第13話 検知されない逸脱
拒否した、という自覚はなかった。
相談の時間が終わったあと、相手が少しだけ言い淀んだ。
本題に入る前の、あの間。
いつもなら、こちらから声をかけていたはずの沈黙。
でも、その日は違った。
私はノートを閉じ、
「今日はここまででいいと思う」
そう言った。
理由は添えなかった。
時間も、状況も、規則も、持ち出さなかった。
ただ、それだけ。
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相手は一瞬、何かを探すような顔をした。
言いかけた言葉を、喉の奥に戻す仕草。
「……はい」
それ以上は何も言わず、席を立った。
背中を見送るとき、
胸の奥に、軽い圧が残った。
後悔ではない。
罪悪感でもない。
処理されなかった反応が、
行き場を失って留まっている感覚。
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ノートを開く。
その相談は、
赤ではない。
黄にするには、材料が足りない。
青にするほど、軽くもない。
私は、
迷った末に――
空白にした。
線を引かない。
色も付けない。
ただ、
何も書かない。
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これで、
空白は四つ。
増えた、という事実だけが、
淡々と残る。
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翌日も、
その翌日も、
制度は何も言わなかった。
数値は安定している。
評価表に変化はない。
注意喚起も、指導も、入らない。
むしろ、
「最近、無理してない?」
そんな言葉をかけられることさえあった。
私は、
曖昧に笑った。
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不思議だった。
逸脱は、
すぐに検知されるものだと
思っていた。
基準から外れれば、
何かしらの反応が返ってくる。
警告。
修正。
再教育。
でも、
何も起きない。
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あとから分かったことだが、
制度は「拒否」を検知する。
露骨な反抗。
明確な不服従。
規則の破り方。
それらは、
想定内の異常だ。
対処方法が用意されている。
しかし――
何もしない選択は、
想定に含まれていない。
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私は拒んでいない。
反対もしていない。
問題提起もしていない。
ただ、
関与しなかった。
それだけ。
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掲示板を覗くと、
新しい書き込みがあった。
《最近、相談室使ってる人減ってない?》
《平和でいいじゃん》
《何も起きないなら、それが一番》
その流れの中に、
私の名前は出てこない。
成功例は、
個人名を失う。
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次の相談は、
予約が入らなかった。
その次も。
空き時間が増え、
私は席で資料を整理する。
やることはある。
仕事は減っていない。
ただ、
人との接触が減った。
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それを、
制度は歓迎した。
「業務効率が上がってる」
「余計な感情労働が減ってる」
数字は、
それを裏付ける形で整っていく。
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私は理解する。
逸脱は、
常に“問題”として現れるわけじゃない。
成功の一形態として吸収されることがある。
特に、
静かな逸脱は。
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ノートの空白は、
五つになった。
もう、
数えることに意味はない。
それでも、
私は数えてしまう。
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このままでも、
模範生でいられる。
むしろ、
より洗練された形で。
感情に踏み込まない。
個別対応をしない。
曖昧な問題に時間を割かない。
それは、
制度的には理想的だ。
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でも、
分かっている。
これは、
適応ではない。
役割からの微細な逸脱だ。
検知されないからこそ、
修正もされない。
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夜、
ノートを閉じるとき、
ふと思う。
もし、
誰かが明確に助けを求めてきたら。
赤になるほどの問題を、
持ち込んできたら。
私は、
ちゃんと対応できるだろうか。
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その問いに、
答えは出さない。
出さないまま、
眠る。
今日も、
注意はない。
警告もない。
逸脱は、
成功として処理されている。
そのことだけが、
静かに確定していく。




