第7話 無視の手順
空白は、一つだけなら問題にならない。
少なくとも、私はそう判断していた。
ノートの一角に色が付いていない欄があること自体は、誰にも気づかれない。
週の集計を見るとき、人はまず全体を見る。
赤がないか。
黄が多すぎないか。
青が極端に少なくなっていないか。
そこを通過したあとで、ようやく細部を見る。
そして多くの場合、細部までは見ない。
空白は、そのどれにも当てはまらない。
強調もされず、警告にもならない。
だから、見落とされる。
見落とされるということは、
存在しないのと、ほとんど同じだ。
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例外は、その性質上、数が増えやすい。
最初は、深い相談だった。
分類しようとすると、どこにも収まらなかった。
感情は強いが、衝突ではない。
不満はあるが、対象が定まらない。
次は、感情の整理がつかないまま終わった会話。
話している途中で、本人が自分の言葉に迷い始めた。
私は待ったが、結論は出なかった。
その次は、結論を出す前に時間切れになった件。
チャイムが鳴って、席に戻るしかなかった。
どれも、赤ではない。
でも、青にしてしまうと、
自分の中で何かが噛み合わない。
黄にするには、理由が曖昧すぎる。
保留という言葉を使うには、
保留する対象がはっきりしていない。
結果として、
空白が増えた。
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私は、それに気づいていた。
気づいた上で、
何もしなかった。
「後で処理すればいい」
そう思うことで、
今は見ない、という判断を正当化する。
後で、という言葉は便利だ。
期限がない。
責任の所在も曖昧になる。
それが、
無視の最初の手順だった。
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相談の場でも、
変化は少しずつ出ていた。
相手が言葉を探しているとき、
以前なら待っていた間を、
少し早めに切るようになった。
沈黙が長くなる前に、
こちらから言葉を差し出す。
「それは、今すぐ答えを出さなくてもいいかも」
便利な言葉だ。
否定しない。
結論も出さない。
でも、
深入りもしない。
相手は納得したような顔をする。
少なくとも、そう見える。
その顔を見ると、
これでよかったのだと思える。
私は、それ以上踏み込まない。
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踏み込まない、という選択は、
驚くほど楽だった。
感情を受け止めなくていい。
分類に悩まなくていい。
色を選ばなくていい。
ただ、
「今は扱わない」
という箱に入れる。
箱の中身を、
確認しないまま。
箱がどこに置かれているのかも、
考えない。
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職員室では、
相変わらず評価は安定していた。
「最近も、落ち着いてるね」
「数値も、問題ない」
それは事実だった。
数字は揃っている。
報告も減っている。
その言葉を聞くたび、
私は空白のことを思い出す。
でも、
何も言わない。
言わなければ、
問題は存在しない。
存在しないものについて、
説明を求められることはない。
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掲示板を、久しぶりに覗いた。
新しい書き込みは少ない。
ほとんどが、過去ログの延長だ。
《あのクラス、静かすぎて逆に怖い》
《何も起きないのが一番》
その二つの意見が、
並んで表示されている。
どちらも否定されていない。
どちらも、正しい扱いだ。
最後の一文を読んで、
画面を閉じた。
正しい。
制度的には。
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家でノートを開く。
空白は、三つに増えていた。
色の付いていない欄が、
目立つようになってきている。
指でなぞって、
止める。
処理しないと、
いずれ溢れる。
それは分かっている。
理屈としては、理解している。
でも、
今は溢れていない。
だから、
無視できる。
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無視は、
意識的な拒否じゃない。
強く目を逸らすことでも、
否定することでもない。
ただ、
見ないことを選ぶだけだ。
選び続ければ、
それは習慣になる。
私は、
その習慣を
すでに身につけ始めていた。
⸻
ノートを閉じる。
今日も、
赤はない。
模範生としては、
完璧だった。
空白の数だけ、
何かを残したまま。




