を連行する刑事みたいに真琴の腕をホールドして歩きだした。
「あ、あの本当に……行くの?」
「お前が誘ったんだろうが。斬新だよな。あんなふうに誘われたの初めてだわ。つーか、ビールぶっかけそうになったわ! よく耐えたよな、俺!」
「…………」
思わず後退る真琴を捕まえて、鬼面の瑛士がドアップで迫った。
「今更逃げんなよ。絶対やるからな」
ギロリと睨まれてしまった。
瑛士を滅茶苦茶怒らせていたことに、ようやく気付いた真琴だった。




