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第五幕 試衛館、風の交差点:後編

 「君の字は、やはり美しい。いや、字だけではない。筆を持つ指先、筆を取る角度、息遣い、もう全部――芸術だ」


 「……先生、字の添削ですよね? わたしの指の話じゃなくて」


 「いや、添削もする。が、それはそれとして、君が筆を運ぶ姿は天下無双、筆戦無敗、墨の乙女――」


 「わーかった、わかったからっ。はい、ここ修正してください。“拝啓”の“拝”が逆になってる」


 「……ぐっ、君の指摘すら麗しい……!」


 そんなこんなで、桂先生との文通は続いている。


 もとはといえば、私が練兵館に通い始めたころ、「学問も続けなさい」と紹介されたのが始まり。そこから桂先生が“なぜか”直々に手紙をくれるようになり、気がつけば七年。もうそろそろ、“婚姻届の下書き”でも送ってくるんじゃないかと警戒している。


 「君の字はまっすぐで誠実だ、というより――君そのものだ」

 「……字が硬いって言いたいんですか?」

 「いや、愛おしいという意味で」

 「…………字に謝ってください」


 それでも、桂先生の推薦でいくつかの道場に顔を出せたのは事実で、文句は多いが、恩も多い。


 というわけで、本章は“紹介で訪れた先で何かと巻き込まれる剣才女子”の物語です。

 桂先生、あの道場、ちゃんと行きましたよ――

 手紙で“司さんはどこへ行っても眩しい”とか書かないでくださいね? 道場主が照れて対応めんどくさくなるんで。



――剣閃、薙ぎ払う桃の幻影――




「始めッ!」


 号令とともに、二つの人影が躍動する。

 床を打つ音が一際高く、乾いた空気を切り裂いた。


 攻めるは背丈のある門下生。守るは、細身の剣士。

 だが、攻防は一瞬にして塗り替えられた。



「――ッ!」



 一合目。踏み込んだ相手の脇をすでに掠め、

 二合目。返す刀で竹刀の柄をかすめて、肘を封じ、

 三合目――



「面ありッ!」



 叩き込まれた打突は、正中を鋭く貫いた。


 門下生が膝をついた。防具越しでも響く正確無比な一撃に、場が静まりかえる。



「勝負あり!」



 ざわめきもない。

 ただ、全員が目の前の光景を“現実か?”と問うているような空気だった。


 竹刀を納めて深く礼をするその姿に、誰も声をかけられずにいる。


 面が外された瞬間、空気が変わった。


 さらり――と、桃色の長髪が陽に舞う。


 額に貼りついた髪を無造作に払って現れた顔は、涼やかで、どこか儚げで、そして――少女だった。


 沖田司、十五歳。



「……女……だと?」


「ちがう、女って……あれは」


「綺麗、すぎる……」



 どよめきというより、魂を抜かれたような感嘆がそこにあった。



「……一本、ありがとうございます」



 私は静かに一礼を返した。その声にすら、誰かが息を呑む気配がした。



「……冗談じゃねぇ、俺たち何人束になっても……」


「本当に、人間なのか……?」



 その呟きに、誰も否を返せなかった。


 ――そして、そのとき私はふと気づいた。いつも隣にいる“気配”が、今回もすぐ背中にある。


 左之助だ。


 試衛館からの稽古に、最近はよく一緒についてくる。別に決めたわけじゃないけど、気づくと、いつもそばにいる。










――塾頭の目と、導かれし剣才――




 練兵館の柱間の影。静かな空間の中で、私の動きを見つめていたのは桂先生――桂小五郎だった。


 けれど、今日の先生はいつもより、ちょっと視線が鋭い気がした。


(……あ、左之助のこと、見てる)


 わかる。いや、わかっちゃう。

 桂先生の視線が、私じゃなくて左之助の方に向いてる時、ほんのりトゲがある。別に言葉には出さないけど、空気で感じる。


 桂先生が最初に私を練兵館に呼んでくれたとき、そこには“特別”なものがあった。

 それを、今では左之助が隣に持ち込んでいる。それがちょっとだけ、引っかかるんだろう。


(いや、別にふたりとも勝手にしてくれていいんですけど……)


