第1話 止まらないための手順
この物語には、
大きな事件も、派手な転換もありません。
誰かが壊れることも、
何かを劇的に変えることも起きません。
ただ、
「正しく振る舞っていたはずの高校生が、
いつの間にか何も判断しなくなっていた」
――それだけの話です。
相談に乗ること。
期待に応えること。
空気を読むこと。
それらはすべて、
善意で始まり、
正しさの中で選ばれています。
この作品は、
その“正しさ”が積み重なった結果、
何が残り、何が記録されなかったのかを
静かに辿る物語です。
答えは用意していません。
読後に何かが解決することもありません。
もし読み終えたあと、
「特に問題はなかった」と感じたなら、
それはきっと、この物語にとって
正しい反応です。
朝の点呼は、毎日だいたい同じ時間に始まる。
八時半。たまに少しズレるけど、問題になるほどじゃない。
名前を呼んで、返事を聞いて、人数が合っていればそれで終わり。
誰かが来ていなくても、理由がはっきりしていれば特に何も言われない。
この学校では、そういうことになっている。
私はそれを覚えている側だった。
別に役職があるわけじゃない。ただ、先生に頼まれて、出席の紙を預かることが多い。それだけ。
眠そうなやつがいれば、少し間を空けてから名前を呼ぶ。
緊張してそうなやつがいれば、順番を後ろに回す。
理由は説明できるけど、しない。
しなくても、特に困らないからだ。
クラスでは、感情を表に出さない方が楽だ。
出してしまうと、あとで何か言われる。
言われなくても、空気が変わる。
だから、みんなだいたい我慢している。
私もそうだ。
昼休み、机の中のプリントを整理していると、たまに手が止まる。
やることは分かっているのに、次の一枚に行くのが少しだけ遅れる。
別に考え事をしているわけじゃない。
ただ、今じゃなくてもいい気がするだけだ。
誰も見ていないことを確認してから、続きをやる。
止まった理由は、特にない。
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点呼が終わったあと、担任に呼ばれた。
廊下に出るほどの用事じゃないらしく、教卓の横で小さく手招きされる。
「この前の件、まとめてくれて助かった」
件、という言い方が曖昧だったけど、何のことかは分かる。
先週、クラスで少しだけ空気が悪くなった日があった。誰かが何かを言って、誰かが黙って、それで終わったやつ。
私は、何人かに聞いて、順番を整理して、先生に渡した。
余計な言葉は省いた。感情が分かりすぎるところも削った。
「こういうの、向いてるよ」
そう言われたとき、うれしいとは思わなかった。
でも、否定する理由もなかった。
「次も、頼んでいい?」
私はうなずいた。
断る選択肢があるかどうか、考えなかった。
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その日の放課後、二人が言い合いをしていた。
大きな声じゃない。周りも見て見ぬふりをしている。
どっちが悪いかは、たぶん決められない。
だから、決めなくていい形にする。
私は間に入って、話を聞いた。
順番を決めて、途中で止めて、言い換えた。
「つまり、こういうことだよね」
二人とも黙っていたけど、否定はしなかった。
それで十分だった。
問題は起きなかったことになる。
先生に報告する必要もない。
みんな、少しだけ楽そうだった。
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翌日、昼休みにスマホを見ていて、偶然それを見つけた。
学校名は伏せられているけど、文面で分かる。たぶん、うちだ。
《最近、クラスの揉め事が表に出なくなった》
《誰かが裏で調整してる感じがする》
《ああいうの、正直助かる》
肯定的な書き込みが多かった。
名前は出ていない。私のことだとも、書いていない。
少し下に、別の書き込みがあった。
《でも、気持ち悪くない?》
《勝手にまとめられてる感じ》
《言わなかったこと、消された気がする》
画面をスクロールして、止めた。
続きを読む気がしなかった。
どれも間違ってはいない。
だから、反論もできない。
スマホを伏せて、カバンに入れた。
何もしていないのに、少し疲れた感じがした。
これは、記録じゃない。
感想でもない。
評価だ。
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その週の終わり、また担任に呼ばれた。
今度は、学年主任もいた。
「君がやってくれていることなんだけど」
言い方が変わった。
“頼んでいる”じゃなく、“把握している”になっている。
「クラスの安定に寄与している」
「トラブルの予防として有効」
「負担にならない範囲で続けてほしい」
私は、うなずいた。
条件は何も言われなかった。
紙が一枚渡された。
名前と、簡単な役割説明。
正式な委員会じゃない。
でも、個人の善意とも書かれていない。
どこにも属していないのに、
もう個人でもなかった。
「無理はしなくていいから」
そう言われたとき、
無理をしているかどうか、分からなかった。
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家に帰って、机に向かう。
ノートを開く。
何を書こうとしていたのか、すぐには思い出せない。
しばらくして、閉じた。
今日は、整えることがない。
それに気づいたとき、
少しだけ息が詰まった。
でも、それ以上のことは何も起きない。
役割は続く。
制度は回る。
問題は起きない。
だから、この違和感は、
たぶん記録されない。
私はそれを、
編集しないまま、
置いておくことにした。
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