 そう思いながら、私は木刀を片づけに向かう。







――桂先生と、剣と、少しの優しさ――




「先生、最近……ちゃんと眠れてます?」


 稽古の合間、少し静かな縁側で私は桂先生に声をかけた。

 左之助は今、水を汲みに裏手へ行っている。先生と話せる貴重なタイミングだ。



「……君は、よく見ているな」



 返ってきた言葉に、私は笑ってうなずく。

 桂先生が無理をしているのは、誰の目にも明らかだ。でもそれを言葉にできるのは、たぶん私くらいだ。



「無理だけはしないでくださいよ。先生が倒れたら、私、左之助以外に相談する相手がいなくなる」



 わざと、左之助の名前を出してみた。



 一瞬、桂先生の手が止まった。

 湯飲みの縁に触れた指が、ほんのわずかだけ強張ったように見えた。


(やっぱり……気になるんだ)



「……君には、もっと多くの道場を紹介しようと思っていた。学問も、剣も、もっと先がある」


「え、本当ですか!?」




 私は思わず声を上げた。


 そこに、背後から左之助の声。




「司、おーい。水、汲んできたぞー」




 手ぬぐいを肩に引っ掛けて、にこにこしながら戻ってくるその姿を見て、桂先生のまなざしがほんの少しだけ曇ったように見えた。


 でも、それでも桂先生は笑っていた。

 たぶん、それが“大人”ってやつなんだろう。









――七年目の気づき――





 気づけば、もう七年になる。


 あいつ――沖田司と出会ってから。


 最初は、行き倒れていた俺に水をくれた変な娘だった。

 桃色の髪なんてどこの人形かと思ったし、細っこい身体で、あんなに豪快に飯を出してくるのも意味がわからなかった。


 でも、剣を握った瞬間、すべてが変わった。


 あのときの一撃。あれは、冗談じゃなく“見惚れた”んだ。

 人ってのは、あんなに静かに、綺麗に、そして鋭く動けるものなのかって。


 あれから、試衛館に居着いて、稽古をして、飯を一緒に食って、遠征にもついていって――

 気づけば、いつも近くにいた。


 最初の頃は、ただただ可愛かった。

 よく動く、よく喋る、そして妙に何でもできる“すごい子ども”みたいなもんだった。


 けど、最近――


 本当に、驚くほど綺麗になったと思う。


 なんでそんなに顔整ってんだよ、ってレベルだし、肌も透き通るし、笑うと妙に胸がざわざわする。


 俺は女ってものに、そこまで深入りしてこなかった。

 むしろ、剣と酒と仲間があればよかった。なのに、司は――


 ……正直に言おう。


 惚れてる。


 自分でも驚くくらい、自然にそう思ってる。

 ふとした仕草、考え込むときの目つき、笑った時の小さな歯。全部、頭に焼きついてる。


 ただ、問題もある。


 あいつ、距離が近すぎる。


 突然後ろから肩に乗っかってきたり、稽古の後に畳の上でごろごろしてきたり、薄着でふらふら道場を歩いたり――

 頼むからもうちょっと“女”って自覚してくれ。いや、こっちが意識してる分、なんか損してる気分なんだ。


 でも、そういう無頓着なところも――


 たぶん、好きなんだ。


 あと、あいつは俺に対してまったく“構え”がない。

 こっちが男とか女とか関係なく、平然と話しかけてくる。

 斬り合いの相手を選ぶような目で、真正面から俺を見てくる。


 そんなふうに対等に話される女なんて、今まで一人もいなかった。


 だから、どんなにムカついても新鮮なんだ。

 驚くほど、きれいだと思う。


 ……でも、これ、どうするべきなんだろうな。


 あいつはたぶん、まだ何にも気づいてねぇ。

 気づいてないからこそ、無防備で、俺の心に平気で踏み込んでくる。


 まあ、今はまだそれでいい。

 でもそのうち、どうしても言わなきゃならないときが来るんだろうな。


 さて――


 その時、俺はどんな顔してあいつの前に立つんだろうか。












――訪れし者、神道無念の刃を携えて――



 試衛館の門をくぐったとき、司はすぐに違和感を覚えた。

 道場の空気が、普段と少しだけ違っている。張り詰めたような、けれどどこか礼儀正しい、静かな気配がある。



 「おかえりなさい、司さん」



 玄関先で迎えてくれたのは、山南敬助だった。

 和やかな微笑みをたたえながらも、その目の奥にはどこか試すような光が宿っている。



 「お客様です。武者修行中とのことで、他流試合を希望されています。どうやら、“名のある道場を見て回っている”らしくてね」


 「……今、近藤さんはいないですよね?」



 司が問い返すと、山南は静かに頷いた。



 「留守中です。土方君も夕方まで戻らないでしょう」


 「山南さんが相手すれば?」


 「ふふ、私は北辰一刀流ですから。流派の違いもありますしね」



 控えめな笑みの中に、やんわりとした線引きがある。

 つまり――この場は、司の役目ということだった。



 「了解です。準備してきます」



 司は即座に返事をして、道着に着替えるべく足を運ぶ。

 この年齢にして試衛館の塾頭格を任されている身。時折訪れる他流試合の申し出にも、必要とあらば応じる。それはもはや日常の一部だった。


 だが――今回の相手の流派を聞いた瞬間、彼女の動きはわずかに速くなった。



 「神道無念流、とのことですよ」



 山南の言葉に、司の足が一瞬止まった。


 (神道無念流……)


 この名に、司の中の“記憶”が僅かに揺れる。

 歴史の中に刻まれていた、その流派と、ある名の一端が脳裏をよぎる。


 司は無言でうなずくと、すぐに支度へと駆けていった。


 道場へ戻ると、すでに源さん――井上源三郎が訪問者の応対をしていた。

 道場の一角に座布団が敷かれ、茶がふるまわれている。


 司が静かに足を踏み入れると、源三郎が手で合図を送る。



 「おう、司ちゃん。こっちこっち。お客人が来てくれてるよ」



 その視線の先、座していたのは、まだ若いがよく鍛えられた体躯の男だった。

 袴の裾は整い、背筋はまっすぐ、そして目つきは鋭いが礼を失していない。


 司が姿を現すと、男の目がわずかに見開かれた。



 「……おや?」



 間があった。

 だが、それはほんの一瞬。



 「失礼を。あなたが試衛館の方ですか?」


 「はい。沖田司です。試合のご希望を聞きました」


 「永倉新八と申します。神道無念流の門下にて修行中、武者旅の途中です。お手合わせ、お願いできますか?」



 低く、よく通る声。態度は丁寧だが、司の容姿に驚いているのは明らかだった。



 「……はい、構いません」



 司は軽く頷いた。

 わずかに息を呑んだ者たちの気配を背に、剣を持つ者のまなざしだけを見据えて。


 (この人も、きっと“強い”)


 その直感が、どこか楽しみのようなものを彼女の胸に宿らせていた。









――立ち合い、そして閃く一撃のその前に――



 「永倉新八、ですか」



 その名前を聞いた瞬間、私は思わず左之助の方にちらりと目をやった。

 彼は特に反応するでもなく、床に片膝をついて私の防具を整えてくれている。


 そう、もう驚かない。

 この時代において“永倉新八”という名前を持つ者に会うこと。

 そのたびに胸の奥がざらりとするけれど――慣れた。受け止めるだけ。


 (神道無念流、得意技は――龍飛剣、だったはず)


 踏み込みから一気にすりあげて、渾身の打ち下ろしを重ねてくる。動きは直線的だけど、あれは“決め”の速さがえげつない。


 油断したら持っていかれるな――そう思いながら、私は正面に立った。


 「お願いします」


 「よろしくお願いします」


 立ち合いの礼を交わし、竹刀を構える。


 一拍、二拍。


 次の瞬間、永倉が動いた。


 (速い――!)


 正面から真っすぐに来る。剣の構えは基本に忠実、だからこそ怖い。

 受け流し、返して打つ。鋭く、重い。……それでも、なんとかついていける。


 二合、三合、四合――


 (やば……ちょっと、負けそう)


 心の中で冷や汗がにじんだ瞬間――


 「ぎゃあああああああああ!!」


 悲鳴だった。道場の外、裏門の方角から。


 「失礼!」


 永倉がすぐさま竹刀を下げる。

 礼すら後回しにして、風のように駆け出していった。


 私は慌てて面を外しながら後を追った。頭の中は半ば混乱していて、でも冷静なふりをしていた。


 (……いや、ちょっとほんとに負けかけてたな)


 歯噛みしつつ裏門に出たとき、すでに狼藉者たちは地面に転がっていた。


 永倉が無駄のない構えで立ち、軽く呼吸を整えている。


 「騒がせてすまない、どうやら酔っ払いが道場の看板に文句を言っていたようで」


 軽く言ってのけるが、その拳は確かに速く、鋭かった。

 私はただ、口元に手を当てて言葉もなく見ていた。


 (……頼りになるなあ)


 それは、ごく自然に浮かんだ感想だった。


 兄のような、先輩のような、なんとも言えない距離感。

 それでも、あの一撃と判断力には、誰もが一目置くだろう。


 私はそっと息を吐いた。背筋の奥にまだ残る、立ち合いの余熱と、勝てなかった悔しさと、でも――


 ほんの少しの、尊敬を。







――剣は鞘に、笑いの合間に――



 「……じゃあ、続き、やりますか?」


 私は竹刀を片手に、永倉に向けて問いかけた。


 道場裏での狼藉騒ぎも一段落し、場の空気が落ち着いてきた今、さすがに途中で終わらせるのは気持ち悪い。


 だが、永倉は軽く頭を下げて――ゆっくりと剣を収めた。


 「いえ、続きはまた後日に。近藤先生がお戻りになるまで、少し待たせていただきたい」


 「……え?」


 まさかの展開に、一瞬ぽかんとした。


 戦う気満々だったこっちはどこへやら、永倉はもう座布団に戻って湯をすする準備をしている。

 あまりにも律儀な態度に、私は毒気を抜かれてしまった。


 「ま、いいか……じゃあ一緒に待ちましょう」


 それなら、と私も道着のまま座り込み、隣に控えていた左之助がちゃっかり茶菓子を持ってくる。


 「ほら、司。甘いのあるぞ。あと新八さん、俺の分も飲んでいいからな!」


 「ありがとうございます。ただ、人の分を勧めるのは不思議ですね」


 「はは、硬ぇなあ! もっとこう、肩の力抜けよ!」


 永倉の返答は、真面目そのものだった。

 左之助の冗談に、いちいち律儀に返してくれる。


 「それはそうかもしれませんが、提供者本人が許可していない場合、菓子の分配は慎重にすべきかと」


 「いや真面目すぎるだろ!? それを言うなら、お前も“提供者本人”じゃないって話だぞ!」


 「えっ、あっ……たしかに」


 「気づくの遅っ! でもいいな、新八。こういう真面目なやつ、俺は好きだ」


 左之助はケラケラ笑いながら肘で突き、永倉は少し困ったように頭をかいていた。


 私はそのやりとりを眺めながら、思った。


 (……なんか、いいコンビかもしれない)


 左之助の軽さと、永倉の真面目さ。正反対のようで、でも空気が不思議と噛み合ってる。

 私の横で、何も考えずに笑っている左之助の顔を見て、ちょっと安心する。


 ほんのりと、日差しの中に笑い声が揺れていた――


 そんなとき。


 「おーい、戻ったぞー!」


 玄関口から、聞き慣れた声が響いた。

 近藤さんの声だ。続いて、土方さんの低い声も聞こえる。


 「……あ、帰ってきた」


 私は立ち上がって顔をのぞかせると、近藤と土方が連れだって道場に入ってくるところだった。


 「おかえりなさい、近藤さん、土方さん!」


 「おう、司。元気そうだな。……って、見慣れねぇ顔がいるな?」


 私は永倉の方を指して、小さく頷いた。


 「はい、神道無念流の永倉新八さんです。武者修行中で、試衛館に手合わせに来られていて――」


 「ああ、それはありがたい話だが……悪いな。ちょっと急用ができてな、今すぐ出なきゃならねえ」


 近藤さんが申し訳なさそうに笑った。


 「え……そうなんですか?」


 「すまねえ、司。あとでゆっくり話そう」


 そう言って、近藤は土方に目配せをして道場を後にしようとした。


 私は永倉の方をちらと見て、思った。


 (……なんか、今日はいろんな意味で“間が悪い”な)


 でも、その分、次の機会が楽しみになった。


 稽古の続き、永倉新八という剣士との再戦――

 そして、笑いながら横に並ぶ左之助と、今度はどう絡むか。


 それら全部を、私は少しわくわくしながら見つめていた。






――女の顔して剣を持つ、それが私――

 「近藤さん、ちょっと待って!」


 私が道場から駆け寄ると、近藤さんは玄関先で草履を履いていた。隣には土方さん、そしてすでに支度を済ませた源さんの姿もある。


 「なにかあったんですか?」


 「……ああ、ちょっとな。多摩でな、俺の実家の近くに賊が出たらしい。役人筋から頼まれて、様子を見に行くことになった」


 「賊……」


 私の眉がわずかに動いた。


 この幕末の時代、動乱の匂いが街の外れにまで染み出していることはよくある。だが、それが“近藤さんの故郷”となると話は別だ。


 「というわけで、行ってくる。山南さんと源さんにもついてきてもらう」


 「はい、心得ております」


 源さんがにこりと笑って頭を下げた。


 そこに割り込んできたのが――


 

「おっ、それ面白そうだな! 俺も行く!」



 左之助である。


 満面の笑み、やたらと元気な声。そして人の話を一切聞いていないあたり、いつも通り。



 「おい左之助、勝手に話に乗るなって」


 「だって司だって気になってんだろ? な、司!」


 「……まあ、少しだけ」



 返事を濁していると、今度は永倉が腕を組んで前に出た。



 「いや、それはまずい。正式な依頼で、試衛館の名を背負って出る以上、関係のない者がついていくのは……」


 「ん? お前、まさか腕に自信ないのか?」


 「……は?」



 永倉の眉がピクリと動いた。



 「いやいや、別にいいんだけどな? 怖いなら留守番しててくれていいんだぞ? 司と俺だけで片付けてくるからよ!」


 「……いや、行く。そういう話なら、話は別だ」



 早い。すぐ乗る。真面目なのに意地っ張り。



 「じゃあ決まり! 司も――」


 「――司殿は、今回は残っていた方がよいかと」



 永倉が、遮るように言った。顔は真剣そのもの。



 「何があるか分からない山道です。万が一を考えると、女性をお連れするわけにはいかない」


 「おいおい、こいつは普通の女じゃねえって! 腕は確かだし、むしろ俺らより頼りになるって話も――」


 「それでも、です。私の立場としては、そう判断します」



 ピシャリと断ち切る永倉の声。

 左之助があからさまに「面倒くせえな」という顔をしていたが、私はその場で返事をしなかった。


 というのも――


 すでに私は、二人の死角で支度を済ませていた。


 道場裏で道着を整え、足袋を履き、帯を締め、刀を腰に差す。所要時間、約一分半。


 さて、と息を吐いて、縁側からすたすた歩いて二人の間に割って入る。



 「……行くわよ! 二人とも!」


 「……は?」


 「……って、えええっ!? 準備してるぅ!?」



 左之助が爆笑し、永倉が半ば呆然とした顔で固まった。



 「女性だからどうとか、今さらでしょ?」



 私はニカっと笑って見せた。



 「それとも、足引っ張るって思ってる?」


 「……いえ。思ってません……たぶん」



 永倉は明らかに動揺していたが、もう誰も止められない。

 左之助は「いや~さすがうちの司!」と訳の分からない自慢顔でうなずいている。


 私は刀の柄に手を添えて、二人の前をすたすた歩き出した。



 「ほら、行くんでしょ。早くしないと、近藤さんたちに置いてかれるわよ!」



 このときの私にはもう、“女だから”とか“危ないから”とか、そういう言葉がただの雑音にしか聞こえなかった。


 剣を持つ者として。

 試衛館の塾頭として。

 そして――沖田司として。


 今、向かうべき場所があるなら、行く。それだけだ。




 「……あの構え、“龍飛剣”ってやつですよね?」


 稽古のあと、私は永倉新八の横に腰を下ろして訊ねた。


 「はい。神道無念流の得意とする技でして、踏み込みから一気に打ち下ろす――」


 「うんうん、“龍が飛ぶように斬る”、ですよね。かっこいいです」


 「ありがとうございます。……ただ、今度の多摩行き、万が一、賊と斬り合いになるかもしれません」


 永倉の声が少しだけ低くなった。


 私は、ふっと微笑んで、湯飲みを置いた。


 「大丈夫ですよ。左之助がいますし」


 「……まさか、守ってもらう気で?」


 「え、もちろん守ってくれますよ。だって左之助だもん」


 「……それは確かに、否定できませんが……」


 私は腰の刀に指先を添えて、にっこりと笑った。


 「それに、私も強いですから。斬れって言われたら、斬りますよ。“司、覚悟ができている”ってやつです」


 永倉がほんの少しだけ目を見開いた。


 「……今の言い方、なんか怖かったんですが」


 「そうですか? でも明るく言ったんですけどね。“明るく不穏”って、最近のマイブームでして」


 私はさらりと笑い、隣で左之助が「こえーよ!」と突っ込んできた。


 斬るかもしれない、守られるかもしれない、守るかもしれない――

 でも、どう転んでも、私は前に出る。

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